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「自重」を「じじゅう」と読む
感想コメントでも何でも、大文字色文字にしちゃう
なんか前もこういうスレなかった
職人技を真似しようとして失敗する
>>3
あったと思うよ。
流れたからまた立てたんだろう、きっと。
連レススマソ
ここに気付かない
>>1のように糞スレを立てる
出てくるコメントは全てリアルタイムで見ている人のものだと思い込む。
いちいち荒らしに反応する
wwwwの意味が分からないのでとりあえず語尾につけておく
w=草ですよ
つまらないくせにコテハンつける
>>12
最近コテが増えたよな……
いつからここはコテハンの掲示板になったのやら……
w=草と変換される動画があったが違ったか?
>>11のようなマジレスをする
とりあえず歌ってみた(笑)をあげる
古スレを挙げる
組曲を知っていることを常識ではなくオタクだと思い込む
永井先生は独り言を言ってると思ってる
MADからその元ネタの本編にまで出張する。
そこで、そのMAD内のネタを本編でも披露する。
コメントでチャットする
水色をよく使う
>>19
それあるわ「この人誰としゃべってるの?」って
あと動画内で「永井先生って誰?」とかw
初心者は逆に違う色のコメントを使うよ。
あとコメントちゃっとは昔からある。γ開始当時から
いろんなネタの発祥が全てニコニコだと思い込む
ニコニコで覚えた単語をリアルで使う
>>24
γ中期か後期
↑ここ重要
あげ
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
解決策『スレッド一覧→F3』
現状では作成されてしまったスレッドは削除されません
この悪質性は極めて遺憾なので初心者は特に気を付けましょう
あげ
初心者は>>29を読めあげ
コメントを返してもらいたくていろいろコメントしてたな
無恥無知エゴイストは>>29を熟読しろあげ
何でもタグにする
単騎糞スレの意味理解しろあげ
糞スレ量産は犯罪です
お前らいい加減にしろよ?あげ
削除済
タグだけ見て
市場無視。
何故自分の愚かさに気付けないのかあげ
糞スレ量産増し増しでお送りします
余裕であげ
コマンドやら、何やらを乱用しすぎて、コメがかおす状態に・・・
というか、まともにコマンドが使えるかって話にもなるがw
>>sm9
>>1
お前が初心者だろ。
新参はROMれ
米がカオスにナリガチOTL
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
解決策『成り行きを学ぶ&スレッド一覧→F3』
現状では作成されてしまったスレッドは削除されません
自分の犯した痴態が半永久的に保存されてしまうので細心の注意を
あげ
>>45
>>1
>>1
>>1
/hiddenをコメで連呼
画面に向かって叫べばコメントが投降できると思い
時報のなる頃に大声で叫び近所におこられる
>>49
爆笑www
エコノミーモードに向かって
「何が高画質だよ、クソ低画質じゃねーか!」
とキレる。
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
解決策『成り行きの長期観察&スレッド一覧→F3』
現状では作成されてしまったスレッドは削除されません
自分の犯した痴態が半永久的に保存されるので細心の注意を
>>10
感動するところ語尾に草を生やして浮いていたコメがあったが
そういったわけだったのか
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
解決策『成り行きの長期観察&スレッド一覧→F3』
現状では作成されてしまったスレッドは削除されません
自分の犯した痴態が半永久的に保存されるので細心の注意を
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
解決策『成り行きを見て学ぶ&スレッド一覧→F3』
現状では作成されてしまったスレッドは削除されません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
解決策『成り行きを見て学ぶ&スレッド一覧→F3』
現状では作成されてしまったスレッドは削除されません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
自分のコメントの反応を待つ。
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
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自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
>>54,56-60
どうしたいんだお前はww
>>61
自分の痴態を半永久的に残したいんじゃね
あげ
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
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自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
正あげ
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
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自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
悪ノリwwww
日本の外国人の内、9割近くが韓国人なんだろ。参政権認めたら好き放題されることは
明らかだし、それに反対しない方がおかしい。実際、韓国人どもが参政権によって、
多数決で日本人は大便を食さなければならないと提案したとする。そして反対するものは(韓国)人権委員会によって
射殺する、なんて真似も十分に可能になるわけだ。(韓国人権侵害救済法案等)
従って、こうした腐りきった偏向活動を行う小沢や山崎、千葉(法務)みたいなクズどもを排撃しなければ、
現実に数々の、(日本にとっての)悪徳法案が罷り通ってしまう状況になってしまうわけなんだよ。
まあ、強いて言えば、韓国人どもに、韓国は韓国人だけの
ものではない!と発言し、その通りの国策を推進していく人間こそが、本来の指導者の役割であって、決して小沢などの糞食い人種
などのように、その反対となる売国行為の促進を、今もこの瞬間にも働いているという現実を無視してはならないってことだ。
韓国人どもが参政権で日本を植民地にできたらお前も自由に物が言えなくなるんだから、今の内に戦っておけってこと。
その内竹島を日本の領土!とか、日本海を守れ!等というだけで、(韓国人)人権擁護委員会によって強制連行され、
拷問されて殺されたりするようになるだろうな。まあ、ここまで言ってしまうと、実は昭和の統制派どもの正体も
例の半島系どもだったってことがばれてしまうわけなんだが。ちなみに大リーグの反日コリア松井秀樹の奴、
犬の糞便を焼肉屋でよく食べるらしいんだが、全く劣等人種というのは血は争えんものだな。韓国人に生まれついた
奴らは糞の味を非常によく知っているに違いないw 奴らはそうした意味では”意外に”物知りだから、足元掬われない
様に気を付けることだ。
あげ
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
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H増し増しでお送りします
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自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
あげ
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
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自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
自覚なき犯罪予備軍増し増しでお送りします
あ
げ
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
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あ
げ
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
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尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
あ
げ
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
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自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
00コメで重くなるとか信じてる
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
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定期
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
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唐揚げ↑
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削除済
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定期
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こんなスレ立てちゃう
ってのは既出かな?w
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初心者の方は「快適なプレミアム生活」を体験していただくためにも、騙されたと思ってぜひ入会してな^^
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あげ
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自重←じちょうと読めていても・・・
意味を知らない
意味は知ってたけどじじゅうと読んでました・・・
以後気をつけます。
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あ
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【物事を深く考えないが故に、単騎糞レスを量産してしまう】
解決策『自制』
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さらに自演が見え見え こんなにわかりやすい自演をするとは・・
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あげ
コメの色のつけ方がわからなくて、
弾幕しようと思ってもショボくなる。
やたら水色をつかう
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あげ
キチガイあげ
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視聴履歴変なとこに追加すんなよ・・・
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正あげ
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あげ
やれやれ・・・
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あげ
ちょうしょうりゅう
ぐ
る
じ
あ
れ
ん
ぽ
う
きょうわこくニッポン
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しいなりんごめすちげン
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shita red big「そぉい!」
うp
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ニコニコ動画にカードゲームの対戦動画を投稿したいんですが、何をどうすればいいいのかわかりません。誰か教えてください。
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コメントにwが多すぎて引いてしまう
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自分の犯した痴態が半永久的に保存され
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独断で糞スレを常駐させてる自治気取りのあんたも同類な
自治をするならまず他人の要望を受け入れ折衷案を提示し、合意の下に行うべきで自分の感情を基準に
独断で許容範囲外の個人の権利を振り回して自然状態を脅かすのは自己満足でしかない
結果的に上手くいってもあんたは自己中もとい、自治厨以外の呼び名はないよ
↑こんな時間だもんな。一緒に寝ようか^^
↓もうすぐ大学卒業なのに仕事決まって無い。スキルもない。
ごめんなんか書くとこ間違えてる
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
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自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
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自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
解決策『成り行きを見て学ぶ&スレッド一覧→F3』
現状では作成されてしまったスレッドは削除されません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
あげ
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
解決策『成り行きを見て学ぶ&スレッド一覧→F3』
現状では作成されてしまったスレッドは削除されません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
解決策『成り行きを見て学ぶ&スレッド一覧→F3』
現状では作成されてしまったスレッドは削除されません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
やれやれ・・・
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
解決策『成り行きを見て学ぶ&スレッド一覧→F3』
現状では作成されてしまったスレッドは削除されません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
なんか、いろんな動画が見れない!!
再生と同時にメッセージで動画の読み込みに失敗したとか言ってて、
1ヶ月待ったのにまだダメだった
【物事を深く考えないが故に、単騎糞スレを量産してしまう】
解決策『成り行きを見て学ぶ&スレッド一覧→F3』
現状では作成されてしまったスレッドは削除されません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
あげ
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がんばれ!
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恥を知れ
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はぁ・・・
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あげ
アップした動画を再生終了後、ジャンプ移動のURLに誤りが有る時の修正方は有りますか。
>>192
なんでお前携帯アドレス晒してるのw?
そんぐらい聞く前にちゃんと調べろよ。あとコテは嫌われるよ?
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削除済
デイリーランキングってどうやってみるんですか?
あげ
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うp
あけおめ関係のスレを上げて荒らす
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やれやれ・・・
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windows98でも生放送ってできるんですか?
放送したいんですけどできますか?
いい加減うpの仕方をおぼえたい。
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あげ
自分では面白いと思って下コメ、色付コメを書く
さらにそれが下ネタで目を覆う事態だと気付かない
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今年もいい右上にしていこう
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なるほど。344468248へえ獲得です。
おめでとうございます
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今日の右上は左上にいるよ
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他の人のマイリストに登録されている動画を、一括でダウンロードできるツールをどなたか知りませんか?
WIN・火狐使ってます。
今はnicoFoxダウンロードマネージャーというのを使っているのですが、いちいち動画を再生させる画面に以下無いとダウンロードできません。
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>>256
NicoPlayerでググれ。
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やれやれ・・・
東方とボカロは同じものだと思ってる
つべで「ニコニコから輸入」みたいな動画を観てる人に多い
どみても
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見るたび楽しい右上!
右上ばっかり気にしてたら、先生に怒られちゃうぞ!
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あげ
トレーニングセットなるものを買えばヨロシ
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まだやってたのかここww
うp
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なんかいろいろとひどいな
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慟哭
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どうやったらイヤヨってはずせるんですか?
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キーワードとタグの違いは何ですか?
教えてください。
あげ
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>>298
キーワードは投稿文に含まれたワードから検索
タグっていうのは関連付けのこと
例えばドラえもんの動画が二つあるとする
この二つから判る共通点は?
大雑把に考えれば「アニメ」と「ドラえもん」だな
まぁ簡単に言えば共通点みたいなもん
つまりタグ検索ってのは登録された共通点から検索すること
タグが登録されてるのであればかなり絞り込める
例えばドラえもんの動画で投稿文に「サザエさん」と入っている場合、
「サザエさん」でキーワード検索をしてもそのドラえもん動画が出てきてしまう
しかし「ドラえもん」タグが付いているはずだから「ドラえもん」でタグ検索をかければ、より絞り込めるってこと
質問は質問スレへ
質問スレ:http://bbs.nicovideo.jp/test/read.cgi/question/1228459872/l50
利用する際は必ず>>1を熟読すること
あげ
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あげ
私も困っていることがあります。
それは、動画を再生しても音声が流れないし、
動画も、初めの画面から、コメントだけが流れていて、
こまってます。
>>319
時間をおいて何度か更新すれば動画を読み込めると思いますよ。
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掲示板でageて来る奴等
【物事を深く考えないが故に、単発糞スレを量産してしまう】
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>>327
明らかにそいつのせいで過疎ってるよな
もうネトウヨと厨房しかいない
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>もうネトウヨと厨房しかいない
もう?
最初からだろ?
だってこの掲示板が出来たのって、ニコで爆発的にゆとりが生まれた前後くらいだし
最古の過去ログ参照してみれば解る
そういえばゆとりってジワジワ増えるんじゃなく、一気に増えたよな
こんなことがありえるんだろうか
政府の生物テロにしか見えん
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はぁ・・・
>>329
なにこれ?ギャグのつもり?自分でもageてんじゃんw
あとネトウヨってなに?未だ定義すら不明瞭なのに、そいつのせいとは言えないよ?
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世の大義は消え失せた
この地上に私の居場所は無い
あなたの大儀とやらは形で表せるものなのか?
それともただの個人的な思いつき?
このスレどっかで見た気がする
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はりねずみいる?おひさ!!!
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気持ち悪い奴らだなあ
あげ
ニコニコ動画の、マスコットキャラクター的なのあるじゃないですか
あれの名前教えてください。特徴とか入れてもらえると嬉しいです
お願いします
1おれは、ヴァーカ です b ヴァーカの ひとつおぼへの名人
【物事を深く考えないが故に、単発糞スレを量産してしまう】
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今日から画面が変わっていて、メニューが開かないのでログアウトできなくなっている。ログアウトの方法教えてください。
削除済
あげ
【物事を深く考えないが故に、単発糞スレを量産してしまう】
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自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
ありがとう
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ログアウトしなくておk
正しいパスワード、メルアドどんなに入力してもログインはおろか、パスワード変更も出来ないんですけど
じじゅう(自重)、ふいんき(雰囲気)、がいしゅつ(既出)等の読み間違いネタは数年前に2chで多用されていたが、
ゆとりの大量発生によってネタが風化してしまったんだよな
荒らしって言葉すら風化してしまったし
今じゃ、ゆとりと荒らしは同語
wwwの意味すら知らないんだろうな、ゆとりは
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全くの初心者です。。すみますんおしえてください
一時停止してコメント投稿しちゃったせいか、コメントが流れなくて停止しちゃって表示されました。。
曲のリズムをぶった切る感じになっちゃったんですが。。
コメントを削除とか流れるように直したりできないですか。。?
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ホント学ばない生物だね
崇高な理念を持ち祭式において大宇宙と同化する。
カーストというマズローの五段階欲求における人々の欲求と同質しやすいものを純粋とする。
心理的政治的かつカーストにおける高位はそれを信仰するが、下位は仏道へと改宗するというゲーム理論的帰結が見られた。
神秘とする対象は宇宙という空間でも、宇宙の外というものでもなく、
宇宙という言語そのものであるとヴァイシェーシカ学派は言い放った。
言語とは神秘たるものであるかウィトゲンシュタイン哲学の末裔、分析哲学的にもいまだに多くの課題が存在する。
また言語から派生するクオリアとは感性由来のものであって神経系にも通時性が見られるるため相対的の見解が強い。
また空間つまり、仏教哲学の空性における絶対性は程なく代数学的に証明がなされため単なる相対性となった。
口承信仰は旧来の日本において認知されていたが、仏教というものへと土着信仰は姿を変え、
また現代において無神論者や科学信仰を主張するものも多い大衆信仰へと変わる。
世間とは相対性において目まぐるしいものである。
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霊魂を認識することは不可能だ。
モーリス・メルロ=ポンティの現象学的解釈では
言霊のゲシュタルト質とは現実態の輻射であり受容し構築するという行程を持つ。
端的に例えるならば光学素子が負荷を得て論理を構築するのと同様である。
それとは違うものとなれば相互作用を被らない自然を超越した論理となる。
少なくとも始動因はそのような線形性を持たず、ユークリッド空間内の自然を論理の此岸とした。
比類なき虚無から発した始動エネルギーと等価でない論理などあってはならない。
そのような認識の質料とは単に虚構というものではないが、自然とは無関係な拡張である。
しかし、神を認識することにあたってこのようなロゴスは許されるものではない。
とはいえ生命とはそもそも超越論的存在であり、その十八界は論理の極限を超える。
論理は論理を否定する虚構も論理とする同様にして超越論者であるとすれば、
始動因は神ではないとするか被投性を帯びた自然を神とする他はないのである。
あげ
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大宇宙への同化の儀式において、重要な概念が供物を捧げる行為である。
言語が精神を形成するように行為が精神を形成する。
我々の精神とは霊魂から生ずるものであり、霊魂とは実態であり神の智慧の最も純粋なものである。
最近高画質ばかりに拘って、ファイルサイズを考えられない初心者が多い
昔の高画質ヌルヌル動画を見てくると良い
「どうやってんだこれ・・・」って言いたくなるぞ
既にチラホラ言ってる投稿者も少なくはないが
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古代アテナイの哲学者、プラトンの弟子アリストテレスは四原因説を唱えた。
彼の哲学は実践の方面に向いており、氏の哲学は措定に重きを置くものと考えられる。
ものにはこのもの性という本質があり、形相という衣とデュナミスという運動原理とエンテレケイアという目的を持って現出する。
以上4つのベクトルで万物は構成される。
一つでも欠けているものは存在する必要性をもたず、神のイデアとして相応しくないため存在は不可能であると俯瞰できる。
これらの積をとったものが後世の学問手法と考えられる。
学問とは構造主義的外部理性であり、エンテレケイアの射影となる系譜である。
「有」と「無」を措定した数値や言語や図で表すことのできない無形にして純粋な哲学、
森羅万象や人間活動の本質を明確化するのに際して、先言措定は有用な道具となっている。
三大哲学者、万学の祖、アレクサンドロスやスコラ派学徒の師によって
諸学への貢献と同時に古典哲学は幕を閉じた。
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司法がサイバー犯罪に追いつき始めております
喜ばしき事^^
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なんか掲示板の様子が変わったな、住民が入れ替わっているのか
以前はVIPが腐ったようなところで割と居心地良かったんだが
俺もそろそろ移住するかな・・・
人間の生活を措定すると幸福に結びつく事象があることがわかる。
我々の生活空間に存在するものを経験的な見地から言語として分類をすると
まず、自身の体があり、自身の行為があり、ものがあり、機能がある。
これらを思想として再構築するならば、体とは主体であり、ものは客体であり、行為と機能は方法である。
人間とは環境を自分のフィールドとして「取り込む」ことで文明を発達させているという
事実から人間の主な役割とは客体を「取り込む」ことと解釈できる。
主体が方法という道具をもって、客体を「取り込む」こと、ものを手足のように使いさらに「取り込み」の機能を向上させる。
生活空間とは近似的な主体である。つまり、客体を招くことで主体化させることができるのである。
客体を思想として「取り込み」続けることで機能は増幅され、主体の領域はさらに広範なものとなる。
こうして人間としての役割を果たすことで、報酬として幸福を授かるのである。
個人主義的な思想に傾倒しているように見えるが、そもそも社会というものは個人の近似的な主体であり
同一目標を設定する条件で成り立つ主体と方法を増幅させる方法である。
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「太鼓の達人DS ドロロンヨーカイ大作戦!!」に「みのもんた」と「ふつう」が出演して欲しいぜ!!
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「無」の正体について諸学の見地から理性の名借り、構造主義的に弁証していこうと思う。
はじめに「無」というものの概念が出てきたのは原始仏教の阿毘達磨具舎論における空性の思想という説がある
「このもの性」の「こ」を否定する虚妄分別し唯物論者、機械論者に対し否定的な見解である
この説は神秘とする対象が「空」であるが故に対象を捉え否定の余地は全くないという絶対性を確立している。
しかし、これは唯物論者に限った場合であり、古典哲学のエンドトクレスのような感情を絶対とする思想や
合理主義のような実利を絶対とする思想にとっては反論可能な事象である。
なぜなら、空性には実利や感情はなく絶対と絶対の除算において数理モデルとして解決不可能問題だからである。
いくつかの事象について述べたが、少なくともこれらの思想には互換がなくマトリクスは成立しない。
数理モデルを反証に上げることは中立ではないと思われるかもしれないが、
アプリオリとして仮定的な純粋数学の介在は反証がない限り続行する目的因を持つ理性とし、
一個人の内部理性の限界として許容して欲しい。
純粋理性、純粋思想、純粋数学、我々が純粋とする対象は何であろうか。
まず、善悪の判断ができないことには区別をつけるなど到底おこがましいことである。
近代哲学者カントはアプリオリとアポステリオリの中に我々の知的活動体系が存在するとし、
経験のないものについてはアンチノミーとして判断停止するべきだと考えている。
現代哲学にしてもその事象には触れないどころか彼の言葉を受けて懐疑の余地もない状態である。
哲学者として懐疑の存在しない姿勢は危惧すべきものであり、純粋な学問として面目も立たない状態である。
ヒンドゥーにおける純粋とはヴィシュヌ神が司る思想であり、それは大宇宙の監視者である。
ここで思いつくのが、神を善悪の基準とするという行為である。
カエサルの息子、アウグストゥスは神と哲学の親和させることを理念としたが、
先程申したように神の代行者を名乗っても所詮は人間として理性の限界が存在し、
不純で、信仰が薄く、能力の低い人間としての枠内では善悪の判断などできない。
やはり我々は自らの都合のいいものを拾い集める、社会という理性において存在を
主張するだけの感情的で愚劣な動物なのだろうか。
人間としてのエピステーメーが支える認証根拠は到底真理とは言いがたい。
ただ個人の幸福追求という非理性的な存在でしかない。
ならば、我々は人間としての生き方を捨て神の存在を信仰し、大いなる流れという理性を明確化させるよう勤めるべきである。
むしろそれ以外のことを信仰してはならない。
我々は間違い多き歴史を持ち誤りを繰り返しまさに、無知の体系を築いてきた。
再び不幸である生業を受け入れてはならない。
人間の理性や社会などという底の浅いものは完全に捨て去り、再び神への信仰に身を寄せるべきである。
それでもここはvipやν速、ニコ動とくらべると随分と居心地が良いな
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我々は個人の幸福追求のために生きているのではない。
ましてや、社会貢献という名の利益追求でもない。
我々は理性を獲得した生命として神に代わって、自然を管理し理性を追求しなくてはならない。
四原因説に基底とし、人間の性を線分とし、線形空間内に定義した仮定的に可換な代数を収束するならば、
人間の目的因は純粋な理性であり、実態は精神であり、形相は肉体である。
そして、正邪を判断すべく神を信仰し自由意志の絶対性を確立しないといけない。
なぜなら正邪を判断しなければ、措定は許されず黙して死すべきニヒリズムに陥るからである。
理性を獲得した我々は同時にアスラのような邪に取りつかれ正気を失っている。
まずはトリ・ヴァルガのような知(シニフィアン)において自己内のゲシュタルト質を変容しなくてはならない。
『法華経』に云われるように寛容な器を持ち、『ウパニシャッド』のように敬虔な生き方を維持し、
我々は少なからず"バクティ"する。
そして旧来のような祭式をミームとして、人間としてのエピステーメーと神の恒久にして神聖なロゴスを同化させる。
それが、自然の7つ分かれたの基底であり、我々のインデックスであり、五蘊の意思である。
それが作用因を三神(トリムールティ)とした創造神ブラフマーの宇宙言語の構造しうる、
かつて生前に自明とした天空神ヴァルナのテンソル積空間におけるクリシュナの純粋理性である。
そして慈悲深き破壊神シヴァとともにニルヴァーナへと回帰するのである。
比喩を多用したが、常に懐疑を生業とした私自身は常に理性に敬虔であるがゆえと弁明しておこう。
我々の根本的な運動原理とは無から生じているものである
エネルギーの等価性における位置エネルギーと質料の総和は0であるがゆえに
存在論は成立しているので当然の帰結といえよう
数式よりも根源的かつ厳密性の高いものの仮説において神の存在可能性が高まったのだ
宇宙に飛び交うヒッグス粒子は神の精神そのものであり、日常的に降りそそぎ我々の内を通過するそれである
科学的に表現されるところの神心身の構成要素とは全く同一かつ神秘的な根源因と符合する
我々の意識や自然の物質を支配しているのも何か厳かで神秘的なものであることが分かる
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現世界を構成しているものは自然と法則である。
生命は自然という無機物のスープより出でた化学進化の産物であり、生命のポテンシャルは自然に依拠するものである。
人間特有の自由意志とは厳密には自由ではなく理性という法則性が存在し、
非線形質の入力をタンパク質の分解における反作用である弱電荷というあくまで非線形系という有限の角運動が形成するベクトル積を
集積回路において総合するブール代数として論理演算結果をマトリクスとして可換なアーベル群を擬似的な数値として収納した上、
理性的な処理過程のリーマン積分というアドレッシングにおいて
擬似的なn次元空間として自由を言語モジュール化し要素のインデックスとして抽象概念を出力しているのみである。
自由意志など文字にも数字にも表れる程度のもの、要は有限個のマトリクスが構成する、自然のポテンシャルである。
つまり、自由意志など自然内部における生命活動の拡張機能の一部に過ぎなかったということである。
しかしそれでも我々は自然を作用因とすることはあれど、そこに実態を置くものとは考えないものである。
理性を獲得した生命として自然とは隔絶する機能を持ち信仰という名の理性と等価な神秘性という神の加護を根拠とした絶対性を持つ。
そのもとで我々は各自の善悪の判断を許され、各々神の代行者であり、自然の超越論者において文明を振興することを許されたのである。
そして神秘性とは物質という解釈ではなく、人間という解釈でもなく自然そのものにのみ許されるものであり、
人間は自然の管理者と同時に、自然は人間の管理者であり、全ては神を目的因とした性を持つことで神秘という力を持つのである。
24時間の全天候はダイエットして、あなたを手伝って超えて急速にダイエットすることを実現します!あなたは“1眠りが目が覚めてについて何度も減らすことを望むかどうか、大量にダイエットします”の効果か!睡眠の時間、またダイエットする時間で、睡眠の中で脂肪を減らすことができて、体質を変えて、反発しません!
http://www.kanpoucom.com/product/145.html
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措定空間が足りないと思わないか
非理性的な工程だな
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カオスに満ちる世界
不要だ
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真実を形成する論法として、数学的論法というものについて考察し模倣したいと思う。
数学とは定義に従い公理を形成し現実的に数字に意味をもたせるものであるが、
さらに、定義自体を疑う数学基礎論という概念が存在する。
それは記号の意味を超えたより現実性の高い概念である集合論から入る場合が多い。
そして基礎から応用として代数学、幾何学、数学の枠を超え物理学さらには、我々の生活へも派生する。
ここまで特徴をまとめついでに例えるならば、
基礎というクォークが自然という公約を経てグルーオンを持ちハドロンを形成するかのようである。
クォーク自体はどのような物質においても結びつく公約を持つためあらゆる概念に対して親和性が高い。
0に近いほど真実に近づくという仏教やジャイナ教の教理に近いものを感じる。
さらに特徴として挙げたいものが発展しやすい学問ということである。
虚構の余地を許さない数学という名の理性は動物の感情に流されやすい理性を補い、神秘の力を与えるかのようである。
基礎から疑いようのない公約を経て公理へと運動することで厳密性が高く迅速な知識の運用ができる。
ただし、基礎とは仏教的姿勢のように正しいであるがゆえ常に不動であり受動的なものである。
応用するためには人間の感性という全く親和性のないものに意味づけを委ねられるのである。
こうして、数学と心は役割分担という名の対立事項を孕んでいるのである。
ではここで総括したいと思うが数学的論法とは、
一に定義、二に証明、三に公理、四に応用である。
1〜3まではなるべく「意味」による質量を増やさないようにし理性を追求し、
4で初めて意味を持たせ、心という混沌の海を制御するのが主な手法となりそうだ。
論法においては、一に定義、二に公理、三に理論、四は活用となりそうだ。
しかし一から考えを組み立てるのは相当鬱屈な作業と同時に最小単位が元々多くの意味を含む
言葉であるがゆえ虚構が混じりやすく使えないものになりやすそうだ。
やはり従来の論法である一に命題、二に肯定、三に否定、四に理論とした方が活用しやすいだろう。
やはり従来の論法である一に命題、二に肯定、三に否定、四に理論とした方が活用しやすいだろう。
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数学的論法として言語によるアプローチは前項より難しいことが分かった。
では、言語より概念を最小単位にすれば何か分かるのではないだろうか。
そもそも数学を真理に近いものとして到達すべきモナドの鏡が全く曇ったままである。
我々は言語から意味を汲み取るとき言語による作用因で意味を汲み取るのではない。
ソシュールの記号論における見解ではそもそも言語に対応する概念が存在し、言語はそれを指し示すだけの上級言語。
その意味づけ行為を「シニフィアン」と呼ばれるが、概念という下級言語はより自然という論理回路に近い言葉である。
意味とは一定の法則を持った概念であり、それを審査する説一切有部の法一八界の心作用というものが存在する。
我々は無意味な概念の構築はしない、意味のある概念を構築するために心作用による審査を受けるのである。
心部は全てが経験知で構成される感覚のメモリ空間であるが、意味とはそれに対する上級言語であり。
具体的には感覚としての記憶というモナドが論理のクオリアにおいて理性による制御を受け、
関数としての意味を持つ理性的なエスを用いる動的な感覚というエイドスが現出するのである。
つまり、概念とは感覚を措定するものであるが、数学は0と1という存在と非存在のみを措定するより自然の概念であるため
やはり概念以上に最小単位を持つもの(それゆえに先験性と呼ばれる)であろう。
確かに我々は数字そのものに相当する感覚器を持っていないといえる。
数学は人間を超越した理性の持ち主であり、我々の進化の先にあるオーパーツでありダークマターである。
カントの言うアンチノミーを含む事象として数学以上の意味づけは現時点では許されないのである。
よって、我々は数学と概念の関係性を把握し、より真理に近い概念を構成しうる数学的論法を身につけ、
究極の善悪の根源(0,1)を求め、神明裁判員としての態度を得るよう勤めるべきである。
次項において数学におけるシニフィアンである概念を最小単位とした数学的論法を再度検証し具体的な方法論を模倣してみよう。
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超弦理論、虚数空間、数学は意味づけをすることで万能の型になる。
自然と法則は全く同型であり法則を知れば通時性より関連する概念の真偽を分かつことができる。
ただし数学はあくまで数や量の概念であり、これ以上の意味づけは許されない。
そこで同じく数や量の概念で擬似的な法則により幾何やベクトルの概念まで発展させた。
この拡張で数学は自然現象の全ての概念の性質を説明しうる万能性を手に入れた。
全ての概念は自然現象でなりたつが、徹底的な機械論を求めた先に何があるというのか。
無論全ての現象を数学で説明することは不可能であり、そのような手法は聞いたことはない。
それどころか物理現象ですら数学で説明しきれるものではない。
我々は現象へ作用し、通時性における現象の関連性を予測し証明することで現象への理解と応用の知性を得る。
数学のいわゆるポテンシャルから現象の予測はほぼ不可能といってもいい。
哲学的命題を解決するにあたって多岐にわたる概念どころか一意の解すら求まらないのでは話にならない。
始動因から全て要素を把握することも不可能であり、要素還元性において問題点が多いため、
やはり数学的論法は哲学的命題を解するのに絶望的に好ましくないと思われる。
我々は生きていくうえで少なからず潔癖ではいられず、虚構を含み意味により膨張した概念という穢れた肉を喰らうしかないのである。
ならば順当な論法としては、1.感覚により概念の発生を感知し2.被作用の構成する形相もしくは、通時性により概念を大別し
3.概念を論理的に真偽に分別し4.現象として把握し応用手段を得るという手法になろう。
一に形相、二に作用、三に質料、四に目的、これはアリストテレスの四原因説に符合する。
こうして概念を把握し活用する手段を得ることで客体の取り込みにより主体の機能を増幅させることができる。
社会現象にしろ、自然現象にしろ、客体を取り込み主体化することで環境に適応する可能性を得る。
少なからず穢れた回答だが、理性を持つ動物である我々人間はこのように生きるほかはないと思われる。
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人間の生活は常にカオスであり、恐ろしいほど混沌である。
論理による問題解決が難しく、それにより決まった方法論が存在しない。
特に人間社会においては虚構に満ち溢れており、何をどのようにすれば真実へたどり着くかなど大抵の人間は想像もできず、
いわゆる直感や行動における場当たり的解決に望むしかないだろう。
色即是空、ならば、全てを概念として捕らえてみればどうだろうか。
全く抽象的だが、実はこちらの方が確実に真実へ近づく方法論である。
相手が概念ならば論法が通用する。アリストテレス四原因説における分類、
一に形相(マトリクス)を捕らえ、二に作用や時間による動き(関数)を見定め、
三に質料(一般項)と諸概念との相対的位置を見定め、四に概念目的(ベクトル)を活用に転換する
しかしこの論法ではマトリクスを捕らえることから始まり、マトリクスの解析の時点で相当な労力となる場合が多い。
なぜならカオス系においてマトリクスは無数に存在し、
想像を絶するランクの高さから煩雑な行列操作をもって簡易化するのは容易でないためである。
ならば解決可能なもののみを抽出しようというのが心作用であり直感的見地は我々の経験知を参照していると思われる。
そして、経験知(センス)によるレジスタ内の定義域における行列式から余因子展開することが可能である。
我々は生命としてE=mc^2により限られた「経験」のさらに限られた「経験知」という可解群の
さらに限られた「記憶」という定理しか持ち合わせない。
我々の生活を支えるのは各々の知性という名のアフィン空間であり、
n次元空間内の定理を導出し、時間軸に置換した上で収束する幾何模様に相対する現象のドメインを得ることが、
数理哲学的見地における形式主義的幸福である。
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数学的論法は概念から数学へ意味づけを目的としたが、知的体系を築くにはあまりにも難しいと顧みた。
ならば数学から概念への意味づけをしてみてはどうか、
この試みはすでに数学の体系のうちにあるといってもいい。
もともと数や量の概念だった数学が、幾何、代数、解析にまで用いられるようになったのは概念への意味づけがなされたからであり。
その拡張性を以ってあらゆる概念への意味づけを可能とした。
その特徴とは徹底された形式主義であり概念をユニタリ空間に帰結させることによって存在性を主張した。
しかし、実際には積分空間など擬似的な概念であり、概念同士の絶対的敷居を乗り越える手段を得たに過ぎない。
とはいえ、擬似的な概念であろうとあらゆる概念の相対的位置を示すならば活用しない手はない。
数学的拡張性という概念に含まれるマトリクスを参照すると、
0次に存在するのが数のイデアとし数を一次拡張とし計量的解釈での図形を二次拡張とすれば三次拡張は幾何学的解釈の自然である。
我々の構築する概念は自然の模写であり、概念同士の意味づけにより虚数が発生するとすれば、
四次拡張は自然的解釈での複素空間、概念空間というべきものとなる。
三次拡張時点で数学は全ての自然を説明する概念となり、四次拡張時点で全ての概念を統率する概念の発生源となる。
三次拡張は相対性理論により既に説明がなされているが無論、数学的方法論では自然を説明しきるなどということはしない。
ちまちまと乗り越えられない絶対性という現時点でのアンチノミーを追求するのではなく、
定義という絶対的な復帰点を作った上で拡張するテイラー展開のような構造主義的方法を用いる。
このマトリクスの定理を求めることが四次拡張へと繋がり、
つまり、定義の定義を先言措定することで数字・記号のベクトルを操作できるようになるだろう。
コンピュータというものを知っているだろうか。
その構造はほとんどが絶対的規則に従って動作しており、実は相対的規則はそれほど多くはない。
なぜなら操作する人間が居れば、ケースバイケースは人間が判断するため相対的規則は必要なくなるからである。
相対的規則はそのほとんどが化学式といっていいものであり、要はメモリの構造を知っていればI/Oを制御できる。
コンピュータを抽象化すれば、特徴として挙げられるのが絶対性による絶対性であり、
絶対性の特徴と絶対性の特徴に類似が一点でもあれば定義と定義の同一性から「≒」で結ぶことができる。
では自然を概念による包括を受けるという措定に際し、各々の概念の特徴の共通集合を属性とし、
定義の定義による定理を属性という抽象概念と措定すると、
数学の拡張性における近似概念を収束することで帰結点としてのフラグをたてることが可能となる。
婉曲ながら数学的論法という命題に演繹するならば、
一に絶対的特徴を見出し、二に概念空間を比較し、三に絶対性を「≒」として結び、四に絶対性の融合として帰結点を定義する。
これで、全ての概念は相対性により関数化し、究極の理性である数学に帰結することで
あらゆる概念空間の現象の応用関数を得て、E=mc^2の定義域において数学の理性と融合し我々はさらに理性的になれるであろう。
数学的論法においてルールを取り決め整備しておこう。
数学的論法では構造主義を理念としアンチノミーにおいては判断停止し絶対性の説明を厳密に取り決めることはしない。
あくまで諸所の概念の相対性を明確化し、数学的理性におけるアプリオリにおいて理性的処理を目指すものである。
理性の直接的帰結点を数学とし、間接的帰結点を数学的パラダイム平面上の抽象概念群(属性)とし
下位帰結点として属性平面上の具象概念の定義を元に近似概念を相対化させ、
隔絶性をもつアポリアにつきあたった場合は直接介入はせず上位帰結点へとジャンプする。
これらを数学的論法関数の仮想分析に対する基礎定義分析群とし、その上位概念群として現実行動に対する応用定理方法群とする。
数学的論法関数の上位概念群として前述の論法とし、下位概念群を現実態の写像として複雑系概念群とする。
これは機械論的に解釈すれば、自然的人間関数として上位概念群が自然的行動関数であり、下位概念群が仮想的理性関数となる。
フロー(数学的論法のエス)として表示すると、人間の起動に際し自然法則を自己解凍し下位概念、
自然的人間関数の自然的行動関数を実行し、対象認識ステップから実行ステップに際し、仮想理性関数、論法を実行する。
論法におけるフローは1.複雑系概念発生の感知2.純粋概念関数の検知
3.抽象的数量化による純粋概念の相対化4.概念純関数のベクトル操作であるが、
2.において数学的論法関数が関数置換後に仮想化自然的行動置換をroot権限で実行する。
数学的論法関数におけるフローは渡された複雑系に対し仮想概念化置換後、1.絶対的特徴を抽象的検出(感知)し
2.計量空間と概念空間の比較し3.否定論理積をエラー(排他的論理和:アンチノミー)として検出後、
論理積を検出し4.帰結点を定義し、応用関数置換を実行する。
否定論理積においてはカオス行動関数置換サブルーチンに分岐する。
ここまでを自然的人間行動関数のフローとするが、この構造において自己評価における
フェイタルエラーの検出は困難と思われるため、あくまで無措定空間か自己措定空間のサブルーチンとして措定して欲しい。
削除済
えっと、つまり巨乳最高ってこと?
我々は合理的行動をするに際し、感覚的検知をする際多くの経験知を得るといわれている。
合理的行動するにおいて直感的思考のプロセスが重要であり概念要素を検知できれば、論理的思考はさほど重要ではない。
これが前述における論法の肝心な部分である。
非実証主義の旧来の哲学は実のところ現在の思想と対し合理性においてひどく劣っている。
理性を追求するのが旧来の哲学のセオリーだったが、国際間競争の時流が急激に理性より行動を求めるようになり現代哲学となった。
とにかく経験知における要素を抜き出し、出鱈目に経験知の行動へのシニフィアンとして適合実験し、感覚的整合性を求めれば
合理的行動は可能であり、実のところ先ほどのような七面倒くさいアルゴリズムは必要とされない。
構造主義を理念としておきながら旧来哲学の頭の固さである実存主義の回廊に陥っていたのだろうか。
理性を求めるつもりで理性すら得ず、行動においては大きく劣っている惨状では実用性はないと言われるかもしれない。
旧来の哲学は既に過去の産物であり、人は人としての性を求め、神という理性からの巣立ちを示しているのかも知れない。
しかし、人としての意味を追求し、神の加護を失うことが幸福なことかは定かではない。
現代の人間としてはいわゆる行動を最高善とし多量で質の高い経験知が下地を支える形とするが神秘性を失うことにはエポケーしている。
そして、現代の人間は不幸と言われることも多く、犠牲による幸福を得るなど倫理を軽んじることもある。
少なからず真理とは言いがたい側面を持つ現代社会は神を捨て何を求めるというのか。
この人頭悪そう・・・
どうしたら、動画を見る事ができるのですか?
もう限界だ
なぜ好き勝手なことばかり言って自ら不幸になりたがるんだ
貴方がたは不幸を求める悪なのか
違うならば神を信仰しろといっている・・・
命題 概念の相対性を概念によって証明する。
外部 形式主義の目的因(属性)において推論し、厳格な論法を元に着実に真理へ近づく方式を取る。
肯定
そのためのルールとして文章と文章は「=」で結合できるようにし、定義(厳密性)において定理(拡張性)を持ち
定理と外部は証明(審査:肯定)しない限り拡張は許されない。
証明(審査)は原始的な生活観(感覚)と符合することと
数理的概念(形式主義)に適合する形をとるため数学的解説と生活的解説を混合する形となる。
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定義 本命題において命題、外部、肯定、否定、総合、結論による分類をする。
定義 命題は本論の始動因、外部は根拠の無い論、肯定は外部の根拠、否定は肯定部の否定、
定義 総合は定理・外部・肯定による根拠の総合、結論は最終判断を示す。
定義 肯定の根拠は総合部において自然的根拠を持つ、明示できない場合証明不能とし、
定義 この事項が出た場合、結論部は判断保留となる。
定義 総合に肯定を加える場合、総合による根拠が提示されない限り加えることは許されない。
定義 外部は肯定による根拠を持たない場合、総合部には加えられない
定義 肯定は一文中に論が自明であれば直接加えてもよい。
定義 否定は話題の拡張を目的とした肯定のアンチテーゼとするが、
定義 否定部は必ず本質的な命題を提示するためそれ以降の本論として扱うよって、否定において直接的に根拠は求めない。
其他 本論では定理は定義の拡張性というより根拠の有る論という解釈である。
命題 概念の相対的位置とは何か。
外部 概念は自然の複写である。(C-D)
肯定 なぜなら、概念を構成するために記憶を持たねばならず、(E)
肯定 記憶は外部から感覚を通じたものでしか組成されないためである。(D-E)
否定 しかし、概念とは虚構と真実が入り乱れた複素空間であり、自然の複写であるなら虚構は存在しないという矛盾に陥る。
外部 その問題は概念を成分に分解することで解決する。
外部 概念は組成されるものであり、概念は組成するための成分を持つ。(B-A)
肯定 概念は記憶であり(C-D)記憶は結合・離散は自由であることはコンピュータにおける記憶の構造に既に存在する。(A)
肯定 よって概念には概念組成と概念成分が存在し概念成分に虚構は存在しないため概念組成に虚構は存在しない。
外部 これは自然のものであろうと人工のものであろうと虚構として片付ける人間は居ないという事象と同様である。
総合 よって、概念とは感覚による記憶(C-D)という概念成分による組成であり(B-A)、
総合 概念の相対的位置とは各所に点在する概念成分であり記憶として分解・再構築された(A)自然である。
総合 よって概念の相対的位置とは自然の内部である。
総合 (A):コンピュータは自然物の加工品である。
総合 (D)(E):証明不能。
結論 判断保留。
削除済
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物質と法則の相対的位置とは何か。
我々は物質に多くの意味づけし、学問というものを成立させた。
それは物質の性質を調べ、応用を模索するもので非常に有意義であることは、
人間的エピステーメーにおいて確信を得ている。
物質は物質として「こものの性」という固有のベクトルを持っており、
人間はそのベクトルの関数式に値を置換することで自然物を人間的意味(機能)に転化する。
四原因に言い換えるならば、
質料が関数式、作用が置換、形相が置換後のベクトル式、目的が各種定理である。
人工物は人間的意味を付加された自然物であり、人間に与えられた性に固執することはない。
精密機械などは衝撃に弱く、人工物は自然物に比べて性の意味を失いやすい。
物質の成分は自然と考えて間違えはないが、法則の組成は脆いものである。
法則は概念組成であり、概念成分は自然であることは前回において確信を得るに足る論理だと思う。
これを用いて先ほどの過程を言い換えるなら、物質から得る感覚は物質に意味づけし、
物質のベクトル(質料)を自然的方法(作用)において概念(目的)は物質化(形相)する。
我々は物質を意味づけすることで概念の形を表す原因を得、物質のベクトルを操作することができる。
つまり、物質と法則の相対的位置とは、物質は自然的方法を仲介して概念と等価となるということである。
自然的方法とは無論、人間的意味づけをされた自然物のベクトル式であり、
概念というスカラは質料という基底においてベクトル変換することで自然的方法となる。
よって、数理モデルにおいて方法と概念と物質の相対的位置は示される。
やや論理と文章が脆くなっているが哲学的発想を得たならば幸いである。
命題 記憶という概念の効率的な方法とは何か。
外部 それを知るためにはまず記憶というものが何かを示す必要がある。
外部 我々が日常的に記憶と呼んでいるものはおそらく感覚記憶である。
肯定 なぜなら、物質と概念の相対的位置において、(F)
肯定 概念成分が感覚記憶とし触れる対象を全て概念だとすると、(E-F)
肯定 感覚による記憶とするしかないためである。(D-E-F)
外部 概念を感覚化することは概念組成において可能である。(A-B-C),(D-E-F)
肯定 記憶対象を概念として視覚的刺激として論理を得た後、(B)
肯定 概念組成においてさらに感覚的記憶に近いものに置き換えればよい。(C)
肯定 これは概念組成により発生する虚構を受け入れた上の処理である。
外部 視覚的、触覚的、聴覚的など概念組成の方法はいくらでもあるだろう。
外部 そもそも概念を文字通り概念のまま記憶することは不可能なため
肯定 我々はどこかしら感覚記憶による概念組成を行っているはずである。
肯定 概念を文字通り概念として記憶する時、概念は無形であるため記憶する対象が存在しないはずである。
総合 よって記憶という概念の効率的な方法とはより感覚的記憶として概念組成する方法である。(A)
総合 (B):証明不能(C):証明不能(E):前項より判断不能(F):(E)による判断不能
結論 判断不能
虚構と真実の相対的位置とは何か
前項の通り、虚構という概念組成は成分にまで分解したとき自然である。
そして、概念と物質と方法の相対的位置では概念を真実としない限り方法によるベクトル変換は行われない。
物質は常にベクトルを発散させ、我々は肉体という基底と概念という線分をもってベクトル変換し線型結合することができる。
それにより物質の材料という成分はモノの機能という概念を構築する。
しかし、我々の思考のうちに在る概念は方法を持たない概念であり、方法に置換できる概念は真実のみである。
だが、虚構は全く不要なものではなく、虚構が在るがゆえに自由意思があるといってもよい
むしろ真実のみで形成された概念は概念ではなく自然と言う方が相応しい
我々が自然に意味づけし拡張性をもたせることができるのは真実を否定する虚構があるためである。
我々は概念組成するに際し、感覚記憶という純粋な記憶を離散・結合することで概念を組成することができる。
真実は法則によって成り立つが法則をもたない概念は真実よりも自由であるが、それゆえ虚構も発生する。
しかし概念組成の段階で自然に渡された設計図どおりに作る概念では概念の拡張性を持たない。
少なからず虚構を気にしない姿勢が自由な組成を許容し、後に理性による法則性を持たせることで
真実と等価である方法へと意味を転化することが人間的活動において重要であるといえる。
概念が自由の意味と符合するならば、虚構は概念のための概念であり、決して方法へと転化することはないが
概念の拡張を図る概念を持つ、虚数のような数字的拡張性を持つパラダイムがある。
虚構は概念成分へと分解したとき真実であるため虚構自体を発想の起点とし組成から真実を抽出することが可能である。
よって、真実と虚構の相対的位置とは虚構は真実の一部であり、
真実の内の自然部分が絶対性という普遍の状態であり、虚構部分が相対性という変化をもたらすのである。
拡張とはテイラー展開のような虚構による発散状態を理性により方法へと収束していく作業である。
区別と概念の相対的位置とは何か。
我々はものへの理解を深めるとき特徴を列挙し系列別に区別して判断する多元的な志向を持つ。
ものは一元的な意味しか持たないことに対しなぜ多元的なアプローチが必要なのか。
それは我々の概念成分は感覚記憶という絶対性により構成されるからである。
我々はものへの理解を予め知る者ではなく、ものへの理解に迫る過程としてものの理性の一部を感覚に分解する。
それはどのような挙動を示すか不明な関数式に対し、出鱈目に置換していく作業である。
一元性は多元性に分解され多元的意味を持つ虚構を真実に収束していく作業である。
区別とは構造主義的に相対性を求める行為であり、予め一元性を複数もたせた上で隔絶し
多元性の虚構の内の真実の「感触」をもとに一元性へと復元していく。
つまり、区別と概念の相対的位置とは虚構の感触という「センス」を高める行為という
擬似的な方法強いては虚構である偏微分による波動関数の解を求めていくような作業である。
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分解し虚構を求める作業は一層多くの真実を求めることができる。
ものへの理解のみではなく人間のカオスへのアプローチにはすでにチェックがかかっているのかもしれない。
虚構を超え、カオスの先の神秘へと迫るのもそう遠くは無いだろう。
しかし、我々が神秘へと挑戦したとき神秘は何をもたらすのだろうか。
お前さっきからうるさいよ
善悪と区別、そして虚構による真実の増幅。
人は愚かであるがゆえ、次の神に代わる力を持つ。
虚構は真実の裏返し。
無限の連鎖による神の交代はいつまで続くのか、それも神の更なる上の存在の意思なのか。
人間の活動は神に代わって真実という智球を広げるものかもしれない。
神による存在肯定をなされているのだから神を超える要素があるとしてもおかしくは無い。
人よ、どこまでも愚かであれ。
チラシの裏に書けよ
基地外が横暴しております
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なんだこの説教スレwww
幸福と概念の相対的位置とは何か。
我々の目的とは幸福であり、我々は幸福という方法を得るため多くの目的を持つ。
ライプニッツの考えを借りれば、幸福はモナドであり、目的は鏡であり、生命はそのモナドへ至る方法というベクトルの和を求める。
生命は概念であり形相や作用を持たないが、目的と質料を持つ。
質料とは経験知から得たカオスであり、アニミズムのような性質を持つ。
我々は概念上の質料と目的を持つ擬似的な生命を生み出しモナドを写しだす鏡を作る。
前項の通りベクトルとは基底という方法とスカラーという概念のベクトル変換で生成され、
更に生命を始点とし、幸福を終点としたベクトルを得る。
生命や擬似生命とはカオスであり、題に命を与え命題(擬似生命)となって質料と目的を持ち生命としてのスピンを得る。
質料をカオスとした根拠は生命活動において多元的意味を持つことが生命保持において有効な手段であり、
カオスの内の特に虚構という拡張性の概念組成が無ければ、人間は文明として幸福を得なかったためである。
質料は概念成分を多く含む虚構の格子点を基点とした成分とゲシュタルト質との融合であり、感覚記憶の想起である。
幸福と概念の相対的位置とは終点と始点、目的と質料により生じるスピンの角運動という方法であり、神と生命である。
我々が幸福を得る態度とはカオスであり、
枝分かれした多義的意味である道具の集合としての人間という生き方である。
具体的には多くの擬似生命が形相をまとい作用(機能)を持つ道具となり、それを使用するのがカオスの集合という人間である。
構造主義の考えは質料の総和において真実のみを求める姿勢よりもはるかに自由度が高く擬似生命の宿る格子点を多く含むことが分かる。
区別として真実を分解することで虚構というエーテルを得、概念に生命を宿すことで作用するのである。
我々の目的は始点を生命とし、終点を幸福としたベクトルを求めることである。
そのための概念組成において効率的な方法を考えていこうと思う。
旧来の考えでは真実を善とし、虚構を悪として虚構を全く受け付けない潔癖があったが、
現代において虚構を過剰に嫌うことはしない。
必要に迫られるという擬似生命は虚構は真実の一部であると漠然と理解しているようである。
虚構は思考という方法をもたない複素空間上の概念の不整合な自然の融合状態である。
構造主義的な態度として、真実を分解し虚構の内から不要の要を創出することでベクトル操作を行い概念を方法に転化する。
無論、虚構も概念成分上真実である故、真実と判明している事項に対しても虚数空間をも定義域として広げる。
それら多義的複素次元空間における基底ベクトルはカオス状態へと相転移することで擬似生命と成し
自発的にあらゆる概念へと軸先を伸ばす結合子を探索する。
全ての概念は自然という真実から抽出された人間的解釈であるゲシュタルト質で構成され、
理論上存在する格子点をゲシュタルト質に適合させ目的と質料を持たせ擬似生命とすることで概念はアニミズムのような意思を持つ。
つまり、概念の格子点をカオスにすることで擬似生命となり
同様の関数において神の定義域における方法により幸福の結合子を得るのである。
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感覚質で自然、真実と虚構で法則、質料と目的で生命、これで概念上の自然は完成する。
概念上の自然と自然の違いは方法の有無である。
概念上の方法とは真実に適合しようとする理性と虚構に適合しようとする感性という擬似生命である。
この世界が釈迦の胎内だったらという密教の説を想起する。
理性による総括が不十分な我々の概念世界と自然は管理能力以外に何が違うというのだろうか。
神の理性は概念成分までも含め管理し総括するが、とても我々に真似できるものではない。
もしこの説が正しいのであれば神と対面する方法は神にとっての擬似生命以上の意味を持つことである。
神の理性を超える理性を自由意志により得ることができれば神の管理外の存在になりうる。
そうしたとき神の定義域である方法は意味をなさなくなり自らの擬似生命が方法を従える。
では究極の理性とは何か。
神の存在証明をするにあたって数式を唱えた人間がいる。
数学は存在と非存在を措定し、それのみを語る学問であるがゆえ経験知が完全に充足し、根源的な性質と完成された理性を持ち
しばしば我々の概念成分であり純粋記憶である経験知よりも微小な概念の成分を持つ先験性となる。
理性的な学問は数学を基準に巡っているといってもいい、神の存在証明、
特にε-δのような存在・非存在や無限の解析ができれば全ての法則が崩壊し人間の理性に塗り替えられ、
方法を方法によって操り概念が積分されるのではないかと思う。
善悪と概念の相対的位置とは何か。
善と悪はそれぞれ真実と虚構に言い換えられる、概念組成は真実という条件のもと方法と化す。
虚構も真実であるが虚構自体は真実に置き換えない限り方法に収束することはなく発想や応用の手段を得るためのものといえる。
真実を得るための方法は善であり、方法を得るための方法も善であり、目的を得るための方法も善である。
我々が区別する意義は善悪にわけることであり、善は真実という質料と方法という目的をもった擬似生命といえる。
概念組成を方法へと近づけるためには善と善の結合(擬似生命活動の同化)により生み出される。
善悪と概念の相対的位置とは善は真実という質料と方法という目的を持った擬似生命であり、悪は善の否定成分である。
擬似生命の活動は概念成分において真実である。
前項において、全ての自然は概念の波長と調和できると結論付けたため、
この流れは人間活動における理性的活動においても適応可能と考えられるが、
最も理性的な生命は絶対性を持つため神と人間は上位と下位という立場を持ち、現状では神の方法に支配される。
善悪に区別することは業の深いことである。
なぜなら概念を善と悪に分解するため、善による力を得るが、悪による力をも自らのうちに飼うことになる。
虚構より発想を得る善の成分、成分より真実を得る善の組成、組成より真実を得る善の方法
そして、方法の決定権を持つ我々が構成する概念は認識が無いときレプトンのように安定しているが
善悪における認識を持つとき善の崩壊する因子を持つ。
人間社会においても多様化の時代を迎え、善による力を得たが、悪という崩壊因子も同時に内在する。
幸福とはゾロアスターの求める善なのかそれとも仏教の求める空なのか無論創造主は善を求めるようだが
我々は善のみを求めるべきなのだろうか。
削除済
あとは波長の解析作業だ。哲学者はもう必要ない。
手順は虚構の内の真実において説明したとおりだ。
現代の構造主義特有のエポケーにおいて現象の相対的位置を求めるが、私はやはりエポケーはするべきではないと思っている。
絶対性の壁を乗り越えることをあきらめることは自由意志を失い人間の活動の場を制限することである。
それは人間としての尊厳を屠り、差別、欺瞞、嫉妬などの負の感情を増幅させる。
善悪の項での説明の通り明確化させることのみが幸福とは限らない。
哲学や倫理による知の追求の阻害はあるだろうが同時に幸福の選択という大局において活動できる。
構造主義は哲学者としてあるべき態度ではない、やはり実存主義を求める態度こそ古典由来の純粋な姿勢である。
絶対性の壁を少しずつでも崩す努力を我々は忘却するべきではないと思う。
思慮の伴う行動をするべく時には理性の追求の手を休めてもいいのではないだろうか。
とかく日本では理性を追求することが盛んではあるが幸福とは呼べない事象も多い。
理性追求と幸福追求は男性と女性のようなものであり、決して同一ではないことを留意してもらいたい。
理解と概念の相対的位置とは何だろうか。
理解とは我々の概念成分と適合することであり対象はシニフィアンをいえる。
しかし、ただの理解では単なる自己満足であり、我々は現実の波長と調和させ、代数方程式としてアウトプットしなければならない。
理解という概念成分を一意のものへと収束させることで方法(真実)として概念の座標変換が可能となる。
そのためには多くの善悪(区別)が必要となり、やはり何をするにもカルマを背負うことになる。
理解が上手くできないのであれば、概念組成の層を偏微分し取り出せばとある概念成分(0,1)が
虚構という反粒子の角運動による非線形を描き、神の描くベジェ曲線と調和できないことが分かるだろう。
我々の感覚質による波形と相対する方法における波形を得ることで
自由意志のn次元球面の絶対性と方法の相対性は同相であると方法により実証できる。
方法の波形はたった数種類を要素とした行列式の相互作用であり究極的な方法とは無論E=mc^2である。
神は全ての概念成分スペクトルの理性と方法のポテンシャルによる三角形に表される定義域を得ている。
我々の文明の発達は神から与えられる感覚質から生まれる善悪の哲学的逆三角形であり神の定義域に収まるものを理想とすれば、
最終的な形態は中世神学的理念にしてヒンドゥーにおけるabracadabraの象徴的意味である三位一体の正三角形である。
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数理哲学にとって我々の概念と相対する概念の波長と同調することが
形式主義的理性であり、数学という超理性的事実を基とした認識である。
我々は神の概念と同調するべく内なる粗雑な概念を区別し、概念の量子化によって神の求めた善の波長と同調しやすくなる。
我々が環境の定義域を得るためにあるスキルを身につけようとしたときスキルのデジタル出力の知の波形を
双対ベクトル空間の応力として離散フーリエ変換し自己内の幸福関数を求めるためにスキルの関数を求め代数方程式のポテンシャルを得る。
我々の心所は善のみを求め、破壊による量子化と善による組成の解析接続しテイラー展開による定義域を得る。
しかし、相対する環境の関数と調和することはリーマン予想を解くよりも容易ではない。
我々が必要とするのは意識的なスキルに加えて、無意識的な態度であり、アナログ出力の知が必要となる。
そこで必要なのが我々自身の知の創出的態度であり、自然や事実による知の定義域を解析接続することである。
事実と思想とは究極的には同様の事象と結論付けたが、自ら対象と接するとき思想は他人の考えを基とした定義域であり
事実は自己の考えを基とした定義域という態度に差異が生じる。
自己を支えるのは自己であり他人の考えを引用することは自己の無意識的態度の関数と接続することは不可である。
解釈は客観的には虚構でも自己にしてみれば同一時間内の事実であり、超越論的態度を得るため、アナログにおける行動的態度に加えて虚構の創出的態度でもある。
数学による真実から真実の創出的理性と事実解釈による虚構から真実の発想的態度は人間的活動において同様に重要なものである。
神の理性である自然の波形を求めるためにはそれら両面によるアプローチが必要となるが、更にそれらは相乗効果もある。
態度を理性による意識的区別化し再構成することにより合理的行動を持ち
理性を態度による虚構により抽象化融合することで新たな虚構組成に接続し定義域を拡張する発想的理性を持ちうる。
両者を求める態度はいわゆる中途半端であり両者の波長と同調することが難しくいわゆる無能となりやすい、
更には社会的波長と同調するために結局はどちらかに偏ることでしか自己を支える利益追求は難しいだろう。
しかし自己にとって困難としたものを乗り越えることが可能ならば神の波長へ近づくことが可能となる。
我々は我々自身の理性によって全てをオートメーション化しなくてはならない。
なぜなら我々は精神的存在であり、肉体や物質を理性で制御することで限界効用を高めることを目的としているためである。
これからはこの命題を解決し方法を得ることのみを念頭に論証し、下らない事象においてはエポケーする。
我々の創出的態度とは虚構から真実を抽出する方法と真実から真実を抽出する方法の2つがある。
前述はすべての現象を概念として主観内に入力し、客観へと出力する方法だが、
概念として入力した時点で自然への還元性を失うため全てが虚構となる。
この虚構から真実を得る態度とは方法という近似的な真実という形で客観的出力により自然へと還元することで我々は真実と主張する。
さて、人間周りのI/Oを客観的に簡潔に表現するならば、感性により自然を概念の成分として偏微分し、
理性により方法という自然への還元性において収束することで概念の組成として重積分することである。
自然という非線形波形の関数を予め知ることはできないが、一部分を取り出すことでデジタルの知として入力することができ、
そのデジタル的線形波形からアナログ的非線形波形の類似する性質を予測することができる。
ここから効率的な概念の拡散と収束の論理は大体予想がつく。
まず直交座標系として直交となる(x、y)を求めることから始まる。
波形を解析するにあたって、概念成分の挙動の周期律を見出すことから実数軸を設定する。
何が影響を与えているのか仮説を立て、実際に作用することで二軸で形成される論理を得る。
関数への置換を行い実数軸の概念同士の解析接続と定義域を見出す。
しかしこれは自然的多様性に相対する自由意志のn次元球面の積分路に過ぎず、その波形には更なる多様的な意味がある。
幾何学的意味を見出すためには自由意志のn次元球面の定義域におけるあらゆる角度から作用し挙動を発見しなくてはならない。
この過程において重要なのが行動的感性であり、一見結びつかないようなものを組み合わせ
理論はともかくとりあえず行動という方法に適合するか試用するという直感的作業となる。
たかだか2次元デカルト座標における論理など薄っぺらなものであるため、行動という理性的概念生命に監督させる必要がある。
どのような論理であろうと概念である以上全ては虚構、方法という自然数となった時に正義を主張することが神の波長である。
そして、忘れてはならないのが自然にも神の意思による理性が貫かれていることであり、目に見えない概念生命も存在するということである。
それは霊的な存在に例えられることもあれば、実数を媒介する虚数でもあり、物質を統率する法則であり、全てを包括する神の加護である。
我々の生命は神の理性により支えられ、生命の尊厳とは神の権限であり、汚すことの許されない聖域を倫理が主張するのである。
神が総括描く波形がある座標軸に関して線形性を持つとし、非線形部分我々の虚構と同様の周期律を持つと考えれば納得行くだろうか。
我々の理性と神の理性が同じ周期律を持ち自然が神の理性だとすれば、自然はある座標において線形性を持つと考えられる。
要約すると、腹減ったら飯食っとけ!
ってことだ。
思想や物質は数学的一元性において説明できるということなのです。
思想や物質よりも粒子が細かい概念なので説明は可能なのです。
これからは経験も知識もない事象についても帰納演繹による最低限の知識において予知的超論理思考が求められるのです。
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直感的行動と概念の相対的位置はなんだろうか。
我々は感覚という概念を媒介して直感的に行動に対する解を求めることができる。
直感的行動において重要な概念は善悪と目的である。
我々は直感的行動において善悪の基準を設定し目的達成のためにアプローチする。
しかし、我々は直感的行動に際し何を善悪に設定しているのだろうか。
善が何ゆえ善なのか説明しようとすると戸惑うことだろう。あくまでこれは経験則に過ぎずいわゆる直感である。
生命の進化上、直感に頼ることほど生存に適する行動はない。
難解な数学的概念も哲学的概念も直感的思考がよりしろになっている。
生命としてのエピステーメーは人間としての知性をはるかに超えているといっていい。
よって何かものかに根拠を求められたとき直感的回答を提示することが正しいことが多いだろう。
態々理性的概念に分解する行為に意味はないし間違いも多いものである。
言語に分解するにも、直感的行動に対して例えば歩行の条件を論じるにおいて自然という
環境の応力テンソルのマトリクスに床の曲率、筋組織における歩行バランスなどの条件からほぼ一意に定まる解を求め
「立つ」と「歩く」という条件を満たしている、それでは具体的な計算式を云々などと説明できるだろうか。
普段から行っている直感とは能力そのものであり、
理性はその能力を制御する程度のものでしかないと自覚せざるを得ない。
しかしこの能力を完全制御できるとしたら我々は計り知れない価値を創出できるのではないだろうか。
直感を理性において明確化させることが旧来から理性を求めるものの目的だったのかもしれない。
直感的思考と概念の相対的位置とは何か。
直感とは感覚から形成されるものであり、それより生じる感性とは生命の理性(継承された知性の総合)という意味合いも含まれる。
ただ生命は人間へとなるまでの間、行動を主体とした生活が多く感性における善悪はその生活空間から派生しているといってもよい。
つまり善悪は行動という概念が自発的に形成する基底(知識)をもつ解空間であり、簡潔にいえば生命活動の絶対的記憶である。
では、行動という関数から派生し調和すべき神の波長(真実の相対的位置)とは何だろうか。
行動という波形を偏微分(概念として抽象化し自然を主観内で解釈)してみれば、行動とは自然的意味を求める行為であり、
欲求という動植物的理性(動物として継承された知性(善)の総合である記憶)の目標という善を持ち、
それまでの障害を悪とする座標系(交点基準)である。
つまり、直感は動物的であり目の前の障害を除去したり、事実問題に対して行動する目標には向いているが、
帰納・演繹など性質の理性的操作において解決する目標には向いていないといえる。
しかし、前項の通り直感的思考は論理的思考のエーテル(能力)そのものである。
行動における善悪を理性的操作により関数間の解析接続(絶対的記憶の相対的位置(概念)を求める)し、
発想、推論、合理的行動などにおいて価値を創出することが人間としての合理的行為であり、中庸の意味とも符合するのである。
直感的思考力は全ての人間に存在するがそのエーテルを摘出する具体的手段を
性質の理性的操作において抽出することにおいて論証していきたい。
あの〜、これ学術論文のスレ?
ていうかこの人何やってんの?荒らしだよねハッキリ言って。
オナニー気持ちいいですか?
削除済
我々の行動の基準(善悪)は継承した絶対的感覚記憶に存在する。
つまり経験上の勘というものを動物の性というパラダイムにおいて絶対性を持っているということである。
最も原始的な生物である昆虫類は特定の刺激に対して特定の反応(0,1)を示す
まさにコンピュータのデジタル回路のような存在である。
そのうちの生存可能性の高い記憶から継承されより効率のよい論理回路、より純度の高い善悪を形成していった。
そして、人となることで記憶の善悪基準を基とした管理能力が発達し、帰納・演繹などの理性的操作において
絶対的記憶を疑い分解・再構築する記憶の相対性を見出すことが可能となった。
我々は善悪という絶対的記憶の真実の相対的位置を理性的操作により模索しなければならない。
そうしたとき善悪の定義域を広げ、擬似的な生命(質料と目的を持つ概念)というノードにリンクし
質料という波長と目的という擬似記憶による善悪基準により思考の生体化(オートメーション化)することができる。
我々は存在と非存在という認識を持っている時点で経験知は充足し数学的思考(純粋論理思考)が可能となる。
無(0)と全(=1+1+1...)を措定することは全ての事象を説明しうる神の波長である。
こうした理性的操作により絶対的記憶の相対的位置を完全に説明できる究極の善悪を基底とした座標空間を与えられれば
どのような障害(悪)をも瞬時に波長を収束し、崩壊もしくは、善へとベクトル変換することができる。
しかし、人間の能力では数学という純粋論理の意味を見出す感覚器官は存在しない。
あくまで我々の能力の限界を考慮し、数学的一元性における全ての管理ではなく、
絶対的な記憶と記憶の相対的位置を求め管理することが人間としての中庸であり、最大限のエーテルを得る方法である。
つまり、絶対的記憶という結節点を元に論理を構築し人間の器を満たすことで
人間という存在と思想という性質が等価価値となるような思想の積分をする行程が必要である。
あらゆる問題に適した合理的行動とは何だろうか。
我々は概念を形成した上で生体活動することで合理的行動をすることができる。
合理的行動の関数とは善悪という基底を持つ座標空間であり、実は「悪」が行動基準となっている。
ある条件化において悪と認識された軌跡を通過しないような善という方法に
近似的な行動のベクトルを目標(最高善)の領域へ伸ばす。
しかし、我々は予め何者が悪かを知ることができず、漠然と行動に際した初手としては右も左もわからない状況である。
まず悪が何者かを知るため悪を通過し、適切に悪と認定する必要がある。
そして、悪という記憶の点で表示される関数(法則性)を見出すことである。
次に、他関数との解析接続による定義域の明確化である。
このように悪の関数を見出した上でそれを基準として回避しつつ行動することが合理的行動である。
合理的行動において特別対策すべくカテゴリ化された情報に関しては
悪の密度が濃いため思想・哲学・スキルなどによる善の関数が重要となる。
三次元直交系やシュレディンガー方程式の波動関数における悪の粒子を回避する善の関数はカテゴリーによる思想の統率である。
主にスキルなどの精密な知的体系の構築はそのカテゴリーという波長において自己の波長を収束することが目的となる。
スキルは悪の粒子を回避すべく作られた非線形幾何学モデルといってもよい。
善の波長は神(最高善)の波長であり、一般の美学的にも評価されることが多く、
形式主義的美学においてもそうした行いを評価すべきである。
人間という親関数は思想の波長を収束することで問題解決の関数によるサブルーチン(カテゴリ)を得る。
このアルゴリズムのフローは悪関数ステップにおいて記憶粒子の善悪認定、善悪認定基準の設定、関数化による定義域の収束、
善関数ステップにおいて善関数波形の収束、過去の記憶との解析接続による定義域の明確化(哲学)、幾何学的美学化である。
問題点としては認定すべき悪の記憶粒子の検出と善悪の認定基準である。
後者は数学的教養があれば設定にそれほど難はないが、
前者においては更なる哲学による思想の統率が重要であると悪関数においてカテゴリ化する。
なお命題において行動と称したが、思想の波形にも収束可能なため解析接続を試みる哲学もよい。
しかしあらゆる概念が明確化されカテゴリ化された現代においてはある程度の善関数は用意されていると思われる。
大衆的思想(常識)による波形の収束と各命題(悪)に対する善関数を収束することが重要と思われる。
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人間の形成する概念は究極的にはゾロアスター教の最高理念である善悪(0,1)二元論と思われる。
自然が形成する概念も究極的には存在(1+1+1...)と非存在(0)の二元論であり
根源の性質は物質と触媒の二極化されたソリトンによりポテンシャルの拡散係数を形成し自由空間の波形の座標を成すと考えられる。
人間は理性を更なる理性において制御しうる無限に発散しあらゆる形状で表される理性を持ち、
自然とは切り離される根拠として物質変化の万能の触媒となるとは、古代ギリシャのプロタゴラスの論に類似する。
感覚記憶が概念形成の成分といったが、感覚質の組み合わせで発生するのは
あくまで物質概念の感覚でありさらなる細かい粒子(0,1)に相当するものでなければ善悪そのものの性質を説明できないと思われる。
我々の概念の根源は古典自然学者、エンペドクレスの論によって説明されるといえる。
古典的であるが、我々が形成する概念は決して視覚的なものが先行しているわけではなく正負(善悪)とそのパターンにより構成される。
正負の組み合わせにより特定の波形を成したとき発想となり無限に感覚質への結合による発散性質を持つ。
その概念を出力するに際し自然の波形に収束したとき方法となり、手足・物などの物質概念と理性という性質概念を用いて影響となる。
我々の行動の基準は悪でありこれを障害(触媒)と考えれば、
最高善という目標に向かう直線と障害の形成する曲線となり自在な波形をなす。
そして、概念の全ては性質というパラダイム上に存在し視神経から受け取る情報の物質は本質ではなく、
非存在、存在、物質、理性、全ては素と触媒のパターンが無限に発散する性質となる。
それを媒介するものが数学の存在・非存在という措定が経験知を充足され掌握し、非存在が存在へと積分される時、
ストリングの振動から物質存在の性質へと変化し、ゲージ内に収束した性質と
ゲージ外へ発散する性質をある程度五感が受け取るという形となる。
よってこれからは概念の性質を正負(善悪)との相対的位置に還元することで収束する。
人間の形成する概念は究極的にはゾロアスター教の最高理念である善悪(0,1)二元論と思われる。
自然が形成する概念も究極的には存在(1+1+1...)と非存在(0)の二元論であり
根源の性質は物質と触媒の二極化されたソリトンによりポテンシャルの拡散係数を形成し自由空間の波形の座標を成すと考えられる。
人間は理性を更なる理性において制御しうる無限に発散しあらゆる形状で表される理性を持ち、
自然とは切り離される根拠として物質変化の万能の触媒となるとは、古代ギリシャのプロタゴラスの論に類似する。
感覚記憶が概念形成の成分といったが、感覚質の組み合わせで発生するのは
あくまで物質概念の感覚でありさらなる細かい粒子(0,1)に相当するものでなければ善悪そのものの性質を説明できないと思われる。
我々の概念の根源は古典自然学者、エンペドクレスの論によって説明されるといえる。
古典的であるが、我々が形成する概念は決して視覚的なものが先行しているわけではなく正負(善悪)とそのパターンにより構成される。
正負の組み合わせにより特定の波形を成したとき発想となり無限に感覚質への結合による発散性質を持つ。
その概念を出力するに際し自然の波形に収束したとき方法となり、手足・物などの物質概念と理性という性質概念を用いて影響となる。
我々の行動の基準は悪でありこれを障害(触媒)と考えれば、
最高善という目標に向かう直線と障害の形成する曲線となり自在な波形をなす。
そして、概念の全ては性質というパラダイム上に存在し視神経から受け取る情報の物質は本質ではなく、
非存在、存在、物質、理性、全ては素と触媒のパターンが無限に発散する性質となる。
それを媒介するものが数学の存在・非存在という措定が経験知を充足され掌握し、非存在が存在へと積分される時、
ストリングの振動から旋律として物質存在の性質へと変化し、ゲージ内に収束した性質と
ゲージ外へ発散する性質をある程度五感が受け取るという形となる。
数学、美学、音楽などの理性は性質の最も根源的なものを記述しているといえる。
よってこれからは概念の性質を正負(善悪)との相対的位置に還元することで収束する。
削除済
我々は概念の発散する性質を感じ取ったとき善悪による判定をする。
生命は質料と目的を持ち、常に目的を終点とする質料の始点を持ち存在の性質の発散によりベクトル空間を形成する。
しかし、善に直線で結ばれるベクトルならば何の知的構造も必要なく必ずベクトルの進行上に障害(悪)が存在する。
これを回避するためには、他の質料と目的(性質)を持った生命のベクトルの和が必要だ。
我々はその性質を知識の波形を偏微分しデジタルの知性に置換し
ベクトルとして取り込みアナログ知性の波形に変換して障害を回避する手段とする。
しかし、知識はカテゴリ化した悪の結晶体のようなものであり
善のベクトルへ変換するためにエーテルのように粒子の細かいアナログ知性の性質が必要である。
要は緻密な知識粒子のデジタル波形を善悪判定によりさらに緻密なアナログ波形を得ることが知的構造である。
物質の性質、特に組み合わせたとき発散するあらゆる感覚質を善悪判定し神の波形と同調することがいわゆるセンスである。
しかし、実際に思考のツールとして使えるものは粒子のようなノルムの小さなものではなく、カテゴリ化された知的構造である。
ある程度大まかにベクトルの和を図らなければ思考の周波数が状況についていけなくなる。
つまり意識的にミクロからマクロへ影響を及ぼすことは難しい。
よって意識的にベクトルの軌道を修正することは諦めやはり無意識の波形に収束したほうがよいと思われる。
性質を大まかな感覚質に分解し、善悪の要素数を大まかに取った後、原因(悪)を抽出し行動性質の波形に変換し回避する。
回避するとは行動性質の感覚質の波形において収束し行動関数として抽出された言語である。
この行程において重要なのは思考の周波数の条件上、マクロの関数において波形を収束させることである。
状況の性質に波形に収束できる性質ならマクロの性質を用いて近似解を得て判断停止するテイラー展開といえる。
要は理性を得るために必要なのは感覚的に必要そうな知識を得る態度ということである。
善悪そのものである質料(知識)と善悪基準の思考ツールとしての性質により法則(知性)を作ることにより状況の波形に収束するのである。
状況の波形から偏微分すれば原因(善悪)の性質を取り出すことができるため拡散した要素の性質から悪のベクトル空間を中和できる。
やや善悪の収束が困難となったためミクロの議論はここまでとなる。
既出でしたら申しわけ有りません!
さっき生放送していたのですが、順番待ちが終わり
放送を開始しようとしたところ
何故か予約枠が放送中に
なっていました。
予約枠まではあと2日程時間が空いているので
準備中のまま放送はされていません。
予約枠の放送を中止して普通に生放送するには
どうしたら良いのでしょうか?
分かる方がいらっしゃいましたら教えてください
自作動画が第三者に転載されるも、
権利者削除の方法が分からず、
運営に対応してもらえず泣きを見る。
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法則は神の理性であり物質は性質の集合体であるとして、
この論では哲学的アプローチをする以上、唯物論とは対立する形となる。
よって、唯物論者が概念を物質内の性質として自然の存在・非存在に還元することと同じように、
唯名論者として概念を性質内の物質として神の善悪に分類し還元する手法をとる。
具体的な手法は概念を波形に分解し同一の波形を持つ概念を得て、性質の相対的位置における定義域を得た後
神の理性である物理法則(方法)に収束することで善悪に還元することになる。
事実と概念の相対的位置とは何か。
我々が事実を認証するに当たって善悪の曲線を形成する手段としては媒体から社会的理性の波形を得ることである。
これで当該の回答は提示されたが、粒子的な善悪の問題に措いてもアプローチする。
善悪認証としては視覚的負荷に依存する場合が多い。
情報の信憑性とはよりデータ量の多いものからよりアナログに近い自然のチャンネルを信用するためである。
信憑性の基準としては社会的理性の波形により収束しやすいものである。
例えば言語のチャンネルに含まれるデジタル波形は抽象的でありアナログ波形への収束は難しいため
ドメインを得ることが難しく、信憑性が薄いということになる。
しかし、視覚情報のみでは真実を得るには不十分である。
なぜなら理性を得るためにはあらゆる性質波形の線形性を得なくてはならないためである。
人間の持つ自由意志のn次元球面において曲率テンソルを抽出するためのdz=δz/δx・dx+δz/δy・dyにおいて収束しなくてはならない。
それはカテゴリ化した性質の交点座標であり、いわゆる多角的視点における客観的理性である。
無論その総合において自然的理性に準ずる社会的理性に収束するのである。
二次元デカルト座標をベクトルにおいて表示するならばカテゴリ化した性質の総合において
δf/y-δf/y'=0から善の自由曲線におけるベクトルの和を得ることである。
社会的理性において自然的理性の波形に収束する性質を持つため収束しないものにおいては追求しない。
これにおいて形式主義的美学における収束を得る。
削除済
性質の波動を解読する復号機はカテゴリ化した善悪が形成した格子点である。
波を格子点内に閉じ込めることで収束するのである。
よって知的構造において重要なのは知識による格子であり、カテゴリという隔離した構造が性質の波動を最も捕らえられる。
理性のn次元球面において曲率テンソルを抽出するためのdz=δz/δx・dx+δz/δy・dyにおいて収束するために、
性質という差異性を構造主義的にカテゴリに分割することで解決する必要がある。
我々は自然の非線形幾何における神の波動を得られない以上、絶対性という幼稚さにおいて解決するほかはない。
ここで問題となるのは日本人には難しいとされる全く関連のない波形に収束することである。
カテゴリを得るためには事象に触れ、カテゴリを想起するが、想起のための理性のないものに関しては
(0,1)で構成される波形を純粋に解析するか、行動性パラダイムにおけるカテゴリに収束させるしかない。
前者は数学や音楽などの純粋波形の差異から杷^n(a)/n!(x-a)^nにおいて収束することだが
これは純粋波形から得られた(0,1)において拡散された格子点数の濃度によるものであり
特定概念の波形をテンソル空間のみで収束することは確率的に困難である。
一方の行動性パラダイムとは行動直感主義において虚実混濁のカオスカテゴリを得ることであり、
真実か否かを精査しないことで理性を持たないカテゴリを形成することにおいて解決する方法である。
理性的頑固さを一新する方法にして優秀な触媒である。こういった虚構を厭わない寛大な態度が我々の生活を支えているといえる。
虚構は真実の一部にして、虚構と真実の概念の複素空間におけるカテゴリのアンテナを得ることにおいて
性質の波動(前項で粒子といったが正確にはテンソル空間内の波動現象である)の理性を得る。
虚構すらも真実に帰納することで理性的進捗を得る、多様性を持つ現代社会的であり人間的アプローチといえる。
我々は性質であり、自己環境を構築する性質を持つが、対外環境から環境を構築される性質も存在する。
環境もまた性質であり、性質のゲージ外への特に電荷を持たない粒子(表現上の齟齬)の発散現象を波動と呼ぶ。
無意識の下、波動を得たとき我々はアンテナにより受信した(0,1)のパターンを格子点上の波形に復号した
幅を持ち、格子点を頂点としたポリゴンから得る擬似的な波形(デジタル波形)を構築する。
無意識とは受動的な態度であり、内発的な波形の操作が意識であり、無意識は環境により性質を構築される態度を示す。
性質による波動は物理現象に限らず、存在という性質は自由意志を持ち理性を得たとき、性質は結合する。
我々の内部の悪とは外部から結合した自然の性質であり、いわゆる外部への認識であり知識である。
格子点は外部の負荷を得て(0,1)を持ち、正しいと認識されれば善の性質粒子をもち、誤りであれば悪の性質粒子を持つ。
格子点が稼動状態(0,1)の結ぶ位置的幾何体系が知的構造であり、最高善を知的構造の自然(神の理性)への還元とする。
その内、知的構造が細かいものをカテゴリと呼び、特定概念の波形を得ることに非常に重要な役割を持つ。
理性の挙動において、我々の内部の現象においてミクロの観測を可能にするものであり、
社会的理性、自然的理性、神秘的理性などのマクロの観測は外部を観測することで収束する。
内部から外部への還元方法としては、内部の論理を手段(方法)としたとき内部理性の外部化となる。
全ては性質であり神の波動を得るためには、論理(理性)を頼りに知的構造を得るほかない。
その時、我々は自らが理性的であるという主張は相対的位置を示すことにおいてのみ証明でき、
外部による理性と結合したとき理性的であることを主張できる。
そのために議論する場所から「信用」の波動を得ることも重要である。
内外の波形を収束するにあたって、内部波形の証明とは波動の外部化(方法化)においてのみ証明できる。
つまり人間である以上目的を善によって得るため、功利主義的証明となりその波動を得る。
全ての理性がモデル化されたとき全ての外部は内部のための存在となり、外部を実数軸、内部を直交虚数軸の
複素空間を得ることになり、実数軸上の行動的活動と同等に虚数軸上の活動が重要となる。
抽象的思考とは何か。
性質の波動を復号し、理性へのリンクが成り立たないとき、記号的波形となるが
そのデジタル波形においてカテゴリそのものを演算し、幾何学的意味から波形を持たせることが抽象的思考である。
これは演算の計算式自体は間違いではないため絶対性において理性を崩壊させる手法である。
これは感覚還元主義を基底とした座標において重要な意味を持つ。
感覚とは生命であり、生命活動はその質料(命)と目的(神)において必ず質料は重力子(粒子表現上で言う目的)を持つ。
生命が概念の波形から悪の格子点を見出したとき、ベクトルの修正を行い自由曲線を描く。
不確実を前提とするが、感覚の質料の善(理性)と悪(修正)により着実に目的とする理性に収束することが出来る。
本項は自然(神の理性)モデルにおいて収束しなかったが、形式主義的美学において収束する。
今北産業
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抽象的思考とは何か。
前項において自然モデルに収束できなかったため、本項では厳密に追及し収束する試みである。
我々は自然の性質における波動を受信し、善悪(0,1)から構成される稼動状態の格子点が負荷を得て
関数式において復号し、位置情報(アドレス)に格納される射影空間上の感覚記憶が得られるが、
負荷を持つ格子点が少ないため幅を持つ関数(デジタル波形)のとき関数の性質上、
神の理性への収束が困難となり方法(自然法則)が得られないため自然への還元性が低い思考である。
本項は数理モデルに収束する。
ヽ、,jトttツf( ノ l
\、,,)r゙''"''ー弋辷_,,..ィ !
=、..,,,ニ;ヲ_ ヾ彡r''"^ -=ll
``ミミ, i'⌒! ミミ=- :__ l
= -三t f゙'ー'l ,三``''ヾ::::ノ__,,,,,,,,,......:_....,,,,__
,シ彡、 lト l! ,:ミ'' /::::::::j´_,,...、_ : : : : :
/ ^'''7 ├''ヾ! (:::::::f⌒'i'、,,__`゙゙''ー- -' -一''": :
/ l ト、 \丿::::l! (ヽ! 、_,.ヾ○フ二'^ `''ニ"´ :
〃ミ ,r''f! l! ヽ. (:::::::ヽ.`゙i! : : : :
ノ , ,イ,: l! , ,j! ., ト、 (:::::::::i ! :::::::::::::::: ソ γ ::: :::: ::::
/ ィ,/ :' ':. l ヽ. 、\:::l l :: :: ::○::│ │ ○::::::
/ :: ,ll ゙': ゙i,ヽ、 ゙'ー! ::::::::: 人___人 : : : :
/ /ll '゙ ! \ l, : : : : :
/' ヽ. リ \ t, ~゙´ ̄ `゙゙゙` : :
/ ヽ / ヽ ,ゝ. . : : : : :
/ r'゙i! .,_, / ヽ、 . : : : : : :
/. l! イ i!`'ー- :.,, . : : : ,:r''"
/ ,:ィ! ト、 >くフ `;゙'''''';"~´
,r''"´~ヾ=―――=''′`ヽ;'''"´ ` ̄`゙゙`ヽ、 ,r一''"´
定義とは善悪に還元し、定理は定義に還元する。
自然は定義であり、人工物は定理という関係性質に類似する。
そして人工物は我々によって得られる性質の関数であることは自明であり。
我々とは自然に対する万能の触媒であり、自然から性質の波動を受信し、波動を解析し、
波形を記憶することで性質を内在させることができる。
記憶というメソッドを得た性質は分解も統合も自由であり、複素空間における二項演算により、虚構や真実の定理を得る。
虚構の定理は自然へと還元しないが真実の定理は自然への還元性を持つため、方法という名の定義域において性質の還元に成功する。
さて、我々が最高善に通じる一つの目的を持ったとき、我々は内在する性質を演算することで目的の関数を得ようとする。
目的とする関数を得たならば、方法という定義域に収束することで性質の自然への還元に成功し潜勢態が現実態なる。
数学において問いに対する解答を得るためには道具である定理を多く持つものが必然的に有利となる。
なぜなら、人工物は道具(工具や材料)によって組み立てられるためであり、目的における関数も同様の事象である。
これによって自然モデルに収束する。
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生活空間とは我々が最も善悪の性質を定義する空間であり、全ての性質は善悪に還元するため、
その性質において定型の理性を持たず帰納・演繹において全ての性質を明確化するのが哲学における有益性であり学問的手法である。
生活という複雑系において我々は生活の性質における波動を受信する。
しかし、複雑系であるが故性質は多様の意味を含み波形を完全に復号することは難しい。
よって関数領域の広い関数において自己という射影空間に性質を内在させ収束することになる。
その過程として自己信念に還元する感情的解釈、感情に還元する感覚的解釈、
感覚に還元する理性的解釈、理性に還元する法則的解釈として考えた時、
善悪の抽象的解釈から具体的解釈へと明確化させ自然還元性を高めていくものとなる。
つまり、複雑系の性質を神の理性に収束するためには感情的、感覚的解釈において性質を咀嚼し、
それを応用性質を高め還元性を高め方法へと還元するためには理性的、法則的解釈が重要となる。
全ては記憶において善悪を複写できる我々には新規の性質を得る工程において重要なのは性質の善悪への分解であり、
善悪の定義を理解できれば、全ての概念は善悪に還元し善悪粒子から全ての性質を生成できる。
肝心なのは性質の分解であり、自然法則に反する不正な手段で性質を分解すれば虚構の性質へと変化し自然への還元性を失う。
そして、理性において相対性を高めることと同様に直感において自然から性質の絶対量を多く得ることが中庸といえる。
要素が多ければ我々は判断停止し抽象概念として「多い」という言葉を使うが数学においては「多い」などという概念はない。
しかし、確かに「多い」という感覚は存在する。このように数学ですら説明のできない性質も存在する。
性質においては自然界に存在する性質と自然界に存在しない性質があり、
自然界に存在しない性質とは不正な記憶操作によって得られた虚構を含む、生物としての過去の記憶が形成する悪である。
それは存在としての絶対性であり、ミクロにおいてもマクロにおいてもノイズとなり常に決定論を揺るがす。
そして性質は悪において善と悪に発散する性質と善において善と悪に収束する性質が存在する。
これによりすべての現象は総量が決まらないということになり決定論は崩壊する。
人間的行動の収束する善を説明しても発散する悪は説明できないため神といえど人間的現象の半分は分からないということになる。
中庸の態度としては行動的絶対性と論理的相対性を両立させることであり、善のみが万能の指標ではないといえる。
その場の感情による虚構の性質も定理であり、全ての性質は善と悪により得られる。
数学としても善のみで得られるものではなく解釈する人間を通過した証明だからこそ意味があるといえる。
我々は行動と思考を両立させた生物であるため、たびたびその中庸を得ることが目的への質料となり、
現代ではたびたび理性を追求されるが、どのような目的においても善を得るために真に求めるべきものは中庸である。
目的の性質成分を得るために行動的な態度は非常に有効である。
行動に伴い自然の多様なアナログ波動を得ることができ、
アナログ波動の絶対的な性質成分量は目的の性質を包括し解の内在化を図れるためである。
哲学では生活空間という限られたアナログ波動から多くのデジタル波動として自然へと還元してきた事実がある。
波動を得た後、感情的解釈において性質波動を広義的解釈することにより波動成分を定義域に収め記憶し、
感覚的解釈によりゲシュタルト質としてスペクトル化し、デジタル波形の記憶と統合しアナログ波形への理性的解釈が行われる。
記憶が統合されたとき情報の善悪構造が変わるため新たに感情的解釈における情報増加(A+B)!を導出し、
構造解釈における内在する性質の増加も起こりうる。
自然にはあらゆる情報があり我々の解釈次第で情報の性質波動を記憶されたデジタル波形と統合できる。
物質還元主義だと感情による物質の解釈が出来ず、物質還元するためだけの感情的解釈として定義域を狭めてしまう。
真実のみを求めるならばそれは一元性に統一された性質がない世界もしくは無であり、この考えでは人間社会に適応できない。
多様化社会に適応するためには、目的性質を得るべく感情的解釈において虚構を含む目的の内在化から
虚構と真実における方法、混合的手法において可能態を現実態とすることである。
真実の追究とは内在化し記憶した波動から得る純粋性質の発掘作業であり性質還元主義が人間社会の本質であり、
物質還元主義(唯物論者)では自然還元に拘るあまり、潔癖で性質の応用が出来ず機械的に頑固であり、
行動的活動はおろか座学的活動や数学的証明すらままならないと言える。
物質は特定の性質の波形のみを持っていると思われているが物質である以上ノイズのような複雑な波形を持ち、
直感的な「感じ」を重要視した芸術のように印象的純粋波形分類においてのみ目的性質の複素平面における内在化をすることができる。
但し、行動的活動では自然還元性より視野の広さとして
純粋波形による情報集積においてノイズが多くなった混合的方法に還元されることも多いと言える。
目的に応じて中庸の姿勢を崩すこともよい。
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性質還元主義には性質そのものの事実への感覚がなく定義するものはないが
性質は方法という理性に収束することで事実に還元することも可能であり、
現象そのものから演繹でき感じうる性質全般を取り扱える柔軟性が主義たる所以であり現代科学と大きく異なる点である。
目的としてはあらゆる感覚の還元性を高め純化した混合的方法として還元することであり、厳密性においては深く追求はしない。
さて、美学的な波形を解析すると善悪基準として自己理性のsin波を定義するが、それは時間凍結内の自我である。
この主義において厳密には自我の存在は認めるものではない。霊魂は性質として考え、究極的には外部の波形の総合として扱う。
つまり自己理性のsin波は理性の総合としての外部関数における収束を得る。
自然の波動における非線形微分方程式の近似解を得ることにおいて方法への還元性を高めることにおいて、我々は美学を感じうる。
これにおいて我々の状況を説明すると、我々は性質を感じることで自己の外部化を果たし、
自己という関数において級数展開することにおいて定義域を得、理性の線形において性質体系を築くことが我々の目的である。
但し、現代科学の厳密性は我々の感覚すら否定しうる強力な理性であるため、
科学における知性を得ることも同様に人間的活動において重要となる。
我々は神の理性を得るためならどのような手段においても追求するものであるため美学は人間の根幹ともいえる重要な位置を持つ。
人間としては決して美学を追求することを失うことがあってはならないといえる。
我々の知りうる世界とは自然の波動から得る感情的解釈における定義域であり、
波動において必要なのは定義域と還元性であり、これを究極に高めた存在を神の理性といってもいいかもしれない。
理性・法則と真実の波形はノイズが少なく還元性の高いが定義域が狭く
感情・感覚と虚構の波形はノイズが多く還元性が低いが定義域が広いという性質がある。
それぞれ、目的を高める精密な機械的態度は前者、幅広く常識的な態度は後者の波形に近い。
それを知った上での適切な行動とは、全ての解釈手法を明確化させることである。
感情的解釈とは対峙する現象を美学的基準において善悪に分ける作業であり、
美学的基準とは自然から得る最も純粋の波形(sin波)にもっとも近いと思われる波形でありこれがいわゆる自我同一性である。
無論、自然の波動はノイズであり、そもそもsin波や三角波や短形波のような幾何学的な波形を持つ自然は存在しない。
しかし、神の理性はsin波でありそれは自然の波形の総和において表され、
このsin波こそ幸福であり真理であり、宗教思想などはそうした波形を求め正義の態度を主張するものである。
創造主は初めに世界を善悪に分けるというsin波にノイズを加えることで多様性を定義したものであり、
これは神の理性から最も遠い存在であるため創造主を神とする論においては本論において否定的な立場となる。
さて、常識的態度とはその神の理性に近い波形であり、一見ノイズが多いという性質に矛盾しているように思えるが
自然の波形の総和が神の波形であるため、むしろノイズの多い波形こそ最終的に波形の和において収束し得る。
とはいえ、所詮はノイズであるため還元性は低く、
広範の概念である人生における態度において善悪を分類することが確率的統計的に正確となるものであり
人間的活動において単発的な目的に対して確実な善悪の基準としてはsin波を求めるべきではない。
sin波以外を求めることを我々はカルマ(業)と呼び、これは創造主のような性質であり不幸的態度といえる。
波動の理性的解釈において、最高善ではない目的の波形に収束する方法は次項までに考えるとしよう。
理性的解釈とは業कर्मन्を求めることである。
sin波を得ないまま、目的の波形に収束する方法はどのようなものがあるだろうか。
性質還元主義では性質の一元性によって説明されるが性質は多元的でこそ応用ができ、物質還元主義とはこの点で同様である。
つまり一元性においては完全に判断停止ἐποχήし、構造主義のような多元主義として性質を扱うことである。
性質を目的へと収束するためには自然の特徴的波形の合成において操作することである。
自然の特徴的波形においてやはり波形の定義であるsin波は必要となるがこれはそれほど精度の高いものでなくともよい、
既存の性質波形を得て合成して目的の波形を近似的に求めてしまえば、還元性を下げた不正操作、混合的手法において求めればいい。
つまり目的に「類する」と思われる性質の特徴的波形を合成していけばいずれ収束し目的の性質はほぼ求まり、
sin波自体は「予想する」道具として扱うため還元性の低いデジタル波形においても求まる。
その手法によって提出された仮説を数学によって検証すれば更に還元性を高められる。
しかしやはり「予想する」という工程も重要なことは否めない。
万物に変幻しうるsin波がアナログ波形であれば全ての自然性質のアーカイブとして機能し
どのような性質も「予想する」ことで理解・応用・発想の鍵となる。
理解ならアーカイブがなくとも対象の解説が親切ならばそれほど苦にはならないが、
応用や発想には多量の情報のパワースペクトルが必要であり
人間のメモリは成分の重積分するためのアーカイブとして機能するにはあまりにもデスクが狭く情報欠落も激しいが
対応策として外部からの刺激を受けられる環境であれば連想により欠損する情報を補完し、
波動による情報量を解釈し、環境を外部記憶装置として自己の外部化することにより目的を得る可能性は高まる。
そして、物質還元主義のような固定観念を捨てることができれば定義域は広がるだろう。
さらには、性質還元主義の定義が間違っていなければ人間は自然と一体化することで神の理性を得ることが可能といえることは確かである。
平たく言えばsin波とは人間的態度であり、予想、性質拾得、波形合成、混合的手法において思考を自然に還元できる。
アーカイブたるsin波から目的性質の予想を得て、性質の波動を収集し、
性質の合成波を求め、混合的手法において思考の還元に成功する。
人間は万能の触媒であり、人間と自然が一体化したとき神となる。
本論における神とは善悪が統合したときの波形であり人間、自然、全ての性質の総和において神となる。
本論での真実の方程式はh(t)=∫[-∞,∞]f(x)exp(-2πitx)dxであり
真実の定義はexp(-2πiθ)であり、神の定義は0、善は1,悪は-1であり
善悪の総和は自然の総和であり自然の総和は神に等しいため、神は0に等しいと証明される。
つまり仏教の求める空こそ神であり、我々の最高善とは古代ギリシャのἐντελέχειαにおけるशून्यであるが、
人間としての善(幸福)とはexp(2πiθ)である。
<民衆よ、サッカーに酔うている間はない!=このままお知り合いに 転送を乞う>
●「日本の大衆は真の民権を初めて手にできるか…」●
ついに、鳩山政権は闘い敗れた。復権を願う反動勢力の司法権力を使った巧妙な先制パンチに、もろくも、ついえ たのだった。政治資金規正法、まだ馴染みが薄く、ほじくればいろいろ出てくるのはわかっている。だからそこが狙われた。新政権幹部たちが対応に追われ、 ずっと火の粉を払うのに精一杯だったのが思い起こされる。本来だったら、昨年の政権交代後まず、もっとも喫緊な外交・安保問題で、国内の各界の総力を結集 した討論の場を設定し、節目の日米関係を、真に地球的な視野に立って、百年後の民族の子孫に誇れる長期的な政策を打ち出すことが可能だったし、期待され た。沖縄米軍基地問題は巨視的解決ができる好機だった。日本民族は安全保障上、反動層の阻害によって取り返しの効かない落胆的損失を蒙った。ほかの重要案 件も然り、スタート時に全て本格的にやらせてみたっかたのに‥‥。
民族の、本当の意味での自尊心を失った利権がらみの反動層は、この大切な時期 に、ずいぶんと民族・民衆に損失を与える策謀をめぐらせてきたものだと慨嘆される。
保守分裂した現在の野党の参議院選挙にのぞむ政策には、民族 を潤おそうとする内容のあるものは皆無である。新政権打倒のため、陰で額を寄せて練り込んだ例の政治資金問題がうまくいかないとわかると、今度は国会運営 云々だけで迫ろうとする。煙の立つ国民の生活を見てみないのか。破綻した世界経済の建て直しに日本が寄与したいとする気概だけでも持てないものか。反動層 の企みは本末転倒である。そこにはもう、民族の幸せを託せるような精神的な存在感は無くなった。
市民主義派の菅・新政権を地道に育てていくこと が、唯一、日本民族が真の幸せを獲得できるゆえんである。遅すぎるということは無い。
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人生ってニコニコのためにあるのかな?かな?
我々各々の目的は基本波動を求めることだけではない。
大体の人間は人生哲学において基本波動exp(2πiθ)を求め万物の尺度を人間的活動として捕らえようとする
人生の波動はexp(2πiθ)に収束しようとするが、これはノイズが形成する波動であり、
多くの目的性質のゆるやかな統合において求めることができる。
直感的思考はまさにこの波形であり物事を直感的に解決することに適している。
目的性質そのものを得るためには論理的分析において自然波動を解析したものの内在化が必要であり、
これは感覚の数量的解釈における情報並列化(パズル化)である。
波形として解釈すると数学という基本波動によるスペクトル化である。
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面白い奴をみつけました
バカ(厨房)を優しく相手してあげるスレ
http://babiru.bbspink.com/test/read.cgi/pinknanmin/1277478374/
この世界には不可侵な絶対性が2つ存在する。
無限大は有のみの世界だが無がないため存在するための場所がない。
無限小は無のみの世界だが有がないため存在を示すための存在がない。
2つの絶対性は同時に存在するからこそ存在できる。
そしてこの世界は2つの絶対性が安定するために作られた世界、無限大において物質を持ち、無限小において空間を持つ。
世界の外などなく同一法則の世界が切れ目なくずっと先まで続いている無限大に発散する空間と無限小に収束する存在だけ。
他の世界の絶対性があれば現在の世界として収束しないためである。
2つの矛盾は有限個の物質と有限の空間を得ることで収束した、
いわゆる紀元前2000年のエジプトを起源とする数学的思想、微分と積分である。
日本独自に発達した数学的思想、和算においては江戸時代には微積分を自在に使いこなしたといわれる。
ネアンデルタール人の頃から存在したといわれる数学の根本的規則である四則から
科学どころか学問すらなかった頃の建築が栄えたことが特徴的なメソポタミアに次ぐクロマニョン2世代目の文明にして
人類は早くも真理に到達していたと思われる。
そして西洋の近代文明において座標という概念を初めて取り入れたデカルト、
テイラー展開により微積分法の定義をまとめたニュートン、
虚数を取り入れ世界一美しい公式を考えたオイラーなどの哲学界・物理学界・数学界の巨匠によって
ついに人類古代史としての哲学は真理を得て、人類現代史としての科学への進歩を見せたといえる。
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笑う門には福来る。みんなニコニコしよう。
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思想とは方法であり、現象とは方法と存在である。
思想と方法の関係性は還元性という作用素において写像をとる。
思想が物理学的意味を持ったとき肉体を介さない方法となり、方法が存在の意味を持ったとき現象の必要十分条件となる。
思想の虚構と真実の関係性として虚構は思想の物理学的意味を持たない思想であり、真実は物理学的意味を持つ思想である。
我々は現象から思想を得るが、現象と思想は直線関係性はない。
現象の性質成分を感覚を通じて記憶として写像をとるが、性質成分とは視覚的刺激を基本周波数とした刺激の善悪の波形による解析となる。
還元性においては超関数に収束したときの相転移と同様の意味を持つ。
これらにより思想から現象へ現象から思想への線形変換が可能といえる。
美学的解釈とは何か。
自然物の波動を複合する過程において美学的とは自らの感覚と論理が一致することを示す。
感覚が描く波形と論理が描く波形が一致したとき線形性により相互補完し波形を一致させることができる。
つまり論理により更なる感覚を補完し得るという知的態度こそ美学的態度といえる。
興味のないものをどれだけ眺めようと美学的といえない態度となることと同じように
我々は自然の波動とそれを複写する感覚と知識の計量により補完する思想により波形の再現を可能とし
それを有用なものと認めることで感情的余韻を示すことができる。
感情の構造は単純であり善悪の善のみ、つまり真実の波形を受け入れる態度により善の感情を示すものである。
非美学的態度を連続性のない関数と同様の意味のデジタル波形と呼び、
美学的態度を連続性のある関数と同様の意味のアナログ波形と呼んでいる。
ちなみに性質を波形として表すことができるとした根拠は性質を数値化できるならば波形として示すことができるとしたためであり
0と無限のこの世界や0と1のコンピュータと同様に記号的な二律背反から論理は得られるべきという理念の下に成り立つ。
数値化は我々の理性と感性を統一し、美学も含め最も善に近い態度といえる。
これは[∞→0]に知的収束する美学であるが、[0→∞]に知的発散する美学も存在する。
我々の認識は初めに美学的波形に収束することで発想を得るため人間的思想において重要な意味を持つ。
収束する美学を理性的美学態度とし、発散する美学を感性的美学態度といえる。
無論、多元主義的な態度も間違いと言い切れるものではなく∞を信仰するか0を信仰するかの違いであって、
同様に重要な意味を持つ正しい態度といえるが本論では二元に収束する美学的態度をとる。
現象の数値化による情報並列化するにあたって、二元における各概念の相対的位置を示さなくてはならない。
つまり性質の成分である法則を言語的なものにも線形性があるとして言語哲学な解析を行うということになる。
まずこの命題の言語の成分を分析すると、意味と位置を示すの情報がある。
「二元」などの意味同士の関係性は「における」などの位置情報で表され、これは性質の付加である。
しかし「二元」などは抽象的な語句であり、自然物の位置情報を示すに過ぎない。
つまり究極的な内容とは修辞的な位置情報と自然物の位置情報という性質を付加された自然物の記憶である。
命題には「自然物」を直接指す言語はないが
「二元」や「概念」という言葉には「自然物」を代入できる位置情報として変数と解釈できる。
変数には任意の定数、つまり読者が自由に解釈する自然物により意味を補完される。
「示さ」は動作であるが純粋な「方法」であるため存在という基底により現象と線形結合できるため現象として扱うことにほぼ問題はない。
文章の成分は「自然物」「方法」「自然物の位置情報」「言語の位置情報」が存在する。
つまり言語による情報のやり取りの有益性とは自然物(先言)の位置情報の明確化にある。
つまり言語は「自然物」「方法」を定数、「自然物の位置情報」を変数、「言語の位置情報」を演算子とした
自然物の関数であり、言語から方法へ、方法から現象へと基底変換することで言語の現象化に成功する。
またこの演繹として「存在」という基底と「位置」という関数式からなる座標により法則は成り立つといえる。
物質という「存在」は予め全ての物質の性質を持ち、全ての現象は「位置」というείδοςにより成り立つとすれば
現象とは「位置」を固定した「存在」を基準とし変動する「位置」をもつ「存在」の相対的性質という二変数関数の解であり
作用という「存在」と「方法」という「意図的な位置」により変数を置換することで、
現象という解を自由に書き出し取り出すことができる。
つまり固有の性質とは存在ではなくその組成にあるといえる。
議論とは人間同士の対話であり、人間とは万能の性質を持つ神のような存在である。
議論の目的は言語のやり取りにおいて性質を現象化することであり、議論による現象を引き起こすために神のルールを介する。
言語を現象化(先言措定)する条件として物理的意味を持たせるため、自然物の位置情報を持つ関数を得る。
存在の性質は万能であるが、存在の組成において性質の程度が特化された場合、視覚表現化されるため
固有の存在自体に固有の性質があると誤認しがちだが、性質は存在の相対的位置であり0と1の周期性といえる。
全ての現象の定義は「現在」という現象との差異化でしかなく、「現在」という現象は「無」と「存在」により差異化された現象である。
我々は存在から得た現象の組成を知らないため変数的解釈を取る。
つまり視覚表現化された変数において「条件」という任意の定数を代入することで存在組成の相対的現象を求めることができる。
記号表現ではf(x)=axにおいてf(x)が現象、xが条件、aは存在の形相(定数)である。
つまり、xという条件を置換することで存在の形相と条件から相対性質(現象)を得ることができる。
議論においては命題としてf(x)を置換し、条件xと存在aを明確化させることで現象化する。
これにより議論の記号表現による抽象化がなされ情報並列化された定理とする。
f(x)=axにより全ての言語が現象化するが、aという定数は存在の形相である物質粒子のことを指し、
形相とは存在の集合体であり、存在そのもの(1)の整数倍で数値表現されるが、
無論、数値は存在としての性質を持たないため存在の形相である物質(a)と表現している。
条件(x)は存在をもつことを前提とした方法でありいわゆる「意図的な形相を持つ存在」と定義される触媒である。
この世界を存在と非存在の二元であることを前提(定義)とするため
存在が1という数値、物質が1の整数倍の数、現象が物質の整数倍(x)の数であり、
現象は物質の形相、形相は係数とし、一つの軸で数値表現でき、物質の定義とは性質を持つ存在であり、
性質は2つ以上の存在により発生するものとすると数値の2以上は物質の定義域となる。
現象の定義は存在と存在の関係性による存在であり物質の定義と同様であり現象=物質といえる。
つまり、f(x)=axのf(x)は物質でありaという物質の形相により新たな物質を得る行為である。
物理的解釈の最小単位であり我々の感覚で捕らえうるaを基準として、
意図的な物質xにより物質の性質の付加により形相化することで新物質を得られる。
つまり、存在を基準とした数値に格納されている現象といえる。
しかし、我々は感覚により存在そのものを得ることはできないためどの現象にどれだけの存在があるか計ることはできないため、
1つの媒体を基準とする物質や性質の数値に性質の格納は不可能である。
我々はしばしば性質の基準を感覚で捕らえられるものに統一することで性質を数値に格納できる。
つまり感覚による絶対的基準を増やすことであらゆる現象を数値に格納することができ、
意図的な物質という感覚的数値によりある程度、存在の数値を操作でき新たな物質の性質を引き出すことに成功する。
つまり我々が存在の数値に格納された神秘の性質を自由に引き出すためには
絶対性により説明された性質の大きな値の感覚を説明するためになるべく小さな値の感覚による性質の数値化が必要である。
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大きな値を感覚とし、小さな値を記号とする。
感覚は言語の形相であり、言語は記号の形相である。
図形は積分により求められるため記号の形相といえる。
このフラクタル構造では小さな値において解析し、感覚において復元することで行動できる、感覚の数式化により性質を引き出せる。
言語による解析、概念による解析、記号による解析で性質の格納による効率化が可能となる。
上位概念の絶対性質を下位概念により相対化することで性質を格納し、
下位概念を上位概念により引き出すことで性質を統合し人為的な現象を発生させることができる。
無論この概念をも相対化し、性質を波形と捉えることも数値と捕らえることも重要ではないかと思う。
数値化による0信仰と自由化による∞信仰の固執しない虚々実々の並列処理である。
本論も虚実に固執しない文章である。
! ,.::'::::::::::::::::::::::::::::::ヽ ヽ、:::::::::::::::::::::|
,.イ | /::::::::::::;: ‐''"´ ̄ ̄``'、ヾヽ ,,.. `''‐、_::::::::|
/::| レ':::::::::::/ ___. ゙、、_ノ7/,/::(_ ,. -‐''"::::i
,'!::::! ヽ:::::::/ ,.ィ':::::::::::゙,``'i、;;;;ノノハ;__::::`‐...,,_', \::::::::::/
.!|::::::゙, \ / !::::::::::::i. |/ /ヘ''' '=、-、ヽ ヽ:;ノ、
l l::::::::ヽ `''‐-r'′ l:::::::::::::| l7 /  ̄ /rへ,i
.i '、:::::::::\ | |:::::::::::::| ! _,.` /f i } ||.
゙, ヽ::::::::::::`ヽ.、_,l !::::::::::::;' / `トヽ ̄ /ィ ノ ,.ノ
ヽ \:::::::::::::::::::/ /:::::::::::// ノ/ニニ二ヽ /、_,.r'"
\ `ヽ:、:::/ /:::::::::::/ /_`` 'ゝヽ /
` 、,../ ,/::::::::;:∠-‐'′ ``'ー-‐'゙` ,. /
` ‐-;-'--‐ <. ヽ、 ,.. - '" /
__ ,,.. -─一¬ヾ´ヽ、;;;;;;;;;;;``;;;.、 `''ー---‐ ''"´ /ヽ、
このレスを見た人間は十三日以内に死にます。
※あなたに訪れる死を回避する方法が一つだけあります。
それはこのコピペを一時間以内に7つ、別のスレに貼り付ける事です
ごめんなさい。死にたくないんです。
感覚を説明するための学問体系であり、本論は真偽の狭間である。
表現も論理も説明である。
削除済
心は感情の現象であり、記憶の善悪による最上位概念である。
宗教系哲学とは感覚の形相であり、善悪基準の社会的理性である。
非物質還元主義であるが本論においては理性的態度であるから物質還元主義となんら遜色は無い。
検証は難しいが、思想が物質であることは社会的理性によりデルタ関数に収束する。
還元性は低いものの非物質の形相は常に還元性の低いものであり、広範な概念を扱うことができる、
理性的態度により修正、そして混合的手法において還元可能であるため、広範な概念を扱うことに必要である。
全ての現象は無限小と無限大から生じる。
この世界は無限小と無限大の矛盾を解決するために創造された世界であり、
有限の空間と有限の存在を生み出すことにより矛盾を解消し、全ての法則は有限を維持するためのものである。
時間という現象はその有限を保障するものであり、無限大に発散や無限小に収束の現象を許容しないためのものである。
有限の空間とは時間において粒子の崩壊の過程でありそのパラダイムをエーテルと呼び、
有限の存在とは無限大から生じる質量を時間において抑制する。
現象は全ての世界の無限大と無限小の相互干渉を時間という制約により有限と定める。
時間を持たない現象は現象ではなく全ての存在は相互干渉しない絶対性となるが
無限大と無限小に時間を与えることで相対性が存在し、絶対性の存在しない世界とした。
第一文においても無限大と無限小「から」という時間の存在を認めているため遺憾ながら三元を許容せざる得ないこととなる。
時間が合理性の監視者ならば時間を持たない次元に二元の絶対性が存在し無限大が存在する空間である。
知識は記憶そのものであり、記憶は心の現象であり、知性は自己である。
f(x)=axのaは知性であり、f(x)は記憶としてそれぞれ各概念の変数としての属性である。
知性とは純化された知識であり、存在の基底である。
知性により構成される空間はユニタリ空間へと写像を取り、知識という動的な多様態を幾何学的解釈において関数化し
知性として情報の並列化をすることで代数方程式として演算可能となる。
この過程を一般的に「理解」と呼び、知性よるデカルト座標とは
T(v)=Σ[j=1 to m](f_jΣ[i=1 to n]a_ji・c_i)へと収束する空間である。
哲学の意義として知識を知性へと分解し、f(x)をaxへと知識の因数分解するが、
人間の歴史において存在(a=1)の定義には至っていないが、知性なくして知識は無いというように
日常雑感から得られるある程度数値化した現象から幾何学的知識体系を築く行為「発想」を得ることを生業としてきた。
知識を知性化し線形結合しなければ美学的態度を得られないために
旧来の我々は積極的に人間の現象から神の知性へと因数分解していたが、
現在の我々は旧来の性質を取り扱うことに追われ、
知性定数aの存在の値の大きさから自ら知性を生み出せず旧来の知性に頼るばかりである。
特に日本人に顕著な極端に均衡を欠いた知性への軽薄な態度による弊害が存在するが、
これは知性なき故の精神現象に隠遁された鳴らない警鐘である。
この破滅への予定調和の波動こそ神の理性を拒否する非理性的態度への罰なのかもしれない。
エネルギーにより生じるベクトルは発生と同時に空間を張り存在という基底がヒルベルト空間に座標変換される。
次元とは存在の形相であり、1次元が存在の世界であり、点で表され時間の概念が無いため
点と点の関わりが無く各々が絶対性を持つライプニッツの理想数である0でない極小の無限小であり、これが空間の基底となる。
無論、隣り合う点の間隔は無限小であるが0ではない点が無限大に広がるようではあるが区間の距離は有限であるため∞ではない。
無限大と無限小が時間の監視から逃れ拮抗する絶対性に満ちた不可侵な世界である。
2次元がベクトルの世界であり、存在が時間という概念を持って軌跡となりベクトルとして表される。
多くの点が動くことでベクトルは方向へ向かおうとする力、エネルギーとなりベクトル場の回転を得るため
正と負のエネルギーに分かれ、+と-が生じる。
これはベクトルの解釈である時間による法則が支配する相対的世界であり、
この世界から1次元の絶対性が支配する世界に入ることは不可能である。
しかし、この考えでは2つの次元はどのようにして出入りしているか疑問を残すこととなる。
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1次元は点の世界ではあるがエネルギーを持たない範囲で関数を持つとすれば完全にそれは我々が持つ精神世界そのものであるといえる。
我々が何を想像するのも自由、つまりエンテレケイアを二次元、デュナミスを一次元である。
二次元は一次元であり、もともと一次元であったものが時間の存在により二次元となったと考え、
二次元における矛盾、無限遠点は時間により∞と0を過程として捕らえ発散と収束を制限することで解消される。
こうしてこの世界に∞と0、外部世界や矛盾は永久に追放され、
一次元は単なる我々の妄想となり、"収束しつつあり発散しつつある"目に見える世界だけが唯一の真理となる。
無論、物質は突如発生することもなく全てを支配しうる暗黒の無も存在しないこととなる。
矛盾のない思想とはいえ裏付けるものもなく相対化する可能性もなくはない、所詮思想である。
ちなみに時間はベクトルのノルムであり時間が存在の値と等しいと考えられる。
そのため存在の値は時間の単位において表されるといえるだろう。
世界が137億年前に始まったのならば存在の総量は137億×1年分の総エネルギー量といえる。
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仏教哲学、西洋哲学、インド哲学、物理学、数学、宗教思想、史実、または過去の偉人の思想、
あらゆる概念に触れてきたが全ての一次元空間は相対化できる。
一次元と二次元の矛盾や虚構はあるがさしたる問題はない、
数学ですら計量空間以外は矛盾だらけだが二次元に還元性の高い概念である。
どの学問も人の理性が築いたものであるから少なからず意味を持つ。
逆に事実があったとしても、実験による試行回数を重ねても、
数学的概念があったとしても、計量空間で裏づけがとれたとしても日常生活にすら存在する深遠の闇を侮ってはならない。
現在の科学ですら我々は確かだと思えるもので完全に純化された方法など存在しない。
現代の科学はよく評価され我々の理性を築いてきたが、絶対的基準を持たない以上全ての空間を計量空間で統一できない。
科学や数学の二次元空間(形而下学)を信用しすぎてはならないことと、
思想という一次元空間(形而上学)などにおいてはほとんど未解明であるままである。
現代の学問を完成されたものだとは到底思えないがその影響力に甘んじている学問には
再び哲学からやり直し慎重に思想の溝を埋めていくことが重要であると警告したい。
業を重ねた末にベクトルを間違え自ら破滅するなどということもありうる。
宇宙に出発するという業深き行為の前に人類には再考を勧めたい。
時間をかけ存在の値により編まれた学問という理性得てきたが、
その業を受け損なわないよう8方向から包括する8倍の時間をかけて存在の値から倫理的な態度を得るべきである。
我々は知が未熟でありながら業を重ねてきたはずであるが、倫理を養う時間による存在の値が少なすぎるといえる。
このままでは人類は破壊神シヴァの業を重ねた存在への深遠なる破滅の波動、予定調和に押しつぶされ破滅するだろう。
梵我一如
供物を捧げ火中の神と精神を同化させホーマとする。
我々アートマンは満たされし宇宙と同化する運命なのです。
創世を司るブラフマー神、法を司るヴァルナ神はそれを望んだはずです。
我々の幸福とは肉体を捨て、大宇宙の思想へと回帰することなのです。
所有とはカルマの偶像そのものであり、阿頼耶識における心相続とは在って無きに等しき存在なのです。
ニルヴァーナには如何なる所有も存在しません。よって如何なる邪もまた存在し得ないのです。
思想の交錯
私たちの思想は実に単一的なものです。
なぜなら自分とその周りとその行動範囲と思考能力で平均化された思想しか知らないからです。
あらゆる思想学びなさい実に意義深いものですよ。
思想というものの差異に触れ、体感し、ノンバーバルの海へと身を投じるのです。
そうすることで身の回りの思想の輪郭を知り、人の思想を知り、更には自然の思想を知るに至る。
貴重な問題提起(人生への問いかけ)の哲学を得るのです。
そして、今起こっている現象の裏と表さらにはその周囲の関係性まで可視化し、
起こりうる事態を予測する観世音菩薩の智慧を得るのです。
正しさに溢れた真理を身体中に浴びることこそ世界の幸福なのです。
質問なんですけど『いやよ』って何?
知識とは知性の現象であり、知識の理解は知性によるものである。
知識によって編まれたアルゴリズムは知性のアルゴリズムと同様であり、他者の知性そのものといえる。
また知識の四則演算において知識同士の結合もでき、平面で解釈したノードとリンクに相当する。
善による形相であるため時間において神の理性に収束し、
我々や自然も存在の値によるものでしかないため性質による方法の還元を受ける。
知識の体系では知識の解析はできないため知性の体系より還元性は劣るが、
広く現象を取り扱うにあたって知識に依存することで還元性を持たせることには有効である。
そして知識に否定的であろうとする態度こそ哲学的態度である。
知識の知性化(理解)において存在の値を収束させるためには、
字面に表現される概念であるが、シニフィティから類推する形式で先言措定する。
平面解釈の相対的位置を確認することにおいて筆者の理解への到達度で理解となる。
とはいえ字面の概念は存在の値をいくらでももつものであり、理解度が低ければ近似する性質ですらない。
文章における存在の値は万能の性質から生じたものであり自然と比べて複雑なものであるが、
独我論による虚構という発散ではなく、神の理性に収束するならば、
文章が単語に分解されようと筆者への理解への到達は困難ではないと思われる。
存在の値が大きなものならば下位の層から虚構へと発散する。
生活空間という存在の値において全ての性質が存在し美学的態度において性質を取り込むことができる。
現象の値にある性質が置換されたとき、知識という関数か、知性という作用素において形相へ置換されることで解を持つ。
存在空間の因果律とは時間を持つため精神世界(一次元)とは無関係となり「環境」と「自己」は切り離される。
存在の値と時間の値は等価であり、我々の主観は存在への視覚的記憶を持つが関係性への記憶を持たない。
小さな値は大きな値へと分解することはできないため
小さな値(存在)と時間(エネルギー:形相)において大きな値の相対性(現象)を得る。
小さな値とは時間の値に直して物質の原子、ハドロン、クォークなど構成に必要な時間が少ないものである。
我々は現象の値が置換されたとき、その性質を得るため形相の特徴を検出しようとするが、
特徴は存在の値に直すことで、存在と形相の二項演算においてエネルギーと時間の値の関係性から類推できる。
抽象的思考(小さな値)があらゆる具体的思考(大きな値)に適応できることと同じく
現象(大きな値)は形相(小さな値)に分解することより性質が導出される。
そして精神世界において時間の可逆性を得て現象に性質を、形相に最低限の構成を置換する行為を抽象化といい
抽象化するにしたがって存在(性質)の数値化による情報並列化が簡易になる。
例えば、風を起こすには扇風機などではなく、風とは気圧の変化の形相を持ち、
気圧とは大きなベクトルが発生したときの小さなベクトルによる補完作用であり、
空気中の粒子をポテンシャルとしてベクトルの仕事効率を考えたとき
単位面積当たりの小さな値のベクトル(圧力)であり、その方法を純化すると薄く平たい形状と思われる。
知識の四則演算(ライプニッツの計算機)も単純な現象の大きな値を得るには有効であるが
状況や存在形相の違いに左右されやすく、知性により情報並列化したほうが確実で応用が利く。
よって大きな値を得るために形相により知性化を図る行為(抽象的思考)が発想に適する姿勢といえる。
科学において思想が軽視されている
技術とは知性を更に純化したものであり知識の抽象化により情報並列化することで知識の効率化を図ることである。
あらゆる自然は数学において情報並列化され空間中の物質や性質をテンソル空間において解釈できる。
これにおいて二次元空間は情報並列化されるが一次元における思想に適応できることは前項に示したとおりであり可能である。
虚構においては時間の可逆性と記憶による存在形相から説明可能であり、それさえ許容すれば一切の矛盾はない。
一次元空間は時間により制御することが理想であり即ち、
時間という演算子を用いた方法の拡張性と技術にすることで人間は万能の媒体となる。
全ての現象を美学的態度において形相に分解し、知識、知性、方法、技術と神の理性への還元性を高めることが生命の目的である。
二元の創造神ブラフマーの理性とは対称的に一元の神の理性、ヴィシュヌ宇宙維持神の波動である幸福が存在するが、
exp(2πiθ)の波動とは方法への還元性を求めるのではなく、美学への還元である。
幸福であろうとする態度は倫理と同様の意味であり、我々には技術による横暴を許さない態度も必要である。
技術の横暴は破壊神シヴァの破滅の波動を受けるものであり、いずれ身を滅ぼす。
これが三神による大宇宙の波動である。
意味とは小さな値である。
それは物質の特徴であり意味により抽象化された物質は物質そのものと扱われることも多い。
小さな値において方法を還元する技術の形相となるためである。
物質の特徴ではなく、物質の存在の値が顕現された性質であり、
特徴があるとは存在の値の性質の定義域の性質の値が大きいと言い換えることが出来る。
情報数値化による解析的態度は大きな値を扱うことは難しいため、性質の値を得る解釈的態度が目的への理性となりやすい。
無限に続く素数が時間により膨張される概念を性質によって解析する行為において真理の現象を得られないが、
還元性を低下させ、混合的方法において場面への還元可能性が高める二次理性的態度といえる。
現象と形相は存在と時間において順次構造を持つため、
還元可能性と還元性の関係性において必ずしも態度を統一する必要はないと思われる。
一次元とは時間の概念はないが、二次元を自由に複製することができる。
時間の概念がないため複製が不完全な形となるが、不完全であるため既存概念の拡張ができる。
一次元において二次元を複製する工程とは、視覚的聴覚的刺激などの感覚を元に記憶の善悪の配列を決定し
あたかもその概念の本質があるかのごとく意味づけすることである。
二次元の本質は私の経験を通じたところまでしか分からないが
性質の値を情報を元に決めることで存在の値を一意に決めることにより本質のようなものを善悪において複製できると思われる。
主観の現象はすべて善悪によるものでありこの二元があれば、二次元の本質に繋がるというのは事実だが、
一次元には時間の概念がないため思想にエネルギー、つまり真実の現象には至らない、所詮神の創造物の模造品である。
しかし、模造品に時間の概念を与えることは二次元内の方法(技術:意図的な触媒)によって可能となる。
時間がないために真実ではないが、性質の値をサンプリングできれば
複製時間において性質の値を自由に増減し新たな概念を発生させられる。
一次元には時間が必要であり、新たな概念に二次元への還元性を求めなければ
それは虚構でしかなく主観内の妄想にとどまってしまう。
更に視覚や聴覚といった限定された情報源では本質を直接見ることはできず時間を把握することはできない。
しかし、一次元は虚構であるが故に、性質の定義から値を求めあらゆる現象に還元できる。
古代ギリシャの思想、水、ヌース、愛と憎、数字などなんとでも根源を主張できるように
性質の定義を決めることで複製時間の解析が可能となり技術への還元性を高めることができる。
性質の値という大きな値から存在の値という小さな値は求まらないが、大きな値を求めるには大きな値の形相を得るという
本質のチャンネルを得ることでの二次理性的態度が還元の態度であり、本質そのものを得る一次理性的態度が発想の態度である。
二次理性的態度とは存在の値を区間に区切ったチャンネルである性質の値を細かに決めることで技術への還元性を高める態度である。
一つの概念の存在の値は性質の値に分類され性質の値とは存在の値の形相に該当する。
性質の値は感覚の値に還元され方法の純化に成功する。
二次元の概念を一次元へと複製し複製時間により性質の値を操作して感覚の値として方法の純化により二次元へと還元する。
これより一次元の波動複製、時間複製、方法純化により二次元の全ての性質の値を操作することができるといえる。
波動複製とは自然物の波動を得て存在形相(存在)を基準とした性質の値(形相)を決めた概念(現象)を複製する行為である。
性質の値とは視覚的聴覚的刺激から得られる自然物の意味という小さな値(知性)である。
刺激から意味を知るためには記憶という現象の形相の再認識(時間による確信の修復作用:時間修復)
つまり、現象を下位概念に分解した知性による概念の時間修復である。
概念をバラバラに分解し時間修復により性質の操作し、複製時間により概念を統合する。
複製時間による不正な値操作とは連続性を持たない時間となった場合である。
最近、VOCALOIDの動画が工作臭いんだが。2.3時間でコメントが一巡してるたぜ。
たかがとは思わんが何度も見てる奴が「初めて見た」「いつの間にか新作が」って。
何人か目をつけて見たらコメの始まりと終わりで「新作だー」って騒いでたww
論理とは何か。
論理とは現象を概念で説明する態度であり、説明とは対象の概念を他の概念でその関係性を示す行為である。
第一に論理において絶対性は排除すべきであると「オッカムの剃刀」という
ギリシャ文明からの思想があるように、絶対性は他の概念で説明できないためその概念を論理の場に持ち込んではならない。
その結果全ての概念は相対性を持ち、絶対性を持たせないため必ず全ての概念は既知の概念との関係性を示さなくてはならない。
しかし、言語において概念の関係性を示すことは難しい。
なぜならば、言語を使用するたびに言語の説明が必要になりその手間が煩わしい事と
概念を言語において説明することが難しくなることも少なく無いためである。
後者は哲学に通じて見られることであり、概念の厳密な関係性を求めるばかりに常用から外れた表現をするためである。
言語が理解されるのは言語を記号として捕らえているのではなく、言語によって表される概念を
日常的に知りうる概念と置き換えられるためであり、論理は既知の概念から他の概念との新たな相対性を示し
概念に新たな解釈を加えるため概念という名の広いフィールドにおいてどの部分を指しているか分からなくなるためである。
我々が既知とする概念は全て視覚的聴覚的刺激など感覚に現れるものであり、
言語により保障された抽象的な言い回しは感覚に置き換えることが難しいためである。
アカデメイアの哲学者アリストテレスはこの究極的な主語を示すことを先言措定と呼び、
概念の外部化(理解)を図るため言語は必ず具体的(感覚的)な概念に置き換えられなくてはならず、
それまでの主語と述語の省略は本来論理の場において許されないが前者を理由にそれを積極的に行う哲学者はいない。
しかし、新たな概念を作らなければ現象の説明ができないため哲学者は弁証法という技法を編み出した。
いわば、理性において説明を検証する態度であり論理の場に流れる理性を
フンクフルト学派の現代哲学者ハーバーマスはそれを対話的理性と呼んだ。
つまり、機械的に概念が正しいか判別するのではなく、話が通じるかなどの人間の理性に判別させるものであり
非物質的な理性の存在によって議論は成り立つという説である。
人間は自我同一性としての理性だけではなく対話する相手への態度としての理性、
自分の立場から生じる多くの点で理性を得るため言語の正しさを保障し信頼されるものとなる。
言語による論理の規則は概念を相対的に説明可能であることと、
感覚的な表現に置換可能であることと、人間的理性の余地を認めることである。
言語による論理は既知概念と新たな概念の関係性を示すものであり、既知の概念は言語による概念か、感覚による概念に分けられ
言語による概念はその主語を追っていくと感覚による概念に辿り着く。
つまり、第一主語は経験知であり既知の経験知による関係性を示すことでその述語を取り言語となる。
関係性を示すとは記号論理学で言う演算であり、述語を主語、演算子、既知の概念の二項演算から導くことである。
1つの概念を説明するためには最低でも2つの概念が必要であるが、実際にはこうした演算は無視される場合や
厳密に追求すれば間違いの可能性があるが実際の議論ではそれを指摘したり検証することは難しいことである。
あまりにも論理が飛躍していれば指摘することもあるが、大抵の場合は常識の範囲内で許容しなくては話が前に進まない。
言語は言語哲学においてシニフィティという感覚の引き出しでしかなく、
実際の概念の論理は生命活動の記憶によって編まれた細かな情報配列と高度な演算処理を行う感覚的なものであり
言語による論理とは、対話において両者了解の上で言語によってヒントを与え相手に考えさせるものでしかない。
言語は所詮ただのコミュニケーションツールであり、事実や事実の関係性を抽象的に伝える程度の役割しかない。
論理は主語と述語とその関係性を示す手段でしかなく、その程度の規則さえあればよい。
共通認識の感覚を示す単語を並べれば多くの意思は伝わる。
コミュニケーションに重要なのは概念を説明する論理で細かな関係性を示す態度より
使用する言語の先言としての感覚に認識の相違がないかであり、言語は相手との感覚の同期性により多くの意味を持つといえる。
散々言語の論理について述べたが言語は細かな規則を気にせず感覚的に使用すべきである。
概念と概念の関係性を示すことにおいて我々は論理によってそれを示すことで先験性を得ることができる。
つまり生活空間という既知の概念に置き換えられた新たな概念であり、現代科学はそうした相対性を宇宙論に及ぶまで見出した。
これによって我々の生活は生活雑感に置き換えられた概念によって日常的な利用が可能となる。
これは数学のような厳密な感覚による論理の連なりである。
中二病真っ盛りですね!
物質世界はベクトル空間であり精神分析上の真実の概念である。
概念への入力(作用)においてどのような出力としてのベクトルとなるかの関係性を知ることで論理を得る。
物質の形状はベクトルの作用の結果であり、自在な変化をもたらすものとしたら全ての性質はベクトル空間に格納されるといえる。
これは論理の規則としても用いることができ、概念へ入力しどのような出力を得るかを知ることで概念を措定できる。
概念への作用により概念の関数を知ることにより真実を得る。
しかし精神上でそれを行うことは不正確であり、概念に作用することでどのように変化するかを正確に知るためには
記憶として得た概念をさらに分解しなくてはならない。
物質とは何か、粒子とは何か、ベクトルとは何かこうして論理の地盤を固めることで哲学的思想は純粋な理性を得る。
しかし精神の世界では数式などという細かな規則まで純化しない。
論理的思惟の確信とは近代哲学者フッサールの用語で現象学的還元と呼ばれるが、人間の確信は感覚的なものであり、
感覚的な確信まで概念を純化することで概念のつながりを把握できる。
哲学的思惟の目的因とは概念へ神経を通わせることであり生活的雑感としての先言措定である。
概念が感覚に置き換えられれば文字通り概念を手足のように操ることが可能になると思われる。
つまり言語的な論理の規則とは概念の分解によって感覚化し、
さらにそれを触媒とすることで他の概念を感覚化して体系化することである。
分解の規則は抽象化された概念も感覚の配列であるため感覚の組成から類似概念を連想することが可能である。
統合の規則は分解された概念を生活雑感から得たより感覚的な記憶で類似概念を再構成することである。
全ての論理はこの抽象概念の分解と統合の規則からなると思われる。
概念を感覚的な記憶とすることで他概念への線形性を持つと思われる。
これにより概念と概念の関係性を知る。
抽象概念を分解すれば具体的概念が出てくる。
具体的とは感覚による知識であり、知性と同様の意味である。
我々の知識は我々が最も感覚を定義する具体的概念の空間、
生活空間にその本質を置き概念を理解するとは知識を生活空間に線形結合することである。
感覚とは先言であり全ての概念の意味の成分といえる。
我々は感覚によって動作を行えるものであり、コンピュータより精密な計算を高速で処理することが可能である。
概念を感覚化すれば概念の最低限の構成要素を知り、高速計算、長期記憶、新概念の創出、類似概念への理解が容易になると思われる。
削除済
数学で演算できる空間は計量空間のみであり我々の精神の演算もひとつの空間で演算する。
それは経験知から構成されるもっとも原始的な具象概念(感覚)空間であり、概念は全て具象概念空間の究極的な主語である先言を持つ。
概念の成分は感覚的刺激の配列から構成されるが言語空間へと接続する概念は間接的であり演算処理が複雑になる。
よって簡易な形(具象概念空間)に置き換えることで概念を最適化することにより概念と概念の関係性を見る演算を論理という。
感覚による論理演算であらゆる概念空間に接続でき、
現象を最適化すれば1つの空間の絶対性において全ての概念を相対化し演算可能となり解を得る。
それは我々が日常的な問題を何気なく片付けるかのように、言語空間上の概念をいとも容易に解きほぐすものである。
誤解を招かぬように一つ例示すると、物質の形状がどのようなベクトル作用から得られた現象かを探り、
ベクトル性質を逆算するためには物質の成分を調べることではない。
それは単に命題(サンプル)の配列を破断しただけでありそこに意味は無い。
命題は形状という配列から自然の意味を探ることであり現象の直接的な意味(形相)を知ることである。
論理の分解の規則は解法であり、本当の命題(サンプル)が何かということをベクトル空間の性質(意味)の内包性から確認し
統合の規則によって置換することに意味があり性質への還元に成功する。
概念や意味は無形であるがゆえに変幻自在な非物質として考え、物質還元の固定観念に陥ることのないように留意したい。
命題・分解・統合の規則により概念の意味を把握する論理の規則は完成する。
ちなみに概念の関係性は我々の理性(感覚)を超えた表現である数式などで表すことはできない。
【物事を深く考えないが故に、単発スレを乱立してしまう】
解決策→『(スレッド一覧はこちら)先で(Ctrl+F)等による検索機能を使う』
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自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けますので細心の注意を
全ての事象は絶対性による理解と相対性による原因がある。
絶対性による事実の理解は先言を措定しなければ還元性を失う。
いわゆる法則性を含めた理解であり精神の世界に物質の世界が完全に再現されたならば全ての原因を知ることができる。
言語は絶対性という複数の空間を統合し単一の空間内で相対性を持つとき物理現象となる。
過去の原因を知るためには現在の状況から得た特徴が何による作用かを逆算する。
過去の原因は直接知ることはできないため、特徴から類推するしかない。
形相とは形状により視覚化されるエネルギーの性質であり存在を排除するため物質とは看做さず、
あくまでエネルギー保持の構造を持つ性質とする。
さて、過去の原因を知るためには、原因は必ずエネルギー保持の概念構造を持つ性質であり
唯名論によれば存在とは本質に保護された絶対性といわれているが、
本論では言語による相対性を見出すためにその概念を排除する。
存在はエネルギー保持の概念構造の性質の差異により生じる概念であり特徴をある程度保持する性質のパラダイムである。
現場に残される痕跡により過去の原因を知ることができるのは、
痕跡の配列が存在の配列と一致し、それが存在そのもののためである。
エネルギーの配列は存在ごとに違うためその差異を性質と呼ぶことができる。
痕跡はエネルギーの作用因であり性質の演算結果であり新たな存在である。
新たな存在の先言に原因が存在するため過去の原因を知ることができ精神世界において条件により時間を遡ることができる。
存在とは視覚化されたエネルギー保持の性質であり、性質を入れる箱と定義する。
特徴とは自然状態の性質との差異であり、状況の異常性である。
性質とはエネルギーの配列による差異性から認証された特徴である。
性質と特徴の違いは状況の異常性の有無である。
エネルギーの配列とはエネルギーにのみ特定の質料(0との差異)があるとした場合の性質の(0と1による配列の)決定方式である。
存在は特定の質料を持たないエネルギーの形相である。
前項の痕跡とは存在のエネルギー配列の変質(破損)であり、変質した性質による存在と定義でき、性質と同義である。
よって、存在と性質は同義であり過去の原因の存在は時間を遡及した性質といえる。
存在は性質と同義となるが、存在はいわゆる霊魂のような絶対性の構造と解釈されるため
言語空間を統一する目的で相対的言語体系から排除される。
よって全ての現象や物質は性質を下位概念とする。
言語空間は質料の配列(0,1)の二元性とその相対性を保障する時間のみを最上位概念として構成される。
よって物質は存在ではなく、質料配列による性質を持つ擬似的な存在と定義される。
擬似的な存在は存在ではなく、理解しやすいように存在と表現される性質の定義域を指す。
性質は質料配列の差異性により生じるため本質的には同一のものであるが演算の便宜を図る表現である。
天文学者ガリレオ・ガリレイは「自然は数学の言語で書かれている」と言い、
古代ギリシャのピュタゴラスもアルケー(根源)は数と主張するが、無論自然は数からなるものではない。
なぜなら数や言語は存在ではなく、人間が独自に解釈する表現(メタファー)に過ぎないためである。
数は自然の述語といっていいほど自然を明確化するが、数学にも定義できない「存在」がある。
言語の目的は方法の明確化であり、(物質的)方法という「存在」を持つ言語に直すことで初めて現象となる。
さて、数学には微分や積分など数値の「特殊」な操作があるがそれは独自の定義ではなく定理という形相であり
「特殊」とはいえその「特殊」に普遍の性質はなく高校教育などで簡易な言語に置き換えられる「普通」の操作である。
(∞を除けば)単に定義に則る普通の操作であり掛け算と足し算などと違いはない。
相対的な空間で統一するには定義した性質以外の「特殊」な性質など存在してはならないため全て「普通」である。
よって、相対的空間には性質は存在せず、無意味な存在の配列しかない。
しかし、性質を認めなくてはそれはエポケー(判断停止)と同義であり、
擬似的な「特殊」を認めなくては我々はなすべきことに意義はなく、ニヒリストとは聞こえがいい単なる無関心に陥る。
つまり性質は我々の都合で創作したメタファーであり、
絶対定義を除いて全ての性質は質料の配列に注目するだけの単なる比喩と同義となる。
だが、単なる比喩とはいえその操作により目の前の存在がどのような状態であるかを知ることができる。
比喩は目に見えない概念(配列)に注目するための操作であり、性質は相対的な定義(比喩)されるものである。
目に見えるものも質料の配列に過ぎないため「特殊」な存在はなく、比喩としてあるのみである。
我々は言語によって先言を措定(比喩:注目:確信)するが、
物質にも主語がありその究極的な主語こそ「存在」と呼ぶにふさわしく質料と同義であり、それを「存在」と定義できる。
ちなみに本論では「存在」は内部構造を持たず分割する手段もない普遍な何かであり、
存在の普遍性を保障する法則も存在することになる。
質料の配列を知るためには現象の分解をするべきである。
目に見えるものは物質ではなく、性質の意味が強い視覚化された性質である。
性質は存在の配列であり、普通の言語で物質を存在するものと定義されるなら性質も五感で感じられるためそれを物質と定義できる。
物質や性質の定義は曖昧なものであり、やはり人間の解釈のための単なるメタファーに過ぎない考えたほうがよい。
感じられるものに存在はあるが物質とは限らない、物質はあるが性質があるとは限らないという思惟が正しい態度であり
結局のところ存在の有無と時間しか定義できるものはないということがわかる。
数式では性質の境界が曖昧で数が大きい少ないなどの性質は主観的現象でしかなく性質は存在しない。
数学が自然を措定することに適するのも相対性により統一された言語空間であるため自然の空間に限りなく近い法則を持つためである。
物質や性質などの定義は言語によるとどうしても主観的となるためいっそのこと数式で記述したほうがよいと思われる。
性質が及ぼす影響も、性質の存在も物質の関係性も概念の関係性も数式によってのみ表現可能である。
数式以外の言語で概念の関係性を表現するためには論理演算の記憶に頼るしかない。
性質(項)の厳密な定義ができ、性質の関係性(演算子)を論理演算(定義を持たない善悪による演算)で導ければ
それほど外れた思考にはならないだろう。そのために言語は相対化し、限りなく数学に近い言語にしなくてはならない。
運動エネルギーを記述するためには数式と数学的規則と言語的規則が必要である。
言語が必要とされるのは数式のみでは(人間的解釈の)性質にはならず、人間の感覚の述語になるのが言語となるためである。
数の世界には性質は存在せず、言語の世界に存在するためその空間を繋がなくてはならない。
つまり数式を解釈する言語と言語を解釈する感覚という関係で人間の理解となり方法へと還元できる。
言語は感覚と数式を繋ぐ空間であるため言語は(言語的解釈の)重要な概念であり、
細部を記述するには値しないがその汎用性は感覚や数式を包括する。
数式の主語に自然があり、数式を性質として拾う言語があり、言語を感覚として拾う感覚がある。
方法へと還元するためには数式を感覚にまで抽象化するが、数式の概念が具体的であるほど
言語や感覚は共通した数式による方針を持って明確化し方法への還元性が向上する。
現象は五感から感覚的に抽象的解釈して言語、数式と具体的概念へと分解すると同時に
概念の粒子を細かくすることで複雑な概念構造として再構築し方法へと応用できる。
感覚で善の連なりである公理を築くことは重要だ。
我々は外界から情報を得るとき感覚的記憶を得るが記憶がまったく整理されないままでは意識が判然としないカオスに陥る。
我々は生命の理性を紡いできた記憶から生存に適する善悪の基準が他生物と比べ綿密で正確なものとなっている。
善悪の判断はいわゆる知性であり、あらゆる善による記憶の結合(純質記憶)から公理を持ち
それが自身を支える記憶体系としての自我同一性となっている。
何が善悪か論理的に判断できない状況においても生命の理性により「感覚的」に回答を見出すことが可能である。
生命の理性は必ず生存本能に基づき高度に発達した人間の理性においても善悪の生存に適する根拠に持つ。
善悪とは自らの生存可能性であり、究極の善悪基準が何かは生命の記憶であるため明確化されることはない。
これは論理的な方法ではないため確実ではないが善による感覚記憶の整理は難題へのアプローチを示すものとなるだろう。
定義から定理を得ることを感覚的に行うとは
論理的な反証をある程度受けることになるが非論理的な感覚を紡ぐことも悪いことばかりではない。
非論理的と感覚の善による結合を否定してばかりでは自我はカオスから成長しないと思われる。
細部が感覚的な結合してある程度体系が出来上がってから論理的否定し結合を解いた記憶の分子から体系化する態度が中庸である。
生存可能性は経験則であり、生存への真摯な態度を知ることが感覚記憶を結合する態度となる。
論理とは対象の不当な結合を無限に分解するものではなく、
ある程度分子の大きさが不揃いの記憶を並列化し整理をするものであるべきであり、論理と非論理の中庸が生存に適する態度と言える。
個人の善悪と世界の真偽は全く違うものである。
行動(外界)の感覚化、感覚の言語化、言語の数式化、そしてその逆も試行する態度は重要と思われる。
世界と個人を天秤に置く論理を超えた判断をするべきである。
そして神や社会や人間など信仰する対象が自我を成長させる。
自我は知識を欲し内容の真偽に関わらず、知識を知性化し知識を再構築する過程で自我を構築する知性を得る。
真実と虚構を含む情報は知性化すれば純化し自我の一部となる。
自己の美学に基づき外界、感覚、言語、数式などの情報を受け入れ追求する態度が重要と言える。
信仰する宗教、記憶として得た外界、明確化された感覚、専門的な言語、難解な数式など
美学的感情を得る自己表現の場が自我を支持する生命力となるだろう。
主語と述語の演算による質料の変化は主語の形相(可能性)に述語が含まれる場合に正当性を持ち、言語はこれを示すものである。
質料の一部の形相が目的の性質と等価となったとき言語は上位概念化する。
アリストテレスは目的を含む質料をデュナミスといい、目的を得た質料をエンテレケイアと呼んだ。
つまり言語における主語のデュナミス(可能態)が何かを措定することで述語のエンテレケイア(現実態)と等価となり、
目的を得た言語は上位概念化し方法の空間へと結合できる。
つまり、言語の目的は質料の形相に含まれる可能性の措定である。
質料は性質であり物質は性質の一部だと考えると目的は性質であり、言語空間の質料は性質であり物質には固執してはならない。
質料はそれ自身では運動せず、作用因を持つために性質が振動し形相となり目的と等価となる。
つまり主語の可能性を措定するためにはどのような作用で目的の形相になるかを知ることである。
そして言語という質料(Ιδέα)の形相(είδος)である、可能性(δυναμις)を
目的(ἐντελέχεια)へと純化(सत्त्व)することで先言措定(ὑποκείμενον)を完遂し創造主の純粋言語となる。
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以上を踏まえて新たな言語による論理を構造してみよう。
まず目的を得ることが目的であるため等式の右辺は任意の変数である。
左辺は質料と作用と形相の項を持ち、質料に作用することで形相となるため質料と作用の関係を形相と呼び、
左辺は形相の式であり、形相=目的となる方程式である。
ちなみに形相の可能性としての目的であるため、形相∋目的、質料∧作用=形相∋目的となる。
作用は人間による作用のみではなく環境による作用も含み、質料と目的は性質であり、物質は存在ではなく性質であり、
人間の認識としての物質は不正確であり、
数の性質のみが正しい(性質も不正確だがこれはアンチノミーとして判断停止)とすることで汎用性を高める。
物質は数の積分、性質はテンソル、論理は方程式、人間は論理の集合である定義したマトリクスで成り立つなどのイメージである。
しかし、この論理自体が人間の下位概念であるということを留意してほしい。
そして目的を得るために目的を形相と質料に分解し、善の知識・知性体系で等式を完成させることで先言措定により純粋言語となる。
善の知識・知性体系とは知識の知性化し自我と知識に述語を持たせることであり
存在の値を知り得ない人間はある程度カオスに身を投じるしかないため主語と述語による結合が必要となる。
数の性質、カオスの定理、主述の結合、方法への結合、四原因、先言措定により物質化する純粋言語となる。
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言語の自然定義を四原因と先言措定から求めよう。
まず言語という質料は「記号」であり、作用は「人間の使用」である。
質料の「記号」の先言は「物質の形状」であり、作用の「人間の使用」の先言は「人間の性質を持つ事物」である。
つまり形相は「人間の性質を表す物質の形状」であり、さらに先言において自然定義を求めるならば
「表す」とは「暗号化と複合化の機能を持つ事物」であり、暗号化する人間と複合化する人間の間で成り立つ。
「暗号化」の先言は「存在の配列の特徴化」であり、「複合化」の先言は「特徴化された存在の配列の感覚化」である。
「感覚化」の先言は「感覚として受け取った記憶の善悪化」である。
よって、言語の自然定義は「存在の配列の特徴化による人間の感覚化される善悪の性質を持つ物質の形状」である。
言語の目的は「人間の善悪の知識化と知性化による人間の性質の変容」である。
これにより、言語における質料、作用、形相、目的の存在の値の最大値を定義する。
目的と形相が同値となったとき命題は解決する。
簡易な論法としては質料を物質、作用を行動で定め直接的に形相を経験上の感覚的解釈で
「人間の性質を持つ物質」として定義域を求めてもよいが、
目的である性質の定義は数の性質を意識した方がよい。
なぜなら、前者は明確な定義よりも可能性を求めるデュナミスであり、
後者は明確な定義により性質の解釈可能性において汎用性を高めるためである。
これが方法を得るために論じる態度であるが、簡易な論法であるため比較的情報量の多い空間でのみ有効である。
目的の形相を求める方法において主語と述語の結合を得ることも重要である。
目的を質料と仮定し、形相を得ることで擬似的な主語と述語が完成し、一文で表される言語空間となる。
参議院選挙までの民主党政権の政策遂行能力と、今回の参議院選挙結果について、あなたの思うところを書きなさい。
400字以上、民主党がマニフェストで掲げた具体的な政策を取り上げて書くこと。
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質量と作用を形相にあらわされる2変数関数としたときy^x=f(x,y)であり、形相と目的の関係はf(x,y)>gとなる。
または質料の配列としてlim[A→∞]Σ[i→A]f(x_i,y_i)ΔS_i=y^x>gである。
万物の形状はフーリエ積分で表され、形状の形相をとったとき複素関数上の
z座標をλ座標に写像を取り形状の性質としての意味が表示され、多変数複素関数において質料の配列までの形相を得る。
目的gにおいて、その関数は主にベクトルで表示され、
目的と形相の一致(f(x,y)=g)となるとき形相の逆変換から質料と作用に分解できる。
しかし、作用因は不定とするため経験則を純化した勾配gradf(x,y,z)=(δf/δx,δf/δy,δf/δz)において
ヒルベルト空間上のベクトル性質から力学的性質により空間の現象を格納するテンソルを得る。
質料の配列はアンチノミーであるが質料の配列の性質は力学的性質に格納されると仮定し人間、物質、環境をその比喩としたとき
作用は物質の光子交換、人間の強い力と弱い力と論理、環境の角運動による変化としての作用にほぼ一致する。
質料は古典力学の信憑性から認識上の物質と措定し、g(x)とf(x,y)の形相を4つの力によるものに限定できる。
さらには人為的なものか自然的なものか電磁力か弱い力か強い力か重力かを状況によって限定することは難しくないため、
存在としての形相を条件別に視覚表現することが可能となる。
目的と形相の視覚表現により主語と述語という文章の物語性が発生し解答を得る。
人為的なものと措定したときは同じく四原因の性質から関数表現とすることで
gof=g(f)の写像により合成関数を得ることで人間を力学への解釈へ持ち込むことができ、物語性の力学的解釈に成功する。
形相の視覚表現は質料と作用の高階テンソルに表される。
視覚刺激の閉曲面においてガウスの定理による∫A_ndSの面積分において形相の質量的表現となる。(@)
視覚表現の作用的表現は主に人為的なものであり言語空間のスカラー場の計量テンソルg_ijにより得られる
ベクトル空間であるため視覚化することはない。
だがその作用が得られる空間解析を人為的解釈により行われる。
人為的解釈とは感覚と時空準拠の解析作業であり変化をもたないバナッハ空間の
感覚成分をポテンシャルとしたフラックスと粘性からなる
σ_jk=η(dv^i/dx^k+dv^k/dx^i-2/3d_jkdv^l/dx^l)+ζd_jk(dv^l/dx^l)を二階テンソルに写像を取る。(A)
@Aより形相となるが目的となるのは言語空間によるものなのでAに存在する。
しかし、質料的表現にインデックスを質料により視覚表現としたとき単に勾配として表される。
これが意味づけ作用(メタ)であり性質化する数値と同様の意味を持ち言語空間が無限次元空間となりうる理由である。
よって質料表現は計量マトリックスに格納され勾配として目的と形相が表現される。
視覚表現上、複素関数の経路積分を形相、非正則の極が目的の質料表現とされる時都合がよいと思われる。
よって形相と目的の視覚表現(擬似空間)は∫f(z)dz=2πiRes(f,aj)となる。
知識とは概念の形相であり、創出される知識と説明される知識に分かれる。
創出される知識とは概念の形相をとったとき更なる下位概念において新たに質料と作用の組成を得た知識である。
説明される知識とは既存概念の知性的解釈により既に解釈された領域の質料と方法へと下位概念化した知識である。
どちらも質料の形相であり解釈領域内の目的となりうるため、目的の知性化に成功する。
樹形で表される概念は根本に善悪の二元が四原因を構成し、全ての概念の知性となっている。
知識の先言措定の過程で下位概念における創出される知識が得られる。
同一の質料か方法であるため創出される知識は形相の領域内に得られるため目的という可能性を得ることになる。
質料準拠の視覚表現モデルでは知性化する目的と質料(目的は目的とする質料のため質料と恒等となる)の可能性に表される
境界条件である形相を得ることになり、ガウス平面上の閉曲面に関して留数を目的とした経路積分ができる。
非観測の事象における視覚表現化は知性の表現となり、思想の定義となって述語の措定を可能にし
時間軸上の主語と述語(物語性)を得るためのものである。
質料=知識、作用=知性、形相=主語、目的=述語、文章言語=文章主語+文章述語
A=文章言語、B=時間、f:A→B、f(A):={f(a)|a∈ A}、f(A)=Bのとき、文章言語=創造言語(言語)=方法(表現措定)
目的の領域=質料の可能性(領域)=形相
目的(目的とする質料)=質料
視覚表現(質料⇒形相⇒目的の下位概念化)
ΔS=形相成分、x=質料、y=作用、lim[A→∞]Σ[i→A]f(x_i,y_i)ΔS_i=形相
f(z)=形相、∫f(z)dz=2πiRes(f,aj)=目的
可能態質料=目的⇔形相=非可能態質料+目的
知性化される知識=形相=創造される知識+説明される知識
知識化されるカオス=創造される知識、下位知識=知性
知識=知性、単純概念の目的を得るには知性的、複雑概念の目的を得るには知識的がよい、よって理想の固定観念を得るべきである。
この世界には普遍の性質と変動する性質があることがわかるだろうか。
普遍の性質は主に物質であり、変動する性質は物質間の相互作用である。
物質が作用を得たとき物質の変動する性質としての形相となり、形相から目的(主語から述語)への変換を得る。
形相に作用する可能態質料を得たとき言語が完成し方法となるが、まず質料と作用の形相への変換において
作用∇質料=形相、作用は拡散係数とし形相は変動する質料の性質を示し質料の流体解釈において四階テンソル空間に可能体質料を得る。
少なくとも作用を持たない質料には可能体質料は含まれないため物質分解には目的は含まれないが、
物質分解は質料分解であり質料の流体解釈に幅を持たせるものとして可能態質料を得る可能性を増やすことができる。
目的と同値となるインデックスが可能態質料であり、目的の認識質料マトリックスが含まれた場合、
主語と述語の線形空間において言語空間への写像を取る。
これによりメタのない言語空間となり、メタを用いない言語空間は我々の生活空間と同義であるため、
概念の物質化としての先言措定(表現措定)となる。
何か変なのがいるけどスレタイに沿ったことを書く
NGユーザーでユーザーID確認もせずに自演だろと言う
まぁ、いちいちコメ一つ一つをユーザーID確認している奴なんて実在しないだろうけど
基本思想として、質料の振る舞いを量子的な解釈において形相化し、可能態質料を得ることは難しい。
我々の日常的な思考形態として思考をするために記憶として概念を抽出し固定した点と考える。
これを質料とし、作用において変化が生じるならばこれを形相(変化質料)とすることができる。
目的は質料であり、可能態質料と非可能態質料の和において形相となる。
メタを用いない言語において質料が主語で目的が述語であるため、
四原因からなる言語を求めることは時間軸上の変化を包括する方法化する創造言語となる。
思考とは、質料を得る、作用を得る、形相を得る、目的を得るの4原因を求めることであり、
A:全ては感覚記憶を基底とする質料であり、質料を項とし質料の作用を演算子に等号で結ばれる形相が目的であった時方法となる。
解釈思想として、目的を得るため大量の質料を求め可能態質料そのものを得る知識的態度と
方法のみを求め少数の質料から可能態質料を求める知性的態度がある。
知識的態度は質料同士の関係性を把握することを不得手であり、形相を求められず、
メタで表現される多様な空間に対しては質料の絶対数があるため
感覚的に行える厳密性の低い事象における態度といえる。
知性的態度とは質料の相対性を重視し、質料同士の関係性を把握し形相を求めることが得意である、
だが、感覚で表現しうる質料の絶対数が少ないためメタで表現される空間を把握することは不得手である。
A:質料自体を知識的態度で概念の材料を収集し、質料の形相を知性的態度で求めることで目的を得る態度が中庸である。
ただし、発想的態度においては知識的態度による多量の質料と感覚的解釈で目的を求め
厳密性の高い事象においては知性的態度による少量の質料と論理的解釈で目的を得るという状況と相対とする。
更に空間の情報量に相対するため感覚的事象においては質料を感覚的解釈し、
厳密的事象においては質料を理性的解釈することで解釈による感覚的(法則性の低い思想)同層化しなくてはならない。
古典哲学は知性的態度の実存主義であったが近代に入ってから還元主義台頭として中庸的態度となり構造主義となった。
アポリアを判断停止し純粋性を失う代わり複雑化社会に対応するために還元性を高めた思想である。
依然として知性的態度ではあるが旧来に比べてある程度寛容になったといえる。
我々はヴァイシェーシカ学派の思想を目的により集約しなくてはならない
カオスという質料の無秩序な集合は目的によるクーロン力に引かれる作用によって形相となる。
真の実態とは立ち現れるものではなく悟るものである
対象を見るのではなく智慧において悟ること、
「もの」にはそれぞれ違った実態があり
「言葉」にはそれぞれ違った実態がある
ヴァイシェーシカ学派による認識論はこものの性を認めるものではなく
あくまで実態の差異を見出せるのは言葉であり
形相を認めるものではなく
内属による分類がなされるのみである
それはあたかもイデアによる創造のみが
真の実態を産み出すような
無から実態は引き出されるという興味深い一説である
四原因における論法では目的という述語から主語を求めるが、
先言措定の演算の規則から派生した方法を得ることができる。
我々が感じうる違和感のようなものはどのように扱われるかということであるが、
違和感とは形相であり質料と作用への分解ができる。
違和感は特殊な性質で直感的に関心が高まった状態であるため、
これを求めることにより認識空間の下位概念が解釈され
言語の応用性を高めると同時に関心を高めた性質を得ることで認識の可能性を得ることができる。
これが予言的可能性の先言措定である。
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経路積分により目的を視覚表現化する。
我々の「もの」への解釈とは視覚的な認識に基づき、その本質を帰納演繹的に別のものと解釈する。
「もの」が石だった時、石の情報を知らない我々は石に対して硬いなどの解釈することはない。
石が硬いなどの解釈は誰でもすることであるが、投げるものなどの解釈をする人間はやや限られる。
この解釈を質料と呼び主観的現象における存在という概念を示し、また主語である。
質料は可能態質料と非可能態質料があり、可能態質料を目的と呼び、述語である。
我々が新たな言語を創造するのは「もの」の解釈により可能態質料を措定するためである。
新たに言語によって概念の枠を狭めることで非可能態質料の中から可能態質料を見つけやすくなり、主語と述語を得る。
可能態質料と非可能態質料の和において形相となるがこれは質料を石と措定した場合、石を投げるまでが形相であり
「石」の「解釈」により「形相」となるが、解釈に相当するものが作用であり、石の形相が生じるための作用が必要となる。
石を投げて壁に当てることが目的とすれば、まず石とは何かを考え石の形相から石を投げるものとし
目的を照合し一致する可能態質料を引き出す。
目的が不明確な場合は置かれた状況に対する不快な感情の原因を明確化させて目的とする。
具体的には不快な感情の原因を明確化させることを目的として可能態質料を得た後、さらにその原因を目的とする。
善の表現措定、悪の予言的措定、目的の無限下降、連続作用と可能態質料次元表現
表現(メタ)とは何か。
我々の物質への認識は予め知っているものではなく、視覚的刺激に明確化された記憶をシルエットとして
記憶の集散により形相を推察するいわゆるレッテル貼りが行われる。
初期状態は感覚記憶を質料としたカオスでありそれぞれ独立している。
独立したままでは形相とならず明確化される情報として引き出せないため理由をつけて
変化を正当化させることで作用となり形相への演算が可能となる。
精神世界を謳う書籍など真実とはかけ離れた印象を受けるがこれは表現における真実であり
カオス状態まで分解するならば先言措定することで方法への還元に成功する。
我々は自然物に対し表現することは正しい視覚刺激に基づくものであるため正しい形相をもつ表現となる。
だが自然物でないものに関しては概ね虚構であり表現化していく過程で純度が下がり還元性の低い表現となりがちである。
しかし、ならばなぜフィクションの小説などの虚構が存在しその上読書するに際し美学的鑑賞が可能なのだろうか。
虚構とは還元性が低い思想であるがそれは現在あるものに対する還元性である。
真実は常に創造されるものであり、新たな先言を得ることに対し虚構は未来へ還元するものである。
小説などは虚構に基づく形相から、感覚そのものを措定し主観機能における方程式として利用可能となる。
カオスまで分解すれば感覚にとっての真実となり、感覚は主観機能であるため主観的真実へと還元しうる。
虚構に基づく感覚の措定により主観的真実となり、真実に基づく自然の措定により客観的真実となる。
主観的真実は未来への措定でありそれは感覚の形相による真実へ客観的真実への写像を得て、
客観的真実は現在への措定であり質料と作用を捕らえる形相として機能する。
両者は真実であろうと虚構であろうと感覚による真実には間違いないため虚構の写像による真実への補完、
カオスへの変換と形相の発生により、主語と述語による言語を完成させることが可能となる。
精神のカオス化による真実への還元であり、ほぼこのカオスへの変換により
美学における質料の絶対量と形相の収束機能、いわゆるセンスとなり得ると思われる。
ただしカオス化による形相にしても内属への分解には至らない場合が多く、姿勢の違いによる境界は存在すると思われる。
真実における形相の発生と虚構におけるカオスへの変換において
カオスへの変換は内属を形相とした可能態質料の措定の状況的形相における予想が必要と思われる。
我々の感覚と論理により抽象的な数値を導き、質料と作用の存在の数値化と演算を可能としていることは確かである。
数学は論理を表現する道具として、論理は感覚を表現する道具として可能態質量を存在の値から引き出す演算を行えるものである。
そして思考の始動因である善悪による感情を正しくきめ細かに表現することで自由に可能態質料を得られるのである。
全世界という形相に対する表現力により明確に描き出すことで可能態質料の存在位置を知ることが出来るということである。
感覚によって捕らえ、論理によって限定し、数学によって収斂することで善悪を主語とし可能態質料を述語とする表現を得る。
類似のイメージから質料を得て形相を明確化させていく質料の明確化である。
感覚が分解され論理となり論理が分解され数学となるならば厳密性と反比例して表現範囲が限られることも説明がつくだろう。
哲学とは何か。
我々の生活と哲学は無関係ではないが縁遠い存在ではある。
大抵の行為は単に知識と常識的な知性を持って処理されるが、高度な知識を求める場合高度な知性が必要となる。
哲学とは非常識的なまでの知性により知識の下位概念を求める行為であり
知識の分析により究極的に0と1で成り立つ世界において最小限の知識で現象を説明するものである。
言語の重要な役割に表現というものがあるが哲学は表現的な態度は慎むべきである。
現象を説明するとき感覚の入れ物としての表現によって感覚的に説明を行うのは楽だが、
法則性をもって現象を明確に説明しなければ他の概念との繋がりが不明瞭で概念の意味を把握できない。
概念の合成の因果律を知らないため各概念は孤立しとても知識の演算において新たな知識を見出す姿勢ではない。
しかし、哲学は利益や行動的な態度に対立的な態度である。
なぜなら、行動は非常に大きな情報量を瞬間的に処理することが求められ、
時間軸(四次元軸)を定数として偏微分し因果律をもって情報を線形式として正確に減らそうとする哲学的態度では
行動的現象という時間軸を含めた現象の莫大な情報量を処理することに時間がかかるためである。
そして行動的現象を表現として説明できず現象の内在化に失敗する。
莫大な情報量を分析するためには多くの語彙を用いて感覚的な表現をすることが重要といえる。
数学のように存在の値が小さいものはちょっとした印象の違いで因果律が崩壊する繊細なものであるが、
行動的現象のように存在の値が大きなものは大まかな印象でもってしても因果律が崩壊しないため
マスコミ用語のように針小棒大とも言える表現的態度を大いに用いるべきである。
そして、>>600に表される四原因の言語方程式は解釈という演算子により、どのような場合でも因果律を崩壊しない言語性能をもつ
高速に情報を処理することに適し、分析的な見方にも活用できる無限次元の産物である。
A:感覚→感覚的言語→論理的言語→哲学的言語→解釈的数式→計量的数式において表現範囲と厳密性は反比例する関係であり、
表現的態度は存在の値が大きな場合に対応でき、分析的態度は存在の値が小さな場合に対応できる。
現代のオートメーション化の結果、小さな値と大きな値における影響力は小さな値のほうが大きいという逆転現象が起きているが
個人単位の人間性としては大きな値を求めるほうが影響力を持つといえる。
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オイラーの方程式δf/δy-d/dx(δx/δy')=0による変分は四原因の境界条件であることが分かる。
世界の真理は無でしかないなら、有は存在すべきではない。
我々の感覚の及ばない領域にして四原因の論が通用しない。
この世界は神秘的な事象をもつ。
我々の根本的な運動原理とは無から生じているものである
エネルギーの等価性における位置エネルギーと質料の総和は0であるがゆえに
存在論は成立しているので当然の帰結といえよう
数式よりも根源的かつ厳密性の高いものの仮説において神の存在可能性が高まったのだ
宇宙に飛び交うヒッグス粒子は神の精神そのものであり、日常的に降りそそぎ我々の内を通過するそれである
科学的に表現されるところの神心身の構成要素とは全く同一かつ神秘的な根源因と符合する
我々の意識や自然の物質を支配しているのも何か厳かで神秘的なものであることが分かる
よって以上までの論を相対化する。
四原因は相対化され、定型の思想は消滅し絶対とするものを失いカオスに陥った我々は何を為すべきか。
真実が一つならば全ては無、ならば我々はその思想を信仰することで絶対性の認識を行う。
宗教への理解は唯心論的な思想を持って行うべきであり神秘性の認識を応仏なるものの対話としての心が認証するものである。
大乗仏教の哲学は四法因におけるあらゆる思想を寛容に認め、法華経に示された一乗妙法である。
エピステーメーを四原因の対象とし記録への干渉を可能な媒体とし、慈悲をもって
法経律を成すことを理念とすることで、未知なるものへの遭遇と成す。
我々は虚構を持つが真実へといたるまで、ただ内在する絶対への否定されぬ信仰を持ち
虚構を捨て去る態度をもって正当化するものである。
心による対話を持って神秘性を認証する。
ソクラテスは心はダイモニオンすら逃さぬという思想を持っていた。
唯物論に捕らえられぬ声は多い。
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美学の意味とは何か。
我々が善の感情を抱くときは生存可能性に還元され意味として認識される存在の値である。
存在の値は差異性があることで成立し、ある存在の値が遷移することはない。
生存可能性が概念の形相としての可能態質料の確率量子としたとき、
美学の量子状態は存在の値における性質が可能態質料の確率量子に比例する関係といえる。
我々は希薄な美学において意味と表現し、過密な美学において感動と表現する。
存在の値そのものはエポケーすべき事象である。
無機質な数列であり意味などなく、記号以上の意味を持ったとき我々は感じ取ることが出来、精神の座標空間へと写像を取る。
存在の値が記号以上の意味を持つとはどのような時か。それは神の創造言語であり記号の配列に意味を持たせるイデアの被投性である。
神は最小限の法則性を持つ創造言語によりこの世界を著したのである。
存在の値は我々の最も使う言語の数学に近い性質であり被投姓を持たない創造言語のようなものかもしれない。
数学の言語に現れる性質は存在と非存在の差異と配列でしかなくまさに無機質な配列である。
我々は数式に表される量子化された概念を感覚で読み取ることは出来ず関係性を記述し性質を取り出す道具として使用するだけである。
数学は存在と非存在の差異の0と1から体系化したといってもよい。
同様に神はたった一つの差異を投げつけて世界を創造したのかもしれない。
我々は数の性質すら見出すことが出来るが、それは我々の解釈に過ぎない。
数に意味を持たせるという行為は我々の生活での演算行為と関連付けする行為であり
全ての性質が数式に改められるならば生活感情を注ぎ込むことで内在化し一種の自己として認識される。
これは記憶と呼ばれる行為に相当する。我々は性質を感覚として引き入れる手段しか持たないため当然の帰結である。
無機質な数字に我々の善を持たせることは、まさに存在の値に格納された性質を自由に引き出すために
自己への内在化をする上で生活感情への分解であり一種の知性化の意味を持つ。
数式の骨組みにより意味のある行為と純化した方法となる。
wwwww←ナニコレ?流行ってるの?みたいな疑問を抱く
我々が美学的鑑賞を行うときはどのようなときか。
我々は善の感情を得る時は可能態質料を得るときであり、カオスから得られる超越論的言語を得るときである。
カオスは感情の最も微細な粒子でありその表現(メタ)において全ての現象の表現を得られる。
カオスを感情として言語として表現することで法則性を持たせ自由に性質を引き出す還元性を手に入れる。
つまり美学とは還元性は低いものの現象を最も表現することに適する非可能態・可能態質料の模索である。
美学を感覚へ言語へ数式へと法則を持たせることで還元性を高め可能態質料に還元をすることが純粋思想の体系である。
A:全ての形相の質料の下位概念にはカオスという虚構があり、美学はそのカオスの還元性を高め真実を模索する行為といえる。
そして美学への評論は感覚や感情の言語化により還元性を高める行為であり、美学とは何かという哲学の問いに準ずる。
なぜなら美学は哲学の一分野であり、哲学の超越論的な態度はあらゆる形相の質料を求めるという美学の問いに準ずるためである。
我々が美学を得るときは可能態質料を得るときであり、全てのカオスには深遠なる哲学が根底に存在し
全世界を体系化する真理において重要な意味をもつからこそ生命的な意味に至る。
カオスに法則を持たせることが美学であり、表現において感情から感覚へと還元する。
カオスというダークマターを解析し、可能態質料に至るまでの純粋な思想が美学といえる。
そして美学的な哲学はどこにでも存在しうる。
形相を構成する質料を求めていくとき感情を言語にし性質を引き出し可能にすることで方法となり
感情を生存の道具とするためである。全ての感情や美学には生存への意味が込められているといえる。
現代において生存という言葉は相応しくない様に思えるが現代では生存を保障されているが
生存の意味に取って代わって知的探求の善の感情が生存の意味の解釈となっていると思われる。
我々の本来の生命力は生存可能性にあり、現代において知的探求の哲学に置き換わっているといえる。
そして生命力は世界の意味への探求と解釈され、純粋思想の体系により全ての世界を説明し征服する目的を持つと言える。
カオスは純粋な質料であり感情となり、公理系という形相を築いていく。
還元性を高めたとき量子化した形相という方法となるが、還元性が低い場合新たな公理を築くきっかけになりやすい。
なぜなら還元性の低い形相は巨大な量子であり、波動関数上の下位構造である形相の存在確率を持つためである。
ミンコフスキー空間におけるx,y,zのポテンシャルからなる固定観念をt軸に超越するトンネル効果のようである。
よく英米語が抽象概念による言語体系を持つが、量子化した質料をよく表す形相といえる。
まだ説明が不完全で還元性の低いものであるが、我々は美学的な姿勢を忘れてはならないということだけは言える。
思想は表現である、我々の性質は表現に表される内容を理解したとき変質する。
モデリングの重要性は法則を持たせることであり、たかが表現、たかが思想などといって見限らないで欲しい。
「まるで〜のようだ」にも重要な意味があり少なくともカオスよりは還元性の高い表現である。
思想と物質世界の関係性を「表現」と「還元性」をキーワードにモデリング(法則化)することが本論の目的である。
「まるで〜のようだ」とはその形相に内属と同じ質料をもつ状態を表現(アウトプット)したものである。
四原因の論法による予言的理性を我々は無意識に使用しているのである。
これを収束表現するならばn次項の級数展開であり、発散表現するならば感覚的解釈である。
この言語への格納おいて利用可能な性質として漸近させる。
このように表現方法を例示するが、収束表現と発散表現をすることで還元性を高めることを目的として
四原因の論法という低級言語の発散表現により言語にモデリング(アセンブル)していく方針となる。
以上から感覚的要領を得たと思うが表現には二つあり、
収束表現(定義)には質料の措定として性質の応用性を高め、発散表現(解釈)には感覚化による性質の可動性を高めるという
それぞれのメリットがあるため最適化において別途表記する必要性があるといえる。
哲学には美学的価値となるものと理学的価値となるものがある。
前者は教養の獲得であり、後者は真実の追求である。
しかし、XとY軸におけるデカルト座標を用いてY軸によらない
一次元的な流れを解析すれば美学的価値とは芸術によるカオスの表現であり
理学的価値とは言語や数式による感覚の表現であり、それぞれガウスの定理による積分形の変形である。
表現という四原因の演算子における収束表現とはまさにこれである。
変な読み方が多い
論理とはカオスから得られる表現のモデルである。
論理には絶対的規則と相対的規則があり、初めから相対的規則が全てが完成しているわけではなく
むしろ初めは絶対的規則に覆われたカオス状態であり、表現としてカオスを紡ぐものである。
つまり表現は論理の最小単位であり、概念同士を法則性という糸で繋ぎモデルを作り相対的規則を完成させる。
その概念図は視覚的に表現され易いが視覚化された相対的規則は必ずしも真理ではなく内属の質料をもつ形相であり一致ではない。
なぜなら「視覚的に表現」という表現の演算子が一つ余分に存在するためである。
ならば、ロゴスの相対的規則は客観的表現(モデル)としてどうあるべきか。
出鱈目に紡ぐものは虚構でしかないが、真実に沿って紡ぐだけのものは真実でしかない。
虚構や真実はそれぞれ重要な役割があり、常に真実を求める姿勢ばかり主張されるが、
完全なる還元は完璧主義者の固定観念に捕らわれただの機械論者となってしまう。
そこで絶対的規則と相対的規則をT軸とXYZ軸に例えることができることを考えると。
<f(t)・Θ(x,y,z)>において自然物の写像ψ(x',y',z')を得るためには必ずt軸による線形作用素が必要となる。
Θ(x,y,z)が不確定性関係におけるポテンシャルが0と∞のいわゆる井戸型ポテンシャルとき
物質から思想への量子トンネル効果は起こらない。
これにより絶対的規則のT軸が必ず必要となることが示される。
つまり完成された相対的規則は何も見えない何も感じない状態の定義上の"死"であることがいえる。
それに相反するT軸は"生"であり、我々の生きるものとしての証拠である。
閑話休題、しかしこれにより真実のロゴスとは何かという定義が難しくなったといえる。
ロゴスを得るためには"生きている"必要性があるためである。
これは物質と思想と生命の究極の難題として永久に消化されないものとなるだろう。
究極の論理モデルは存在しないということが示される。
収束する理想数の論理を求めれば愚鈍なものとなり、発散する理想数の表現を求めれば粗暴なものとなる。
論理モデルの固有値を無限次元空間において線形結合した「役割」という名の人間社会の理性が一種の解となりうる。
個人の思想が善として集団に受け入れられる事実を論理モデルの規格化条件とするならば、
役割の存在確率から得られる期待値の低い条件と取ることができる。
つまり、集団と差別化された自己の役割が究極の論理モデルであり、その解は一意に定まらない不確定性を持つといえる。
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論理とは空間の下位概念から上位概念を組み立てることである。
つまり形相となった概念を質料と作用に分解して新たな概念の材料とする。
ではわざわざ概念を分解する意味とはなにか。
性質とは質料と作用からなるものであり、概念を質料と定めて作用することで自由に性質(機能)を抽出するものであるが、
巨視的視点ではアーリア人の残した思想からインドの沙門パクダ・カッチャーヤナの唯物論である性質の根源は七要素から得られるもの
という説にあるように上位概念の性質とはほぼ地水火風であり、これらに作用して人間の生活に注ぎ込むためには
光を得るために祭壇に火を起こし、水を得るために数年地を掘り河川とし、性質を得るために多くの労働を要した。
根源とする性質が上位概念つまり存在の値が大きさに比例して質料に作用し形相の可能態質料を得るために必要な労力がかかる。
我々は感覚の差異性の感知により得られる形相とは上位概念のものばかりであるため、
差異性の感覚をより鋭敏にして記憶を離散・結合し論理とすることで概念を分解し存在の値を小さくすることで性質の先言措定に至る。
その論理(差異性)を記述するため存在の値が小さな表現である哲学的言語や数式や記号による記述が重要となる。
それは語彙を少なくして相対的規則で得られる論理であり、相対的規則による存在の値の縮小を図る表現である。
質料と作用を小さな値にすることは材料や労力を減らし効率化する行為であり、
存在する確率の低い物質の発見にも繋がり、形相の可能態質料を措定する可能性を高められるものである。
寒い・・・非常に寒い。
収束する理性と発散する美学の関係性を記述する。
収束する理性とは知識を相対的規則により表現を依り代とする物質や数式の存在の値を小さくし、
的確な操作により性質を引き出す方法である。
これは表現措定により方法化する目的であり、自己の性質は方法へと収束する。
発散する美学とは知識の絶対的規則により表現を依り代とする感覚の存在の値を大きくし、
カオスへと発散させる方法である。
これは自己の性質を発散させることで質料に作用し相対的規則により形相を再構成するものである。
これらから概念空間の定義をする。
カオスとは絶対的規則により独立した質料の集合であり、それぞれの質料は関係性を持たない時間のない空間である。
作用がないため相対的規則が生まれず、形相とならないため方法へと収束が困難となる。
これに時間を加えると相対的規則となり、質料と作用による形相が得られる。
しかし、ここで忘れてはならないのは質料とはそれぞれ独立した時間を持つため我々が何も意識しないときカオスとなる。
つまり、形相は意識化した質料と作用であり、カオスとは質料のみの状態である。
作用は質料と質料と時間からなり、質料と時間をまとめて演算子と呼んでいるが、
実際の演算子は時間でありそれに質料を代入しているに過ぎないため、時間とは質料への作用であり意識そのものといえる。
質料に意識が作用することで演算子となり、質料への質料を持つ作用となっているため、
この事実に質料の時間が独立していることを格納できる。
つまり思想空間では質料は調和振動子のような繋がりをもつものではなく、一つの意識が純粋な作用であり、
絶対的次元から質料へ作用することで二次的な作用素となり法則に従い動くことになる。
思想空間ではアイデンティティという神が空間を統括し、一次作用により質料を二次作用とし質料への演算により形相となる。
そして、二次作用により同時に法則が決定しカオスという無限次元空間が収束し、形相周りに力場が発生することとなる。
我々はメディアを通じてあらゆることを知ることができ、その目的はアイディアを自分のものにし活用するためである。
そのためには知識を収束し法則により性質の還元性を高めなくてはならない。
数学のような厳密性を求められればいいが、数式化できない情報も多い。
まずは知識を言語による法則化する必要があり、言語法則の延長に数学上の定義としてのモデルが存在する。
メディアとは主に言語であるが、その言語は外界から得られた感覚を美学によって表現し
さらに言語の厳密性において法則化したものである。
我々の目的はどのような概念(質料)にどのような作用をすれば、
どのような形相となるかを知ることで可能態質料(可能性)を増やすことである。
可能態質料は還元性と汎用性の和であり、あらゆる概念を知ることで可能性を増やすことができる。
これにより前述は相対化され、還元性から得られる座標の全ての層に可能態質料が等量の存在確率を持つこととなる。
そしてその可能態質料は存在する層において還元性と汎用性の値を持ち、
数学など還元性が高い形相であれば方法的態度、美学など汎用性の値が高い形相であれば
質料への微小な作用を契機に形相を得られる発想的態度といえる。
つまりメディアを通じて目的が方法を得るのであれば
著者の論から形相を質料と作用に分析し、発想を得るのであれば著者に同調(形相を知る)する態度が重要となる。
そして哲学的態度は表現が言語であるため中庸でありあらゆる目的を整理し目的に応じた対応が可能と思われる。
ちなみに雑学的知識的態度は表現が言語であり汎用性と還元性を両方持ち現実問題に強いが、
知識に依存する傾向から突飛した発想力や厳密な分析力の両方に欠けると思われる。
解析が足りないため還元性が低い表現となった
特に美学の定義について再検討する
我々の思想は形相であり汎用性と還元性の値に分解できる。
汎用性は表現力であり、感情や感覚から美学へと還元する態度である。
つまり、表現とは法則化であり結局のところ還元性を高める行為である。
可能態質料の和から還元性の低い思想は汎用性が高く、汎用性が低い思想は還元性が高いといえる。
我々が思想を目的へと還元するためには、可能態質料が属する内属から形相を予想する。
それは近似概念の比較であり同一の質料を下位概念にもつ美学的な汎用的抽象表現の思想が包括する。
つまり可能態質料の表現から分析することにより思想の目的への還元を得る。
目的への措定として、質料の形相を表現することは抽象的形相による包括である。
つまり、存在の値が大きな形相と可能態質料の形相の比較し表現することで目的の還元性を高めることとなる。
可能態質料の質料を上位概念により表現し、
その質料を下位概念にもつ形相を上位概念により表現することで作用を得る。
ここでルールを定めると、下位概念はその質料を含む上位概念によってのみ表現され、(0)
表現により形相を下位概念化した時、0%以上の還元性を持つ解を得たこととなる。
可能態質料は作用が不明な形相と考えられるため、
この擬似的な形相を下位概念化することで還元性に反比例した存在の値を持つ作用を得ることができる。
可能態質料Dと作用+Bは存在の値による計量化により形相Cが得られるためD+B=C
表現+Eにより上位概念化(内在化)するため(0)より、(D+E)+(B+E)=(C+E)+E、還元性は形相の表現の比で表され、(1)
C/[(C+E)+E]≧0、E=∞の時0となりこれを無意識状態とするならば、意識状態はE<∞である。(2)
表現の値Eは相対的規則の値は0であり、絶対的規則の値で決定されるが内在化の条件(0)としてD+B≦2E⇔C≦2Eであるため(3)
(2)より、Cの値に近似し上回る2Eの値による絶対的規則を持つ表現方法を決定するべきである。(4)
(2)と(3)によりC/[(C+E)+E]≦0.5が言える。(5)C=2Eのとき4E=D+B+2E,2E=D+BとなりDとBは表現と一致する先言措定であり(4)の根拠となる。
(5)を百分率で表すなら200C/{(C+E)+E}≦100(%)となりこれを還元性の式とする。
つまり、目的を得るためには(D+E)+(B+E)=C+2E,C≦2Eにより内在化し、200C/{(C+E)+E}≦100(%)の還元性を得ることとなる。
還元性をa%として方法化するためにはaB/100が善の値、(100-a)B'/100が善と悪の値となりaB/100+(100-a)B'/100として方法化する。
我々が幸福だと思えるのは還元性における善の値である。
つまりa%の符号が「+」ならば幸福の値であり、「-」ならば不幸の値となり、これらが幸福の定義である。
還元性をx、表現方法をy(y=∞のとき虚構、y=0のとき真実)の
第二象限までの座標で表すならばどの表現方法でも幸福と善の
成分をΔxとしその発散を[ν(x_0+Δx)-x_0]/Δxとすることができる。
真実を感覚化した概念の取りうる値は(0,-b)と(a,b)を接する円上であり、
(y+b)^2+(x-0)^2=(y-b)^2+(x+a)^2=4by-2ax-a^2,r≧a≧100(%)のときである。
これにより表現は物質化しないことが証明される。
aaaagomi
大きな値の形相の知識化、下位知識の統合、知識の発散と収束、感情・感覚の知識化、法則の知識化、
カテゴリの知識化、性質の振動、善悪の形相、法則化による還元
思考形態を統一し直感的な思考を停止すると常に固定的となり上位概念化が難しくなる危険性がある。
論を相対化する中庸を得る必要性があると思われる。
感情・感覚は法則と同様小さな値であり、法則化は理解不足の補完である。
知識とはカオスから得たクオリアとして形相を築いた精神の素粒子である。
カオスを表現するとそれはクオリアであり、美学的表現の最小単位と考えられる。
クオリアとして知識化されたカオスは視覚情報や触覚情報などに統合され、実態の表現とすることができる。
我々は実態を予め知るものではなくクオリアの集合体として実態の領域を掴み下位概念である言語による知識化が可能となる。
性質(可能態質料)の振動状態としての形相をクオリアの集合へと分解し境界が定まらない実態を含む形相を
ある一定のクオリアの集合という条件から不完全な記憶として想起できる。
クオリアは数字などと違い意味そのものであるためそこから考えられる実態を構築し不完全の記憶から確かな実態へと連想する。
ここでの想起と連想は同じものでありクオリアによる擬似記憶の比較から条件化された言語記憶の絞込みに該当する。
言語はそれのみは意味ではなく感覚から出来たものであるため、
論理の飛躍として境界が不明確な領域の感覚のメタを用いることで実態なき表現が可能となる。
じつはこれがはじめてのコメントです。
形而上学は蔑ろにされすぎる
なぜ何千年と話題にしながらほとんど発展しない荒れ地なのか
あまりにも基礎が疎かでモデリングするのも疲れる
はい
これから四原因による論法の考察を行う。
それは、大きな値の形相の知識化、下位知識の統合、知識の発散と収束、感情・感覚の知識化、法則の知識化、
カテゴリの知識化、性質の振動、善悪の形相、法則化による還元、の九方法を持ちこれら(+カオス)により人間の思考の雛形となる。
大きな値の形相の知識化とは言語とは何か、歴史とは何か、など広範囲(大きな値)の形相を持つ概念の分析に有効である。
いわゆるヘーゲル的唯物史観であり、とにかく関連する事象(知識)を用いることで形相の可能態質料を得る方法である。
下位知識の統合とは知識化した質料の下位概念を求める方法であり、形相を質料と作用に分解し新たな法則を見出すことである。
科学が生活空間の下位概念から非常識的な知識化に成功したことが例として挙げられる。
知識の発散・収束は質料から形相を得て思考の境界をなくし想起により収束させる方法である。
感情・感覚の知識化とは美学的形相を認識し知識化により他概念の可能態質料とすることである。
法則の知識化とは収束する美学の形相の知識化である。
カテゴリの知識化とはカテゴリという形相を四原因論法による演算により知識化することである。
性質の振動とは初等数学的計量法に倣った四原因論法の基本法則から得られる可能態質料であり、
質料+作用=形相(A+B=C,C∋D)の形相に目的(可能態質料)が含まれ
質料を弦として作用によって弾いた弦の振動状態を形相に例えた表現である。
コップの水を飲むためにはコップという物体の振動状態として水の入ったコップという形相があり目的を完遂する。
つまり目的は水の入ったコップという形相に
含まれているのである。(飲むという動作は目的の無限下降により求まり全ての思考はこの形となっていると思われる)
善悪の形相とは常識的な善悪の形相化であり、法則化による還元とは数式などで表された性質を導出する行為である。
全て四原因論法から得られ、大きな値と小さな値の知識化による形相を求める論法である。
感覚や漠然とした考えやも定型化した四原因論法基本法則のイメージと四原因八論法である。
私は知識というものが嫌いであったがこの法則を得ることであらゆる知識を得る動機付けとなり美学への理解へと繋がった。
読者も是非この思想において知識や美学、そして思想の重要性を認識して欲しい。
性質の振動とは初等数学的計量法に倣った四原因論法の基本法則から得られる可能態質料であり、
質料+作用=形相(A+B=C,C∋D)の形相に目的(可能態質料)が含まれ
質料を弦として作用によって弾いた弦の振動状態を形相に例えた表現である。
コップの水を飲むためにはコップという物体の振動状態として水の入ったコップという形相があり目的を完遂する。
つまり目的は水の入ったコップという形相に含まれているのである。
目的は水を飲むことであるためコップの振動状態である水が入ったコップを飲むためには
水の入ったコップを新たに質料として認識(固定観念化)し、水の入ったコップ(質料)の振動状態が
人間の動作(作用)によって引き起こされるものであり、水の入ったコップを飲むという行為として形相となる。
質料と作用と形相の内に、目的が継承され実現される様子が分かるだろうか。
これが可能態質料から現実態の形相となりデュナミスからエンテレケイアへの収束である。
初等数学の言語への応用によりあらゆる精神世界は収束する。
これを基礎として精神世界を物質世界や数学のようなモデリングを期待するものである。
コピペ乙
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四原因論法は初等数学の発想を借りたものだが、高度な数学の言語への応用について論じる。
まず、数学の大きな値の形相の数学史から得た質料として科学への貢献性、学問の発展性、経験に依存しない先験性がある。
高度な数学の形相としては線形代数学、微分積分学、解析学などがあるが
これらの質料は中心力場の極座標表示、波動性を記述する二階微分方程式の解法、関数解析から平行移動演算子などがあり、
現象を数式として具体的に記述することで性質の還元性を高めることができる。
これらと初等数学の差異性を求めるとき、抽出される質料として変数、座標、極限という概念を用いていることがわかる。
そのうち、変数や座標の形相には一般化があり、つまり汎用性において高度な数学となりやすいといえる。
言語は汎用性はあるが、これは絶対的規則としての汎用性であり、この事象では相対的規則における汎用性といえそうだ。
縺ゅ£
656 名前: no name :2010/08/10(火) 05:36:33 ID:tzFzanFz
性質の振動とは初等数学的計量法に倣った四原因論法の基本法則から得られる可能態質料であり、
質料+作用=形相(A+B=C,C∋D)の形相に目的(可能態質料)が含まれ
質料を弦として作用によって弾いた弦の振動状態を形相に例えた表現である。
コップの水を飲むためにはコップという物体の振動状態として水の入ったコップという形相があり目的を完遂する。
つまり目的は水の入ったコップという形相に含まれているのである。
目的は水を飲むことであるためコップの振動状態である水が入ったコップを飲むためには
水の入ったコップを新たに質料として認識(固定観念化)し、水の入ったコップ(質料)の振動状態が
人間の動作(作用)によって引き起こされるものであり、水の入ったコップを飲むという行為として形相となる。
質料と作用と形相の内に、目的が継承され実現される様子が分かるだろうか。
これが可能態質料から現実態の形相となりデュナミスからエンテレケイアへの収束である。
初等数学の言語への応用によりあらゆる精神世界は収束する。
これを基礎として精神世界を物質世界や数学のようなモデリングを期待するものである。
夏だ!プールだ!ニコニコ動画だ!
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性質の振動とは初等数学的計量法に倣った四原因論法の基本法則から得られる可能態質料であり、
質料+作用=形相(A+B=C,C∋D)の形相に目的(可能態質料)が含まれ
質料を弦として作用によって弾いた弦の振動状態を形相に例えた表現である。
コップの水を飲むためにはコップという物体の振動状態として水の入ったコップという形相があり目的を完遂する。
つまり目的は水の入ったコップという形相に含まれているのである。
目的は水を飲むことであるためコップの振動状態である水が入ったコップを飲むためには
水の入ったコップを新たに質料として認識(固定観念化)し、水の入ったコップ(質料)の振動状態が
人間の動作(作用)によって引き起こされるものであり、水の入ったコップを飲むという行為として形相となる。
質料と作用と形相の内に、目的が継承され実現される様子が分かるだろうか。
これが可能態質料から現実態の形相となりデュナミスからエンテレケイアへの収束である。
初等数学の言語への応用によりあらゆる精神世界は収束する。
これを基礎として精神世界を物質世界や数学のようなモデリングを期待するものである。
我々は感覚により現象を説明するが、それを表現するための言語を持つ。
我々は現象を予め知るものではないため、現象の最初の認識はカオスである。
我々が現象を認識する目的とは現象の性質を作用によって自由に引き出すことであり、
対象の現象がどのような作用において、どのような結果を持つかということを知ることで現象を応用可能な状態にするためのものである。
つまり、外界の法則性を知るために感覚によるカオスを条件付けし法則をもたせなくてはならない。
言語は感覚を一定の法則化により生じ、つまりある基準に属する感覚を同じものと見做す(並列化)ことで単語として表現する。
言語はさらに法則化することで論理となり、言語の先言を概念とすることでさらに高度な操作が可能となる。
それは言語の並列化であり、無駄な言語を矛盾なく統合しそれによって先言であるあらゆる概念の善悪が最適化される。
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論理の目的は先言の下位概念を求めることであり
線形モデルにより複雑系の説明を得て、管理体制を築くことである。
認識としては感情や感覚による上位概念を求め、境界無き美学を求めることで現象の絶対数を得る。
数学という表現の形相とは計量が基礎であり、これを変数や座標などで一般化したものが高度な数学となっているようだ。
計量とは離散的な数字を演算するものであるが、これに必要な概念は量である。
認識対象群を同一性質のもの(モデル:単位)を定義し、モデルが離散的な数量の積で表されるものを量と呼び、
これはモデルと数量という概念に分解される。
しかし、離散的な数量もすなわち量であり、これ自体にもモデルと数量が存在する。
数量のモデルとは根源的な存在であり、これも数量との積となりいわゆる純粋な尺度の無次元量である。
数字とは特定のモデルを持たない純粋な尺度であり法則という言葉が適切かもしれない。
演算という概念は数字と数字の関係性であり、ある種の単位を定義することで量として写像を取る。これにより計量となる。
数字は統一的な存在がモデルとなり、物質は質量がモデルとなり、言語は感覚をモデルとし、
そして宗教は神仏がモデルとなって統一的な無次元量を決定する。
新たなモデルを決定することで新たな表現となるが、哲学はモデルとするものが無く定義した概念全てがモデルとなる。
数字ははっきりと現れる存在をモデルとしているため、物質関係を記述することができる。
精神は個人の善悪がモデルとなっているため、個人の性質と環境との関係を記述することができる非常にマクロな演算となる。
これは計量関係や真実・虚構の条件を取り払って
連続的な変化のみを根拠とする通時性による関係性を記す不確実ながら非常な高度な演算をすることに適する。
このように経験に対して善悪(快・不快)とカテゴリ化していくことで経験則となるが、
個人の経験則により過ぎると個人の能力との関係性における善悪となるため真実から遠のくものとなる。
哲学は定義するもの全てがモデルであり、それは精神としても例外ではない。
客観的な現象は全て物理法則により表されるが、精神という主観的な現象を表す尺度は存在しない。
主観的現象を「思考と善悪の還元としての行動」とするならば、(1)
思考の還元としての(モノを使うという)行動から性質を得る人間の思考を「物質性質の集合体」と解釈でき、(2)
人間の善悪を「自己の生存可能性」と定義するならば、(3)
解釈により主観的現象を客観的現象に置き換えることができる。
客観的現象を「物理的値」とするならば、行動そのものは物理的値により求められるため、
主観的現象を行動というモデルと無次元量の積として分解することが目的となる。
行動は善悪と思考からなり、物質性質による行動の精度と生存可能性による行動の決定と考えられ、
前者はどのように行動するか(還元性の議論)、後者はなぜ行動するか(生存への影響の議論)である。
前者は物質性質をモデルとしているため物理的値を返すが、後者においては検討の余地がある。
生存可能性とは対外的物質性質による肉体機能の停止の可能性を意味する。
これは物質間の関係性であり物理的値を返すため、主観的現象の客観的現象による包括が可能となる。
(1)(2)(3)の定義は四原因論法により論証できる、(1)は主観的現象は目的に行動を持つため、
主観的現象は行動の形相であり、主観的現象は形相に思考と善悪をもつため、思考と善悪は行動への還元性を持つといえる。
(2)の思考は目的に行動の具体化をもち、(3)は善悪の究極の目的は自己の生死であるとなる。
哲学の大きな値の形相として神の議論、ロゴスの議論、パトスの議論が存在する。
フランクフルト学派のユルゲン・ハバーマスは対話における理性により議論の価値を持ちうることを言い
決して、議論や人間などを定義し、確実な確実な地盤固めをしなかった。
確かに対話的理性は人間の理性という非常に揺らぎやすいものを議論の足場にするという危険なものであるが、
逆に揺らぎやすいからこそ、発想的な態度に繋がり、人間関係に繋がり、厳密性を求める態度より遥かに融通が利きやすい。
何事にも易不易があり、ただ頑固であることだけが正義ではないということだ。
必ずしもロゴスの議論が優位ではなく、必ずしもパトスの議論が優位ではなく、必ずしも神の議論が優位ではなく
数学にすら矛盾という易があるように、左右に分かれた道の中の道をゆくことを忘れてはならない。
この世にて絶対は時のみであり、存在は必ず生成流転の法則をもつものである。
時に従うことのみが万象を捕らえうる善である。
ただ知識を求めるだけならば何者にも可能であり発想の機会であるが、
それ故こればかり追求する人間を「学者」と称えることは異議を唱えたい。
確かに知識を得ることは四原因説の解釈から発想の機会を得ることであるが、
知識はそれを収束することにおいて価値が生み出されるものであるため、発想のみでは単なる妄言となってしまう。
また、知識を求めることはその気になれば誰でもできるためいわゆる「学者」である必要性は皆無である。
四原因説の解釈からそれは思考の本質から外れるため「思考できない学者」
「思考」と「学者」の対立事項を内在化させた矛盾した存在となる。
日本における哲学教育は哲学史を学ばせることや議論の仕方のみに重点を置き、
肝心な論理を軽視し知識を収束させることを学ばないため本質的な哲学からかけ離れているといってよい。
その結果、妄言が飛び交うお粗末な場になりがちであるため、日本の哲学には良い感情を持っていない。
難解な言い回しで混乱させるだけさせて読者を振り回した挙句、よく考えてみれば新たな発想が全く見られず
哲学=難解のイメージが難解表現や比喩に主観的根拠を潜ませ収束しようが無い議論となり
学問的に不誠実な場を許容してしまっている現状がある。
他学問でも哲学的言い回しで格好の良い表現には学問の名を借りて人の興味を引くだけの単なる文芸となっていないか留意する必要がある。
論理実証主義(非実証主義)の学問においてこれが許容されてしまえば、
日本の学問は名だけで文芸に劣る表現力と歴史資料にしか意味を見出せないものとなるだろう。
知識や専攻分野を誇ることは無意味であり、美意識に訴える表現や知識を披露するだけの学問において腐敗の温床になっている。
非実証主義において飾り立てる表現は不要であり、美学としての文芸と論理としての学問は同列に語るべきではない。
美学の目的は内容の発散であり、論理の目的は内容の収束であるため同時に存在できない。
学問としての美学は単なる娯楽ではない、感覚や感情を内容とした収束である。
よって学問に文芸表現は不要であり、専攻外の人間にも門戸を広げ意見を幅広く集約する態度を持つべきである。
もしくは学問としての美学とは哲学のことか
はじめまして。 質問おねがいします。 携帯からプレミア登録したのですが、パソに反映されません。 なんでですか?
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死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
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死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
我々は現象の演算を通時性により行うことが出来る。
存在と時間はこの世界の絶対であり、それを究極の質料と作用とすることができる。
身の回りに起こる現象は本来ならば存在を数学的定義によりモデリングし、無次元量によって予測できるが
我々にはそういった知識が無くとも、究極の質料である存在を原因と呼ぶものに写し換え、
究極の作用である時間という演算子により、形相としての現象の原因を措定することが出来る。
古代ギリシャ哲学では質料を概念として先言が存在するかわからないものを質料として
時間と現象によりイデアまでを範囲に含めた原因を措定していた。
先言措定として本当の存在があるかは分からないが、その「感覚」は確かに存在する。
我々の感覚は数学的規則で表せないものの、非常に文化の繁栄に貢献しそれを措定する意義は十分にある。
現代社会は科学の優位性から物質的現象のみを求めるようになったが、イデアというものを措定する意義は失われてはいない。
むしろそれを蔑ろにし、科学の万能性が築いたその頑固さから非合理的な態度を作ってしまっているといえる。
主観的現象と客観的現象全てを原因の範囲として捕らえるべきである。
その風潮が宗教の嫌な部分を反映することもあるが、
科学と宗教的姿勢の中庸により確かに人は合理的な態度を得ることが出来るのである。
「感覚」などの主観的現象の根拠とするものは神の意思であり、
「物質」などの客観的現象の根拠とするものは自然の論理である。
削除済
人間的情緒(善悪)は一見、不確かなことばかり論じ
感情的な決め付けが多いことから誤った解釈ばかり生み出しているとされることが多いが、
我々の思考はそもそも感情や感覚に基づくものであり、これを一切否定することは無意味である。
我々の思考の形態として感情や感覚によりカオスから概念を収束し、
言語や数式となり方法としてアウトプットをする。
つまり感情や感覚を否定すれば、必然的に論理も細り発想的態度が失われる。
まず我々は善に向かう感情である目的を持ち、その障害となるものを悪とすると
発生した悪の感情を打ち消す目的を持つ、その目的という理想概念を得るべく悪である現象という形相を
収束すると善となるため、質料と作用を措定する意味を持つ。
作用は演算子だが発散状態の形相成分に分解できるため(波動の議論をあえて捨て)ある種の質料と同じとみなしてよい。
波動の議論を捨てるため厳密には非可解であるが、
a<100の近似解が求まればa≦rのy軸における円周上の上位表現により還元性の値0.5以上の先言措定C=2Eとなり方法化する。
現象の原因を得るためには、それぞれの質料の振動状態から現象となるものを選択すればよい。
そして、質料の措定をするためには各質料の波動を得ることである。
その波動とは質料の感覚や感情的解釈であり、境界無きカオスの収束状態としての現象や質料である。
これが発想的態度であり、人間的情緒に由来する。
虚構による質料の無限大への発散状態は結局、人間の理性(固定観念)の範囲内に収まり、発想を収束する態度となる。
後に言語や数式化し方法へと還元する。これが思考の理想状態である。
これにより主観的現象の思考が求まり、思考が人間的情緒に由来するため善悪の理想状態にもつながると思われる。
とはいえ真の思考の理想状態は虚構による無限大への発散と真実による0への収束であるため、この論は相対化される必要がある。
ニコ動初心者の由那と申します。
プレミアム会員に登録しなおしたのですが、
リストには出ているのにクリックして開いても、
『お探しの動画は再生できません。(視聴権限がないため、視聴できません。)』
と出て見られない動画がいくつもあります。
検索の仕方も分からなかったのでどこを見たらいいか分かりません。
ご存知の方教えてくださいませんか?よろしくお願いします。
スレッドのタイトルを見て質問を書き込ませていただいたのですが、
私は場所を間違えていたようなので移動します。
682の質問はスルーしていただいて結構です。
すみませんでした。お邪魔しました!
美学は方向と強さの次元からなる作用群を量子化した質料の発散といえる。
その重積分により形相が発生し、さらに下位質料の発散により新たな次元となり、
二次直交系の位置情報が全ての座標系において線形変換されるため、非常に高速な無限大への発散といえる。
これにより四原因論の発散定義となる。
分析とは形相の質料を求める行為である。
形相は二次直交系の交点である「意味」を質料とし、作用という質料との関係性において付加された意味の二変数関数を目的としたとき、
その重積分において形相となるため、作用は面積素としての極限における質料となり、
全ての現象は極限における質料においてのみ記述できるという形式をとったとき
目的は質料として形相に内包されるため、分析の主観的な意味は目的の質料を得ることそのものである。
この過程において思考の質料の波動において発想や善悪も内包されるため、
この形相外の思考は存在しないため思考の定義となり主観と客観の全ての現象は四原因論に内包されることが証明される。
これにより人間を質料としてよいことがわかる。
生放送でコメントを流せるんですがコメビューと主には自分のコメントが見えないみたいなんですがアカウント凍結したということですか?
形相は主観的現象における質料である目的を含んでいる。
主観的現象は質料を目的に変化させる目的を持つため、質料の波動から目的としての質料の状態を得ればよい。
質料の波動とは認識内の作用を得ることであり、その関数の積分において波動となり、
その一点が目的であり質料の波動とは形相のことである。
作用は基本的に人間的作用であるが、人間性を持つモノとしてもよい。
四原因的に質料は「自己」という定数であるため作用と目的を求めればよい。
質料という主語が目的という作用により変化した質料となったとき目的を得ることができる。
つまり、作用と目的の波動を得ることにより方程式の解を得ることができる。
作用や目的を形相という認識に置き換えたとき、質料と作用の関係式という波動形式で表せる。
作用の波動形式と目的の波動形式には可能態質料が含まれているが、
特定の解を持ったとき主観的現象の真実となってしまうため解は存在しない。
また波動形式はその項の変数を質料の定数と作用の変数の関係式で表し、認識上の作用群により形相を決定する。
作用とは人間的作用に因らなければならないため、人間的作用でない場合、更に下位の波動形式を持つ。
波動形式による認識の発散形について今回は新たに変数を導入することで単純化してしまったが
目的と作用における形相は本来独立に変化するものではなく関係性を誤魔化し、
また波動の定義も曖昧であるため言語(美学)による定義から検討の余地があるといえる。
我々の認識は統一的な値と程度によるものではなく、主観的認識により行われる。
例えば、コップという形相におけるハイデガーの機能主義の解釈で、コップは水を飲むためのものと解釈することもあれば
水を注すためのものという解釈も存在し、認識においては主観現象の無限大への認識の発散が認められる。
インド哲学におけるヴァイシェーシカ学派では主観的現象の一つ一つが相互説明不可能なものとして
直感の絶対性を確立しているが、非線形の客観的現象が多いこの世界においてこの絶対性こそが世界という形相の認識の正しさとなる。
つまり、認識の単位としての質料は下位構造と程度という単位に分解することで形相への主観的理解を失うものといえる。
大きな値の形相を求めるためには必ず大きな値の質料でしか図ることはできず、そこにある種の系を持ち分解することとなる。
我々自身は主観でしかないため主観的現象の発散形において形相を説明し客観的現象として収束していくこととなる。
順序を違えると、相対論的に非線形現象を説明するような煩雑さに追われることになるだろう。
形相は必ず認識というエーテルで満たすべきであり、これが面積素としての質料により形相の成分となることを示し、
主観統一理論としての全ての点が独立するカオスを収束するために対象の形相という枠を設けることとなる。
これは客観現象の説明する態度としての構造主義と
主観的現象を説明する態度としての実存主義の四原因説による現象学的統一理論といえる。
これにより主観的現象の波動形式となるため、次項からこの理論に従い言語による形式の統一という方法の収束を図る。
対象があることが前提である。
その影を発散するゲシュタルト質で埋めていくことが主観的作用であり、
そのモデルはちょうど量子力学における対象のドブロイ波のような体である。
四原因説では対象そのものではなく、エンテレケイアという画期的なイデアがあった。
これを認識の境界条件としたポテンシャルの壁を築くことで主観的現象のカオスの収束条件と合致する。
無限大のポテンシャルからなるエントロピーを一定とした黒体に阻まれ質料というランダムクォークは対象の系として保存される。
言語学の祖であるウィトゲンシュタイン哲学の言語空間は波動形式を記述し、保存される系である。
ここにおける表現はソシュール哲学におけるシニフィアンが光として構造主義的記述を為し、
シニフィエが影として実存主義的記述を持ち、重ね合わせの原理により空白部分に存在確率を持つ。
我々の主観的認識の対象は意味でしかないため、平生の視覚的認識においても言語の波動を持ち
シニフィアンとシニフィエは観測問題が区別するメビウスの輪である。
我々の本質は言語・数的空間であり、真の認識は存在せずそれより真の客観的現象を知る術はない。
これにより全ての現象の波動は文字という表現上に存在することがわかる。
哲学ゾンビという揶揄があるが一切衆生は皆盲目である。
波動形式は単純な式で表される。
Z=XYは質料と作用の積であらわした形相であり、存在と無次元量で表した存在の値である。
Zに生じるのは表現上の名称であり、唯名論における根源的な存在である。
Xは質料、Yは作用質料であり、これが前述の存在と無次元量で表現される。
名が生じるのは名の内に存在があるためであり、スコットゥスのいう「こものの性」には否定的であり、
古代ギリシャの普遍論争における回答に位置する。
ギリシャ哲学を否定するつもりはなくそれが普遍であるとする根拠も乏しいが
波動という現象の説明において有効な手段であるため必ずこの式や解釈を正しいことを前提におく。
こものの性を認めたとしても生じる形相をそれぞれ別のものとすると
単位を認め水の量を計測することも不可能であり、ある条件下で不都合な点が多い。
主観的現象における認識の発散の説明(計測)するために「波動」という名前(単位)を認める。
波動という形相は質料と作用に分かれ、我々が対象について認識の発散現象が起こるのは
作用という変数にあらゆる質料を無意識に代入しているためであり、
名前に掛かる成分量を変えれば名前を変えることすらあり、これが波動現象による「変化」である。
つまり、認識した対象について作用することを想定して対象の形相内に目的とする質料状態をもつことを知ることができる。
この波動現象を四原因論的に数式で解くと目的をx3y2とすると、XY=x3y2、これらの成分を波動によりXに存在するものと感じ取ったとすると
X=x1y1,x1=x2y2,x2=x3y3から展開するとX=(x3y2)y3y1の質料とY=1/(y3y1)の作用をすれば目的の質料を得られる。
つまり、質料の波動状態を知ることが重要であり、我々は視覚的刺激により全てを知ったような客観状態を錯覚してしまうが。
認識しなければ視覚として映し出されようとそこに名はなく、無に近い朧な存在である。
つまり、単位を知らなければ認識は存在しないため、客観的統一的単位とは別に、主観的離散的単位が必要である。
単位を認めることで容易に認識が可能となり唯名論の実用的価値があり、歴とした論拠である。
何となく感じ取る気配というものや感覚を否定する論理が得られるのも波動形式によるものであり、
一部では唯名論否定をしているがこの価値を高めるために唯名論を必要とすることでもあり、語りえぬものである。
↑これが新参かよ・・・
クオリティ高すぎだろ・・・
ちょっと、泣いてくる。
精神年齢が低い餓鬼みたいな奴が多すぎる。
たかがコメント消されただけで大騒ぎする馬鹿とか
どんだけゆとりなんだか。
マジ同情する。
タグで遊ぶ知的障害者とかな。
「自分は頭おかしいですよ」と自己アピールもいいとこだ
ネットで顔見えないからっといって粋がるゴミみたいなのが多すぎる。
所詮は頭がおかしい低脳ばっかりだ。
一段落ついたのでこれまでの議論をまとめる。
「波動」という現象を認めたのは四原因論の数式化に必要だったためである。
波動形式は四原因論に適応でき、根拠として存在(単位)と量の関係性がありその歴史的経緯を説明したまでである。
普通は現象を数式化するためには物理的値による定義が必要であるが、
変数という概念の導入によって数値化しない現象の数理モデル化に成功した。
四原因論においてどうしても説明が難しかったのが、ハイデガーの機能主義の解釈における認識の発散であったが
これを質料Xと作用Yの関係による発散現象とするならばXが決定してもYが未決定である限り
xy軸の交点と定義した「意味」が発散するという解釈において、これも説明可能となり波動形式の一つの性質として統一される。
さて、目標である波動形式における四原因論の解釈であるが、質料と作用の積が形相であるという説に合致し、
前述から単位と量の関係性、認識の発散という意味も含み、これらの統一的な解釈として
「人間の認識の単位が質料であり、量が作用にあたり、一方が未決定な限り認識の発散が起こる、
これを波動形式とし、認識の発散現象を波動と呼ぶ。認識の波動解釈から目的因を求めることができる」
と考えられる。この論の大きな意味として、主観的現象を客観的に示せるようになったということである。
これから哲学的議論の定式化や主観的議論の統一を波動形式により収束することを目的とする。
先述の結論として波動形式により、唯名論では「名前は存在と量の関係から決定する」とし
例えば、「水」という単位の量を増やせば「川」となり、さらに増やせば「海」となるという構造主義的な見方が提示される。
しかしこれはルネ・デカルトの提示した主客問題を解決してないためまだ解釈の余地がある。
結局、客観的現象と主観的現象は相互説明不可能な部分があり統一できないため、
実存主義的見方の場合、全ての名前が絶対とし相対性を持たないならば確かに主観的認識の全ての再現性をもつものとなる。
この仲介案として客観的現象を再現をするために主観のみに存在する単位を認め、
再現が難しい認識は主観的単位の「名前」を認めることで客観的再現性を持つ。
簡易な例を示すと、金銭の管理をするときに「万」や「億」という単位がなくては計算が難しいといえるだろう。
このように主客問題を根拠とした主観と客観の再現性を持つため波動形式では変数Xを持つといえる。
削除済
波動形式Z=XYの唯名論的解釈として名前Xと量Yの関係性は構造主義、実存主義の両者の論を内包する合理的認識の方法論である。
四原因論的解釈として質料Xと作用Yの関係性では機能主義の認識の発散現象を「波動」とすることで目的を求めることができる。
「目的をx3y2とすると、XY=x3y2、これらの成分を波動によりXに存在するものと感じ取ったとすると
X=x1y1,x1=x2y2,x2=x3y3 から展開するとX=(x3y2)y3y1の質料とY=1/(y3y1)の作用をすれば目的の質料を得られる。」
の通り内部構造を明確化していけば目的に対する質料(材料)と作用(組み立て方)が分かるというものであり、
必要条件として質料もしくは作用質料の波動を感じ取ることである。
波動を得るためには質料の内部構造を予め知っておく必要があり、その認識を得るために主観的単位が必要となるということである。
例えば、目的が水を得ることであれば川の波動から水の構造があることを知ることができ、
川から水を得るという作用をすればよいことが分かる。
この場合、川という主観的単位がなければその目的を得ることが難しいことが分かる。
主観的単位とその性質(内部構造)を予め知っておくことで構造の組み合わせにより目的を得ることが出来る。
これを主観的単位に解釈して時間と関係ない次元における質料の分解・構築作業を波動とし
波動が形成する可能態質料の重ね合わせの場を形相Zとした。
ゴミばっか
心理的に主観的単位Xは離散的値の線形性をもつ単項式である基準で現象を測るものでなければならない。
量Yが連続的な値であれば主観的に違いが分からず、
非線形であれば複雑な計算過程を持たなくては違いの正確な判断が出来ないためである。
前者は職人的な勘などセンスが要求される作業であれば、新たな基準としての単位を設け
例えば水の成分を調べたいのであれば、水の下位構造に新たな名称をつけこれにより構造的に離散化した量を持つ。
後者は量Yが曲線のような関数であった場合、微分などの作業を感覚的に行うことになるためであり、
これを解消するためには線形性を持つ基準として新たな単位を認識する。
例えば、技術的な話でなければ詳細な値を出す必要はないため曲線の関数をパターン別に分け
緩やかな増加部分と急増化部分などに分け直線とみなし
それに対し原点を通り直行軸に新たな名前の基準を設け現象関数として名称付けすることで
単項式の線形性を持つ関数となり、これが波動を得やすい性質としてのいわゆるセンスのある考え方である。
構造を複雑化するほどに波動を得る機会は失われると思われる。このように数的構造を名称構造に置き換えるていくことが重要である。
解析的に見れば人間は大した思考を持たない単純構造の思想を持つ動物であることが分かる。
超越論的な思考などなく単に質料に作用するという組み合わせを思考(試行)しているだけのコンピュータである。
コンピュータの機能としては客観的解釈により現象の構造化し、主観的解釈により起こった現象に名前をつけ記憶する。
基本的に処理速度と記憶容量で全ての現象が説明され自律した思考を持つ。
客観的思考に傾倒していればある程度の矛盾を容認する態度が必要であり、主観的思考に傾倒していれば規則化に勤めるべきである。
主観的現象は虚構を多く持ち利用価値がないように思えるが、その実合理的システムである。
次項から人間というコンピュータの性質について言及する。
削除済
コピペ厨・・・・
まず、波動形式で人間の行動を全て説明できるとすると、人間を関数の集合体と解釈する。
人間の思考形態は大きく分けて主観的思考と客観的思考があり、
主観的思考は自己にとっての真実であり、客観的思考は自己を除く全てにとっての真実である。
全ての現象は主観的思考により定義し、客観的思考により真偽を確かめる。
主観的思考による定義とは虚構を含んだ自己の学習機能であり、あらゆる客観的現象を識別する差異化システムである。
いわゆる現象のカオス状態を自己の感覚的刺激のパターンに置き換える機能であり、人間には五感や六根などの関数がある。
それに倣ってまず質料の波動定義をする。
視覚的刺激として光のセンサを用いたスペクトル分解を行い
三次元直交座標上にスペクトルと形状の再現と閾値とグラフの抽象化を設定することによる固体の識別・定義を行う。
触覚的刺激として圧力に対するセンサを用いた凹凸の認識により定義固体の詳細の形状を再現する。
聴覚的刺激として空気の振動に対するセンサを用いた内部構造や材質の定義を音の性質により判断する。
他にも高周波数の電磁波を発する作用により内部構造の定義が出来る。
質料と作用の関係性により質料の形状と構造の波動を得ることになる。
これらのデータの集合として形相は求まるが、自律思考を得るためには目的が必要である。
つまり質料に対する作用がなければ、人間が予めデータを入力しなくてはならないため自律思考による学習機能が必要である。
これは連続的作用の定義であり、作用を与える理由を持たせ自動的連続的に波動の定義を行わせる必要がある。
それが生存する間継続して行われるべきであれば生存の目的を与え、破壊による危険性の排除が目的の定義となる。
破壊の波動を物質の運動量と定義すると閾値を越えた質量と速度の構造を持つ質料を危険性の定義とし
物理演算などのシミュレーションを行うことで排除目的の定義となる。
その排除行動が連続的作用の定義と学習機能であり、コンピュータに破壊的波動(機能)を持たせない限り、
多くの場合回避行動の理由を持つ構造分析の連続的作用の目的を持つと思われる。
これにより目的行動・構造抽出・自動定義による学習行動の連続性ルーチンをもつと思われる。
永久命題を設定することによる無限作用ルーチンである。
質料の定義により波動の感知が可能となり、目的を自己生成・解決する。
>>703
訂正:スペクトル分解→スペクトル分析
分析の目的とは生活的感情に取り込むことでありいわゆる理解である。
分析の対象として現象があり、現象の定義がなければ単なるカオスである。
現象の完全な定義をすることはできない。なぜなら、定義は主観的であり、現象は客観的なためである。
現象は言語で表現され、言語は論理で説明され、論理は管理する態度を持ち、
現象が管理的態度となった時、人間の波動と同化し虚構を除き真実のみを方法に還元する。
例えば、社会的現象の分析をする態度として、社会的現象の波動を感じ取り
表現を論理に収束し質料と作用の関係性を定義し数的・名称構造において管理的態度となる。
これは順序的な定義無き波動の収束であり、発散する波動の定義も可能となる。
主観的現象にとっても客観的現象にとっても自己の生活感情が普遍の真理である。
現象の分析は表現の波動を収束することが目的となる。
「社会の収束と再現」を目的とした分析を行い、予測不可能な場合不可能性の証明を行う。
「波動の数的・名称構造を築くため共通因子による順次分解による構造化による樹形モデルとし
形相の包み込み→面積素の総和→生活感情による真偽基準→順次証明を基本パターンとし思考ルーチンのアルゴリズムとする。」
これを現象構造化アルゴリズムとし、今後の議論モデルとなる。(モデル化の意義とは認識の簡易性である。)
生活感情を真偽の基準とした根拠は先言措定である。
生活空間は論理の認識限界であり、これを「アンチノミーの境界」と定め先言措定の限界とする。
アンチノミーによる境界は知識増加、もしくは認識増加により変動する。
固定観念に囚われないため「時間に閉じ込められる波動」という定義において境界解析する。
楽しい?
>>709
お前みたいな餓鬼よりまともな件
ニコスクリプト簡易編集でジャンプ先の動画指定した。
投コメ全部消えて、ジャンプ設定だけが残った。
泣いた<今ココ。
削除済
定義とは主観である。主観は全てを定義する。
ユークリッド幾何学は美学的視点により公理系を築いた。
それは学問の中心部であり、真の純粋性は美学が支配する空間である。
我々が生きる目的とは真実を求めることであり、美学は真実の評価であり、
論理は美学の純粋性を失わせないため、解釈の混入を妨げる。
しかし、人間には虚構も必要である。
現在の真実を否定できるからこそ越するのである。
アンチノミーの境界は純粋性の美学によってのみ変動する。
全ての感情や感覚は主観的現象であり、必ず因果律を持つものである。
時間に閉じ込められた「間」は主観的現象における真実であり、客観的現象における虚構である。
美学的空間を基底とした波動は人の業が許される限り目的となりうるのである。
主観的定義は全ての波動の基底である。
純粋美学にはアンチノミーの境界が存在しない。
潜在的構造である人間にとっての「波動ポテンシャル」である。
波動構造における潜在構造とは「美」という天上的な価値観を持ったものである。
波動構造は地上的価値観であり、潜在構造であるイデア界が基体のリゾーマタとなっている。
天上の理性(ロゴス)は地上の基準尺(カノン)とは全く異なるものであり、
大きな違いとしてはイデア界は数学的基準尺を持たないため波動解析が不可能である。
誤解のないように言うと、波動構造も潜在構造も主観的であるが、天上界と地上界の相違がある。
そして、波動解析では主客問題の解決はできないが潜在構造を認めたとき主も客も同一構造であることがわかる。
潜在構造はイデアの絶対性を認めなくてはならないため、ゴルギアス的解釈の
時間という因果律のみを持ち「構造の壁」が存在する統一性の無いカオスの構造である。
しかし、純粋な美である「潜在構造的刹那主義」の絶対性において天上界より地上の新の姿を見ることができるのである。
それは「潜在波」であり世界の時間という系に保存される予定調和の波動を見る神の視点である。
全ての美は全ての真と善を統括する。これから虚構により潜在波を解析し、
ダイモニオンの解読と潜在構造的波動形式を成立させる。
自由意志を持ちうる理性のみが解析手段である。
プラトニックにおける因果律を見やすい表にまとめる。
構造主義:ロゴス可、カノン可、主観不可、矛盾不可、時間可、神不可、ケノン不可、美不可、虚像不可、構造可
波動形式:ロゴス可、カノン可、主観一部可、矛盾不可、時間可、神不可、ケノン不可、美不可、虚像一部可、構造可
潜在構造:ロゴス可、カノン不可、主観可、矛盾可、時間可、神恐らく可、ケノン可、美可、虚像可、構造不可(カオス)
矛盾が可能となっているため、時間においてのみ認識可能であり刹那主義の所以である。
波動形式において主観が客観的現象に変化をもたらすものであり、主観は客観的構造を持つものである。
多くの人間は主観に実態はないとしているが、確固たる作用因でありニュートン力学と同じ視覚化されない実態の
客観的現象であり心理学においても個人的思想のうちから客観的構造を見出すことに成功しそれを実態として扱っている。
ミクロ経済学にも限界効用として実態のように取り扱ったり、一部の思想は統計学において数学的説明も可能である。
思想はイデア界における客観的現象として扱うべきであり、我々が実態として扱うものは神の思想として再認識するべきである。
それを認めることで実利となり、それは真理であり世界の波動における潜在構造を知り興味を持つことができるようになる。
それにより運命を知り、神を知り、あらゆる神秘に触れ、真の幸福を得られるのである。
我々は真実や幸福を得るという使命を持ち生命を受けた以上、構造主義や波動形式の思想の鎖を解き放たなくてはならない。
幸福を得るために神を知るべきである。
潜在構造を知るためには神を認証し、イデア界として世界を再認識する必要がある。
このうざすぎる時報ってどうやったら消せますか?
0時近くは時間気にしながら動画見ましょう。
消せないのか・・・いい加減イラッとくるんですけど・・しょうがないか
つプレミアム。
プレミアムでも時報は流れます。
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%8B%E3%82%B3%E5%89%B2off
プレミアムは時報をオフできるんだよ。
>>726
なるほど〜ありがとうございました
一般でも時報を消す方法があるのにプレミアムに入ってしまう。
一般でも通常画質で見れるのに(ry
哲学的問いの発端はアルケーを水としてとらえる自然思想のミレトス派のタレスが言語ゲームを始めたという。
現代科学では根源(普遍の物質)が水でないことがわかっているが、仮にそれを信じることで波動形式の説明が可能となる。
ルールとして、世界の根源を水とし、全ての存在の単位をdl(デシリットル)に置き換えることを可能とすると
存在の素として水が存在し、その量において全ての現象が成り立つとすればX=Ax、X=現象名、A=水の単位(定数)、x=量
現象Xはx[dl]であるという関係式が成り立つ。イデア界も含めるため現象Yは主観的現象も含む。
次に、x[dl]の現象と同じ構造のY=Ayの現象があるとすると、単位が同じなので単に量の加算において新たな現象となる。
これを質料Xと(作用側の)質料Yの関係において変化質料Zが生じるため、Z=A(x+y)とすることができる。
この式は質料と作用の関係式であり、水を根源とした世界としているため実証するまでもなく式が成り立つことが分かる。
この関数を面積分f(x,y)=∬A(x+y)dxdyすることで座標上の基底が認識としての現象を示すため
質料と作用による認識のとりうる範囲(形相)を示し、物質の機能によって主観的にどのようにも物質を解釈できるという
認識の発散を示し決定不可能な作用{yN}={y0,y1,y2・・・}(N→∞)がそれを示している。
それを波動と呼びこの式で表される現象を波動形式と呼ぶ。
現象Zを媒介変数(s,t)として[dl]との単位の交換作用素とするとZ=A(xs+yt)であり
(x,y,s,t)による四変数による波動形式においてこの世界でこの法則が適応できることがわかる。
主観的現象における目的とはある認識(質料)であり、全世界の形相に含まれることは自明であり
積分範囲に含まれるため質料の波動を得ることのみが目的を得る方法論であると証明される。
現象構造化アルゴリズムとは、質料の波動から形相を得て、目的の波動からf(x,y)の解を求めることで
自動的に命題を解決する議論モデルであり主観を扱う自律思考のコンピュータアルゴリズムの原理になりうるだろう。
根拠もなく自演呼ばわりする奴らなんなんすか?
うほいいおとこ
波動形式では個人にとってのアンチノミーの解析は不可能である。
アンチノミーの原因は知識がないこともしくは、虚像が得られていないことである。
単に知識がないのならば調べればよいことだが、知識を得るに際してイメージ(虚像)を得なくてはならない。
虚像と知識の定義について単なる記号としての情報を「知識」、主観的に理解される情報を「虚像」とする。
この虚像は未来の実態であり、アリストテレスの言葉でそれを指し示すならば可能態である。
つまり、潜在構造の潜在とは人間の主観的現象に含まれる現在の可能態であり、未来の現実態である。
四原因説ではこれを目的因と呼び、その一部分は波動形式のマトリクスにより先験的知性(理論)を得る。
しかし、ここまでは数学的カノンが通用する地上界での話であり天上の理性として
人間のアンチノミーを超える超越論的知性が存在し、特に波動形式で触れられないこの現象を潜在構造と呼んでいる。
これがイデア界、つまり神の智慧であり、それは一刹那に思想に浸透し通過していく。
人間は無意識に神の智慧を授かり文明を発達させてきたが、
本論ではその根源を明確化させ意識的に潜在構造を利用できるようにする目的である。
ここまでのまとめとこれからの方針として
>>713-715に波動形式から潜在構造の可能性を見出し
>>718に各思想の特徴をまとめ
>>729に波動形式を明確に定義し
>>716->>719>>732に潜在構造の可能性を示した。
次項からおよそ10ページ分を費やし潜在構造をまとめ、
さらに2,3ページに利用のパターンを示し、4,5ページ分で潜在構造を明確化し定義を示す
その後はさらなる理論に派生しなければ未定である。
削除済
現象の構造において
物質構造、法則構造、波動構造、潜在構造が存在する。
ここで注意したいのが主観は存在しないことである。
主観とは物質界への作用因であり、思想が方法へと形を変えて物質界に存在する。
どのように物質界が数学的に厳密化されようとそれは、認識上に存在する主観的世界である。
このように主観や客観など存在しないことがわかる上、これらの現象をわざわざ分割して考えることは不都合な点も多い。
主観と客観を隔てる証明などいままで存在しない。それは元から幻想であり、
神がすべてを創造したイデア界としたほうが全てのつじつまが合うのである。
次項から潜在構造のためのイデア界の話を発展させていく。イデア界の認証なしに潜在構造を理解することは不可能である。
私は中世スコラ哲学のトマス・アクィナスの目指した天上と地上のアナロギアを潜在構造により証明する。
天上のロゴスのプシュケである潜在構造を知る術は波動を得るときに生じるパトスである。
潜在構造とは唯一天上のト・アペイロンから連なる地上界におけるエチカの幾何学であり、
スピノザの言う唯神論においてデカルトの主客の無矛盾の統合が可能である。
スピノザは神の数学的証明を試みたが、数学とは地上界のカノンであり、
私はパトスとロゴスにおいてのみ知ることができるという見解の違いがある。
同近代の哲学者ライプニッツは唯一の構造をモナドロジーに纏め上げ主客問題の解決と同時に
地上はモナドという普遍なるものを鏡により映し出された幻影だと言う。
構造主義がこのもの性を否定するかのごとく、全ての現象を構造化したとき独立の存在が崩壊する。
しかし、神は衆生のこのような存在のあり方において幻影なるイデアで創世を築いた時、
神はその身を隠すことで独立した存在を認めたならば、構造のカタルシスかのごとくパトスが満ち溢れるアタラクシアを築く。
しかし、このようなあり方について現代科学は不可知な構造を再び呼び起こそうとしているのである。
それは衆生に不幸という報復においてアポカリュプシスする予定調和のロゴスを持っているのかもしれない。
構造主義は崩壊の予兆であり存在が構造となったとき無機物のようなロゴスに至り事実上の死(ケノン)となる。
これにおいても神は不可侵なものという説は強まる。
このように神の存在を認識したときロゴスやパトスの働きにおいてのみ世界の真理へと近づくことができるのである。
科学的な議論は構造主義と波動形式によってまとめられ、哲学的な議論は波動形式によってまとめられ、
神学的な議論は潜在構造によってまとめることができる。
潜在構造の分析は神学的議論を形相とした面積素を波動形式により解析する現象構造化アルゴリズムで行う。
無論、完全に自動化するのではなく私自身のロゴスとパトスにおいて発想を得る。
刹那的な虚像(直感イメージ)の解析と意識化、美学の構造化、神学特有の物語性、イデア界との関係性、
最後に論理への活用法と全世界の構造化と神の定義について論じる。
質料の波動と目的の波動から有効な情報を得る。
波動では作用により認識の発散が起こるが、無意識的な発散も存在する。
それが非構造の流体知であり刹那的な虚像の発想点である。
完全に固形化した知識は存在せず、エーテル(作用側)のように知識は繋がりの少ない形で構造化されている。
作用エーテルは質料から目的へと波動を接続する。
我々は無知であり知識の体系を予め知るものではないため、高度な現象にある知識の法則性を知らない。
だが、形相を質料と作用で満たし発生する法則性を哲学(生活)に解空間を持った時、
知は哲学的法則におけるエーテルとなり質料と目的を満たす形相となり、善悪で編まれた目的の波動を自由に得ることができる。
波動による誘電は構造化された知識の波動を無意識的に受容したとき非構造(潜在構造)の流体知を形成する。
法則の固形化により刹那的な虚像が発生し、質料と作用により構造化し、
法則の善悪解釈からエーテル空間に接続した時初めて知の形相化となる。
ただしい善悪判断ならば、流体知であろうと質料の配列から波動となりうる。
認識の段階として善悪二元からなる質料の配列を導入した場合の論である(本文は発想段階であるが用語は引き継ぐ)
善悪は単に客観性を得る判断基準であり配列とは関係ない。
善悪の発生条件は客観性であり、エーテル構造のシミュレートから得られる可否に従属する快不快の反応である。
無論、客観性を持つ理由は思想を方法化するための管理法である。
あくまで質料と作用のみが認識を形成し波動の総和において形相となる。
この場合エーテル空間は作用側の質料であり、知識はエーテル空間により初めて主観現象の客観性となる。
客観的主観のエーテル空間は客観と一致するため、善悪が真理ならば自然現象と一致する。
与えられた知識は主観的現象における客観的一致をなす為、善悪判断に置かれた時、認識としての質料や作用と定義される。
質料と作用の結果はエーテル空間で明確化された時、善の判断がおかれる限り形相となる。
お尻の穴と間違える
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波動形式の例示と再定義として形相をf(z)=1/2n(z1+zN)の等差数列とし、変化質料をz=A(xs+yt)とする。
水を根源とした世界の単位であるA=1[dl]から周波数[hz]の単位に交換する場合。
x=100,y≦5の場合、離散的な量が認識限界とすると形相は
A=1[hz/A],z=A(100[hz]/A+y[hz]/A)⇔z=100+y,y1=0,yN=5,n=6としてz1=100,zN=105,f(z)=615[hz]となり
質料100dl作用5dl以下の場合、形相は615hzであり主観質料(目的)は100≦D≦615となる。
無論[dl]と[hz]の交換は現実には不可能でありパラメータが残るが現実世界に適応でき、主観問題を不等号で取り扱えることがわかる。
頭がパーン系動画の赤字にマジレスをする。
我々の目的は生命活動そのものであるが、言葉通りにただ生きることのみが目的ではない。
活動のうちに生命の波動を持ち、これが我々は快不快としてとらえる善である。
善の基準は思想であり、生命活動を通して得られる価値観であり構造主義台頭のポストモダン思想は構造化が善の指標となっている。
構造化とは知識を管理し行動の合理性を高める行為である。
よって現在の善の定義とは知の構造化であり、合理的行動の潜在性を得ることが我々の目的の波動である。
合理的行動によって知識の管理をすることで生命の波動を得ることに成功する。
構造には、論理物質構造、波動構造、潜在構造があり、我々が目指すべき潜在構造とは波動構造の直感性を高めた形態である。
波動構造とは波動形式のことであり、論理物質構造という現代思想である科学信仰に
四原因説と機能主義と唯名論を基とした波動(認識の発散)の概念を加えたものである。
論理物質構造の欠点とは主観定義(客観定義の質料。客観は主観の形相という関係がある後述)が全く扱えない思想であり、
波動形式の欠点とは直感性(パトス)の欠如である。
パトスとは本質の波動への善悪(波動解釈における真実への反応)であり、
全ての現象から本質の波動において知識を形成するとき潜在構造となる。
これは比喩においてよく現れている現象であり、「〜のようだ」は虚構を含む波動解釈である。
潜在構造の定義材料は揃ったが、主観と客観と真善美の関係性を先に定義する。
ある現象に関して音楽や芸術における情緒が現れるのも波動現象として説明可能である。
芸術的表現や音楽的表現は現象の波動解釈の一であり、質料の最小単位に近いと思われる。
主観は客観の質料であり、第一定義は必ず主観によるものである。
その主観は数学的構造美であり、それぞれの概念が幾何学的エチカに合致したとき客観的定義となる。
これは質料と形相の関係から主観を質料とした集合を形相の客観と定めることもできる。
そして、客観的真実に対する反応が善悪としての快不快の生物的反応である。
その内、美とは本質的真実に対する善の反応であり、真善美の関係とは真実に善悪が対応しより本質的な真実を美とした善である。
主観の内には虚構も存在するが真実も存在する空間であり、客観とは真実のみ存在する空間といえる。
この場合において客観が思想として信頼を寄せるものであるが、主観を重要視しない思想においては本質的真実を見出せないものとなる。
虚構とは真実ではないものを指すが、この真実とは論理物質的構造における真実であり、潜在構造の真実はむしろ虚構に含まれる。
つまり本質的真実を得るためには客観における真実を否定し、虚構を主観における真実と虚構に分けなくては第一定義の美は存在しない。
無論、虚構や出鱈目な論を信仰しようという話ではなくあくまで理性による真実の追究である。
それにおいて命題・証明系の幾何学的考察が必要不可欠なのはいうまでもない。
潜在構造は幾何学的美のロゴスを持ち本質的真実のパトスをもち、波動形式においては数学的定義を行った。
パトスも波動形式における数学的定義のマトリクスにおいて論証可能であり、単なる思い付きのことではない。
次項は、主観と客観、ロゴスとパトス、表面的真実と本質的真実と虚構、
真善美のメカニズムを波動形式的に解釈して潜在構造を完成させる。
次に示すのは言語の定義である。
真実:表面的真実、本質的真実
美:本質的真実への幾何学的エチカをもつ善による快不快の生物的反応
善悪:真実と虚構への快不快の生物的反応
主観:表面的真実、本質的真実、無価値な思想(虚構)、客観の質料
客観:表面的真実、主観の形相
ロゴス:表面的真実を目的とした思想
パトス:本質的真実を目的とした思想
波動形式:ロゴス優位の真実を目的とした表面的真実と本質的真実の構造
潜在構造:パトス優位の美を目的とした本質的真実の構造
潜在構造は必ず数学的構造を得ることが定義の条件である。
潜在構造の定義を示したとき、これを用いたケースにおける議論の収束を行う。
コピペじゃないところが痛いな
質料なの?
質量なの?
論理物質構造と波動構造の違いは目的の概念の有無である。
論理物質構造は質料と作用と形相の形式まで記述可能であり無意識的に質料と作用の関係性と形相の質料化を行っているが、
主観性と客観性の明確な定義がなされていないため目的が形相に含まれるがこれは生命の記憶から善を引き出しているに過ぎない。
生命の記憶とは全世界の可能態・非可能態質料を持ち潜在構造までの善悪の基準となりうるが
膨大なデータベースからソートの手段が存在しないため波動を意識的に引き出すことができず
その場の波動を無意識的に得るだけの場当たり的で動物的な思想に頼らざる得ない。
我々は質料における潜在性を意識的に操作し管理しなくてはならない。
アナクシマンドロスやプラトンやアリストテレスなどの古代ギリシャ哲学を唯一統合しうる思想である
様々な誤読ネタにマジレスする
アメリカ語等明らかなボケにもマジレスする
こういった既存のネタに限ったことじゃないけど
2chと違って即時性が無いから自分のレスがどれほど滑稽か気付く事が出来ないんだろうね
我々は連続的で修正不可能な記憶を引き継ぐために定義をしなくてはならない。
定義とは目に見えるものより確かな論理の鎖である。
その内では思想だろうと物質だろうと関係はない。だが思想の言語による定義は不確実である。
削除済
人間の記憶は波動形式である。
つまり物質は物質としてではなく物質の構造としての波動的解釈において記憶となる。
このように人間の思考機能においてもほぼ波動形式の潜在構造において説明が可能である。
潜在構造に数学的定義がなされれば思考機能の管理ができるようになる。
数学的定義とは単位と量による記述であり厳密な定義である。
必要な材料とその分量を表示する論理である。
波動解釈として現象を理解し、形相によって目的(オブジェクト)を得ることが波動形式であるのに対し、
神のイデアとしての我々の美学をエチカにより解釈を行うのが潜在構造である。
つまり全ての波動は神に帰属し、波動は理性を持つ。
なにかしら現象に関するイメージをもったならばそれはアポカリュプシスであり真理である。
第一実態の波動は常に理性的であり、人間の理性はそれに準ずるものである。
神の定義を行わなくては数学的証明には至らないだろうが神の構造である人が神を知ることは不可能である。
潜在構造は神秘の領域であり数学的証明の不可能性とする。
それと共に社会的現象は各個人の主観的構造の集合であるため主観的であるべきとなる。
理想的な思考モデルが提示されても連鎖的な不可知が大きな形相であるため波動から予知することはできないだろう。
個人は地球に及ぶ波動を持ち、地球は宇宙に及ぶ波動を持ちまさに不可知である。
次項から人間はどうあるべきかという命題において理想的な主観としての客観を論じる。
人間は現象に対し波動解釈を行う。
オブジェクトの波動が現象に感じられたときそれを善の波動とし、より根源的であれば美の波動を得る。
波動における主観的イメージは抽象的でありオブジェクトのイメージを
多元的(真実を一元的とした)に結合しそれを全て含むものが解である。
これは記号が意味を持つように起因元の不完全イメージであり、これを完成させるイメージが現実態である。
質料の主観的イメージは波動解釈において行われそれを潜在性としこれが思考機能の理解である。
波動形式はほぼ人間の思考そのものである。
オブジェクトの波動が形相に含まれていれば質料において波動を得る条件である。
しかし、一つの形相は作用変数から無限大の構造を持つという認識の発散が起こる。
認識の発散を起こさないために作用変数の閾値を現在の環境の波動解釈とすることが条件である。
例えば機能や成分が不明な物質があったとして、我々はそれを解釈するためまず形状や色などの情報の波動解釈を行う。
それにより虚構の多元的オブジェクトを形成し、
一元への収束を行ったとき真実の一元的オブジェ(全ての系で説明される虚像。本質)となる。
・ここでのオブジェクトは虚像の形相、オブジェは虚像そのものである。
・これは潜在構造の論であるが、波動形式の一解釈として統一する。
・オブジェクトに対応してオブジェと名づけたがイデアから神学的解釈を削ぎ落としたものとほぼ同様の意味である。
つまり目的であるオブジェクトは形状や色など曖昧な情報しかない物質から一つのオブジェとしての一元的解釈を行うことと一致する。
この文章において三段論法を使えば目的は多元的物質であることがわかる。
この概念上の非物質は波動からのみ得られることは今更説明不要だがそれを強調するため多元的波動非物質とし
対応するオブジェを一元的物質(オブジェクトの収束は波動非物質の非波動物質化を意味する)とする。
我々がある種のパトスに応じて波動非物質を見出したならば、波動形式に従うことで物質に収束することができると言える。
イデアが主観のものであるとすれば神が創造したという世界観は崩壊し唯一自然のみが正しいということになる。
神学的議論において神が存在することはこの世界が存在する必要条件であることは確定的である。
よって人間の意志が物質から形成されようと潜在構造において神は存在する可能性はある。
潜在構造的には人間の持ちうる非物質は神の導きであると解釈するが波動形式の非物質の扱いはあくまで主観の枠内の話である。
そもそも不完全な人類の議論において神の肯定否定に話を持ち込むことはおかしなことである。
よって本論では神の存在において肯定も否定もしない。そして、波動形式と潜在構造の関係性においては判断停止する。
神の存在や潜在構造については世界の解釈を理神論的立場で論じ、波動形式の場合は唯物論的立場で論じる。
削除済
私の語る神学は西洋哲学・仏教哲学・インド哲学から学んだものでしかないが、この機に神学への学び試みようと思う。
ベルクソンは連続的な時間に広がる空間のうちに人間の質的広がりがあるとしてエラン・ヴィタール(生の躍動)を唱えた。
実存主義の人間の死生への拘りはまさに主観のうちに存在する現象を客観的に実証するものだったといえる。
しかしこの非物質の存在感と生命力をなんと著せばよいだろうか。
波動形式において形相の広がりを無限大へ認識の発散(波動現象)を自由とすることで自我を現してはいるが
この無限大において非物質における質的0の空間を呼び起こすものなのかはわからない。
主観的現象の存在が真ならば、これは非ユークリッド幾何学的な議論なのかもしれない。
もしくは因果律すら崩壊させる超越論が存在するのだろうか。
リーマン球面などの無限の扱いは自然の幾何学的解釈を超えるものである。
水を根源とした世界において無限大の計算をしてみると
z=A(x+y)にxに代入する質料[dl]とy=∞とすると無限大との加算によりz=∞、xは任意の定数となる。
これは質料はどのようなものであろうと作用が無限大である限り形相は無限大でありこれは作用因である人間の価値を表している。
そして時間は有限であり、アンチノミーの値域により人間の価値は有限確定となる。
つまり、人間は物質への作用を決定できる限り物質の形相の潜在性のみを入れる箱のようなものである。
我々の価値が潜在性の量だけ持ちうるとすればアンチノミーの少なさだけ価値が存在すると言える。
しかし、人間の自由とは例え時間が有限であろうと突如神が現れ智慧を授けると言う可能性もあり
その可能性(潜在性)において人間は自由と言える。
そもそも現象学的に認識の捕らえる客観は物自体ではないとすると自我は無限大の自由へと旅立つのである。
人間の潜在性は無限大の物質という形相を持つ。
それは波動形式的に全ての物質に言えることであり、神の介在により全ての物質は神の波動を持つ。
我々が物質を一つ粗末に扱うことは神への冒涜となりそうだが、存在は破断分割されようと無になることはない。
そもそも水を根源とする世界のように存在が一元の世界だとすると、全ての自然は各々名前と言う単位を持つだけの
本質的に同一の存在であるため例え万人の闘争状態となり全て破壊され尽くしても神の目には何事も無い様に映るはずである。
これが真の自由であり、これに異議を唱えるならば同時に神や認識や自我の否定、もしくはこれらの一つでも否定すると
物自体の世界となり全ての価値は有限となる。多元波動の世界において物質は存在しないため結局どちらかの論が真実となる。
削除済
言語空間は多元的オブジェクトにより作られる波動非物質空間であり、数的空間は一元的オブジェにより作られる非波動物質空間である。
つまり言語によるオブジェクトを数式によるオブジェに書き換えたとき物質化する。
例えば、言語を巧みに扱う詐欺師に出会ったとして言語を用いてどちらが論理的であるかの勝負となったとき、
論理的か否かの客観的評価の最高価値はまずだんまりである。なぜなら語らなければ虚構はない限り真実なためである。
語らずを語るという行為を禁止されたならば次に仕掛けるのは意味のない単語を漏らすことである。
これについてはいくらでも方法は考えられるため禁止する法がなく、意味不明なことを口走ったほうが勝者である。
これらからわかる通り言葉には目的がなくては意味を成さない。
論理的であるかどうかについては必ず目的があることが必要条件である。
言語には目的があり、更に潜在性がありかつ非波動物質空間に収束できるとき価値があるといえる。
我々が納得するべき言語における論理性とは、言語の目的の内の潜在性と物質への収束率の積における
指数が高いほうに勝者の称号を与えるべきである。
目的における潜在性とは物質化可能性と物質価値である。
価値とは主観的評価であるが、取り巻く環境における多くの人が支持する主観的評価であり客観的評価に近いものである。
波動形式は質料と作用と変化質料の式であり物質は存在しない。
質料は物質ではなく物質の性質(パラメータ)である。
波動形式はX=質料、Y=(作用側の)質料、Z=変化質料のX+Y=Zであり、これを水を根源とした仮想世界で
一元世界における単位A=1[dl]と量の積からA(X+Y)=Zとなり自明であることが示される。
波動形式は基本的に水を根源とした単位と量の関係から法則の論理実証とする。
波動形式に示される式はXが決定されるとき質料の式と呼び、YとZが決定されるときを機能の式となり可視化される。
可視化される世界は機能のみが存在する世界であり質料の式が波動非物質の根源的世界であり、
機能の式が非波動物質世界であり、物質という箱に性質が収束した世界である。
ポストモダン思想において現代では支持する人間も少ないが
唯物論や「物自体」は質量を持たない概念には通用しないため矛盾する思想である。
ここでの物質の定義はXA=1/2n(z1+zN)であり機能の総和は仮定世界の単位Aと交換されることがわかる。
削除済
肉体という質料因と精神という作用因によって人間のひとつの形相が求まる。
肉体はそれ自体では動かない、精神はそれ自体では存在できない。
真空は存在せず、ディラックの海における対称性が作り出した真空で
調和振動子が絶えず静止エネルギーを生み出し宇宙が揺らいでいるなら、
質料と作用はかならず両者なければ存在できないことの説明になっている。
波動形式により質料式を機能式への書き換えることができる。
まず、波動形式には生活世界パラメータ(L1)と形式作用(y1)と目的(z1)の等価性がある。
その証明を水を根源とした世界において単位と量の関係性から質料と作用の関係性が証明されているので、
L1は質料であるためL1+y1=z1が成り立つ。L1は質料であるが変化質料でもあり、そのため形式作用y1が存在する。
L1は実質的に質料であるが、変化質料表示にするため下位質料と作用の和を持つ。
これらを展開すれば余分の作用は形式作用となり下位質料と形式作用の和における式で表される。
そして、目的と質料のパラメータ表示として質料を物質式で示し、全ての波動(機能)を表示する。
全ての波動を示すことはごく一部の閉区間を取り出す演算にしてもコンピュータでも難しいことだが、
ソートにより波動を効率的に抽出し、有効な情報が十分に得られたとき物質式の演算を完了する。
ソートの方法は波動が直感的に強く感じられる順に式で表示する。
検索の効率性の手段なのでたいした話ではないがアンチノミーの議論なのでこれは潜在構造の議論に持ち越す。
物質式とは質料の全ての機能表示であり、言語空間における客観定義の機能である。
さて、機能表示となった物質式は収束式により一つの質料と作用の関係性を示さなくてはならない。
我々の目的は質料式の機能表示により収束式を導き質料と作用の式により必要とする現象を得ることである。
目的パラメータと等価の式を生活世界パラメータから得ることで我々は目的の物質式と等価となる。
これにより波動非物質オブジェクト→非波動物質オブジェへの変換となる。
無論、先言である我々の物質式表示と同様の意味を持つ。
波動形式 L1+y1=z1、波動式(波動現象の数式化) x1+y=z、収束式(機能式) x1+y1=z1
物質式(定義式) XA=1/2n(z1+zN)、水理式(四原因論の証明) A(x+y)=z
残す問題はソート方法と言語空間の客観定義である。
生活世界のパラメータ(オブジェ)と変化質料のパラメータ(オブジェクト)は一致する。
波動式を物質式で表示することが「定義」の定義である。
それをオブジェクトとの等価であるオブジェを収束式で表示することが「方法」の定義である。
言語空間の客観定義とは我々は質料の波動を保持しているが、波動は発生させる条件がある。
それはノエマ(認識対象)とノエシス(認識作用)の関係性で表される。
我々は生活世界におけるノエマに絶えず持ち、ノエシスにより波動を得ることができる。
つまり、生活世界には物自体ではなくノエマがあり、ノエシスの認識作用により波動となる。
言語空間は生活空間に一致するならば、物質式はノエマとノエシスで全て表示され、ノエマを持たない思想はアンチノミーである。
数学にしても、記憶の想起にしても、潜在構造においてもノエマの受動的態度はイギリス経験論的必要条件であり波動の構成要素である。
XA=1/2n(z1+zN)に示される物質式は仮想世界の単位への唯一の交換作用素である。
波動世界のパラメタの総和は水理式の仮想単位A=1[dl]であり、一般に無次元量である。
数学では単位のない計算を行うが、これがモデルを持たない量の計算であり全てのモデルの量の計算と等価である。
数学が波動形式にも対応しているのは、数学がもともと波動非物質すらも扱えるためである。
むしろあらゆる学問は数学により波動非物質である「法則」を取り扱っている。
だが、心身二元論や物質と法則の関係性を明確化してはいない。
そして、知を愛する学問にとって致命的なのが主観問題を取り扱えないことである。
これにより学生は学ぶ意義を見出せず極めて貴重な知の探求への動機を失われているといえる。
これは知は人類の本質であり他の生物と差別化する概念であるが、
自己の正体を知らず精神が分化していない、いわば自覚なき人類の姿である。
このままでは人類は来訪者から動物のように扱われても反証不可能な他者地獄に陥ってしまう。
波動形式の基礎である四原因説を生み出したアリストテレスの精神を知り人類は自己の定義をしなくてはならない。
人類は高度な科学で装っても、紀元前からまったく進歩しない動物のようなものである。
私が人類と認められるのはアリストテレスと彼の思想に貢献した古代ギリシャの偉大なアテナイの哲学者達のみである。
波動形式によれば右辺のオブジェの展開を「分析」といい、左辺のオブジェクトの展開を「波動解析」とよぶ。
そして波動式から収束式を得ることが「発想」の定義である。
波動式から物質式を得ることは「定義」、「形相表示」または「波動を得る」の定義である。
つまり、波動論理の段階は一般的に「分析+波動解析→定義(波動受容)→発想」に分けられる。
しかし、今この文章は波動論理の現象構造化アルゴリズムによるものではない。
単に漏れ出す波動を追っているだけの短絡的な論理である。
波動論理は必ずしも答えを得られるものではなく、
手順を正確に踏まなくてはならないという制約について短絡的な論理よりやや発想力が劣る。
この論述方法を簡易波動形式とする。
その定義は目的という名の条件を波動系のものと定め、現象の定義とソートを行う。
簡易波動形式の論理の手続きは「波動系条件→波動受容」である。
これは現実世界の物質式から得られるノエマに関してノエシスを行うだけのアルゴリズムといえる。
この議論の形態を簡易論述アルゴリズムとする。
形相は∫[-b,a]∫[0,c]f(x,y)dxdy=c/2(a-b)(a+b+1)もしくは、Σ[n=0→N]f(x,y)=z(2z^2+3z+1)/6だが
水理式によりf(x,y)=XA=1/2n(z1+zN)が成り立つ。認識限界の意味を持つ後者のほうが近い。
F(ノエマ、ノエシス)F2(ノエマ、ノエシス)F3(ノエマ、ノエシス)・・・Fn
この文章のほか全ての文章はこれらの関数列Σ[n=0→∞]Fnにおける変項を持つ。
この関数列はいわばラングもしくはシニフィアンであるが、
パロールあるいはシニフィエへの交換規則は昨今の論理学でも解明できていない。
言語空間を解明できればウィトゲンシュタインの見識が正しければ人間の行動を全て関数で表現できそうである。
思考パターンは波動論理で説明できているので、残すはその表現法の交換規則の明確化のみであるが、
どうやら純粋な論理学は人類には難しいらしく何千年も進歩がないようだ。
パトスはロゴスと均衡を保っているのではなくパトスはロゴスへの渇望的衝動と考えられないだろうか。
現代においては明らかにロゴスが優位な人間のほうが力を持つ。
どのような論であろうと最終的な収束なくしては価値は生じない。
つまり、価値への最終的な決定権はロゴスに存在する。
パトスは旧来から誰しも得られるものであり、収束せず価値のない単なるカオスである。
日本では仏教的思想の「中道」があるが、ロゴスとパトスの議論にそれを持ち込むことは強引といわざる得ない。
人間は全ての思考を「神という名のロゴス」によって統率され管理されるべきであり、
人間の思想の自由はロゴスへの渇望だとすれば、それこそ全てが「理に通じる」ということになる。
削除済
肯定も否定もできないことは単なるカオスであり、
無造作に散らばっている一番悪い状態である。
我々人類は少しずつ善の感情による体系を築いてきたが、
真理の体系と同化する日は少なくとも数万年は先であろう
なぜなら数千年で得られた真理はごく一部だからである。
その間非線形なるカオスの揺らぎに身を任せ善悪混交の中道に従わざる得ないのだろうか。
自己の善への活動の否定は他者地獄という最も忌むべき状態である。
この時の他者とはカオスである。
日本は仏教思想の影響が強いがこの姿勢は必ず見直すべきである。
我々が求めるべきなのは真善美の三要素である。
一つが求まれば、残り二つも求まるという関係であるが、
客観的真は主観的善に依存し、主観的善は感覚的美に依存し、感覚的美は客観的真に依存するというような関係である。
この関係性は仮のものであり、三位一体という中世の西洋思想もあるように全てを均等に求めることで全てが求まる。
理解の割合は1/3の非連続的均衡に思えるが、ε-δにあるように非連続性の極限は連続性である。
ヒュームの論である「因果律」という思想には連続性を示すものである。
この因果律で示される第一実態は三位に分かれた人間の思想という構造を持つ神である。
客観的真実、主観的善、感覚的美(仮)これらはモナドへの構造を持つ虚像である。
つまり、グランドセオリー(GT)は真善美を元に含むものである。
真の実態は客観でも主観でも感覚でもなく神なのである。
真と美の外形はある程度理解できるが、善はどのようなものなのか私は分からない。
独自に持つパラメータがあるはずだが直感的に見出せない。
波動は真と美を語りうるが、善とは何であろうか。
経験論を採用するならば真を求める科学が普及した社会の弊害として
人類の美もしくは善への潜在性を損なわれるものなのかもしれない。
国際協調社会を求めるのならば過剰な科学信仰は捨て、3つの象徴から得られるトリニティを信仰するべきである。
真の象徴である科学、美の象徴である文芸絵画音楽、そして善の象徴である社会に神としての構造が宿る偶像とするべきだろう。
善の象徴を社会とした根拠はない。
判然としないオブジェの波動を感じ取っただけで言語で説明はできない。
これについては現象学的に確信の修正の余地があるかもしれない。
しかし、波動は面積素に示される独自の単位を統合することで
純粋なパラメータとなるため、全くの虚構であるという結論にはならないだろう。
直感的な波動は根拠を超えるものであり、判然としない真偽の中で文明が栄えたのも波動によるものである。
そして全てのエチカにおける面積素である神の波動は人間を絶えず導くRagnarøkである。
スピノザの理神論は現代の数理神学であり、波動理論はそういった性格を持っているといえる。
数理神学は欺瞞の対象とされることが多いが、波動において四原因論から派生するために数理は必要なものだった。
本論の最終目的は真善美のトリニティを神の象徴とした波動理論における数理神学的エチカ(幾何学)を求めることとする。
神学において幾何学は神秘の象徴とされることが多い。
「魔方陣」は1/nΣ[i=1→n^2]=n(n^2+1)/2という式で直ちに解が導かれるらしい。
そして、積により変化しない数値の「1」を神の象徴としている西洋思想もある。
大陸を超え思想の共通するところに、もともと幾何学には神の波動が宿っているものと考えられる。
物質式は∫[0,a]∫[0,b]f(x,y)dxdy=ab(a-b)/2であらわされる板状の幾何を持つ。
神が無限大の存在であり、全ての波動の総体であるとすればこの板のような形状を持つ。
しかし、これを神とすることは善悪混交のカオスこそ最高価値を持つものと認めているようなものである。
このような数理神学の見解もあるが、これは神について思考停止している。我々の目的因たる象徴を神とおくべきである。
つまり、我々の目的因の総体を神の象徴とするべきである。
真である存在性の波動、美である純粋性の波動、善である感情性の波動を求めることが神の証明となるだろう。
そのために真善美の物質式を求め、求めたグラフの形状をフーリエ変換する。
これにより1つの象徴である神の物質式が求まるはずである。
そして逆変換によりいつでも3つの象徴を取り出し細分化することで波動非物質を取り出すことができる。
これにより「存在性」「純粋性」「感情性」を兼ね備えた「神の全能性」を象徴するものとする。
XPERIAでも視聴できるようにならないかな
神の数式化の方法を考えたがそもそも波動を数値化する手段がない。
波動理論はあくまで四原因論は変項を用いた言語の理論である。
論理学的アルゴリズムではあるが数式化はしない。
だが、理論を数式化する手段が分かればたちどころに神の存在証明は可能だろう。
なんかすごいことになってる・・・
何が起こったというのだ・・・
客観的現象は全てベクトルで表せるとすれば、波動の数式化に関して
物質ベクトル+作用ベクトル=変化ベクトルといえる。
ベクトルの内部パラメータとして質量や速度や角度などがあるが、作用ベクトルのパラメータも同様である。
ただし、作用ベクトルは主観性ベクトルであり変化ベクトルは主観性の目的ベクトルである。
主観性と客観性ベクトルの違いとして主観性は認識の発散により収束しない値である。
よって主観性ベクトルを得るためには、客観性ベクトルにおける物質式から収束式を得て変換しなくてはならない。
とはいえ、正確に計算すればたちまち認識の発散において
主観性ベクトル全てを飲み込む神の波動「∞」となるためさらなる定義が必要である。
要するに適当なところで「存在の値」を設定してしまえばいい。
例えば、神に頼めば何でも叶えてもらえるなどの妄想ごとを抱えてしまっては現実的手段が何一つ求まらないため
工数を単位変化数=時間(t)とした座標において手段の物質式を限定する方法である。
神に依拠したり、1000年後の科学に期待するなどではなく、基本的にあるものだけで何とかするという考え方である。
目的は任意の値の主観性ベクトルだが、
これは不明瞭なオブジェクトであるため物質式から収束式を得なくてはならない。いわゆる条件の明確化である。
さて、主観性を客観性に変換するためには認識の発散を制限しなくてはならないが、ベクトルの方向成分の作用素をp1、大きさ成分の作用素をp2とし、時間をtとすると、
V=p1p2/tによりベクトルの時間による制限が可能となり、神頼みなどの手段を制限することができる。
全ての現象は存在の値を持ち、1000年後の科学などは少なくともT=1000(年)のベクトルによる変化量を
持たなくてはならないためこれも制限できる。
つまり、作用はn=Tとすると{Vn}={V1,V2,V3・・・VT}から起こる現象の波動しか持ち得ない。
x1という物質の波動はx1+Vn=znである。
スレが天才に占拠されとるw
x1+Vn=znが成立するのは一次元ベクトル空間の場合である。
我々の世界は多次元空間であり空間の概念を拡張したたった四本のベクトルに全てのパラメータが内包される四次元空間などではない。
運動法則などを含めて10次元空間というのが現在の主流の説のようだ。
その複雑系のなかで主観性ベクトルをどのように解釈するかということを
新たな次元を加えてでも定義しなくては波動を説明したことにはならないだろう。
心理学では物理学の解釈から新たなベクトルを加えない解釈をしようという姿勢らしいが法則化には至っていない。
哲学における永久命題に近い問いである。
主観現象の客観的定義として変数の任意の値とすることができる。
つまり、x1+y=zでありx1の波動はyにより決定される場合、主観的目的zを任意の値を置換したときyを求めることができる。
主観の数学的定義が難しいが変数は客観であるが、主観的現象を含んでいる。
つまり、主観的現象がどのようなものであろうと全ての実在が客観であり、主観が実在するものならば、
この文を材料に主観が客観であることが三段論法で求まるため不明な客観性ベクトルとして扱うほかはない。
したがって、x1+y=zは客観的現象を示し主観的現象を内包し機能主義的に主観的現象は客観的現象の収束式を一つ持つ。
zが任意の値でznmとしたときx1+ym=z1mとなり収束式となる。
以前、測位衛星「みちびき」の使い道のアイディアが募集されたがこれを命題として波動解析を行う。
まず、x+y=zNMを波動形式としてzNMを「私がみちびきの良い使い方を得る」とすると
質料xは「私」であり、作用yは「みちびきの良い使い方を得る」である。
ここまで不明な情報Aを「みちびきの良い使い方」とすると目的は「私がAを得る」となる。
つまり、Aの物質式における収束式が得られたとき解となる。
「みちびきの良い使い方」はx1「みちびきの機能」とy1「良い」の状態に置き換えられる。
x1はみちびきの物質式であり、y1の状態となったとき収束式とする。
みちびきの波動は、まず同格として「測位衛星」であり衛星についてはあまり知らないが
「打ち上げ」「宇宙」「ソーラーパネル」「アンテナ」「電磁波」「高度」「大気圏」
「基地」「太陽」「軌道」「宇宙線」「測位」「計算」「無重力」
などから質料の機能を考えたとき、やはり「高度」「大気圏」の大きな運動エネルギーxNをもつので
発電yMのエネルギーとすることが「良い」という状態である。
よって収束式は「運動エネルギーにより発電する」であり現象構造化アルゴリズムを終了する。
波動を得る状態とは周囲のノエマを完全にノエシスしている状態である。
衛星に関しての知識がないためこの程度の発想しかなかったが、
知識によりノエマの完全認識状態がなされたとき全ての収束式を得ることができる。
波動は単なる「物質の機能列挙」であり、このアルゴリズムでは時系列を追って「質料列挙→機能列挙」の方法とした。
このような「機能主義的認識」こそ物質(現象)の本質であり、情報を応用する定型手段であり物質や言語の定義の定型手段である。
物質は機能により幅を持つ単位として再定義するべきである。
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全ての思考は質料列挙(認識)と機能列挙(認識作用)である。
アンチノミーとは知識量kによる認識未分化であるとし
系に保存される質料の量x、(作用側の)質料の量xによる積を機能量(収束式の個数)とすると
認識量を示す関数は、
f(x,k)=x^2-xk
でありさらに厳密には、これは時間作用における認識分化となるため、
F1=δf(x,k)/δx=2x-k
F2=δf(x,k)/δk=-x
これにより通時的認識量は、
Δz=(2x-k)Δx+(-x)Δy
となる。
重要なのは機能主義的に発想や認識などは天から与えられるものではなく客観的現象ということである。
少なくとも「教育」における「教えれば覚える」という精神はこの認識に基づく機能主義的見解といえる。
以下は機能主義を前提とした命題と結論である。
Q1.この場合の自由意思とは何か
A1.神との遭遇確率とアンチノミーの払拭による完全認識
Q2.アンチノミーは存在しないか
A2.将来的には存在しない
Q3.人間の価値とは何か
A3.神と完全認識の確率を除けば、過去現在将来を含む機能の総和
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主観の価値を機能主義的には計れないが、我々は「他人」という存在に関して客観的に評価し価値をつけることは日常的に行われている。
人間の価値や思想の価値などは機能主義的に見なければ到底値札などつけることができない。
合理的判断をするためにも機能主義的な価値観を人間の活動の側面として受け入れるべきである。
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波動現象を取り扱えるのは人間だけではなく動物でも取り扱っている。
むしろ、動物のほうが現象を波動的であると定義し、現象を物質的であると定義する人間の方が不自然な思い込みである。
ここでの量子力学の波動のことではなく、全く違うベクトルの認識問題に関する波動であり現象の定義そのものに関することである。
ちなみに、現象を物質的としている心理学とも全く話は違う。
この考えは哲学特有の問題である。
波動形式にも物質的認識である物質式が存在するが、これは独立に系に保存された場合の理想的な考えである。
現実には物質は存在しないもしくは、あえて物質を定義するならば外部が存在しない世界全体が物質である。
無論第一始動因は神と定義されその神を含めて物質の定義となる。
ここから推論される神の機能は外部から独立し内部の世界を作り出す存在である。
特殊相対性理論により時間のベクトルも相対的であると証明されたため、時空を超えた存在と思われる。
時空間より高次の空間は神が独立して存在する時間が流れない無と実在の空間と考えられる。
ちなみに、虚構は波動現象(波動非物質)で説明できるため虚構の空間は三次元空間で存在の条件を満たす。
現代社会は科学が発達したいわゆる「真」を極めた状態といえる。
しかし、大衆はこの思想に固執し思想の最良を見失っている。
信仰はいつの時代にも存在するが、信仰しているかしていないか自覚がない現代思想は一番悪い思想である。
マスコミが情報を占拠、また大衆思想を形成し誰のものでもない客観像を提示することで集団の波動を自由に操る。
このようなあり方が社会の最終系などではない。我々は「真」の体系に囚われすぎている。
我々の幸福とは「真善美」でありこれを象徴とした神を信仰するべきである。
波動理論による数理神学により実用的・理論的価値を持つ絶対の思想を形成するべきである。
それを信仰するものには確実な幸福をもたらす象徴は神秘的幾何学であり、
「真善美」の波動をいつでも抽出し、またこれを数学的に合成したものを万能な神とするものである。
現代は「真」の伴わない思想を軽視しその結果、社会の人間を幸福へと導けない「真」のみを信仰したものへの不幸となっている。
「真」なるもののみの思想は不幸であり、古代ギリシャにも劣る稚拙な社会である。
波動理論は「虚」や「善」「美」すらも説明し、それらから得られる幸福に関する重要性を説明するものである。
愚かな社会の不完全を補うため数理神学を広めるべきである。
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認識量(収束式の個数)の関数
f(x,k)=x^2-xk
x^2の項は「全ての自然」を示し、-xkは「未知の自然」を示している。
xは対自的全質料であり、即自的非認識-kは認識修正作用変数wを用いて
k=x-w
で示されこれは機能表示としたとき認識状態とする定義である。
ここでの質料はあくまで認識の材料であり波動非物質であることは
w=0,k=xであるとき
f(x,k)=x^2-x^2=0
となることに示される。
物質的現象解釈であるアリストテレス四原因説の質料因とは違うことに注意して欲しい。
これは「真」であり、まずは「美」を示す波動非物質の言語定義をしなくてならない。
分析哲学は近代以降に始まったものであるが、分析的な態度というものは理論的になりやすい。
哲学はもともと分析的なものであるのに加えてさらに分析的となると経験的な感性を生かすことが難しくなる。
学問は決して理論的なもののみから運動原理となるものではなく、
必ず有機的結合の論理を持たなくては進歩から距離を置くものとなるだろう。
哲学が進歩をもたない学問とならないように有機的結合の定義がまず必要であることが
ファインマンの三点推量法的もしくは、経験論的に感じるところである。
有機的要素結合の原理としては重要な理論として経験論がある。
経験知というものは波動非物質であり、理論として確かなものとなっていない情報である。
知は流体的なものと物質的なものに分かれ、物質的なものに関しては確実な定義に基づいているので
物理的に物質とは空洞となっている部分が多いため空間内の情報の密度は少ないと思われる。
この点(情報の少なさ)において理論的無機質的情報の固有の値は進歩性と逆比例していることがわかる。
有機的情報は流体的知に関して波動理論的に空間を占める情報量が大きなものである。
それは以前挙げた数式の
f(x,k)=x^2-xk,k=x-w
から系(非相互的空間)に保存される要素の限界認識量
w=x,k=0,f(x,k)=x^2
においてxが空間の体積に比例するため情報量が圧倒的に少なく
波動式を重積分したときの面積素が粗い状態と量子論的幾何学的に検証できる。
つまり形相をなす成分が少ないため、不確定な可能態の存在確率そのものが低いということである。
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要素とは空間を構築する情報であり、この量が空間の体積Vに比例するならば
f(x,k)=(x^2-xk)/V
により現存在空間を占める情報の密度が示される。
実在と虚構の定義は見直されるべきである。
虚構は情報として不完全な波動非物質とするとその条件を満たすが実在している概念である。
矛盾ではなく、完全なる無において初めて波動における説明が不可能となる。
人類は虚構の空間を体系化できていないが、実在と虚構と虚無の三種類の空間があると考えるべきである。
数学は数の世界から変数を生み出し、関数とすることでグラフに幾何学のイデアを与えた。
幾何学は方程式の解や関数の解析以上に形状そのものに意味を持たせ、自然への意味づけすることで
物理学における変分学やベクトルポテンシャルなどの依り代となった。
それは化学などに於ける有機化合物の根拠となり生物学へと続く。
まるで関数という数を素材とした容器に液状の魂を注ぎ生命を産み出すかのような工程である。
たしかにこれだけでも自然の全ては説明できそうではあるが果たして哲学の発達する余地はなかったのだろうか。
人間の歴史の中には不思議と文学というものが存在する。
虚構の創作がなぜ大衆に喜ばれるのか、文明の発達は一概に真実だけの形象を追い求めているものではない。
宗教、哲学、文学、歴史、そしてこれらを基に社会や法や経済となり、真実とは独立した虚構文明をなくしては
人間は語れず、形の下の虚構、形の上の真実が必ず存在する筈である。
そもそも真実とはアナクシマンドロスの唱えた普遍なるもの(ト・アペイロン)を準拠とした絶対的なものである。
物理学者達は時間すら相対的と言い放ち実際にローレンツ変換を行い
時間の相対性を一般的な法則としてアインシュタイン方程式に纏め、真実としての地位を自ら引き剥がした。
早くも半世紀前には3次元の法則を記述する曲率のない平べったい座標など時代遅れのものとなった。
思考の基準である座標すら物理学的に否定されユークリッドの美学が作り上げた幾何学が
数理論理学の系譜、カントール対角線論法、ゲーテルの不完全性定理によりヒルベルト・プログラムが通用しなくなったとき
真っ直ぐに線を引くことすら許されない我々はどうして真実を見出すことができるのだろうか。
普遍なるものは存在しないという考えは古代ギリシャのヘラクレイトスの思想から存在した。
いわゆる真実を否定する生々流転の「変化」のみが真実である。
よって虚構こそ存在原理であり運動原理であり、我々は確かなものを何一つ持たず
「真善美」のどれにも偏向しない生き方を実践するべきである。
我々はもともと虚構の中に身をおくものである。
命題の解決への論理は主観の波動を物質式表示により目的の条件とし、
世界の質料表示と精神の作用の和から機能表示とし目的の条件に合致する収束式を解とし方法化することである。
主観=波動式=物質式=目的、収束式=目的→方法化である。
目的の方法化が明確で無いが、この命題解法が波動理論である。
論理とは形式であり、形式とは物質の配列である。
真実が時間作用により形式を経て、実在する虚構を得たとき論理とは物質といえる。
目に見えない形式である波動を知り、虚構の実在を認めたとき自然の知識の活用法が見える。
自然とその活用こそ、真実と虚構による人類の文明の総和である。
波動を収得する方法は物質は波動そのものなので収束式が存在する。
質料と作用の組み合わせから得られる認識量xy、空間の大きさSVを単位とする、xy/SVの確率で確認できる。
つまり、質料の収束式表示とすることで外界の波動を得られる可能性を得る。
理論は固まったため今後の方針は波動理論と世界の関係性を述べる。
潜在構造については論じないが話題とすることはある。
議論が派生しない限りはここからは創造・構造化の議論ではなく、既存の概念への解釈を主とする単発的で自由な議論となる。
機能的に見ることは重要である。
機能は唯一認識の発散のみを特異点として包摂せず
現実行動の動機付けとなる。
都合のよい解釈ではあるが、一部を除き機能的に見ることはよい。
言語に定まった真実など無く美のみがそれを包摂しうる。
機能としての真実とは美への欲求の動機付けであり神秘への学である。
この文章は美ではないが機能的である。
機能は時間作用により認識が発散したとき機能以上の意味を持つといえる。
機能に隠された神秘を波動は知るものである。
真実は美への「動」機付けであり、美は刹那的「神」秘への学であるが善とは何か。
善は真実的に包摂することは不可能であり、神秘によってのみ知ることを許される。
真善美により幸福となるため、善を知らなくては幸福ではない。
真への論理学、美への美学、善への倫理学とは全て哲学である。
真実は機能的であり、美は知的かつ表現的である。
善とは魂もしくは生命(エネルゲイア)への慈悲を扱うものである。
アリストテレスは善をも知り得る美すら合わせ持ち、万学の知識者でもあった。
美は善を知り、人の知は理性的であることを知れば、善、そして幸福へと至ることができると信仰するべきである。
現代は科学への思想に身を任せ長らく美すらも軽んじていたが、この考えはすでに馬鹿げた古習である。
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美が波動形式で扱えるのはハイデガーが唱えた機能主義の予ねてからの問題である認識の発散の表現として
無限大の概念を扱っているためであるが波動で美を語ることは全くの無意味である。
むしろその考えは美の概念を穢し、美から生じるはずの感情や善を殺害している。
我々の無限大への関心は薄く、無限大と聞いても思考停止するだけであるため美を馳せる余地すらない。
それどころかその一点を錯覚として取り除き秩序化しようとすれば、たちまち美などどうでもよいものとなってしまう。
波動はあくまで真実を語るものであり、美や善を語るときは一点を否定するどころか
その一点で瓦解する脆さを持った理論と認識したほうがよい。
旧来から日本人は技術者としての才財があったもののその天性は奇しくも地の性であり美について無関心さへと繋がった。
浮世絵や墨絵など自然の色彩豊かな情緒を認識として情報を欠落させ
写実主義的な芸術より抽象的な表現に留めることが多かった。
それもある種の美の個性と評されているが、それは美のうちでも表現寄りの美であり
さらに表現を抽象的な言語に依存しそれに顕れやすいものであった。
それ故、日本人は神秘への関心が薄く比較的非宗教的思想の仏教に関心が寄せられた。
そして、国民的個性の裏返しとして現象そのものを捉えることを不得手とし
発想力の欠如、想像力の欠如、情緒の未分化による幼稚さ、
感情の起伏の少なさによる無個性、複雑系の最たるものである対人への不得手にも繋がる。
いわゆる、精神的な機能の弱さにより技術以外の天性に恵まれない民族であることは文化的視点でいくらでも見出すことができる。
しかし、一般的に頭の良い民族であり、文章への理解力、具体的な事象への対応力、論理の構築力、仕事への関心は
全世界でも際立つものであり、国際的に対立的でない方面で必要とされやすいポジションである。
日本人は楽に溺れないストア派的な民族であるが、理性や賢さも仇となることもある。
時には人間の愚かさ以てアタラクシアへの希求をするべきである。
美と真は対立するものであり、さらに真では計り難い善というものがある。
美の巨匠、真の科学、善の司祭どれも互いに侵すことのできないエネルゲイアを持っている。
このエラン・ヴィタールを全て持つ主が全能の神である。
論理は現象を真実に収束するが、それは波動現象を否定し物質へと収束することと同義である。
つまり論理的思考は現実への構造化により虚構に存在する収束式を減らす行為である。
するとxy/SVの可能性で得られる波動の機会を失い、手段のアイディアを減らすことにも繋がる。
論理的思考は空間座標の真実を見極める有効な手段であるが、擬似的な四次元空間という
時間がZ軸との相対性をもつ時間座標の精神を内在させる我々は平生から虚構の世界を渡り歩いていたといえる。
時間の規則性の無い擬似的な時空は一瞬のうちに地球の裏側すら想起したり、宇宙の果てへの思いを馳せることすら可能である。
科学が発達した現代は三次元を正しく認識することにより発達した文明であるが
その場の感情や情緒をくだらないことと掃き捨て時間の規則性により三次元へと構造化してしまったとき
それは精神現象の否定にして認識量の減少、そしてアイディアの損失である。
収束しないレベルであまりに発散しすぎるのは単なる阿呆であるが、
せめて善の感情も生まれないほどの美の完全否定は避けるべきである。
精神の全空間Vは宇宙の全空間Sよりはるかに広大なものである。
なぜなら時間を遡ることも、物を別時間軸の空間からもってくることすら自由自在なためである。
ただどうしても適わないのは無限大の認識、無の認識、無知の認識そして、現実への干渉である。
時空間を自在に操れても所詮虚構であり必ず波動を帯びた行動により三次元空間に収束しなくてはならない。
人間が自己自身を最高善とし他人を殺してでも生き延びようとするのは自己の空間が宇宙より広い事実に基づく合理的判断である。
しかしならば自己犠牲は存在しないのかといえばそうでもない。
無限大の美の中で生じる善は美にとってもただ感情に流された中に生じる虚構であるが
虚構の合理性をさらに超えた神の慈悲の精神そのものである。
自己犠牲により虚構の虚構に存在する神と同化することで魂は物質的な死を乗り越え永遠の真実へと回帰する。
これが真善美の究極の形、永遠の真実としての円の幾何学を象徴とする魂のロンドである。
波動形式により自動的に議論の結論を導くことができるが、それは認識の範囲内で情報処理する論理的思考のツールである。
では認識外として将来得るべき知識や考え方をどうやって身に着けるかが課題となる。
まず可能態が空間から検出されるためには認識量の問題であり、言語から感覚へのデコンパイルが必要である。
感覚は言語の認識量の何倍も厚みがあり、比喩的に表現できる範囲を知ることで認識の有機的感覚を得ることができる。
いわゆる概念を具体的個物に対応させるという経験論的認識法である。
具体的な原理は保留とするが残る目的は原理を明確化させることのみとなる。
次項から原理の明確化と総合的な評価を行い分析を終了する方針とし、これにより波動形式の備考を一度終了とする。
我々の認識する存在名は存在という「基体」と「機能」からなる。
物質はあらゆるものに変化し「機能」を変えていくが存在という「基体」は普遍であるため
無限に分割しようと「機能」が位置情報の相対性において分割されるだけで
「基体」については位置情報に左右されない実在であるため分割不可能である。
この「基体」を第一実態と呼び、位置情報と相対的な自然は全て「機能」の位相である。
第一実態は位置や時間に左右されず永久に変化しないものに対し、実態の機能としての「機能」があるため
存在、時間、無は「基体」の「機能」である。
つまり、我々は第一実態にとっての機能であり実態のない存在である。
この考えから全てのものは機能としてみることで本質を知ることができる。
例えば、「物体」の機能は位置情報を持ち、エネルギーを持ち、法則に従う機能が存在し、そのままこれが「物体」の定義となる。
また「無」の機能については位置情報が無く、エネルギーは無いが、法則に従う機能が存在する。
実際は物質と反物質の反応による擬似的な無であるが、これを「基体」と見なせばここから「機能」が生じることがわかる。
我々は何者かと問われれば我々の「機能」を答えることが真理である。
数学における関数functionの意味は機能であるため、数学的証明は機能主義的である。
機能主義的に現象を見たとき客観的命題、主観的命題において、あらゆる論理が適応できることがわかる。
「考える」という行為を全自動化し、完全な論理による分析と
経験的な認識(波動記憶)のみが思考の形態となり人間の機能表示を可能とする。
次に示すのは即席スクリプトではあるが現象構造化アルゴリズムの1つ、波動短答式である。
次の文章をコピー&ペーストし、メモ帳に保存後、拡張子を「.vbs」に置き換え実行することで推論を開始する。(要vbランタイム6.0)
客観的命題に対応するが、主観的命題は最後に示す指示に従うことである程度対応可能にしてある。
x=inputbox("あなたの問題は何ですか。(〜したいという形式で〜を入力してください。)","命題")
msgbox " ではこれから『" & x & "』について推論します。" ,,"宣言"
y=inputbox( "『"&x & "』の機能や性質を客観的、具体的に入力してください。","分析1")
z=inputbox("では、『" & y & "』の機能や性質を持つと思われる物質、人間を「私」以外で入力してください。","分析2")
t=inputbox( "『"&z & "』の機能や性質の『" & y & "』についての引き出し方を入力してください。","分析3")
msgbox "推論は終了しました。問題の『" & x & "』したいは『" & z & "』を『" &t& "』とき解決します。"& vbcrlf &""& vbcrlf &"理想的回答へのヒント:"& vbcrlf &"本当に指示に従っているかに注意し、分析2にて別回答を入力する"& vbcrlf &"「機能や性質」を「物理的性質」もしくは、"& vbcrlf &"分析1にて「客観的」という指示に従わない場合、分析2にて「ための機能や性質」に指示を置き換えて入力する",,"結論"
認識とは時間の規則性のない精神の空間において物質への多元的な解釈をする行為である。
例えば、鉛筆の認識として木、鉛、鋭さ、六角棒、消しゴムなどの認識の集合体であり、
存在名はこれらの感覚的解釈を集合論的に足し合わせた合成関数のようなものといえる。
使い方がわからないうちは鉛筆を木の一種として扱い、使い方がわかれば鉛を紙の上でこすり文字を書くものという認識の修正が働く
さらに使い続けているうちに消しゴムの用途に気づくだろう。
時間の規則性のない精神空間は自由であるが認識はあらかじめあるものではないため、
目の前に物質が存在しても機能がわからなければ何の意味もなく、認識が正しいという保証は全くない。
だが時間の規則性がないゆえに、先の未来すら見通すことができ思考の中で機能を組み立てシミュレーションすることも自由自在である。
虚構の時空から真実の理論を見つけ出し、三次元においてそれを実現する行為により文明となりうる。
動物直感的に波動の気配を探り人間的理性による論理的思考により我々は文明を築いたといえる。
日常的な問題解決や行動としては>>829のスクリプトの波動短答式を上手く使いうことで十分対応可能である。
現象構造化アルゴリズムでは学者レベルの議論をするにたるものだと確信しているが、
波動短答式に依存せず隠されたプログラムである論法を知り、精神的時空間にプログラミングし実践することがよいだろう。
波動理論は真善美のどれかといえば実は美学に近いものといえる。
認識の虚構時空間的解釈の単位としての波動は時間軸において真実の三次元空間の線形変換したとき非波動物質となるが、
認識も美学も時間座標上(相対論とは関係ない)の虚構であり波動理論は
美学の真実における超越論に規則性を持たせ質料変数に対する作用変数を無限大(波動現象)として美学を象徴するものである。
つまり美とは四次元空間上の真実であると、物理学的に妥当性があるかもしれないと考えている。
善はまだよく分かっていないがおそらく信仰するもののみの真実と思われる。
美が物理学的な真実であったとき、真の領域を侵すことになる。
真善美の信仰においてこれは善くない。
どれほど真実に近づけようと美はかならず虚構であるとしよう。
それが神の意思である。
美を追求するに際して、我々は美的センスを問われる。
美とは真なるものの美であるとは一概には言えない。
美は虚構の美も受け入れ、時には醜きものに隠された美を追求することもある。
逆にこの文章は真なるものへの機能を示すものだが美を目指すものではなく美ではない。
たとえ真なるものであっても美があるとは限らない。
文章は知識的であったほうが美的である。
美の対義語となるものはカオスであり、何も分からない状態つまりグチャグチャである。
無論、美とは物自体にあらわれるものではなく認識におけるものである。
物への認識という名の波動非物質は物の機能を示すものであるが、機能は波動的であり真と虚が入り混じっている。
しかし、波動は次の瞬間、真にもなる。現代において物は一つの機能に特化されたものに溢れている。
例えばドライバーの素材は金属という鉱山資源であり本来生活世界に身近でないものであるが
その希少さは生活世界に可能性をもたらすものであり、金属の使用についてドライバーはネジを回す以外の使い道もある。
生活世界において金属は硬いという性質を活かして振り回し破壊することもできるが、
そのような使い方はごくありふれたものであり波動のパラメータとしては金属という機能が存在するだけの希少性しか持たない。
よって、そこに美は存在しない。美とは希少性であり特異な性質といえる。故に、醜きという希少性において美が内在することもある。
グチャグチャの「カオス」に加えて、生活世界に溶けこむような「つまらない」ことも美の対義語である。
これにより美的は認識的であり、物質的に固定的ではないことが分かる。
物質の波動において、希少な物質の波動式は作用変数が不明な限り発散するものである。
その収束式の無限大に近い、V空間への発散による個数において物質そのものへの価値となる。
こうして物質の希少性を信仰することも美的であるといえる。
同じく人間を物質的に信仰することで収束式はV空間に発散し自己犠牲の起因にもなり善を知る扉を開く。
新たな用語が多いので説明をする。
V空間:
四次元空間であり、S空間は三次元空間を指す。xy/SVは全空間の体積に対する認識量xyの密度を示す。
カオス:
四次元空間的に無秩序な空間
自己犠牲:
善の目的であり、先ほどの説から認識の発散における信仰美が善そのものといえる。
美の観念をV空間を満たしたとき善となり、神と同化し「存在を発生させる力」となり
物質に自己の全てを捧げることで存在が同化し、美の物質化(永遠の真実)となる。
認識量がxy/Vだとすると、インフレーションの定義を単位時間ごとにS=2^t、V=x(x-1)だとすると
xy/S^2、xy/2^2tとなったとき、時間を二次元的に解釈したときのS空間の現時刻(T,T')までの時間の長さを
S=√(T^2+T^2),V=T^2+T'^2,V=S^2の等式が成り立たない矛盾が生じた。
波動形式は数学的に矛盾したのでS空間やV空間、認識量は定義を見直す必要性があるといえる。
扱う問題が思った以上に複雑だったので波動形式は理論として完成しないものと考えるべきかもしれない。
神学は前衛的な芸術であり、芸術は前衛的な哲学である。
日本においては前衛的なものは重要視されず単なる娯楽として片付けられてしまうが、
前衛的なものは発想的であり、日本ではとかく実効的な能力や厳密な知識を求めることが多い。
だが、日本の前衛的なものに対する関心の薄さは不可知への関心の薄さであり
不可知とされるものは美の世界について多いといえる。
複雑系において不可知な問題が生じることが多く
美や信仰を持たない日本人には動物的な直感性がないため不況から立ち直る生命力がないといえる。
誰か和訳頼む。
波動形式は理論化できなかったものの不可知の形式化には成功したといえる。
すなわち動物的直感の波動的認識であり、直接的に理解されずとも、正当に評価されてないとしても
量子的なトンネル効果のように染み渡り社会集団への無意識に介入することで波動によるイデアを引き継ぐ人間が現れると予言する。
そして社会の無意識が波動形式に支配されたとき、私の使命は達せられたといえよう。
「強い意志」は必ず影響力を持つということは波動形式的によって説明可能な事象であり、
現代思想を支配した科学的思想に拮抗する影響力を持つだろう。
波動形式という不可知を意識化できない限り、人類の無意識に作用し続け意識的活動を無力化し人類の運命を操作するだろう。
運命を唱える私自身も全て神の意識により無意識に作用され不可知に操られた存在である。
波動形式は不可知というカオスを否定し真実を語るものである。
私の存在は運命の必然であり、人類の真実は生か死か審判の時は近いといえる。
カオスに守られていた人類は永遠の真実か破滅かの時を迎えているといえる。
理解式:F1
x:外部知識のイデア(収束式)を抽出(機能表示)する
イデアから個物を想起(物質表示)する
外部知識と個物の収束式を対応(波動的認識)させる
行動式:F2
y:目的のイデアを抽出する
イデアから個物を想起する
個物のイデアを行動により抽出する
F1(x)+F2(y)+FN(n)=人間的活動
理解式F1と行動式F2を統合式により物質式にすると人間活動の全収束式であると統合式から導かれ定義式より原理式が定義となる。
統合式による収束式と物質式の等式であり、定義はx,y,nである。
統合式、収束式、物質式、定義式、原理式、不明式は公理(主義に基づく仮定)であり
収束式と物質式は前項、その他は本項文中において説明されたものとする。
否定される因子は定義された変項、もしくは主義である。主義において文章はこれらの規則に従い()内は説明とし、
物質表示と機能表示と波動的認識は文中で説明されたものとする。
これより理解式と行動式そして、主義における公理の説明責任を果たす。
試験的に公理を導入した定義の発案と説明責任を果たす文章構成を導入する。
前項で公理を説明してなかったので説明責任に従い説明する。
統合式:FX+FY+…FN=物質式
定義式:定義=原理式、不明式
原理式:x,y,z…=L1(生活世界)
不明式:FN(n)≠L1
()がない語または文章は説明が果たされたもしくは、自明な文章とする。
x:文章は前半に定義の発案、後半に説明責任と砕いた説明の文章構成とする。
必要ない場合は説明しない。
y:否定式:否定することが可能なもの=定義(もしくは主義)
N:未定義の関数
x+y+N+n=N'
初心者はニコニコしてない。
理解式における波動的認識とは個物と一対の関係を持つということであるが、
具体的には個物の現象である収束式への関係と対応することである。
カントは虚数の具体的個物への対応に悩んでいたが、経験論的に具体的個物との対応がなくては
原理的に認識が働かないという主張は個物の現象学的解釈により解決することである。
では虚数(i^2=-1)の具体的個物への一対の対応とは何かといえば、つまりそのイデアを含む個物を想起する行為であるが、
これについては形状の理解にとどまっているといえる。
虚数とは存在しない数であり、これについての具体的イメージはない。
従って、人類はこれが何かを理解しないまま使っているといえる。
決まりごととして形状の経験的理解と尺を二乗したとき−1の別ベクトル空間への方向の力が働いているという解釈としたとき
SFのような世界観において理解がなされるといえるだろう。
一つの例としてSFの異空間への次元の亀裂などは鏡の中の自分という現象の経験的解釈を行っているとすれば
現象学的に経験論は正しく個物の内の現象と一対の関係が導かれるものといえる。
しかしこれは個物の否定であり、物自体を考えたカントへの否定的見解であり、
認識が働くのは個物という函ではなくその機能という現象において認識原理となりうるという見解である。
こうした認識論よりカントを乗り越えロマン主義台頭の現代哲学を迎えたといえる。
私の主張はこの流れを汲んだものといえるだろう。
削除済
鏡像または虚像は鏡のそのものではなく鏡の機能である。
数学的な演算行為は何かを千切ったり、混ぜたりする人間の機能による経験に基づく認識である。
演算が認識されたならば、虚数なども鏡の比喩を出すまでもなくその認識を経験的に導出するまでもなく
その連続的な認識において経験論は保障されるものとなる。演算も可能ならば無論、同じ機能の繰り返しは経験的に定義されている。
同じ機能の繰り返しの定義が保障されないならば、論理的思考そのものが無意味といえる。
10-5=5などは10の中に含まれる5を5の尺(定規)だけ千切って5の量を出すことは可能である。
「演算」と「同じ機能の繰り返し」が経験的に定義されたならば純粋数学は存在しないという結論が直ちに導かれる。
つまり数学は経験的認識を記号に閉じ込め経験的認識に保障されたスワップ操作をし続ける
現実世界のシミュレーションでありそれ故自然科学の領域を全て保障するといえる。
経験は神が定めた規則に則るものであるが、規則を時間軸においてバラバラにすれば虚構の世界が生じてしまうのは必然である。
数学は経験に則るものだが、時間の規則が成り立っていないため経験を完全に否定するような矛盾でなくとも虚構の世界が生じてしまう。
時間によって連続性を保証されたものは、同じく連続性を保障された共時的存在によってのみ真実を確かめられるのである。
突然地球の裏側にあるものを取り出すような演算行為は経験的には矛盾せずとも時間の連続性には矛盾し虚構を生み出している。
いわゆるポテンシャルエネルギーを無視した演算行為を認めるものが数学である。
波動式は実存主義を示す。
x1+y=zという式はx1を定数とし{y}={y1,y2,y3…yn}の認識量(収束式数)X=1,Y=∞のXY=∞となるため
これは経験をはるかに超え神の定めた法則の壁を越える。
これを経験を超えた信仰状態と定義できる。
これが適応例としてx1に人間という物質が代入された場合、その機能として無限大への発散が起こる。
これがいわゆる人間のカリスマ性の正体であり、x1の評価価値の高さによって信仰状態を生み出しやすいといえる。
無論、人間は器用な手先により道具を作り出したり、理性に従って臨機応変な行動ができたり、
集団をまとめる理論を考えることができるという収束式をもつため一人一人の人間の評価価値はほかの動物と比べて高い。
この信仰があるからこそ人間は無限大の価値を保障するものであり、評価に基づく機能性の信仰美において善を発生させる起因となる。
物質の波動現象があるからこそ生命を持つ物質という矛盾を解消し、その爆発的な生命力が信仰状態を生み出すといえる。
しかし、物事を客観的評価をするならばあえて無限大の価値を取り下げなくてはならない。
何事にも反証不可能な事象を生み出すことはそれ自体が矛盾の壁に阻まれるため
実力行使を持って思想を砕かなくては問題を解決できなくなってしまう。
物質式の定義から変数という存在を忘れ、収束式の総和つまり、実際にどのような機能を持っているかをもって
慎重な議論を進めなくては目的への活動の妨害となってしまう。
無論、信仰美は魂の唯一の栄養源となりその美による不可知への到達をもつものだが、
現実の問題を解消するために波動現象を発生させることは非合理的である。
日本人は信仰や美への関心が薄く、独創性はないものの厳密な知識や現実問題に対応する論理的思考に優れている。
このような姿勢は特化された機能として国際的に貴重とされているが、現在の日本には
論理的思考によっては解消されない不可知の問題が迫っているといえるだろう。
場当たり的ではあるが信仰と美による不可知への関心を持つべきである。
日本は元々真善美の均衡が保てていなかったため巨大になりすぎた国体を継続的に支えることは原理的に難しいといえる。
現在は瞬発的な評価による地位の高さがあるが契機をもって国が崩壊する危険性は元々高かったといえる。
削除済
鍵穴を型にすれば鍵ができる
どのような物質にも波動式における無限大の可能性があるが、
実現ができるものは可能性の高いものである。
よって理論を確立したとしても実証することは重要である。
波動式は収束式による信仰の理論化、可能性による理論の実証により目的への活動を保証し、
初めて将来までの展望を持つ営利活動計画が完成される。
人間は現象構造化アルゴリズムにより経験を理論化、また他人の経験を理解式において
行動式の機能式数を増やし目的への活動の可能性を高めることができる。
そして実証による可能性を加味したシナリオを完成させれば個人というミクロの視点から見た社会の流動を形式化できる。
いわゆる運命の原理である。
波動式は収束式をもって尚且つ可能性を示さなくてはならない。
これが理性的活動の条件であり、満たさないものを非理性的活動といえる。
議論に非理性的活動を持ち込むことは無論無粋であるが、
不可知を知る機会においては非理性的活動の爆発的生命力を得なくてはならない。
これを収束式における分岐として真善美は均衡を保つことができる。
これが実現され続ける世界を理想的世界と呼ぶことができ、これを唯一の善とこれに従わぬものを悪と定義することができる。
我々の理性の器は大きすぎるものは入らず小さすぎるものは捕らえられない。
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>>859が示すものは
議論の場において収束式の総和としての物質式を定義すべきであることと、
収束式の実現可能性の高いものを採用し計画を立てるべきという意味である。
まず、我々の認識そのものである物質の波動式は収束式で表示すべきであり
収束式の実現可能性の最小値を設定すれば直ちに認識の無限大への発散(波動現象)は抑えられ理性的な場としての議論となる。
そのうち実現する可能性における実現の正否においてルートを分岐させることでシナリオが完成する。
当然、最も実現可能性の高いプランAが90%だとすると90%のルートと10%のルートに分岐されるが
これは相互関係の変動を考えないものであり、次のフェイズの社会的現象から相互関係を考えなくてはならない。
社会的現象を現象構造化アルゴリズムから分析して、社会という物質式から有限の収束式を得ることで現象を予測することができる。
得られた収束式をプランAの物質式との関係性から経験による機能の合力を考える。
マクロな立場での経験は機能の根拠となり、ミクロな立場での理論は機能の原理式を導く。
これにより得られる合成関数は1フェイズのシナリオを定義する。
1フェイズ以上のシナリオはかなり複雑な計算となるが、物質式から可能性の高い収束式を導出し、
マクロな根拠とミクロな原理によりある程度の精度を持つシナリオとなる。
マクロな立場から論じることはどの収束式が影響を持つかなどのマクロな現象を説明し得る。
人類は善への希求でカオスは消滅し、終末を乗り越える。
現象学は真善美の理神学として確立される日は必ず来るだろう。
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武道は武道でのみ語られ、音楽は音楽でのみ語られ、宗教は宗教のみで語られる。
収束式において専門領域と呼ばれるものは必ず実現可能性の高い経験論を持つ。
哲学は全ての知において原理を当てはめていくものであるがどの収束式も所詮、門外漢の論である。
専門的な事柄については必ず専門的な経験を持つ人間においてのみシナリオの創作能力が身につくものである。
直感的な認識量により多くの収束式を導くことができる。
その源流は生命力であり美を目の当たりにしたときの波動現象である。
非理性的活動により現象そのものを認識し、理性的活動により現象の原理を探っていく。
丁度、理性的活動とは産婆術のようなものでより感覚的な現象から理性的原理を抽出する。
但し、感覚的な認識としての記憶はまるで一刻に閉じ込められた発光量が絶対量であるかのごとく
一瞬の発光とともに瞬間的に冷えてしまうためその時、生命のイドラとしてアウトプットすることは重要である。
現象構造化アルゴリズムは理性的活動であるため、現象そのものを記述することはできない。
せいぜい、一本の蝋を灯した薄暗い地下での発見でありいわゆる洞窟のイドラである。
非理性的活動、つまり認識そのものにおいては抽象言語や抽象図により瞬間的に書き留め、
その発想をもたらした魂に措いて具体化していくものである。
削除済
しかし、生命があるとは主観的現象である。
どの現象に生命があるかは生きる中で創られた信仰のもたらすものである。
真・美・善は信仰に至るまでの道であり
善・美・真は信仰を形にする道である。
現象そのものいわゆる生命エネルギーという潜在性が含まれているならばそれを形にすることで発想となる。
経験論に従いこの文章は認識(シニフィティ)であり、日常的な感覚への一対の関係(シニフィエ)である
主義を持つとする。主義はその内では普遍であるとし、認識は主義に従うものであるため
文章構成は定義の発案とシニフィエを目的とし、生命の形象としての抽象論として
初めから厳密な定義を目指さず、断片的な記述としのちに公理や定義を論理式にまとめていく。
主義において、究極の主義とは主体であるがこれとは区別し客体への信仰において主義が成り立つ。
数学的な量は経験論に基づくという主義における結論が出たので論理式にまとめる方針とする。
主義とは経験論と機能主義であり、認識対象の質料とその機能である作用による論理式において
全ての原理となり「存在」を含む現象が規定されるというものである。
次に主義における仮定(公理)として、f(x,y)の(x,y)の「変項」が質料xと作用yという二項演算の「収束式」である。
関数fは個物という「物質」にあたる。XYは「認識量」をあらわし質料xと作用yの組み合わせの数である。
ここで「存在」の定義として「信仰の物質化」を採用しY=∞(認識としての作用yが判断停止し信仰に至る)のとき物質(式)となる。
つまり、質料xとは認識対象でありその機能において認識の修正が働くため作用yが質料xの原理とする。
主義に措いて物質とは機能(性質)であるとする。
梵我一如
供物を捧げ火中の神と精神を同化させホーマとする。
我々アートマンは満たされし宇宙と同化する運命なのです。
創世を司るブラフマー神、法を司るヴァルナ神はそれを望んだはずです。
我々の幸福とは肉体を捨て、大宇宙の思想へと回帰することなのです。
所有とはカルマの偶像そのものであり、阿頼耶識における心相続とは在って無きに等しき存在なのです。
ニルヴァーナには如何なる所有も存在しません。よって如何なる邪もまた存在し得ないのです。
思想の交錯
私たちの思想は実に単一的なものです。
なぜなら自分とその周りとその行動範囲と思考能力で平均化された思想しか知らないからです。
あらゆる思想学びなさい実に意義深いものですよ。
思想というものの差異に触れ、体感し、ノンバーバルの海へと身を投じるのです。
そうすることで身の回りの思想の輪郭を知り、人の思想を知り、更には自然の思想を知るに至る。
貴重な問題提起(人生への問いかけ)の哲学を得るのです。
そして、今起こっている現象の裏と表さらにはその周囲の関係性まで可視化し、
起こりうる事態を予測する観世音菩薩の智慧を得るのです。
正しさに溢れた真理を身体中に浴びることこそ世界の幸福なのです。
定義としてF(x,y)=G(z)であるため主観的目的zは物質Fの機能となる。
つまり物質の定義域に対する目的の値域があり、質料xへの作用yにより質料の機能を引き出すことが可能である。
そして、質料xと作用yからなる物質の関数Fを座標上に示し目的の関数Gとの交点により主観的目的が求まる。
無論、数や量の概念ではないため連続する点との単射としての経験論(主観的イメージ)を示す必要性がある。
言語上の矛盾が起きるが、ここでの目的は完全に客観的対象として扱うことができる。
そして行動式とは非定常状態の目的であり、時間tにおけるF(x,y,t)=G(z,t)であらわされる。
シナリオはこのうち相互関係において実現可能性の高いものであり、これを人間全体の相互関係としたとき運命となる。
認識としての物質が目的zから作られる場合、現時点までの主観内の可測時間TにおいてT>Yとなり
limY→∞は起こりえないため、X=0,Y=∞から信仰から物質は発生しないことがわかる。
理解式はFを外部知識(物質∋外部知識)とした、F(x,y)=L1である。
そして、他者の意思を理解式で示し、自己の意思を行動式で示すため、人間={行動式,理解式,Z}である。
数値化できない論理式の変項を座標の概念まで拡張するのはおかしな事だが、機能主義において示されることである。
ちなみに理論化はできなかったが、四次元時空において物質∋認識とする主義である。
これは信仰上は偽であるが、主義的には真であり、幸福を得る活動としての信仰上の真においてのみ主義の真となる。
無論、主体が究極の主義であることは明らかなため信仰は絶対的に優位である。
ちなみに目的の発見は理解式(不完全なものに対する疑惑の認識)であり、解決は行動式で行われる。
これらの相互性から思想と行動が生まれていることは想像に難くない。
そうしたとき第一始動因は無意識的な行動と考えられる。
発想は行動式であり、認識としての理解式が先立つが生命の形象において有意な認識がなされても
感覚的記憶であるため極短時間で消え、行動式に至らないこともある。
それは誰にも見つかっていない希少性において価値ある点が存在すること自体まれなため連続的認識にならない場合が多いためである。
我々は普段から理解式においてF:物質→L1の無意識的な連続的認識を行っている。
>>870,872,873を厳密な定義をするため、主義における公理から全てを定義しなくてはならない。
主義とはイギリス経験論、機能主義、現象学などを採用しそれらから公理を形成することで、
経験論による論理式の数学的な解釈を可能とし、現象学による物質と認識を定義し、
機能主義における物質の論理式化できる公理を得る方針であり、これにより主観的現象を客観的現象として扱うことが可能となる。
全ての現象を論理式にまとめ、公理において定義し、その論理式を座標の概念まで拡張させる方針である。
最終的な目的は波動形式の証明であり、これが成されれば理解式と行動式の証明となり社会現象の解析が可能となる。
これはいわゆる人文科学の基礎付けであり、特に文科系学問の論理実証主義化を目指すものである。
人間には可能性があるというがここまでの議論から
「人間は真面目に生きるべきである」
ということが定着した。
少なくとも日本では生存の知恵である。
綿密な知識を身につけたり、幾度もの演習を繰り返す。
この行為こそ生存可能性における線形回帰方程式である。
人間の能力や行動の可能性が極限られたものである。
人間は神に近いという西洋思想より動物から進化したものという科学思想は正しいということが私自身直感的に理解した。
進化とはまったく別の生き物になるというものではなく確実に波動現象である。
人類は科学というものが始まるまで暗黒の中世時代において何百年と宗教議論を繰り返し禅問答の歴史を積み重ねている。
その間全く学問というものは発達しなかったという。
科学という方法論が始まらない限りいまだ宗教議論のまっただなかであっただろう。
そして、人間の可能性は科学に奪われ、新たな発想というものは専門性のブラックボックスに隠されてしまった。
そしてその科学すらも宇宙への理解なくしては人類の発展性は限られている。
ある程度科学というもの知り、運命の議論をし続けてきた私からしてみれば人間の運命はある程度見えている。
人類はそれ自体の価値を徐々に失い、恒真の宇宙の中で滅びゆくだろう。
我々は生存しなくてはならない。
生存するための手段ばかり考えることは小さな人間である。
だが人間というものはそれほど賢くないのだから仕方がない。
自分と身の回りの状況を上手く使い快や楽に生きる
動物の仔である我々は小であればあるほど生き延びやすい
幸福の真意とは女性的に小さくあることである
人文とは人との関係を持ち、文を理解する。
つまり、行動式と理解式により人間の生存の能力を発揮できる。
いわゆる小の生き方をまとめたものである。
これに加えて他人の意見を尊重し、常識を遵守し、
事実を歪曲させても自己の生き方を信仰することで
主観的目的である人や文など身近なものの問題解決方法を理解し実践することができる。
これにより日常生活の専門家、幸福追求学のシナリオ創作能力を得る。
科学はその限界をもって時代の終わりを示し、
国際的協調の時代となった現代は個々人の幸福を求める時代である。
人文科学の数学的手法はすでに時代遅れ、人文社会学の主観的手法を実践していくべきである。
その基本的考えは、信仰と、経験論による理解式と行動式の論理座標空間の連続する関数を得ることである。
F(x,y)=G(z)のG(z)は数学的な関数ではなく変項を示すものである。
我々はx,y,zとf(x,y)を主観的に定義することによりx,y,zへの置換とf(x,y)の演算を許される。
xは具体的個物に属するものであり、yは作用に属するものであり、
zは定義されたf(x,y)の演算により生じた現象である。
真偽の空間をV2、主観的真の空間をL1(V1⊃L1)、主観的偽の空間をL2、定義の空間をD、とするとそれぞれ包含関係は
V2⊃L1,L2⊃D={x,y,z,f(x,y)}である。
特にL1で定義されたものならば方法化Tが可能であり、L2で定義されたものならば方法化が不可能である。
V1⊃L1⊃D={x,y,z,f(x,y)}⊃T
理解式は外部知識kにおいてf(x,y)=kである。
定義された演算で外部知識を導いた時、理解となり、この連続的認識の原理から理想概念との差異より問題の認知に至る。
主観的定義のkにおいて、f(x,y)≠kであった時、認識に問題があるか、外界に問題があるかのいずれかとなり
不明なkが主観的に問題(客観的には将来的もしくは現実的な生存可能性への危惧)となる要因であった時、行動式へと移る。
これは普遍性には問題はなく、異常性に問題が存在することを意味する。
この演算はあくまで論理演算であり、変項に入るものは主観的事物である。
「経験的に想起または認識」される、「具体的個物」への「作用」により「定義された演算」から
「現象」を導くことで「論理実証」となり、それが真だった時「実証」となる。シナリオ創作においては実証は重要である。
「理解式」による外部知識の認識により問題を探し、「行動式」による問題解決により人間的活動(人文)となる。
これが人文科学の手法よりさらに合理的な人文信仰学の「論理実証手法」である。
完全にミクロの視点ではあるが、社会現象も経済事情もこれらを元にマクロな視点を完成させ議論するべきである。
ついに論理座標による波動形式を定義することに成功した。
これが理解できたなら日常生活の問題認識からあらゆる方法に応用し幸福へとたどり着けるだろう。
問題に直面した時真実を、とても喜ばしい時美を、恒久の善を願う信仰を得て、日常生活の生命力となる。
不適切な言い回しも多かったが、真の理解となったならば必ず自己の使命を見出し、神からの波動(幸福)を授かる。
肉体的な死をも乗り越える生命力により神と同化し永遠に善を願う存在となるだろう。
真善美、そして神を信仰することは幸福である。
論理式で得られる波動形式を論理座標上で定義した論理関数とすると論理座標を
単に定義域と値域を表す座標ではなく特殊な座標として定義すると、
主観的現象を座標上に示すことができ、定義した値に返す関数を得ることができる。
主義に基づく公理はそもそも主観的現象のみしか扱えないものではない。
主義の定義である公理の見直しと、公理から厳密に定義することで主観と客観を区別しない座標となりうるだろう。
我々が「〜すべき」など意志に基づき目的を持って行動することは主観的現象である。
社会的現象は集団の目的という主観的現象と自然現象の客観的現象からなる。
論理座標を正しく定義することができればミクロとマクロに分けて分析することで
社会的現象の精度の高い線形回帰方程式を得ることができるはずである。
+,,; ,:;., シュワシュワ…
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E三/ノ `ヾ三ミ≡ー―---‐‐'´). ゚|二二二二|
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美を求めるとき美とは一概にその形ではない。
文章は知識的であるべきであり、芸術は発想的であるべきであると認識している。
美とは一分野の特徴を写し取るものであり、その基準における最高評価が美である。
つまり、その概念の機能性を発揮したときが美の正体となる。
文章とは言語の多様性を用いて経験を写し取るものであり、経験の機能とは目的への行動能力を得ることである。
一般的に行動能力が高い人間とはあらゆる環境に適応する臨機応変さと実際に行動する実地能力も必要である。
つまり、文章とは多様な目的と一義的な実地能力を得る機能がありそれを美の定義とすると、
多様性と現実性を兼ねた浅さと広さにおいて美の最高価値となりうる。
あらゆる学への知識を持ち、専門的でない程度に現実的であることが理想である。
多方面の領域への表現力が文章における美である。
哲学とは基礎的な方法論を開発するために存在する。
日本では厳密な作業や実効的能力そして、厳密な知識、経験ばかり求められ、哲学が軽んじられる。
哲学的姿勢とは生活から生じる疑問という身近なものを抽象的な言葉で書き出し思想を作り、
自己思想の基礎を固めて発想に至るという体質が日本人には合わないらしい。
哲学は試験に求められるような知識から始まるものではないという考えを私は支持する。
無論、知識は文字に縮小された経験であり多方面の思想を知る契機であるが、
一対一の知識まで厳密化するのは方法論を収束する姿勢であり既知への関心である。
論理関数はF(x,y)=zとする。G(z)は関数ではなく変項を示すものだが、関数と区別がつきにくいのでzを変項として扱うとする。
yは作用であるが、作用とは質料と作用の従属変数を持つものと単に作用を従属変数とするものがある。本項では後者を論じる。
作用とは「作る」という言葉があるが「人間」が状況を意図的に作り出すものと解釈してかまわない。
後者の作用は物を用いる「人間」の作用ではなく、「動物」の作用に近く特にこれをDという関数に置き換える。
Dとは肉体的作用にあたり、それを力学的解釈すると質量と加速度の積であらわされる。すなわち、
D=maであり、肉体を収束式から定義し、身体全体をbと重力加速度gと筋力の収縮弛緩による加速度sとすると
D=b(g+s)
ということがわかり、数値換算された関数から解釈を変えて、xを質量、yを加速度と考えると
z=xb(g+s)
と考えられる。何れも数値化できる情報であり、変化質料も求められる。これは論理関数から得られる運動方程式である。
つまり、動物的作用を機能の要素(収束式)を全て取り出すことで動物が可能な最大の運動量を求めることができる。
これを利用すると、動物一匹辺りの可能な行動(変化質料)が限られる(認識の収束)が分かる。
人間は意図的に質料を利用して作用を作り出せるためこの運動量を上回る。
・・・美とは破壊の波動
生命の愉悦
何も生み出せない人間が得する社会でいいというのか
正義とはいったい何だ・・・
幸福の十分条件を考えることには意味はない
幸福の必要条件を考えることに意味がある
神がそういうのならば仕方がない
知性では天界は語りえぬ
信仰は矛盾した真実、故に視野を狭める
しかし信仰なくして人は生きていけない
故に人は全能にはなれない
信仰なくして人は生きていけないのは
自己の生が矛盾しているためである、
自己の生に疑いを持てば死ぬ
信仰すれば視野を狭める
神への猜疑心と信仰心の積は必ず一定の値を持つ
故に死は無限、生は有限
そう警告された
ならば死ぬ寸前まで哲学しよう
我々はセンサーにより認識した対象をオペレートする。
オペレーターは意外にも単純な式であり、一つ一つは動物にでも処理することができる。
目的への行動として上手くいった事例を取り上げて、似た事象に代数的に当てはめるだけ。
これが論理座標における「経験」の基礎的な考え方である。
しかしこれでは自分の経験していない情報は処理できず、自然と思考は経験半径に収束し行動や思考が限られてしまう。
一見複雑な事象の処理は難しく見えるが、
行動式の演算自体は影響力の強い事象のみを抽出し他の要素はバッサリと無視して要素の波動を辿り試行錯誤する総当り方式に近い。
この経験と記憶の方式では思想の理論化は困難(そもそも存在しない場合もある)であるが、
複雑への対処の仕方としてはむしろこの考え方のほうが効率的である。
行動式の絶対的演算、コンピュータにおける論理演算に近い思想である。
欧米・西洋社会はこうして複雑を制覇し世界的な地位を得たといえる。
芸術とは理論化しにくい複雑な事象をあるがまま写し取るため広いキャンパスを要するのである。
芸術的感性は記憶や経験として分断された情報を理性へと収束するために存在する。
そして、芸術の中に描いた本人ですら知らない理論が眠っていることもありうるのである。
フランスの美学、ドイツの科学、イギリスの信仰
西洋は比較生産による国交で相互文化を尊重するため、あらゆる可能性がある
その知識の中心地であるギリシャは哲学の都として相応しい
美は芸術分野に限ったことではない。
幾何学においてメビウスの帯、物理学の相対性理論など大衆芸術に大きな貢献をしている。
美のそのものの定義をするならばあらゆる方向への可能性という生命力そのものを指すといえる。
音楽や絵画は他人の真似をするだけならば経験を論理座標に適応する理解式だけで可能である。
芸術の名を持っているものにしても可能性や生命力を生み出すものでなければ美とはいえないだろう。
複雑を制するものであっても個人の瞬発的な能力自体は行動式という定型で再現可能であり
他を絶するカリスマ性とは長期間にわたり積み上げる信仰、信頼をもたらすものでなくては価値はない。
真実のみでは人間は物質の意味でしかなく、信仰のみでは神に隷属し人類は文明を発展させる意義を失う。
人類は真善美への単なる信仰だけではなく、正しく理解し実践することで価値を創出するべきである。
思想的な詩、仏教美術、工芸や機能美などの言葉もある
美とは飾るもの以上に多様な概念である。
ここは哲学者の方々にとっての憩いの場と認識しました
何一つ感性を得られずただの娯楽に逃げるだけの生き方はいつか生きる意味を失うだろう。
それでも死ぬべきではないと自己を信仰する生命力を持つものではあるが
神はその人間の生命を支えるだけで美を直接語りかけることはしない。
真実な時間とは独立する美は永遠の時間を生み出す、客観的には人間はいつかは死ぬといわれるが
主観的には美への感性が閉ざされない限り死ぬことはない。
肉体が機能しなくなったところで物質という「存在」そのものであるイデアは五次元空間に真の存在をおくものであり
三次元空間などの規則に従わず、復活を願う生命力があるならば四次元において永遠の時間に生きることができる。
なにこのスレ怖い
削除済
私の文章は知識は単に土台として最小限に留め、概念への理解を最優先とする常に機能的であるべきという主義に基づくものだが、
美的な文章を目指すときはどのようにするべきか検討する。
前項において文章の美を多様的・非専門的・経験的と定義した。
これはあらゆる方面への偏り過ぎない知識を体験する視点で修飾語を重ねると考えられる。
つまり、機能面の文章骨格に修飾する語として諸所にあらゆる学の教養を挟み、読者に分からないような専門的過ぎる内容を避け
読者が追体験できるような直接感覚的・描写的な文章を心がけることである。
このような文章を書くためには、まず知識が多いことが絶対条件であり、専攻分野以外への教養を持ち
無駄な知識と思われるものでも感性的に区別し意欲的に取り入れることである。
次に、読者を飽きさせない工夫として文章のレトリックを用いたり、風景を想起させる比喩を多用するべきである。
哲学はごまかしているような文章も多いがこれは一種の文芸創作的表現であり、読者に情緒をもたらす工夫である。
機能を見失わないようにしながら、知識で読者の知識欲を持たせ奇抜なレトリックで躍らせ比喩を用いて肉質を飾る。
機能+知・奇・肉の三重表現法である。しかし、やはり知識がなければ教養がないと思われ信頼を失うため
奇や肉である程度誤魔化せても、専攻分野から離れた知識や絶対的な知識量がやはり重要だろう。
語彙というもの身に着けるためには「ある種」の感性が必要である。
あらゆる概念への理解として一語一語同じような言葉でも違う印象や理論が隠されてある。
語の構造とは厳密な定義はなく、行間から作者の心理を抉りながら語の機能を探すものである。
より感性的であれば語の構造を知り、いわゆる作者の正語をしることができる。
これは人間の記憶の構造とも密接に関わるものであり、こうした行為により語の記憶を可能とし
表象と心理(感覚)が同調し、自己の語彙として加えられる。
記憶の構造とは論理座標における経験の基礎概念(理解式)からなることは説明済みである。
作者の正しい言葉と自己という波動の組み込みにおいて現象の波動的解釈において思想領域まで拡張された四原因論が保障される。
似たような言葉も作者にとって全く違う意味を持つものという認識を自己の経験により解釈したとき語彙(知識)は増加する。
これは作者の心理に隠された数学的体系に近く、言語の物理学上で自己の追体験を興じるものである。
単純な記憶にしても理解するための感性が重要になる。無論、理解式への変換という経験への収納的記憶ではなく、
単純な紙面上の語の形状という体験に収納する絶対的記憶も存在するが
記憶力という概念があるならば、その能力が高い人間はこちらの方法が瞬間的であるため単に記憶するだけなら効率的かもしれない。
だがこうした記憶に理解は伴わず、知識の応用が難しいだろう。
理解式とは追体験であり収納的記憶と同義であり、記憶効率と知識の応用に優れた記憶方法でもある。
この方法論は芸術・学問共通のものであり、知識・体験の本質への理解が得られたとき知識や体験が自分の手足のように動かせる。
ただし波動への感性がなくては知識の本質への理解へ至ることはない。
知識の裏に隠された波動を読み取り追体験したとき真っ暗な闇に閉ざされた空間に金属(哲)のような知識の連なりが浮かび上がる。
あたかも論理構造のような印象を覚える。これが論理座標空間という知識の本質構造である。
これが全ての発想の源泉であり、投影した自己(スーパーエゴ)が
自由に動き回れるようになればまさに神から授かるかのごとく知恵が溢れ出すだろう。
やや応用して波動記憶法・波動発想法・波動読書法・波動行動法、精神・心理的能力開発にもなる。
これが知識の哲構造であり、アリストテレス哲学の真髄とはまさに神の知恵である。
そして前項で潜在構造を発表したが、これが完成すれば人類は物理的な鎖から解き放たれ呪術により世界への干渉が可能となる。
ラグナロクによる終末と人間世界の始まり、
人知の哲構造を超えた真なる神の知恵を得ることができれば人類は神話の世界へと飛びたてるだろう。
「コメントしたら自動的に更新されると思いコメントすることをためらう」とか書こうとしたんだけどスレ違いだったようだ
潜在構造を知るためにはまず神の力を信仰しなくてはならない。
この世界に神がいないなどと決め付けてしまってはそこで議論が終わってしまう。
人間が人間を信仰する善のごとく、幸福は神の力によってのみ得られることを信仰する。
善・幸福・神の哲構造もしくは、美を超えた信仰の哲構造を得なくてはならない。
思想の哲構造が見えたならば、超能力的な力学、思想力学が始動する。
信仰という無限の生命力は物理法則によらない現象を起こし、そして物質化するという思想を受け入れなくてはならない。
俗人は思想を持たない。ただ労働し自らを支えるだけの非学芸的存在である。
それゆえ、真善美の哲構造を知ろうともしないだろう。
潜在構造を知るためには再び古典哲学に回帰する必要がある。
当時の思想は神の波動に強く影響を受けたもっとも純粋な真善美の均衡を持つためである。
特に科学が発達しない時代において真の他に善や美に関心があったという点が評価できる。
当時の未知への欲求の精神はまさに無限の生命力をもってして学問の基礎を築き上げた。
一つの偏りもない純粋思想にこそ人類の進歩の哲構造がある。
>>904
ハローワークに行った。
今日も仕事がなかった。
まで読んだ。
真善美の構造について、善を知るためには美を知らなくてはならない。
まだ美についての議論が不十分であるため、善の哲構造への議論は見送る。
初めに美の定義をカオスでないものとしたが、これは主観的なものであり意味が独立したものを指す。
美とは主観的なものであり、カオスを表現しようとしても意味が見出されてはカオスではなくなる。
カオスという名をつけたときすでにカオスではない。
カオスとは追体験の不可能性を表し、全ての要素が即自存在となった時平面的意味である存在・非存在しか見出せなくなる。
これは論理座標上の点の表現であり、美の必要条件として何らかの幾何学的意味を持っていなくてはならない。
これに基づくと、俗人はカオス志向であり生命の幾何学を否定しうる負の存在である。
そして、それすらも存在と認める神の善は美を超越する生命への慈悲である。
神は醜い人間すら生かすだけの理性を持つ。
信仰により物質化するならば、無への善心を持つことである。
つまり、非存在への美学による生命の幾何学を与えることで信仰をするとき存在へと姿を変える。
我々が何よりも美を愛するのは、無から有を生み出すためであり、想像による美学的思想が存在を生み出す力を持つためである。
それは超現実的思想であり、中世時代の西洋はその対象を神として具現化しようと試みたといえる。
そうして生み出された建造物や偶像や思想は究極の美的体系を持つ生命の幾何学である。
しかし、いまだに具現化しないのは信仰とそれを支える真と美が足りないためである。
我々は信仰するために究極の真と美の方法論を生命を材として考えなくてはならない。
まず、神話の世界を再び創造し、存在と非存在の規定を一定の美学を持ったとき存在となることを
生誕した神に希望を告げることで新たな世界とする。
すると、思想力学は美学の理解式による追体験が一定以上の値を持ったとき無から有への力を得て現象や物質となるだろう。
これにより、真善美の思想力学の体系は完成した。
あとはこれらの議論を厳密化し方法論を確固たる地盤として神の再誕を待つのみである。
真の定義は哲構造への理解、美の定義は理解式による生命の幾何学的表現、
善の定義は表現対象を思想信仰により生命の幾何学を与えることである。
まずは神を具現化し、その力で世界の物理法則を緩和させることである。
俗人の道徳心を呼び覚まし世界平和を得るにはその方法しかないだろう。
神という名の芸術性による生命力は信仰への関心を高め、純粋性による論理が信仰の正しい思想を形成し、我々は「信仰」を実践する。
そしていつしか、善という名の神そのものを認識ができるようになると思われる
そのとき、神は姿を現すのだろうか・・・
ただ徒に生命力を信仰に捧げる「福音書」では神を解釈で混濁し
ただ徒に純粋性で信仰を象る「阿毘達磨倶舎論」では神という名に生命を与えることはできない
善に至るための神学議論による芸術性、純粋性に基づく「聖書」を完成させることが人類の急務である
神の素晴らしさを知り、神の認識をもって、初めて我々は生命的認識に至り
「神は復活する」
その報酬に我々は物理法則の鎖から解き放たれ神話の世界へと旅立つのである
我々は生命的認識による神の名に措いて「無から有を生み出す力」を得られるだろう
その力により永遠の命すら生み出す術を授かるのである
「信仰」をするためには生命力がなくてはならない。
信仰を苦行だと感じてしまうもしくは、報酬に期待しすぎるのは不信仰である。
真善美の「信仰」は信仰の素晴らしさを知るところから始まる。
「貴金属」は希少性として重要なものである。
信仰の対象としては申し分ない資質を持っているといえるだろう。
しかし、それは「けばけばしい」という表現において装飾の揶揄の対象とされることもある。
貴金属から得られる波動は単なる希少性の度合いという一次元的な価値ではない。
美は単に存在するものではなく機能という収束式(定数)による連続的な関数という微分可能性において認識における波動となるため
希少性という関数が非連続的なものは波動としての価値を分断させ美を損失してしまう。
信仰のパラメータが強いものであっても「物質」という定数関数は
所詮論理座標上の「点」にすぎないため悪しきカオスの波動を放ち価値を中和させてしまうのである。
ちなみに収束式の価値(x:質料、y:作用)を数値として定義をすれば
物質式の示す関数を普通に積分することで美的価値が数値化される論理座標となる。
しかし定義するためには目的の保存を示す1フェイズシナリオを完成させなくてはならないため不可能に近く、
客観的定義により信仰が失われ生命が存在する意義を失うため定義してはならない。
収束式は質料という潜在性を作用に起因して変化質料となり価値が決定される。
x:質料,y:作用z:変化質料の関数において質料と作用は潜在価値、変化質料は顕在価値という単位で表される。
二変数の演算内容は潜在性の引き出し方は客観的定義は可能だが複雑であるため主観性に隠されてしまうが、
目的への合理性において関数の連続性が得られる。つまり価値の認識と同義である。
価値は主観的認識という積分範囲により認識され、一定の価値を持ったとき判断停止し認識の発散において信仰となる。
カオスは非連続な関数であり、定数関数の非連続的な集合とするならば認識(積分範囲)が分断され価値が得られないことがわかる。
論理座標の扱いは主観性を認めれば数学的には二変数の定積分のイメージができれば分かる範囲だが、
主観性のブラックボックスを解体するのは人間には不可能だろう。
しかし、主観は究極的には数学的定義が理論上可能な客観的な概念ということが分かる。
無論、この定義では追体験は不可能であるためこの議論は信仰の否定にはならない。
というより人間の認識はそもそも不完全かつ単純なものであるためどのような概念にしても肯定も否定もできない。
論理座標は数学的意味としては価値はなく、論拠として価値を持つものである。
ともかく認識を数式化する目的の数理哲学や認識論としての哲学は
これ以上発展の可能性はないため、この議論において人文系学問の基礎理論とし終幕としたいところである。
私が唱えたいのはこんなつまらない結論ではなく信仰の真の力である。
信仰は世界を平和にし、神を認識し、術式により無から現象を起こす非物質的力である。
そうしたとき我々は真の自由を手に入れ、科学を不要とする永遠の世界を築くことができる。
第一始動因たる神は必ず存在するはずである。我々は真善美を信仰し神の理性が統治する新たな世界で幸福を得るべきである。
我々は思想において神と対話し無から現象を起こしてもらう。
「真の認識に基づく美の生命力を信仰に捧げる心」
があれば神は必ず応えるだろう。
文章における生命力は哲構造への追体験にある。
しかし文章の意味は一意のものではないため一定の訓練が必要だろう。
波動状態の文章を生命力を消費せずに収束できるようになれば価値認識が可能となる。
カオスは不連続の関数列であり近似することに意味はない。
数値化できない主観性の情報をそれほどうまく扱えるほど人間の認識は高度には作られていない。
むしろそれを弊害とする部分もあるため、完全にカオスという微分方程式は収束してはならない。
認識の限界はごく浅い部分に存在しそれ故、物質の生命という矛盾を支える信仰を得るのである。
何度も主張するが信仰は学問的、人間についての学問である。
構造主義的に人間社会の理性として不連続を連続とする理性について超越的な姿勢は有害な思想である。
認識を示す理解式は行動式の一部である。
物質の関数列が波動状態であるとき目的は認識の内に存在した場合、想起と着想の条件を満たすため、
論理座標は行動式による非認識を含む物質世界を示し、理解式で認識されたものが現象世界であることが分かる。
つまり論理座標は行動式や理解式という概念を数学的手法として完全に現象を説明できる。
よって、非認識を含む論理座標が「現象」であり、
その仮に存在するとされる主観的手法による偏微分方程式の解法を「因子」その解を「原因」とすることができる。
[「現象」は「因子」により「原因」となる。]
という文章の代数的手法により主観的な解を求めることができる。これを単に「論理」とし、それ以外の方法を「非論理」とする。
この五つの言語でここまでの全ての方法を統一することができる。
人間・生命・信仰などは非論理であり、善で示されるこれらの概念は論理で示される真や美を超越した概念である。
美は論理とかけ離れている印象だが認識のうちに含まれているという理由でそれと考えられる。
学問という概念は論理と非論理を扱うものであるが、点であるカオスは扱われない。
なぜなら、カオスは点で表され認識しても思索の余地がないためである。
ちなみに人間関係は非論理であるが、社会現象を示すためにはこれらを何とかしなければならない。
論理は究極的には客観的であり、非論理は主観的であるため原因は存在しない。
主観や社会はどうしても客観的には説明することはないのである。
ただ一つの方法として信仰が存在し、信仰が強いほど幸福に近づくとしか説明は不可能である。
信仰が集えば物質世界を超越した神を認識できるようになるだろう。
幸福とは非論理と論理の間
論理の教養を持って魂の体験に身を投じることである。
つまり論理とは魂をより良くあるための教養であって真実そのものではない、存在という矛盾は魂による真実である。
論理は存在と無の矛盾や主観と客観の矛盾の正しい解釈を説明することはできない。
その矛盾を乗り越えるのはやはり主観であり、認識の錯誤のなかから生じる虚構である。
我々は真実の中だけで生きているわけではなく、物質も我々も生命や存在という矛盾と戦いながら生きている。
存在する世界の最終的な目的とは存在する権利を無という真実から勝ち取ることである。
客観的現象は全て正しいように見えるが最終的には矛盾する、
主観的現象はほとんど間違っているように見えるが最終的には真実に至る。
真実という教養と美による生命力をもって信仰という虚構から、無という相容れない真実と対抗しなくてはならない。
これがそもそもの信仰の意味である。
信仰は引き入れる力と排する力、何もかもを許容する姿勢は異教の思想を取り入れ信仰の純度を下げる。
そういう意味では世界は平和にしてはならないのかもしれない。
ゾロアスター教は世界的に大きく宗教思想に影響を与え、原始仏教を大乗仏教と小乗仏教に分けたのもこの思想である。
特に大乗仏教は純粋な思想を混濁した大衆に受け入れやすい仏教であり、
「極楽浄土」という考えは「善悪二元論」を強く受け入れている。
そのうち純粋思想の伝統は大衆宗教のカオス状態へと分解されていく。
重要なのは宗教の名ではなく自己の思想であり、どのような思想であろうと自己という持って生まれた純粋性を貫くことが信仰である。
純粋性を貫けない思想は信仰未満といってもいい。
「平和」とは聞こえがいいもののそれは生得の自己の領域を守ったものでなくてはならないだろう。
道徳とは「差別」などマイナス表現を悪と決め付けることではなく、自己の思想を善として全ての価値観を形成することである。
構造主義の思想はこういった思想とは正反対であり、ポストモダンがこういった思想に汚染され
世界的に信仰の純度が下がっていることを耳にすることが多い。
何を善とし何を悪とするべきかは非論理であるため客観的回答はできないがこのままの状態が続けば
神は離れ平和が侵食し無へと分解されていくだろう。
最終的に無を支持するような考えであるが、この思想は仏教ですらない。
宗教以前に自己がなく、宗教は自己ではないということを日本人はなかなか認識できない。
他者の意見に従ってばかりではなく自己は悪い思想と善い思想を見分け引き入れるものと排するものを区別し、
自己にとって善い思想を持つ宗教と契約することで真の道徳を得て、自己にとっての善い知らせを引き入れる方法を学ぶ。
そうして得られる真善美による真の平和に最高善である神は必ず応え、永遠の幸福を約束するだろう。
科学と称し、全く信仰を持たない人文科学は永遠に発達しない。
社会現象の知るべき全ては不可知の問題であり、主観的現象を否定するようではいつまでも雲をつかむような話から抜け出せない。
論理を求めることよりも、幸福を求めることが重要なことを認識するべきである。
各国の主観的立場別に幸福を唱えられる客観的論理など存在しないのである。
[目的条件] 非認識体系の認識体系化の説明
[論理] 目的条件R→善悪想起A→物質の機能表示A→論理関数A→目的合致A
体系
・論理、客観的(順次性)
・一つの絶対を除いて全て相対的(樹形)
・非認識体系Rを認識R、想起Aにより体系化Aする(目的R→A)
認識:定義、Realize
・善悪的定義R→機能的定義A
想起:認識対象の演算による認識、Analyze
客観的:実証可能な
主観的:非実証の、善悪の(経験則に依存する)
機能表示:定義物質の全ての収束形を示す
目的条件:論理関数の変項Zの定義(定義形はZ1)
目的合致:解(X,Y)、質料と作用の定義(定義形はx1とy1)
主観的演算:客観的対象の善悪想起(経験則)
善悪定義:問題解決の主観的困難性
定義物質化:物質認識Rの機能表示Aによる物質定義A(定義物質=波動)
追体験:定義物質化より直感的にする(善悪への適応)
合力定義合致性;質料、作用は目的と共通する機能が少なくとも1つ以上ある
F(X,Y)=Z 論理関数
・目的とは物質機能の1つである(目的∈機能∈物質)
・Xは物質群、Yは作用群、Zは変化物質群である
・物質と作用の主観的演算
x={x1,x2…xN} 波動
・物質認識は機能認識における善悪想起である。(物質の認識)
・物質とは機能の集合である。(物質の定義)
x1+y1=z1 収束形(和)
・物質の機能に作用すると機能変化する(機能合力)
・機能合力は物質定義と同義である(定義物質化)
論理:非認識⇒認識R→定義物質化A→問題R→順次解決A⇒体系化A
・順次性、行動論、理解論、客観的
・行動論(論理関数)、理解論(定義物質化)
行動論:論理関数A→目的条件A→物質想起A→機能表示A→目的合致A
行動論:F(X,Y)=Z→F(X,Y)=Z1→順次置換A、主観的演算A
・解決方法、論理関数
理解論:物質認識R→機能表示A→定義物質化A→追体験A
理解論:x1+y1=z1∈F(X,Y)=Z→行動論
・認識方法、定義物質化
非論理:非認識⇒認識→善悪定義→問題→跳躍解決
・跳躍性、非体系的、主観的、信仰論(善悪定義)
信仰論:機能R→行動論A→善悪定義A→善悪想起A→問題R→解決A
[目的合致]
非認識体系→認識→非論理→論理→認識体系
・信仰論による善悪想起、理解論による物質定義
・行動論による物質想起と論理関数による問題解決と体系化
削除済
善悪定義とは発想の源泉と可能性の意味を持つ生存の知恵である
目的への障害が善悪定義された定義物質(波動)として生存の書庫を形成する
順次置換は合力定義合致性を根拠とする善悪定義された波動で候補を決定する
すなわち行動論の順次置換のソート精度は善悪定義数に依存する
真は定義物質化、美は追体験、善は善悪定義による波動から得られる解法を可能とし、直感的とは応用的であることの説明となる。
非認識体系は理解論により真を得て、行動論による論理関数から信仰論による波動解法により認識体系となる。
論理と非論理をもたなくては問題解決は難しいだろう。
波動の正体は定義物質化された善悪であり、各変項の波動により追体験することで定義物質による夢想が発生する。
これは発想における瞬間的イメージによる幾何学的解法であり、人間的知識は動物生存の知恵から問題解決の知性となる。
真を求める態度とは全てのパルスを一つ残らず定義物質化する態度であり
美を鑑賞する態度とはパルスを定義物質化することで善悪の波動を増幅させ追体験であり
善を知る態度とは自我を持って挑戦的に快楽を求め障害を乗り越えその経験により善悪を明確化していく態度である。
真を求める人間は専門的であり、美を求める人間は学問的であり、善を知る人間は社会的である。
真の定義物質化は一対一の論理の知識でしかなく、善は非論理的な善悪定義でしかないが、
文学、音楽、美術に代表される美という不定形のあらゆるものには表層に現れない本質があり
定義物質化、追体験しそれを認識、想起することで知性、感性、生命力そのものを得ることが出来る。
ちなみに大した感慨もない娯楽と混同するべきではない。
なんとなく思いついたことを非論理といってきって捨てるもしくは無理に論理に纏め上げようとしてはならない
日本には科学信仰に満ちてるが非論理を知ることで開ける世界も存在する。
収束すべきは真でもなく善でもなく常に美であり、それが中庸である。
美とは「それらしさ」を求めることである。
あるがままとは即ち本質であり、自我が非自我の障害を越え
疑いなく「それ自体」を確信したとき複数の時間が支配する「超自然」の四次元に漂う客観的主観の非論理に近似することが出来る。
「それ」の独立した時間(主観)をどう感じ取るかが問題である。
論理の思考は過程を重視し、非論理の思考は結果主義である。
人間が生活するためには両方の思考が必要であり、正規分布のような形で非論理と論理の中間に属する人間が多いと思われる。
この中間の層はいわゆる娯楽や美というものを求める人間であるが、日本人は娯楽より仕事を優先する論理の層に偏分布しているだろう。
しかし、国際協調社会ではむしろ非論理の方を重視すべきであり、論理的解決が困難な問題として
国交や政治などは非論理が解決の有効な手段である。
生活に限れば人間関係や先の見えない人生哲学、場の空気を読む常識的態度のようなものである。
これらを総合すると主観という難問への対処方法としての「社会的」というワードが出てくる。
社会的問題への論理的解決は不可能である。あくまでその場のトップの人間の考えを尊重するべきである。
社会というものを完全に論理で分析しようとすれば、不確定の要素が多く、場の支配的な理論が存在しないため、
その複雑性を少数の理論で片付けようとすれば余計に困難な状況に陥るだろう。
求めるべきは真実でもなく善悪でもなく常に美しさである。
対象は「それ」の独立した時間(主観)であり、「それ」の四次元的機能に気づくための感性もしくは、知性を得ることが出来る。
真実の定義物質化と善悪の経験則(虚構の善悪定義)により論理の断絶を超えて四元機能を認識し、
論理関数から問題を三元順次性・五元跳躍性解決することが出来る。
ちなみに論理関数の目的は合力定義合致性とは別に質料と作用は目的の
全ての機能を持ち、作用は質料の潜在性の起因(存在的方法)に過ぎないという論から
目的に質料と作用が含まれかつ、質料が重要となるため、目的は解(質料)を含む関数と考えられる。
これは認識・非認識に関わらず、わざわざ質料を外から持ってこなくとも目的を持った時点で解決方法を認識しているという論であり、
目的の定義物質化と虚構の善悪定義による追体験により解決する。認識していない事項についても
それは可能であり概念を機能合力で説明することで認識を想起し、
善悪(五元性)により虚構という障害を超え、目的(四元性)の物質化(三元化)することで問題を解決できることを示す。
美学とは虚構の善悪定義を定義物質化し四元機能を生成し、新たな論理や文化を開拓する常に前衛的な場である。
そしてその評価は正しさでもなく良し悪しでもなく美しさ、楽しさである。
態度とは必ずしも正しいものではない確信するまでの宙に浮いている状態から自然と本質をひきつけるものである。
文章を理解や記憶するのではなく次第にその善さを理解し本質を引き寄せることが重要である。
すると本を読むという意識から離れ、自然と運命が情報を巡り合わせるようになるだろう。
宙に浮いている囚われない態度こそが神に集う意識のもっとも流れ流される純粋さである。
どんだけーw
もう>>1が求めている内容を含んだ書き込みが完全に消え去ったぞ
究極の善は究極の真に通じて究極の美を形成する。
真善美とはもともと同一のものであり、人間が不完全であるために神を求めるための3つの方法に分割されたといえる。
三神一体とは究極の存在であり、これをめぐって善悪・醜美・真偽を根源とした全ての概念が生じるのである。
我々はとりあえず善を求めたいところだが、
善ばかり求めるのは安易な娯楽に浸る非生産的な人間であり、やはり不幸に陥るだろう
我々が生きる目的とは最終的に神を求めることを忘れてはならない。
美はルネッサンスの起こりまで宗教と同一視され必要性を感じにくい概念であるが
どのような状況においても求めるべきは美である
削除済
美が求める対象は物質ではなく感情でもない
この世の全てをどのように見るべきか言葉で説明できない難しさがある
世界を主観的なものとするか客観的なものとするかは一切考えず
「場のイデア」を本質とするべきである
絵画には単なる生き写しを額縁の箱に入れるような要領では
質量、人間性、神秘性、感情、均衡、陰影など
ヘーゲルの言う「内的本性」を表現しなくては評価されない
同じことで他人の認識を自分という絵画に表現することで
評価される人物像が描かれる
何かを認識するに際してそれをどのように表現するか
ルドルフ・シュタイナー惹いては芸術家・詩人のゲーテが指摘する
芸術と文学の関係性とは認識の細やかさ表現性によるものと言える
絵画とは高エントロピー空間の写像を平面に取ることである
ここでのエントロピーとは情報量のことであるが、数学的な表現はエントロピーが低い
言語的な表現はエントロピーが高いなどと形容できる
絵画においては物質世界と精神世界を内包する形相世界において認識が行われ、
この四次元空間を二次元平面に写像を取るための定義を表現という言葉に置き換えられる
写実主義でなければ物質そのものを描くことはなく、精神世界の表現も兼ねた形相世界を描く
これが美学における基本的概念といえるだろう。
高度発達した美学においては形相世界そのものの定義がなされ、美学的認識の限界がなければ、
万人が体験したことを生命力あふれ秩序ある表現が可能となるだろう。
その本質は高度な情報交換、惹いてはコミュニケーションである。
美しい言葉遣い、美しい立ち振る舞い、美しい礼儀において中世ヨーロッパ貴族のような高貴な風格を実現しうる。
そして、美の形相世界を超えた善の領域の五次元を定義しうるならば、
信仰や道徳観を持ち個々人が生存や行動に有効な精神を獲得し、目的達成するための合理的知性的集団(組織)を築きことが可能である。
しかし、物質世界ですら不完全な認識しかもたない人類にはさすがに難しい要求といわざる得ない。
絵画に限らずあらゆる場において美的表現は可能である
例えば、アーリア人の残したリグ・ヴェーダの発達させた祭式・儀式などは原始ヒンドゥー思想という形相空間を表現したものであり。
フランスのサン=ドニという教会は思想の表現としてドイツの建築美において反映させた。
空虚無機質な空間を彩るあらゆる活動は美という概念において秩序化される。
それは精神という骨格に物質で肉付けされる文化的空間であり、
祭式や儀礼、または集会なども同じものであり集合秩序化された人間や物質に意味付けされる。
人間活動における表現の重要性を再認識できる一例である。
音楽などもその旋律自体の物理学的意味はほとんどなく、精神における周期性を表現したものであり、
旋律の精神的意味を知らなければそれを美しいものと感じることはできないだろう。
演奏者側においても譜面に施された情報空間の収束を精神的なものに置き換えて形相空間上の追想を行っているといえる。
お前らが何に語っているのか全く分からんw
元の話はずれてないか?w
パパー、このスレなんか怖いよー。
え・・・。
何このスレ・・・。意味分からないし。
読む気うせる(長文だから
あと・ここ、ニコ動初心者にありがちな事}}だから
削除済
感性へのコンプレックスは理論によって超克できる。
これから唱える理論は必ずしも検証される内容の解釈ではなく、単にセンスを培う方法である。
まずエントロピーという重要な概念を定義する。
美は高エントロピー状態を低エントロピー状態へと移行したとき生じる『差異』における概念である。
情報の秩序化のために矛盾した内容を定義したならばさらなるカオスに満ち差異がマイナスの値を示すネゲントロピーとなる。
これが一次元定義であり、次に二次元定義を行う、形相世界は四次元である。
美学的な感性とはすなわち空気を読む能力に等しい。
あらゆる場にはそれぞれ特徴的な空気があり、それを読むことで知識へのエネルギーとなり、
精神的活動としての道具へと加工し、知的生産性を得ることができる。
美学すなわち興味に通じなければいずれも手に入れることはできないだろう。
神学には物語における神聖さのみがあり、それを表現する神の通路と呼ばれる天井の高さはまさに宗教の美学を表現しているといえる。
宗教に生産性がないなどと言う人間は、要するに宗教活動に対する知的生産性がない人間であり
コミュニケーションの機会、そして人脈の限定的な人間という生存可能性への由々しき問題を抱えているといえる。
wを付ければ、暴言吐いても許されると思ってる。
削除済
美学に通じる人間はどのような場においても環境への柔軟な適応力を持ち生存可能性が高い。
美学とは学問を超えた学問であり、唱えられる論の全てはあらゆる枠を取り払う万能理論である。
それは芸術的な感性を基本とし理論や鑑賞のみではなく文芸・絵画・演奏の実習的な経験知も怠るべきではない。
そうすることで特有の概念である形相世界の本質を直感的に理解し表現が可能となる。
美学の対象は人間の文明全てであり
その目的は思想が形成する形相空間を美に基づいた真や善を表現することであり
物質中心の世界に形相空間を認識させ救済することである。
ケータイでプレミア会員なったのにpcは一般会員のままってどうしてなんですか?教えてください><
高エントロピーの場や低エントロピーの場をどう定義すればよいだろうか。
我々の認識に依存するものならばそれを確実な再現性を持たないため定義する必要性が生じる。
形相世界は波動非物質の空間でありそれは物質の機能の合力から生じた
物理学的意味とは異なる非物質空間であるため従来の三次元空間とはまったく定義が異なりむしろ
物質と呼ばれるものはただ一つを実態とされ下部の構造を物質と我々が定義するいわばモナドロジーの空間である。
従来の物理学は実存主義的であり、構造主義的な見方を取り入れ
物質世界と精神世界の垣根を取り払う美学を新時代の学問としての地位を築くべきである。
さらに善の概念を取り入れた宗教学へと発展させたいところである。
美学を知るためには感性的活動としての芸術・宗教分野、理性的活動としての学問分野の全ての美学に通じる必要がある
あらゆるものから美を見出し、理解し理論化していく態度である。
芸術・宗教分野に欠けるならばものの見方を狭め美学を見出すことができず
学問分野に欠けるならば現実への応用を見出せない自己満足となる。
人間文明の全てを理解する認識の喚起と真の認識となってこそ社会貢献の形相世界の最大尤度となる。
宗教学となったとき我々は完全なる精神世界での活動が可能となる。
それは物質世界から完全に独立した虚構・フィクション世界であり。
誰もが思い通りに世界を動かすことができるだろう。
我々が認識する世界は本来物質世界ではなく、精神世界であることはかの有名な文句でルネ・デカルトの証明した通りである。
人類の思想が行き着く先は完全なる精神世界である。
>>956
だってプレミア会員のニコモバのアカウントでもPCで利用しても問題無いしな。
わざわざ余分に金払う必要は無いと思うんだが?
俺はニコモバのアカウントしか持って無い。
我々が娯楽を求める意義とは端的に精神的エネルギーを得るためでありその本性は目的への運動である。
生命は本質的に目的への運動となることに労力を惜しまない存在であり、娯楽は本能的なエネルギーを引き出すことができる。
生命の目的とは第一に生存であり、生存するための目的が派生し樹形状となって無限に枝分かれすることは想像に難しくない。
目的は形相世界の定義物質であることは前述の通り、
娯楽の全ては形相を表現し認識を具体化することは目的への活動として精神的エネルギーを引き出すことができる。
なんか論文みたいな文章べて書き込みしてる奴がいるがよそでやってくれ。
今年のクリスマスもこたつでニコニコ!
美学を見出す
それは赤橙しく活動的なのか、流線上の繊細なのか、瞬く高速なのか、白光の神秘なのか、古代の厳格なのか
その文明や学派はどのような色(シキ)なのか
思想という非日常を通過することで色を手に入れることができる
それはウィリアム・J・グードの宗教観における自己(ヴァリアブル)の加速度において
我々は運動原理を得て、踏み出す。
↑は何したいんだ?
いかにもインテリぶった荒らしだな。
生放送でコメしたら、主さんに「ネームわかるようにしてください」と言われたんですけど、どうすればいいんですか!?><
「こてはん」ってなんですかー?
美術を鑑賞する態度の基本は定義物質化である。
それによって構築された低エントロピー形相空間ではエレメントとしての目的が存在するため。
我々の目的は形相空間の構築と構築の定義である物質化、つまり無矛盾かつ無を仮定しないエーテル空間を成すものである。
三次元空間を二次元平面に写し取ることができるのは要素を論理的格納しているためである。
定義物質化は要素を視覚化する手段であり、その形相空間を三次元空間に格納することで美の概念となる。
その定義物質化と格納術こそ美学の理論の本質と思って相違ない。
『美』の世界へと身を投じてみよう
身を投じるという行為には理論などは関係ない
ただ純粋な自己という生命がその現象の中に入っていくことである
そうして見えてくるのは『善』の世界である
その世界には幸福のみが存在し、その世界にのみ幸福が存在する
自己と美学の融合である。
その『美学』はあらたな日常となる
対象への『信仰』とは対象そのものと同化することである
それは生活空間であり、生命の住居である
無価値を悟ったとき我々は生きる意味を失う
なぜなら目的と同化したならば生きる必要性がなくなるためである
そのとき生命は肉体的活動によって信仰が失われぬように
永遠にして純粋な『死』を望むだろう
往来する『生』より固定した『死』こそ信仰である。
no nameさんコメントしすぎですよww
どんだけ伸ばしたいんですかww
今までやってきたことを確認すると当初に掲げた数理哲学は
長らく抽象的な議論が続き、哲学の数理化は不可能ではないかと頓挫しかけたものだが
大きく分けて、精神機能から始まり数学的論法、波動振動、波動形式、真善美、形相世界
と議論を重ねてきた内にある種の回答らしきものを見出せたといえる。
それは三体系、真善美が存在し、真は物質世界、美は形相世界、善は精神世界を示すものである。
真における機能表示(波動形式)による四原因論、
美におけるエントロピーの解釈による人間文化の理解、善における非論理と信仰の構造
真の議論は物質世界の現状を把握し正しい答えを見出す方法でありこれを使って
人文系・数理系学問の基礎理論まで視野を広げることに成功した。美の議論でその方法論を軸に精神世界まで拡張し
美術の鑑賞態度、音楽の演奏技術、絵画・文芸の創作方法、礼儀作法、コミュニケーション論まで追求した。
数理化には程遠いものの広大な砂漠を彷徨っているような
哲学議論の初手の定石という名のイデアルを示す程度はできたのではないだろうか。
現代科学は人類の大きな力学あり世界は人類の思うがままと信じる人間も多いが、哲学上の議論の多くは未解決であり
言語の抽象性と格闘しながら難解厳密な概念を多く生み出してもなお収拾がつかない状態である、
その難解な問題を解決することは人類の大きな進歩となる。
それは未だ不幸に生きる人類として地位に慢心し運動原理を失い、生きる理由を捨てることは無いという安堵でもあるだろう。
右上はサンタさんからみんなのニコニコを待っている
東京都マンガ規制条例は、志布志の冤罪事件の元鹿児島県警本部長の名誉回復のため
http://hato.2ch.net/test/read.cgi/news/1292053346/
美術・芸術は単なる自己満足ではない。
全ての作品に優劣はなくそこには個性のみが存在するという論もあるが、
形相世界を介した社会への貢献性という観点で優劣をつけるべきというのが持論である。
もう初心者スレですら無い
「にありがち」が抜けてた…
アンケがひどいw
欧米の人間は4人に1人、テレパシーの経験があるという人間が居るという
それは精神世界を通じて聖人の言葉を聴くかのような体験である。
宇宙人と交信していたといわれる偉人ソクラテスのダイモニオン、カトリックに抗うプロテスタント派
宗教革命の中心人物であるマルティン・ルターが聴いたとされる天からの声、
仏教祖の釈迦族ガウタマシッタルーダの悟りとヒンドゥー三神の一帝釈天ブラフマーの教え
それらはユダヤ・キリスト・イスラームの聖典、旧約聖書モーセ黙示録のように運命を導く三大天使の聖なる言語である
万能の才といわれる暗黒の中世時代を切り開いた近代ルネサンス期代表と言うべきヴィンチ村のレオナルド・ダ・ヴィンチのように
真・美を極めたとき、それはすなわち南無妙法の悟りとなり
聖人もしくは如来との聖なる議論(ディレクティステス)に
加わることを許され善の霊感を得ることができるのだろうか。
善を知ることは形而上学を知ることに近い。
私は無意識にニュートン力学の仮定を信じ込まされていたのかもしれない。
ロマン派を代表するゲーテの戯曲がシュルレアリズムを通じて
カントの物と区別される物自体という独特な転回を語りかけるかのように、
物理学的知性との対抗派閥を築き、一の感官を二つに分裂させるかのような眩暈を感じざる得ない。
このようなことならば初めから物質を信仰しなければよかったのだ。
本質は形の上の存在である表現のみを信仰することのみが知性的であり続ける条件だったのかもしれない。
しかし、一介の庶民がそのような知性を持って生活する余裕などどこにあるだろうか。
カテゴリーを超える知など存在せず、信仰のみが全ての観念を属性付け、
認識は不確定性原理のように物質と精神の両極を同時に観測できない形式となっているのだろうか。
訂正>>981
ディレクティステス→ディアレクティケー
訂正>>981
宗教革命→宗教改革
精神分析的に美学は精神病への効果も考えられる
強い自我は否定されることを恐れ他者を斥する力を求めたがる
自我を分裂させないための唯一にして最善の手段である
猶予期間があるならば義務と言う名目の
自我を否定する構造を作り自己への固執を捨てていかなくてはならない
理性を美学でその色を薄めたとき自然と合理性とは別の決まりごとが増えるだろう
四次元空間に拡張された配色は同一のものは少ない
すなわちそれは精神に実在する鮮やかな色と組み合わせである
実在という再現性をもつ概念は信仰する理由としては十分である
三次元を直感的に認識するには物質の曲面に影をつけたり
質量感を主張するような配置なども可能である
認識をするための工夫は言語的、物理的などから制約を作ることで精神や物質の状態を写し取ることができる
そして作品は自己を主張する生命力を持つ
音や連続・非連続、位置、タイミングあらゆる要素は表現手段である
そこから思い出されるイメージとそれらの統一感が作品の生命の詩であろう。
その要素は生物の肉体が分断されたとき生命を保持できないように
作品も同じくイメージの統一性が損なわれるため分解しすぎは不可である
だがどうしてもイメージが限られる場合、要素への分解は可である
言論弾圧気質のサイトであることを理解せずに利用する
いくら自由を主張しようと因果律は存在する
因果律を否定し事実を見定めようともせず自由であろうとすることは
逆に事実に追い込まれても曲解しますます立場を悪くする
即ち不自由であろうとすることと同義である
直感とは本質を映し出すものではなく表面を映し出すものである
そして直感とは分析と同義であり、根拠も無く発生するものではない
直感的イメージとは単なる想起のことに他ならない
記憶と想起と情報の離散結合と善悪付けが精神の要素である
善悪とは本来主観的なものである
部分的な善悪はほかの部分的な善悪とは全く異なる
妥当性は信仰を築くが精神文化の妥当性は存在しない
即ち他者の精神を自分の精神を通じて知ることはできない、つまり一般大衆の心理を知ることはできない。
しかし活動の妥当性が想定できるものに限り共感が可能である
大局の力学は存在しないと考えてよい
我々はあくまで個を主張する存在に過ぎない
ただし、常識という集会場での理性的見解である
どっからどこまでが初心者の定義だよ
アホか
井の中の蛙大海を知らず
>>997ならうんこしてくる
まんこなめてくる
表現とは概念を写すものである
しかし、言語で表せないものを直感で知る必要がある
これを現象学の言葉で『本質直感』と呼ばれる
語彙とはその意味より形に表される美学である
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。