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「自重」を「じじゅう」と読む
可能態質料=目的⇔形相=非可能態質料+目的
知性化される知識=形相=創造される知識+説明される知識
知識化されるカオス=創造される知識、下位知識=知性
知識=知性、単純概念の目的を得るには知性的、複雑概念の目的を得るには知識的がよい、よって理想の固定観念を得るべきである。
この世界には普遍の性質と変動する性質があることがわかるだろうか。
普遍の性質は主に物質であり、変動する性質は物質間の相互作用である。
物質が作用を得たとき物質の変動する性質としての形相となり、形相から目的(主語から述語)への変換を得る。
形相に作用する可能態質料を得たとき言語が完成し方法となるが、まず質料と作用の形相への変換において
作用∇質料=形相、作用は拡散係数とし形相は変動する質料の性質を示し質料の流体解釈において四階テンソル空間に可能体質料を得る。
少なくとも作用を持たない質料には可能体質料は含まれないため物質分解には目的は含まれないが、
物質分解は質料分解であり質料の流体解釈に幅を持たせるものとして可能態質料を得る可能性を増やすことができる。
目的と同値となるインデックスが可能態質料であり、目的の認識質料マトリックスが含まれた場合、
主語と述語の線形空間において言語空間への写像を取る。
これによりメタのない言語空間となり、メタを用いない言語空間は我々の生活空間と同義であるため、
概念の物質化としての先言措定(表現措定)となる。
何か変なのがいるけどスレタイに沿ったことを書く
NGユーザーでユーザーID確認もせずに自演だろと言う
まぁ、いちいちコメ一つ一つをユーザーID確認している奴なんて実在しないだろうけど
基本思想として、質料の振る舞いを量子的な解釈において形相化し、可能態質料を得ることは難しい。
我々の日常的な思考形態として思考をするために記憶として概念を抽出し固定した点と考える。
これを質料とし、作用において変化が生じるならばこれを形相(変化質料)とすることができる。
目的は質料であり、可能態質料と非可能態質料の和において形相となる。
メタを用いない言語において質料が主語で目的が述語であるため、
四原因からなる言語を求めることは時間軸上の変化を包括する方法化する創造言語となる。
思考とは、質料を得る、作用を得る、形相を得る、目的を得るの4原因を求めることであり、
A:全ては感覚記憶を基底とする質料であり、質料を項とし質料の作用を演算子に等号で結ばれる形相が目的であった時方法となる。
解釈思想として、目的を得るため大量の質料を求め可能態質料そのものを得る知識的態度と
方法のみを求め少数の質料から可能態質料を求める知性的態度がある。
知識的態度は質料同士の関係性を把握することを不得手であり、形相を求められず、
メタで表現される多様な空間に対しては質料の絶対数があるため
感覚的に行える厳密性の低い事象における態度といえる。
知性的態度とは質料の相対性を重視し、質料同士の関係性を把握し形相を求めることが得意である、
だが、感覚で表現しうる質料の絶対数が少ないためメタで表現される空間を把握することは不得手である。
A:質料自体を知識的態度で概念の材料を収集し、質料の形相を知性的態度で求めることで目的を得る態度が中庸である。
ただし、発想的態度においては知識的態度による多量の質料と感覚的解釈で目的を求め
厳密性の高い事象においては知性的態度による少量の質料と論理的解釈で目的を得るという状況と相対とする。
更に空間の情報量に相対するため感覚的事象においては質料を感覚的解釈し、
厳密的事象においては質料を理性的解釈することで解釈による感覚的(法則性の低い思想)同層化しなくてはならない。
古典哲学は知性的態度の実存主義であったが近代に入ってから還元主義台頭として中庸的態度となり構造主義となった。
アポリアを判断停止し純粋性を失う代わり複雑化社会に対応するために還元性を高めた思想である。
依然として知性的態度ではあるが旧来に比べてある程度寛容になったといえる。
我々はヴァイシェーシカ学派の思想を目的により集約しなくてはならない
カオスという質料の無秩序な集合は目的によるクーロン力に引かれる作用によって形相となる。
真の実態とは立ち現れるものではなく悟るものである
対象を見るのではなく智慧において悟ること、
「もの」にはそれぞれ違った実態があり
「言葉」にはそれぞれ違った実態がある
ヴァイシェーシカ学派による認識論はこものの性を認めるものではなく
あくまで実態の差異を見出せるのは言葉であり
形相を認めるものではなく
内属による分類がなされるのみである
それはあたかもイデアによる創造のみが
真の実態を産み出すような
無から実態は引き出されるという興味深い一説である
四原因における論法では目的という述語から主語を求めるが、
先言措定の演算の規則から派生した方法を得ることができる。
我々が感じうる違和感のようなものはどのように扱われるかということであるが、
違和感とは形相であり質料と作用への分解ができる。
違和感は特殊な性質で直感的に関心が高まった状態であるため、
これを求めることにより認識空間の下位概念が解釈され
言語の応用性を高めると同時に関心を高めた性質を得ることで認識の可能性を得ることができる。
これが予言的可能性の先言措定である。
削除済
削除済
経路積分により目的を視覚表現化する。
我々の「もの」への解釈とは視覚的な認識に基づき、その本質を帰納演繹的に別のものと解釈する。
「もの」が石だった時、石の情報を知らない我々は石に対して硬いなどの解釈することはない。
石が硬いなどの解釈は誰でもすることであるが、投げるものなどの解釈をする人間はやや限られる。
この解釈を質料と呼び主観的現象における存在という概念を示し、また主語である。
質料は可能態質料と非可能態質料があり、可能態質料を目的と呼び、述語である。
我々が新たな言語を創造するのは「もの」の解釈により可能態質料を措定するためである。
新たに言語によって概念の枠を狭めることで非可能態質料の中から可能態質料を見つけやすくなり、主語と述語を得る。
可能態質料と非可能態質料の和において形相となるがこれは質料を石と措定した場合、石を投げるまでが形相であり
「石」の「解釈」により「形相」となるが、解釈に相当するものが作用であり、石の形相が生じるための作用が必要となる。
石を投げて壁に当てることが目的とすれば、まず石とは何かを考え石の形相から石を投げるものとし
目的を照合し一致する可能態質料を引き出す。
目的が不明確な場合は置かれた状況に対する不快な感情の原因を明確化させて目的とする。
具体的には不快な感情の原因を明確化させることを目的として可能態質料を得た後、さらにその原因を目的とする。
善の表現措定、悪の予言的措定、目的の無限下降、連続作用と可能態質料次元表現
表現(メタ)とは何か。
我々の物質への認識は予め知っているものではなく、視覚的刺激に明確化された記憶をシルエットとして
記憶の集散により形相を推察するいわゆるレッテル貼りが行われる。
初期状態は感覚記憶を質料としたカオスでありそれぞれ独立している。
独立したままでは形相とならず明確化される情報として引き出せないため理由をつけて
変化を正当化させることで作用となり形相への演算が可能となる。
精神世界を謳う書籍など真実とはかけ離れた印象を受けるがこれは表現における真実であり
カオス状態まで分解するならば先言措定することで方法への還元に成功する。
我々は自然物に対し表現することは正しい視覚刺激に基づくものであるため正しい形相をもつ表現となる。
だが自然物でないものに関しては概ね虚構であり表現化していく過程で純度が下がり還元性の低い表現となりがちである。
しかし、ならばなぜフィクションの小説などの虚構が存在しその上読書するに際し美学的鑑賞が可能なのだろうか。
虚構とは還元性が低い思想であるがそれは現在あるものに対する還元性である。
真実は常に創造されるものであり、新たな先言を得ることに対し虚構は未来へ還元するものである。
小説などは虚構に基づく形相から、感覚そのものを措定し主観機能における方程式として利用可能となる。
カオスまで分解すれば感覚にとっての真実となり、感覚は主観機能であるため主観的真実へと還元しうる。
虚構に基づく感覚の措定により主観的真実となり、真実に基づく自然の措定により客観的真実となる。
主観的真実は未来への措定でありそれは感覚の形相による真実へ客観的真実への写像を得て、
客観的真実は現在への措定であり質料と作用を捕らえる形相として機能する。
両者は真実であろうと虚構であろうと感覚による真実には間違いないため虚構の写像による真実への補完、
カオスへの変換と形相の発生により、主語と述語による言語を完成させることが可能となる。
精神のカオス化による真実への還元であり、ほぼこのカオスへの変換により
美学における質料の絶対量と形相の収束機能、いわゆるセンスとなり得ると思われる。
ただしカオス化による形相にしても内属への分解には至らない場合が多く、姿勢の違いによる境界は存在すると思われる。
真実における形相の発生と虚構におけるカオスへの変換において
カオスへの変換は内属を形相とした可能態質料の措定の状況的形相における予想が必要と思われる。
我々の感覚と論理により抽象的な数値を導き、質料と作用の存在の数値化と演算を可能としていることは確かである。
数学は論理を表現する道具として、論理は感覚を表現する道具として可能態質量を存在の値から引き出す演算を行えるものである。
そして思考の始動因である善悪による感情を正しくきめ細かに表現することで自由に可能態質料を得られるのである。
全世界という形相に対する表現力により明確に描き出すことで可能態質料の存在位置を知ることが出来るということである。
感覚によって捕らえ、論理によって限定し、数学によって収斂することで善悪を主語とし可能態質料を述語とする表現を得る。
類似のイメージから質料を得て形相を明確化させていく質料の明確化である。
感覚が分解され論理となり論理が分解され数学となるならば厳密性と反比例して表現範囲が限られることも説明がつくだろう。
哲学とは何か。
我々の生活と哲学は無関係ではないが縁遠い存在ではある。
大抵の行為は単に知識と常識的な知性を持って処理されるが、高度な知識を求める場合高度な知性が必要となる。
哲学とは非常識的なまでの知性により知識の下位概念を求める行為であり
知識の分析により究極的に0と1で成り立つ世界において最小限の知識で現象を説明するものである。
言語の重要な役割に表現というものがあるが哲学は表現的な態度は慎むべきである。
現象を説明するとき感覚の入れ物としての表現によって感覚的に説明を行うのは楽だが、
法則性をもって現象を明確に説明しなければ他の概念との繋がりが不明瞭で概念の意味を把握できない。
概念の合成の因果律を知らないため各概念は孤立しとても知識の演算において新たな知識を見出す姿勢ではない。
しかし、哲学は利益や行動的な態度に対立的な態度である。
なぜなら、行動は非常に大きな情報量を瞬間的に処理することが求められ、
時間軸(四次元軸)を定数として偏微分し因果律をもって情報を線形式として正確に減らそうとする哲学的態度では
行動的現象という時間軸を含めた現象の莫大な情報量を処理することに時間がかかるためである。
そして行動的現象を表現として説明できず現象の内在化に失敗する。
莫大な情報量を分析するためには多くの語彙を用いて感覚的な表現をすることが重要といえる。
数学のように存在の値が小さいものはちょっとした印象の違いで因果律が崩壊する繊細なものであるが、
行動的現象のように存在の値が大きなものは大まかな印象でもってしても因果律が崩壊しないため
マスコミ用語のように針小棒大とも言える表現的態度を大いに用いるべきである。
そして、>>600に表される四原因の言語方程式は解釈という演算子により、どのような場合でも因果律を崩壊しない言語性能をもつ
高速に情報を処理することに適し、分析的な見方にも活用できる無限次元の産物である。
A:感覚→感覚的言語→論理的言語→哲学的言語→解釈的数式→計量的数式において表現範囲と厳密性は反比例する関係であり、
表現的態度は存在の値が大きな場合に対応でき、分析的態度は存在の値が小さな場合に対応できる。
現代のオートメーション化の結果、小さな値と大きな値における影響力は小さな値のほうが大きいという逆転現象が起きているが
個人単位の人間性としては大きな値を求めるほうが影響力を持つといえる。
削除済
オイラーの方程式δf/δy-d/dx(δx/δy')=0による変分は四原因の境界条件であることが分かる。
世界の真理は無でしかないなら、有は存在すべきではない。
我々の感覚の及ばない領域にして四原因の論が通用しない。
この世界は神秘的な事象をもつ。
我々の根本的な運動原理とは無から生じているものである
エネルギーの等価性における位置エネルギーと質料の総和は0であるがゆえに
存在論は成立しているので当然の帰結といえよう
数式よりも根源的かつ厳密性の高いものの仮説において神の存在可能性が高まったのだ
宇宙に飛び交うヒッグス粒子は神の精神そのものであり、日常的に降りそそぎ我々の内を通過するそれである
科学的に表現されるところの神心身の構成要素とは全く同一かつ神秘的な根源因と符合する
我々の意識や自然の物質を支配しているのも何か厳かで神秘的なものであることが分かる
よって以上までの論を相対化する。
四原因は相対化され、定型の思想は消滅し絶対とするものを失いカオスに陥った我々は何を為すべきか。
真実が一つならば全ては無、ならば我々はその思想を信仰することで絶対性の認識を行う。
宗教への理解は唯心論的な思想を持って行うべきであり神秘性の認識を応仏なるものの対話としての心が認証するものである。
大乗仏教の哲学は四法因におけるあらゆる思想を寛容に認め、法華経に示された一乗妙法である。
エピステーメーを四原因の対象とし記録への干渉を可能な媒体とし、慈悲をもって
法経律を成すことを理念とすることで、未知なるものへの遭遇と成す。
我々は虚構を持つが真実へといたるまで、ただ内在する絶対への否定されぬ信仰を持ち
虚構を捨て去る態度をもって正当化するものである。
心による対話を持って神秘性を認証する。
ソクラテスは心はダイモニオンすら逃さぬという思想を持っていた。
唯物論に捕らえられぬ声は多い。
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美学の意味とは何か。
我々が善の感情を抱くときは生存可能性に還元され意味として認識される存在の値である。
存在の値は差異性があることで成立し、ある存在の値が遷移することはない。
生存可能性が概念の形相としての可能態質料の確率量子としたとき、
美学の量子状態は存在の値における性質が可能態質料の確率量子に比例する関係といえる。
我々は希薄な美学において意味と表現し、過密な美学において感動と表現する。
存在の値そのものはエポケーすべき事象である。
無機質な数列であり意味などなく、記号以上の意味を持ったとき我々は感じ取ることが出来、精神の座標空間へと写像を取る。
存在の値が記号以上の意味を持つとはどのような時か。それは神の創造言語であり記号の配列に意味を持たせるイデアの被投性である。
神は最小限の法則性を持つ創造言語によりこの世界を著したのである。
存在の値は我々の最も使う言語の数学に近い性質であり被投姓を持たない創造言語のようなものかもしれない。
数学の言語に現れる性質は存在と非存在の差異と配列でしかなくまさに無機質な配列である。
我々は数式に表される量子化された概念を感覚で読み取ることは出来ず関係性を記述し性質を取り出す道具として使用するだけである。
数学は存在と非存在の差異の0と1から体系化したといってもよい。
同様に神はたった一つの差異を投げつけて世界を創造したのかもしれない。
我々は数の性質すら見出すことが出来るが、それは我々の解釈に過ぎない。
数に意味を持たせるという行為は我々の生活での演算行為と関連付けする行為であり
全ての性質が数式に改められるならば生活感情を注ぎ込むことで内在化し一種の自己として認識される。
これは記憶と呼ばれる行為に相当する。我々は性質を感覚として引き入れる手段しか持たないため当然の帰結である。
無機質な数字に我々の善を持たせることは、まさに存在の値に格納された性質を自由に引き出すために
自己への内在化をする上で生活感情への分解であり一種の知性化の意味を持つ。
数式の骨組みにより意味のある行為と純化した方法となる。
wwwww←ナニコレ?流行ってるの?みたいな疑問を抱く
我々が美学的鑑賞を行うときはどのようなときか。
我々は善の感情を得る時は可能態質料を得るときであり、カオスから得られる超越論的言語を得るときである。
カオスは感情の最も微細な粒子でありその表現(メタ)において全ての現象の表現を得られる。
カオスを感情として言語として表現することで法則性を持たせ自由に性質を引き出す還元性を手に入れる。
つまり美学とは還元性は低いものの現象を最も表現することに適する非可能態・可能態質料の模索である。
美学を感覚へ言語へ数式へと法則を持たせることで還元性を高め可能態質料に還元をすることが純粋思想の体系である。
A:全ての形相の質料の下位概念にはカオスという虚構があり、美学はそのカオスの還元性を高め真実を模索する行為といえる。
そして美学への評論は感覚や感情の言語化により還元性を高める行為であり、美学とは何かという哲学の問いに準ずる。
なぜなら美学は哲学の一分野であり、哲学の超越論的な態度はあらゆる形相の質料を求めるという美学の問いに準ずるためである。
我々が美学を得るときは可能態質料を得るときであり、全てのカオスには深遠なる哲学が根底に存在し
全世界を体系化する真理において重要な意味をもつからこそ生命的な意味に至る。
カオスに法則を持たせることが美学であり、表現において感情から感覚へと還元する。
カオスというダークマターを解析し、可能態質料に至るまでの純粋な思想が美学といえる。
そして美学的な哲学はどこにでも存在しうる。
形相を構成する質料を求めていくとき感情を言語にし性質を引き出し可能にすることで方法となり
感情を生存の道具とするためである。全ての感情や美学には生存への意味が込められているといえる。
現代において生存という言葉は相応しくない様に思えるが現代では生存を保障されているが
生存の意味に取って代わって知的探求の善の感情が生存の意味の解釈となっていると思われる。
我々の本来の生命力は生存可能性にあり、現代において知的探求の哲学に置き換わっているといえる。
そして生命力は世界の意味への探求と解釈され、純粋思想の体系により全ての世界を説明し征服する目的を持つと言える。
カオスは純粋な質料であり感情となり、公理系という形相を築いていく。
還元性を高めたとき量子化した形相という方法となるが、還元性が低い場合新たな公理を築くきっかけになりやすい。
なぜなら還元性の低い形相は巨大な量子であり、波動関数上の下位構造である形相の存在確率を持つためである。
ミンコフスキー空間におけるx,y,zのポテンシャルからなる固定観念をt軸に超越するトンネル効果のようである。
よく英米語が抽象概念による言語体系を持つが、量子化した質料をよく表す形相といえる。
まだ説明が不完全で還元性の低いものであるが、我々は美学的な姿勢を忘れてはならないということだけは言える。
思想は表現である、我々の性質は表現に表される内容を理解したとき変質する。
モデリングの重要性は法則を持たせることであり、たかが表現、たかが思想などといって見限らないで欲しい。
「まるで〜のようだ」にも重要な意味があり少なくともカオスよりは還元性の高い表現である。
思想と物質世界の関係性を「表現」と「還元性」をキーワードにモデリング(法則化)することが本論の目的である。
「まるで〜のようだ」とはその形相に内属と同じ質料をもつ状態を表現(アウトプット)したものである。
四原因の論法による予言的理性を我々は無意識に使用しているのである。
これを収束表現するならばn次項の級数展開であり、発散表現するならば感覚的解釈である。
この言語への格納おいて利用可能な性質として漸近させる。
このように表現方法を例示するが、収束表現と発散表現をすることで還元性を高めることを目的として
四原因の論法という低級言語の発散表現により言語にモデリング(アセンブル)していく方針となる。
以上から感覚的要領を得たと思うが表現には二つあり、
収束表現(定義)には質料の措定として性質の応用性を高め、発散表現(解釈)には感覚化による性質の可動性を高めるという
それぞれのメリットがあるため最適化において別途表記する必要性があるといえる。
哲学には美学的価値となるものと理学的価値となるものがある。
前者は教養の獲得であり、後者は真実の追求である。
しかし、XとY軸におけるデカルト座標を用いてY軸によらない
一次元的な流れを解析すれば美学的価値とは芸術によるカオスの表現であり
理学的価値とは言語や数式による感覚の表現であり、それぞれガウスの定理による積分形の変形である。
表現という四原因の演算子における収束表現とはまさにこれである。
変な読み方が多い
論理とはカオスから得られる表現のモデルである。
論理には絶対的規則と相対的規則があり、初めから相対的規則が全てが完成しているわけではなく
むしろ初めは絶対的規則に覆われたカオス状態であり、表現としてカオスを紡ぐものである。
つまり表現は論理の最小単位であり、概念同士を法則性という糸で繋ぎモデルを作り相対的規則を完成させる。
その概念図は視覚的に表現され易いが視覚化された相対的規則は必ずしも真理ではなく内属の質料をもつ形相であり一致ではない。
なぜなら「視覚的に表現」という表現の演算子が一つ余分に存在するためである。
ならば、ロゴスの相対的規則は客観的表現(モデル)としてどうあるべきか。
出鱈目に紡ぐものは虚構でしかないが、真実に沿って紡ぐだけのものは真実でしかない。
虚構や真実はそれぞれ重要な役割があり、常に真実を求める姿勢ばかり主張されるが、
完全なる還元は完璧主義者の固定観念に捕らわれただの機械論者となってしまう。
そこで絶対的規則と相対的規則をT軸とXYZ軸に例えることができることを考えると。
<f(t)・Θ(x,y,z)>において自然物の写像ψ(x',y',z')を得るためには必ずt軸による線形作用素が必要となる。
Θ(x,y,z)が不確定性関係におけるポテンシャルが0と∞のいわゆる井戸型ポテンシャルとき
物質から思想への量子トンネル効果は起こらない。
これにより絶対的規則のT軸が必ず必要となることが示される。
つまり完成された相対的規則は何も見えない何も感じない状態の定義上の"死"であることがいえる。
それに相反するT軸は"生"であり、我々の生きるものとしての証拠である。
閑話休題、しかしこれにより真実のロゴスとは何かという定義が難しくなったといえる。
ロゴスを得るためには"生きている"必要性があるためである。
これは物質と思想と生命の究極の難題として永久に消化されないものとなるだろう。
究極の論理モデルは存在しないということが示される。
収束する理想数の論理を求めれば愚鈍なものとなり、発散する理想数の表現を求めれば粗暴なものとなる。
論理モデルの固有値を無限次元空間において線形結合した「役割」という名の人間社会の理性が一種の解となりうる。
個人の思想が善として集団に受け入れられる事実を論理モデルの規格化条件とするならば、
役割の存在確率から得られる期待値の低い条件と取ることができる。
つまり、集団と差別化された自己の役割が究極の論理モデルであり、その解は一意に定まらない不確定性を持つといえる。
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論理とは空間の下位概念から上位概念を組み立てることである。
つまり形相となった概念を質料と作用に分解して新たな概念の材料とする。
ではわざわざ概念を分解する意味とはなにか。
性質とは質料と作用からなるものであり、概念を質料と定めて作用することで自由に性質(機能)を抽出するものであるが、
巨視的視点ではアーリア人の残した思想からインドの沙門パクダ・カッチャーヤナの唯物論である性質の根源は七要素から得られるもの
という説にあるように上位概念の性質とはほぼ地水火風であり、これらに作用して人間の生活に注ぎ込むためには
光を得るために祭壇に火を起こし、水を得るために数年地を掘り河川とし、性質を得るために多くの労働を要した。
根源とする性質が上位概念つまり存在の値が大きさに比例して質料に作用し形相の可能態質料を得るために必要な労力がかかる。
我々は感覚の差異性の感知により得られる形相とは上位概念のものばかりであるため、
差異性の感覚をより鋭敏にして記憶を離散・結合し論理とすることで概念を分解し存在の値を小さくすることで性質の先言措定に至る。
その論理(差異性)を記述するため存在の値が小さな表現である哲学的言語や数式や記号による記述が重要となる。
それは語彙を少なくして相対的規則で得られる論理であり、相対的規則による存在の値の縮小を図る表現である。
質料と作用を小さな値にすることは材料や労力を減らし効率化する行為であり、
存在する確率の低い物質の発見にも繋がり、形相の可能態質料を措定する可能性を高められるものである。
寒い・・・非常に寒い。
収束する理性と発散する美学の関係性を記述する。
収束する理性とは知識を相対的規則により表現を依り代とする物質や数式の存在の値を小さくし、
的確な操作により性質を引き出す方法である。
これは表現措定により方法化する目的であり、自己の性質は方法へと収束する。
発散する美学とは知識の絶対的規則により表現を依り代とする感覚の存在の値を大きくし、
カオスへと発散させる方法である。
これは自己の性質を発散させることで質料に作用し相対的規則により形相を再構成するものである。
これらから概念空間の定義をする。
カオスとは絶対的規則により独立した質料の集合であり、それぞれの質料は関係性を持たない時間のない空間である。
作用がないため相対的規則が生まれず、形相とならないため方法へと収束が困難となる。
これに時間を加えると相対的規則となり、質料と作用による形相が得られる。
しかし、ここで忘れてはならないのは質料とはそれぞれ独立した時間を持つため我々が何も意識しないときカオスとなる。
つまり、形相は意識化した質料と作用であり、カオスとは質料のみの状態である。
作用は質料と質料と時間からなり、質料と時間をまとめて演算子と呼んでいるが、
実際の演算子は時間でありそれに質料を代入しているに過ぎないため、時間とは質料への作用であり意識そのものといえる。
質料に意識が作用することで演算子となり、質料への質料を持つ作用となっているため、
この事実に質料の時間が独立していることを格納できる。
つまり思想空間では質料は調和振動子のような繋がりをもつものではなく、一つの意識が純粋な作用であり、
絶対的次元から質料へ作用することで二次的な作用素となり法則に従い動くことになる。
思想空間ではアイデンティティという神が空間を統括し、一次作用により質料を二次作用とし質料への演算により形相となる。
そして、二次作用により同時に法則が決定しカオスという無限次元空間が収束し、形相周りに力場が発生することとなる。
我々はメディアを通じてあらゆることを知ることができ、その目的はアイディアを自分のものにし活用するためである。
そのためには知識を収束し法則により性質の還元性を高めなくてはならない。
数学のような厳密性を求められればいいが、数式化できない情報も多い。
まずは知識を言語による法則化する必要があり、言語法則の延長に数学上の定義としてのモデルが存在する。
メディアとは主に言語であるが、その言語は外界から得られた感覚を美学によって表現し
さらに言語の厳密性において法則化したものである。
我々の目的はどのような概念(質料)にどのような作用をすれば、
どのような形相となるかを知ることで可能態質料(可能性)を増やすことである。
可能態質料は還元性と汎用性の和であり、あらゆる概念を知ることで可能性を増やすことができる。
これにより前述は相対化され、還元性から得られる座標の全ての層に可能態質料が等量の存在確率を持つこととなる。
そしてその可能態質料は存在する層において還元性と汎用性の値を持ち、
数学など還元性が高い形相であれば方法的態度、美学など汎用性の値が高い形相であれば
質料への微小な作用を契機に形相を得られる発想的態度といえる。
つまりメディアを通じて目的が方法を得るのであれば
著者の論から形相を質料と作用に分析し、発想を得るのであれば著者に同調(形相を知る)する態度が重要となる。
そして哲学的態度は表現が言語であるため中庸でありあらゆる目的を整理し目的に応じた対応が可能と思われる。
ちなみに雑学的知識的態度は表現が言語であり汎用性と還元性を両方持ち現実問題に強いが、
知識に依存する傾向から突飛した発想力や厳密な分析力の両方に欠けると思われる。
解析が足りないため還元性が低い表現となった
特に美学の定義について再検討する
我々の思想は形相であり汎用性と還元性の値に分解できる。
汎用性は表現力であり、感情や感覚から美学へと還元する態度である。
つまり、表現とは法則化であり結局のところ還元性を高める行為である。
可能態質料の和から還元性の低い思想は汎用性が高く、汎用性が低い思想は還元性が高いといえる。
我々が思想を目的へと還元するためには、可能態質料が属する内属から形相を予想する。
それは近似概念の比較であり同一の質料を下位概念にもつ美学的な汎用的抽象表現の思想が包括する。
つまり可能態質料の表現から分析することにより思想の目的への還元を得る。
目的への措定として、質料の形相を表現することは抽象的形相による包括である。
つまり、存在の値が大きな形相と可能態質料の形相の比較し表現することで目的の還元性を高めることとなる。
可能態質料の質料を上位概念により表現し、
その質料を下位概念にもつ形相を上位概念により表現することで作用を得る。
ここでルールを定めると、下位概念はその質料を含む上位概念によってのみ表現され、(0)
表現により形相を下位概念化した時、0%以上の還元性を持つ解を得たこととなる。
可能態質料は作用が不明な形相と考えられるため、
この擬似的な形相を下位概念化することで還元性に反比例した存在の値を持つ作用を得ることができる。
可能態質料Dと作用+Bは存在の値による計量化により形相Cが得られるためD+B=C
表現+Eにより上位概念化(内在化)するため(0)より、(D+E)+(B+E)=(C+E)+E、還元性は形相の表現の比で表され、(1)
C/[(C+E)+E]≧0、E=∞の時0となりこれを無意識状態とするならば、意識状態はE<∞である。(2)
表現の値Eは相対的規則の値は0であり、絶対的規則の値で決定されるが内在化の条件(0)としてD+B≦2E⇔C≦2Eであるため(3)
(2)より、Cの値に近似し上回る2Eの値による絶対的規則を持つ表現方法を決定するべきである。(4)
(2)と(3)によりC/[(C+E)+E]≦0.5が言える。(5)C=2Eのとき4E=D+B+2E,2E=D+BとなりDとBは表現と一致する先言措定であり(4)の根拠となる。
(5)を百分率で表すなら200C/{(C+E)+E}≦100(%)となりこれを還元性の式とする。
つまり、目的を得るためには(D+E)+(B+E)=C+2E,C≦2Eにより内在化し、200C/{(C+E)+E}≦100(%)の還元性を得ることとなる。
還元性をa%として方法化するためにはaB/100が善の値、(100-a)B'/100が善と悪の値となりaB/100+(100-a)B'/100として方法化する。
我々が幸福だと思えるのは還元性における善の値である。
つまりa%の符号が「+」ならば幸福の値であり、「-」ならば不幸の値となり、これらが幸福の定義である。
還元性をx、表現方法をy(y=∞のとき虚構、y=0のとき真実)の
第二象限までの座標で表すならばどの表現方法でも幸福と善の
成分をΔxとしその発散を[ν(x_0+Δx)-x_0]/Δxとすることができる。
真実を感覚化した概念の取りうる値は(0,-b)と(a,b)を接する円上であり、
(y+b)^2+(x-0)^2=(y-b)^2+(x+a)^2=4by-2ax-a^2,r≧a≧100(%)のときである。
これにより表現は物質化しないことが証明される。
aaaagomi
大きな値の形相の知識化、下位知識の統合、知識の発散と収束、感情・感覚の知識化、法則の知識化、
カテゴリの知識化、性質の振動、善悪の形相、法則化による還元
思考形態を統一し直感的な思考を停止すると常に固定的となり上位概念化が難しくなる危険性がある。
論を相対化する中庸を得る必要性があると思われる。
感情・感覚は法則と同様小さな値であり、法則化は理解不足の補完である。
知識とはカオスから得たクオリアとして形相を築いた精神の素粒子である。
カオスを表現するとそれはクオリアであり、美学的表現の最小単位と考えられる。
クオリアとして知識化されたカオスは視覚情報や触覚情報などに統合され、実態の表現とすることができる。
我々は実態を予め知るものではなくクオリアの集合体として実態の領域を掴み下位概念である言語による知識化が可能となる。
性質(可能態質料)の振動状態としての形相をクオリアの集合へと分解し境界が定まらない実態を含む形相を
ある一定のクオリアの集合という条件から不完全な記憶として想起できる。
クオリアは数字などと違い意味そのものであるためそこから考えられる実態を構築し不完全の記憶から確かな実態へと連想する。
ここでの想起と連想は同じものでありクオリアによる擬似記憶の比較から条件化された言語記憶の絞込みに該当する。
言語はそれのみは意味ではなく感覚から出来たものであるため、
論理の飛躍として境界が不明確な領域の感覚のメタを用いることで実態なき表現が可能となる。
じつはこれがはじめてのコメントです。
形而上学は蔑ろにされすぎる
なぜ何千年と話題にしながらほとんど発展しない荒れ地なのか
あまりにも基礎が疎かでモデリングするのも疲れる
はい
これから四原因による論法の考察を行う。
それは、大きな値の形相の知識化、下位知識の統合、知識の発散と収束、感情・感覚の知識化、法則の知識化、
カテゴリの知識化、性質の振動、善悪の形相、法則化による還元、の九方法を持ちこれら(+カオス)により人間の思考の雛形となる。
大きな値の形相の知識化とは言語とは何か、歴史とは何か、など広範囲(大きな値)の形相を持つ概念の分析に有効である。
いわゆるヘーゲル的唯物史観であり、とにかく関連する事象(知識)を用いることで形相の可能態質料を得る方法である。
下位知識の統合とは知識化した質料の下位概念を求める方法であり、形相を質料と作用に分解し新たな法則を見出すことである。
科学が生活空間の下位概念から非常識的な知識化に成功したことが例として挙げられる。
知識の発散・収束は質料から形相を得て思考の境界をなくし想起により収束させる方法である。
感情・感覚の知識化とは美学的形相を認識し知識化により他概念の可能態質料とすることである。
法則の知識化とは収束する美学の形相の知識化である。
カテゴリの知識化とはカテゴリという形相を四原因論法による演算により知識化することである。
性質の振動とは初等数学的計量法に倣った四原因論法の基本法則から得られる可能態質料であり、
質料+作用=形相(A+B=C,C∋D)の形相に目的(可能態質料)が含まれ
質料を弦として作用によって弾いた弦の振動状態を形相に例えた表現である。
コップの水を飲むためにはコップという物体の振動状態として水の入ったコップという形相があり目的を完遂する。
つまり目的は水の入ったコップという形相に
含まれているのである。(飲むという動作は目的の無限下降により求まり全ての思考はこの形となっていると思われる)
善悪の形相とは常識的な善悪の形相化であり、法則化による還元とは数式などで表された性質を導出する行為である。
全て四原因論法から得られ、大きな値と小さな値の知識化による形相を求める論法である。
感覚や漠然とした考えやも定型化した四原因論法基本法則のイメージと四原因八論法である。
私は知識というものが嫌いであったがこの法則を得ることであらゆる知識を得る動機付けとなり美学への理解へと繋がった。
読者も是非この思想において知識や美学、そして思想の重要性を認識して欲しい。
性質の振動とは初等数学的計量法に倣った四原因論法の基本法則から得られる可能態質料であり、
質料+作用=形相(A+B=C,C∋D)の形相に目的(可能態質料)が含まれ
質料を弦として作用によって弾いた弦の振動状態を形相に例えた表現である。
コップの水を飲むためにはコップという物体の振動状態として水の入ったコップという形相があり目的を完遂する。
つまり目的は水の入ったコップという形相に含まれているのである。
目的は水を飲むことであるためコップの振動状態である水が入ったコップを飲むためには
水の入ったコップを新たに質料として認識(固定観念化)し、水の入ったコップ(質料)の振動状態が
人間の動作(作用)によって引き起こされるものであり、水の入ったコップを飲むという行為として形相となる。
質料と作用と形相の内に、目的が継承され実現される様子が分かるだろうか。
これが可能態質料から現実態の形相となりデュナミスからエンテレケイアへの収束である。
初等数学の言語への応用によりあらゆる精神世界は収束する。
これを基礎として精神世界を物質世界や数学のようなモデリングを期待するものである。
コピペ乙
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四原因論法は初等数学の発想を借りたものだが、高度な数学の言語への応用について論じる。
まず、数学の大きな値の形相の数学史から得た質料として科学への貢献性、学問の発展性、経験に依存しない先験性がある。
高度な数学の形相としては線形代数学、微分積分学、解析学などがあるが
これらの質料は中心力場の極座標表示、波動性を記述する二階微分方程式の解法、関数解析から平行移動演算子などがあり、
現象を数式として具体的に記述することで性質の還元性を高めることができる。
これらと初等数学の差異性を求めるとき、抽出される質料として変数、座標、極限という概念を用いていることがわかる。
そのうち、変数や座標の形相には一般化があり、つまり汎用性において高度な数学となりやすいといえる。
言語は汎用性はあるが、これは絶対的規則としての汎用性であり、この事象では相対的規則における汎用性といえそうだ。
縺ゅ£
656 名前: no name :2010/08/10(火) 05:36:33 ID:tzFzanFz
性質の振動とは初等数学的計量法に倣った四原因論法の基本法則から得られる可能態質料であり、
質料+作用=形相(A+B=C,C∋D)の形相に目的(可能態質料)が含まれ
質料を弦として作用によって弾いた弦の振動状態を形相に例えた表現である。
コップの水を飲むためにはコップという物体の振動状態として水の入ったコップという形相があり目的を完遂する。
つまり目的は水の入ったコップという形相に含まれているのである。
目的は水を飲むことであるためコップの振動状態である水が入ったコップを飲むためには
水の入ったコップを新たに質料として認識(固定観念化)し、水の入ったコップ(質料)の振動状態が
人間の動作(作用)によって引き起こされるものであり、水の入ったコップを飲むという行為として形相となる。
質料と作用と形相の内に、目的が継承され実現される様子が分かるだろうか。
これが可能態質料から現実態の形相となりデュナミスからエンテレケイアへの収束である。
初等数学の言語への応用によりあらゆる精神世界は収束する。
これを基礎として精神世界を物質世界や数学のようなモデリングを期待するものである。
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性質の振動とは初等数学的計量法に倣った四原因論法の基本法則から得られる可能態質料であり、
質料+作用=形相(A+B=C,C∋D)の形相に目的(可能態質料)が含まれ
質料を弦として作用によって弾いた弦の振動状態を形相に例えた表現である。
コップの水を飲むためにはコップという物体の振動状態として水の入ったコップという形相があり目的を完遂する。
つまり目的は水の入ったコップという形相に含まれているのである。
目的は水を飲むことであるためコップの振動状態である水が入ったコップを飲むためには
水の入ったコップを新たに質料として認識(固定観念化)し、水の入ったコップ(質料)の振動状態が
人間の動作(作用)によって引き起こされるものであり、水の入ったコップを飲むという行為として形相となる。
質料と作用と形相の内に、目的が継承され実現される様子が分かるだろうか。
これが可能態質料から現実態の形相となりデュナミスからエンテレケイアへの収束である。
初等数学の言語への応用によりあらゆる精神世界は収束する。
これを基礎として精神世界を物質世界や数学のようなモデリングを期待するものである。
我々は感覚により現象を説明するが、それを表現するための言語を持つ。
我々は現象を予め知るものではないため、現象の最初の認識はカオスである。
我々が現象を認識する目的とは現象の性質を作用によって自由に引き出すことであり、
対象の現象がどのような作用において、どのような結果を持つかということを知ることで現象を応用可能な状態にするためのものである。
つまり、外界の法則性を知るために感覚によるカオスを条件付けし法則をもたせなくてはならない。
言語は感覚を一定の法則化により生じ、つまりある基準に属する感覚を同じものと見做す(並列化)ことで単語として表現する。
言語はさらに法則化することで論理となり、言語の先言を概念とすることでさらに高度な操作が可能となる。
それは言語の並列化であり、無駄な言語を矛盾なく統合しそれによって先言であるあらゆる概念の善悪が最適化される。
削除済
論理の目的は先言の下位概念を求めることであり
線形モデルにより複雑系の説明を得て、管理体制を築くことである。
認識としては感情や感覚による上位概念を求め、境界無き美学を求めることで現象の絶対数を得る。
数学という表現の形相とは計量が基礎であり、これを変数や座標などで一般化したものが高度な数学となっているようだ。
計量とは離散的な数字を演算するものであるが、これに必要な概念は量である。
認識対象群を同一性質のもの(モデル:単位)を定義し、モデルが離散的な数量の積で表されるものを量と呼び、
これはモデルと数量という概念に分解される。
しかし、離散的な数量もすなわち量であり、これ自体にもモデルと数量が存在する。
数量のモデルとは根源的な存在であり、これも数量との積となりいわゆる純粋な尺度の無次元量である。
数字とは特定のモデルを持たない純粋な尺度であり法則という言葉が適切かもしれない。
演算という概念は数字と数字の関係性であり、ある種の単位を定義することで量として写像を取る。これにより計量となる。
数字は統一的な存在がモデルとなり、物質は質量がモデルとなり、言語は感覚をモデルとし、
そして宗教は神仏がモデルとなって統一的な無次元量を決定する。
新たなモデルを決定することで新たな表現となるが、哲学はモデルとするものが無く定義した概念全てがモデルとなる。
数字ははっきりと現れる存在をモデルとしているため、物質関係を記述することができる。
精神は個人の善悪がモデルとなっているため、個人の性質と環境との関係を記述することができる非常にマクロな演算となる。
これは計量関係や真実・虚構の条件を取り払って
連続的な変化のみを根拠とする通時性による関係性を記す不確実ながら非常な高度な演算をすることに適する。
このように経験に対して善悪(快・不快)とカテゴリ化していくことで経験則となるが、
個人の経験則により過ぎると個人の能力との関係性における善悪となるため真実から遠のくものとなる。
哲学は定義するもの全てがモデルであり、それは精神としても例外ではない。
客観的な現象は全て物理法則により表されるが、精神という主観的な現象を表す尺度は存在しない。
主観的現象を「思考と善悪の還元としての行動」とするならば、(1)
思考の還元としての(モノを使うという)行動から性質を得る人間の思考を「物質性質の集合体」と解釈でき、(2)
人間の善悪を「自己の生存可能性」と定義するならば、(3)
解釈により主観的現象を客観的現象に置き換えることができる。
客観的現象を「物理的値」とするならば、行動そのものは物理的値により求められるため、
主観的現象を行動というモデルと無次元量の積として分解することが目的となる。
行動は善悪と思考からなり、物質性質による行動の精度と生存可能性による行動の決定と考えられ、
前者はどのように行動するか(還元性の議論)、後者はなぜ行動するか(生存への影響の議論)である。
前者は物質性質をモデルとしているため物理的値を返すが、後者においては検討の余地がある。
生存可能性とは対外的物質性質による肉体機能の停止の可能性を意味する。
これは物質間の関係性であり物理的値を返すため、主観的現象の客観的現象による包括が可能となる。
(1)(2)(3)の定義は四原因論法により論証できる、(1)は主観的現象は目的に行動を持つため、
主観的現象は行動の形相であり、主観的現象は形相に思考と善悪をもつため、思考と善悪は行動への還元性を持つといえる。
(2)の思考は目的に行動の具体化をもち、(3)は善悪の究極の目的は自己の生死であるとなる。
哲学の大きな値の形相として神の議論、ロゴスの議論、パトスの議論が存在する。
フランクフルト学派のユルゲン・ハバーマスは対話における理性により議論の価値を持ちうることを言い
決して、議論や人間などを定義し、確実な確実な地盤固めをしなかった。
確かに対話的理性は人間の理性という非常に揺らぎやすいものを議論の足場にするという危険なものであるが、
逆に揺らぎやすいからこそ、発想的な態度に繋がり、人間関係に繋がり、厳密性を求める態度より遥かに融通が利きやすい。
何事にも易不易があり、ただ頑固であることだけが正義ではないということだ。
必ずしもロゴスの議論が優位ではなく、必ずしもパトスの議論が優位ではなく、必ずしも神の議論が優位ではなく
数学にすら矛盾という易があるように、左右に分かれた道の中の道をゆくことを忘れてはならない。
この世にて絶対は時のみであり、存在は必ず生成流転の法則をもつものである。
時に従うことのみが万象を捕らえうる善である。
ただ知識を求めるだけならば何者にも可能であり発想の機会であるが、
それ故こればかり追求する人間を「学者」と称えることは異議を唱えたい。
確かに知識を得ることは四原因説の解釈から発想の機会を得ることであるが、
知識はそれを収束することにおいて価値が生み出されるものであるため、発想のみでは単なる妄言となってしまう。
また、知識を求めることはその気になれば誰でもできるためいわゆる「学者」である必要性は皆無である。
四原因説の解釈からそれは思考の本質から外れるため「思考できない学者」
「思考」と「学者」の対立事項を内在化させた矛盾した存在となる。
日本における哲学教育は哲学史を学ばせることや議論の仕方のみに重点を置き、
肝心な論理を軽視し知識を収束させることを学ばないため本質的な哲学からかけ離れているといってよい。
その結果、妄言が飛び交うお粗末な場になりがちであるため、日本の哲学には良い感情を持っていない。
難解な言い回しで混乱させるだけさせて読者を振り回した挙句、よく考えてみれば新たな発想が全く見られず
哲学=難解のイメージが難解表現や比喩に主観的根拠を潜ませ収束しようが無い議論となり
学問的に不誠実な場を許容してしまっている現状がある。
他学問でも哲学的言い回しで格好の良い表現には学問の名を借りて人の興味を引くだけの単なる文芸となっていないか留意する必要がある。
論理実証主義(非実証主義)の学問においてこれが許容されてしまえば、
日本の学問は名だけで文芸に劣る表現力と歴史資料にしか意味を見出せないものとなるだろう。
知識や専攻分野を誇ることは無意味であり、美意識に訴える表現や知識を披露するだけの学問において腐敗の温床になっている。
非実証主義において飾り立てる表現は不要であり、美学としての文芸と論理としての学問は同列に語るべきではない。
美学の目的は内容の発散であり、論理の目的は内容の収束であるため同時に存在できない。
学問としての美学は単なる娯楽ではない、感覚や感情を内容とした収束である。
よって学問に文芸表現は不要であり、専攻外の人間にも門戸を広げ意見を幅広く集約する態度を持つべきである。
もしくは学問としての美学とは哲学のことか
はじめまして。 質問おねがいします。 携帯からプレミア登録したのですが、パソに反映されません。 なんでですか?
削除済
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我々は現象の演算を通時性により行うことが出来る。
存在と時間はこの世界の絶対であり、それを究極の質料と作用とすることができる。
身の回りに起こる現象は本来ならば存在を数学的定義によりモデリングし、無次元量によって予測できるが
我々にはそういった知識が無くとも、究極の質料である存在を原因と呼ぶものに写し換え、
究極の作用である時間という演算子により、形相としての現象の原因を措定することが出来る。
古代ギリシャ哲学では質料を概念として先言が存在するかわからないものを質料として
時間と現象によりイデアまでを範囲に含めた原因を措定していた。
先言措定として本当の存在があるかは分からないが、その「感覚」は確かに存在する。
我々の感覚は数学的規則で表せないものの、非常に文化の繁栄に貢献しそれを措定する意義は十分にある。
現代社会は科学の優位性から物質的現象のみを求めるようになったが、イデアというものを措定する意義は失われてはいない。
むしろそれを蔑ろにし、科学の万能性が築いたその頑固さから非合理的な態度を作ってしまっているといえる。
主観的現象と客観的現象全てを原因の範囲として捕らえるべきである。
その風潮が宗教の嫌な部分を反映することもあるが、
科学と宗教的姿勢の中庸により確かに人は合理的な態度を得ることが出来るのである。
「感覚」などの主観的現象の根拠とするものは神の意思であり、
「物質」などの客観的現象の根拠とするものは自然の論理である。
削除済
人間的情緒(善悪)は一見、不確かなことばかり論じ
感情的な決め付けが多いことから誤った解釈ばかり生み出しているとされることが多いが、
我々の思考はそもそも感情や感覚に基づくものであり、これを一切否定することは無意味である。
我々の思考の形態として感情や感覚によりカオスから概念を収束し、
言語や数式となり方法としてアウトプットをする。
つまり感情や感覚を否定すれば、必然的に論理も細り発想的態度が失われる。
まず我々は善に向かう感情である目的を持ち、その障害となるものを悪とすると
発生した悪の感情を打ち消す目的を持つ、その目的という理想概念を得るべく悪である現象という形相を
収束すると善となるため、質料と作用を措定する意味を持つ。
作用は演算子だが発散状態の形相成分に分解できるため(波動の議論をあえて捨て)ある種の質料と同じとみなしてよい。
波動の議論を捨てるため厳密には非可解であるが、
a<100の近似解が求まればa≦rのy軸における円周上の上位表現により還元性の値0.5以上の先言措定C=2Eとなり方法化する。
現象の原因を得るためには、それぞれの質料の振動状態から現象となるものを選択すればよい。
そして、質料の措定をするためには各質料の波動を得ることである。
その波動とは質料の感覚や感情的解釈であり、境界無きカオスの収束状態としての現象や質料である。
これが発想的態度であり、人間的情緒に由来する。
虚構による質料の無限大への発散状態は結局、人間の理性(固定観念)の範囲内に収まり、発想を収束する態度となる。
後に言語や数式化し方法へと還元する。これが思考の理想状態である。
これにより主観的現象の思考が求まり、思考が人間的情緒に由来するため善悪の理想状態にもつながると思われる。
とはいえ真の思考の理想状態は虚構による無限大への発散と真実による0への収束であるため、この論は相対化される必要がある。
ニコ動初心者の由那と申します。
プレミアム会員に登録しなおしたのですが、
リストには出ているのにクリックして開いても、
『お探しの動画は再生できません。(視聴権限がないため、視聴できません。)』
と出て見られない動画がいくつもあります。
検索の仕方も分からなかったのでどこを見たらいいか分かりません。
ご存知の方教えてくださいませんか?よろしくお願いします。
スレッドのタイトルを見て質問を書き込ませていただいたのですが、
私は場所を間違えていたようなので移動します。
682の質問はスルーしていただいて結構です。
すみませんでした。お邪魔しました!
美学は方向と強さの次元からなる作用群を量子化した質料の発散といえる。
その重積分により形相が発生し、さらに下位質料の発散により新たな次元となり、
二次直交系の位置情報が全ての座標系において線形変換されるため、非常に高速な無限大への発散といえる。
これにより四原因論の発散定義となる。
分析とは形相の質料を求める行為である。
形相は二次直交系の交点である「意味」を質料とし、作用という質料との関係性において付加された意味の二変数関数を目的としたとき、
その重積分において形相となるため、作用は面積素としての極限における質料となり、
全ての現象は極限における質料においてのみ記述できるという形式をとったとき
目的は質料として形相に内包されるため、分析の主観的な意味は目的の質料を得ることそのものである。
この過程において思考の質料の波動において発想や善悪も内包されるため、
この形相外の思考は存在しないため思考の定義となり主観と客観の全ての現象は四原因論に内包されることが証明される。
これにより人間を質料としてよいことがわかる。
生放送でコメントを流せるんですがコメビューと主には自分のコメントが見えないみたいなんですがアカウント凍結したということですか?
形相は主観的現象における質料である目的を含んでいる。
主観的現象は質料を目的に変化させる目的を持つため、質料の波動から目的としての質料の状態を得ればよい。
質料の波動とは認識内の作用を得ることであり、その関数の積分において波動となり、
その一点が目的であり質料の波動とは形相のことである。
作用は基本的に人間的作用であるが、人間性を持つモノとしてもよい。
四原因的に質料は「自己」という定数であるため作用と目的を求めればよい。
質料という主語が目的という作用により変化した質料となったとき目的を得ることができる。
つまり、作用と目的の波動を得ることにより方程式の解を得ることができる。
作用や目的を形相という認識に置き換えたとき、質料と作用の関係式という波動形式で表せる。
作用の波動形式と目的の波動形式には可能態質料が含まれているが、
特定の解を持ったとき主観的現象の真実となってしまうため解は存在しない。
また波動形式はその項の変数を質料の定数と作用の変数の関係式で表し、認識上の作用群により形相を決定する。
作用とは人間的作用に因らなければならないため、人間的作用でない場合、更に下位の波動形式を持つ。
波動形式による認識の発散形について今回は新たに変数を導入することで単純化してしまったが
目的と作用における形相は本来独立に変化するものではなく関係性を誤魔化し、
また波動の定義も曖昧であるため言語(美学)による定義から検討の余地があるといえる。
我々の認識は統一的な値と程度によるものではなく、主観的認識により行われる。
例えば、コップという形相におけるハイデガーの機能主義の解釈で、コップは水を飲むためのものと解釈することもあれば
水を注すためのものという解釈も存在し、認識においては主観現象の無限大への認識の発散が認められる。
インド哲学におけるヴァイシェーシカ学派では主観的現象の一つ一つが相互説明不可能なものとして
直感の絶対性を確立しているが、非線形の客観的現象が多いこの世界においてこの絶対性こそが世界という形相の認識の正しさとなる。
つまり、認識の単位としての質料は下位構造と程度という単位に分解することで形相への主観的理解を失うものといえる。
大きな値の形相を求めるためには必ず大きな値の質料でしか図ることはできず、そこにある種の系を持ち分解することとなる。
我々自身は主観でしかないため主観的現象の発散形において形相を説明し客観的現象として収束していくこととなる。
順序を違えると、相対論的に非線形現象を説明するような煩雑さに追われることになるだろう。
形相は必ず認識というエーテルで満たすべきであり、これが面積素としての質料により形相の成分となることを示し、
主観統一理論としての全ての点が独立するカオスを収束するために対象の形相という枠を設けることとなる。
これは客観現象の説明する態度としての構造主義と
主観的現象を説明する態度としての実存主義の四原因説による現象学的統一理論といえる。
これにより主観的現象の波動形式となるため、次項からこの理論に従い言語による形式の統一という方法の収束を図る。
対象があることが前提である。
その影を発散するゲシュタルト質で埋めていくことが主観的作用であり、
そのモデルはちょうど量子力学における対象のドブロイ波のような体である。
四原因説では対象そのものではなく、エンテレケイアという画期的なイデアがあった。
これを認識の境界条件としたポテンシャルの壁を築くことで主観的現象のカオスの収束条件と合致する。
無限大のポテンシャルからなるエントロピーを一定とした黒体に阻まれ質料というランダムクォークは対象の系として保存される。
言語学の祖であるウィトゲンシュタイン哲学の言語空間は波動形式を記述し、保存される系である。
ここにおける表現はソシュール哲学におけるシニフィアンが光として構造主義的記述を為し、
シニフィエが影として実存主義的記述を持ち、重ね合わせの原理により空白部分に存在確率を持つ。
我々の主観的認識の対象は意味でしかないため、平生の視覚的認識においても言語の波動を持ち
シニフィアンとシニフィエは観測問題が区別するメビウスの輪である。
我々の本質は言語・数的空間であり、真の認識は存在せずそれより真の客観的現象を知る術はない。
これにより全ての現象の波動は文字という表現上に存在することがわかる。
哲学ゾンビという揶揄があるが一切衆生は皆盲目である。
波動形式は単純な式で表される。
Z=XYは質料と作用の積であらわした形相であり、存在と無次元量で表した存在の値である。
Zに生じるのは表現上の名称であり、唯名論における根源的な存在である。
Xは質料、Yは作用質料であり、これが前述の存在と無次元量で表現される。
名が生じるのは名の内に存在があるためであり、スコットゥスのいう「こものの性」には否定的であり、
古代ギリシャの普遍論争における回答に位置する。
ギリシャ哲学を否定するつもりはなくそれが普遍であるとする根拠も乏しいが
波動という現象の説明において有効な手段であるため必ずこの式や解釈を正しいことを前提におく。
こものの性を認めたとしても生じる形相をそれぞれ別のものとすると
単位を認め水の量を計測することも不可能であり、ある条件下で不都合な点が多い。
主観的現象における認識の発散の説明(計測)するために「波動」という名前(単位)を認める。
波動という形相は質料と作用に分かれ、我々が対象について認識の発散現象が起こるのは
作用という変数にあらゆる質料を無意識に代入しているためであり、
名前に掛かる成分量を変えれば名前を変えることすらあり、これが波動現象による「変化」である。
つまり、認識した対象について作用することを想定して対象の形相内に目的とする質料状態をもつことを知ることができる。
この波動現象を四原因論的に数式で解くと目的をx3y2とすると、XY=x3y2、これらの成分を波動によりXに存在するものと感じ取ったとすると
X=x1y1,x1=x2y2,x2=x3y3から展開するとX=(x3y2)y3y1の質料とY=1/(y3y1)の作用をすれば目的の質料を得られる。
つまり、質料の波動状態を知ることが重要であり、我々は視覚的刺激により全てを知ったような客観状態を錯覚してしまうが。
認識しなければ視覚として映し出されようとそこに名はなく、無に近い朧な存在である。
つまり、単位を知らなければ認識は存在しないため、客観的統一的単位とは別に、主観的離散的単位が必要である。
単位を認めることで容易に認識が可能となり唯名論の実用的価値があり、歴とした論拠である。
何となく感じ取る気配というものや感覚を否定する論理が得られるのも波動形式によるものであり、
一部では唯名論否定をしているがこの価値を高めるために唯名論を必要とすることでもあり、語りえぬものである。
↑これが新参かよ・・・
クオリティ高すぎだろ・・・
ちょっと、泣いてくる。
精神年齢が低い餓鬼みたいな奴が多すぎる。
たかがコメント消されただけで大騒ぎする馬鹿とか
どんだけゆとりなんだか。
マジ同情する。
タグで遊ぶ知的障害者とかな。
「自分は頭おかしいですよ」と自己アピールもいいとこだ
ネットで顔見えないからっといって粋がるゴミみたいなのが多すぎる。
所詮は頭がおかしい低脳ばっかりだ。
一段落ついたのでこれまでの議論をまとめる。
「波動」という現象を認めたのは四原因論の数式化に必要だったためである。
波動形式は四原因論に適応でき、根拠として存在(単位)と量の関係性がありその歴史的経緯を説明したまでである。
普通は現象を数式化するためには物理的値による定義が必要であるが、
変数という概念の導入によって数値化しない現象の数理モデル化に成功した。
四原因論においてどうしても説明が難しかったのが、ハイデガーの機能主義の解釈における認識の発散であったが
これを質料Xと作用Yの関係による発散現象とするならばXが決定してもYが未決定である限り
xy軸の交点と定義した「意味」が発散するという解釈において、これも説明可能となり波動形式の一つの性質として統一される。
さて、目標である波動形式における四原因論の解釈であるが、質料と作用の積が形相であるという説に合致し、
前述から単位と量の関係性、認識の発散という意味も含み、これらの統一的な解釈として
「人間の認識の単位が質料であり、量が作用にあたり、一方が未決定な限り認識の発散が起こる、
これを波動形式とし、認識の発散現象を波動と呼ぶ。認識の波動解釈から目的因を求めることができる」
と考えられる。この論の大きな意味として、主観的現象を客観的に示せるようになったということである。
これから哲学的議論の定式化や主観的議論の統一を波動形式により収束することを目的とする。
先述の結論として波動形式により、唯名論では「名前は存在と量の関係から決定する」とし
例えば、「水」という単位の量を増やせば「川」となり、さらに増やせば「海」となるという構造主義的な見方が提示される。
しかしこれはルネ・デカルトの提示した主客問題を解決してないためまだ解釈の余地がある。
結局、客観的現象と主観的現象は相互説明不可能な部分があり統一できないため、
実存主義的見方の場合、全ての名前が絶対とし相対性を持たないならば確かに主観的認識の全ての再現性をもつものとなる。
この仲介案として客観的現象を再現をするために主観のみに存在する単位を認め、
再現が難しい認識は主観的単位の「名前」を認めることで客観的再現性を持つ。
簡易な例を示すと、金銭の管理をするときに「万」や「億」という単位がなくては計算が難しいといえるだろう。
このように主客問題を根拠とした主観と客観の再現性を持つため波動形式では変数Xを持つといえる。
削除済
波動形式Z=XYの唯名論的解釈として名前Xと量Yの関係性は構造主義、実存主義の両者の論を内包する合理的認識の方法論である。
四原因論的解釈として質料Xと作用Yの関係性では機能主義の認識の発散現象を「波動」とすることで目的を求めることができる。
「目的をx3y2とすると、XY=x3y2、これらの成分を波動によりXに存在するものと感じ取ったとすると
X=x1y1,x1=x2y2,x2=x3y3 から展開するとX=(x3y2)y3y1の質料とY=1/(y3y1)の作用をすれば目的の質料を得られる。」
の通り内部構造を明確化していけば目的に対する質料(材料)と作用(組み立て方)が分かるというものであり、
必要条件として質料もしくは作用質料の波動を感じ取ることである。
波動を得るためには質料の内部構造を予め知っておく必要があり、その認識を得るために主観的単位が必要となるということである。
例えば、目的が水を得ることであれば川の波動から水の構造があることを知ることができ、
川から水を得るという作用をすればよいことが分かる。
この場合、川という主観的単位がなければその目的を得ることが難しいことが分かる。
主観的単位とその性質(内部構造)を予め知っておくことで構造の組み合わせにより目的を得ることが出来る。
これを主観的単位に解釈して時間と関係ない次元における質料の分解・構築作業を波動とし
波動が形成する可能態質料の重ね合わせの場を形相Zとした。
ゴミばっか
心理的に主観的単位Xは離散的値の線形性をもつ単項式である基準で現象を測るものでなければならない。
量Yが連続的な値であれば主観的に違いが分からず、
非線形であれば複雑な計算過程を持たなくては違いの正確な判断が出来ないためである。
前者は職人的な勘などセンスが要求される作業であれば、新たな基準としての単位を設け
例えば水の成分を調べたいのであれば、水の下位構造に新たな名称をつけこれにより構造的に離散化した量を持つ。
後者は量Yが曲線のような関数であった場合、微分などの作業を感覚的に行うことになるためであり、
これを解消するためには線形性を持つ基準として新たな単位を認識する。
例えば、技術的な話でなければ詳細な値を出す必要はないため曲線の関数をパターン別に分け
緩やかな増加部分と急増化部分などに分け直線とみなし
それに対し原点を通り直行軸に新たな名前の基準を設け現象関数として名称付けすることで
単項式の線形性を持つ関数となり、これが波動を得やすい性質としてのいわゆるセンスのある考え方である。
構造を複雑化するほどに波動を得る機会は失われると思われる。このように数的構造を名称構造に置き換えるていくことが重要である。
解析的に見れば人間は大した思考を持たない単純構造の思想を持つ動物であることが分かる。
超越論的な思考などなく単に質料に作用するという組み合わせを思考(試行)しているだけのコンピュータである。
コンピュータの機能としては客観的解釈により現象の構造化し、主観的解釈により起こった現象に名前をつけ記憶する。
基本的に処理速度と記憶容量で全ての現象が説明され自律した思考を持つ。
客観的思考に傾倒していればある程度の矛盾を容認する態度が必要であり、主観的思考に傾倒していれば規則化に勤めるべきである。
主観的現象は虚構を多く持ち利用価値がないように思えるが、その実合理的システムである。
次項から人間というコンピュータの性質について言及する。