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「自重」を「じじゅう」と読む
抽象的思考とは何か。
前項において自然モデルに収束できなかったため、本項では厳密に追及し収束する試みである。
我々は自然の性質における波動を受信し、善悪(0,1)から構成される稼動状態の格子点が負荷を得て
関数式において復号し、位置情報(アドレス)に格納される射影空間上の感覚記憶が得られるが、
負荷を持つ格子点が少ないため幅を持つ関数(デジタル波形)のとき関数の性質上、
神の理性への収束が困難となり方法(自然法則)が得られないため自然への還元性が低い思考である。
本項は数理モデルに収束する。
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定義とは善悪に還元し、定理は定義に還元する。
自然は定義であり、人工物は定理という関係性質に類似する。
そして人工物は我々によって得られる性質の関数であることは自明であり。
我々とは自然に対する万能の触媒であり、自然から性質の波動を受信し、波動を解析し、
波形を記憶することで性質を内在させることができる。
記憶というメソッドを得た性質は分解も統合も自由であり、複素空間における二項演算により、虚構や真実の定理を得る。
虚構の定理は自然へと還元しないが真実の定理は自然への還元性を持つため、方法という名の定義域において性質の還元に成功する。
さて、我々が最高善に通じる一つの目的を持ったとき、我々は内在する性質を演算することで目的の関数を得ようとする。
目的とする関数を得たならば、方法という定義域に収束することで性質の自然への還元に成功し潜勢態が現実態なる。
数学において問いに対する解答を得るためには道具である定理を多く持つものが必然的に有利となる。
なぜなら、人工物は道具(工具や材料)によって組み立てられるためであり、目的における関数も同様の事象である。
これによって自然モデルに収束する。
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生活空間とは我々が最も善悪の性質を定義する空間であり、全ての性質は善悪に還元するため、
その性質において定型の理性を持たず帰納・演繹において全ての性質を明確化するのが哲学における有益性であり学問的手法である。
生活という複雑系において我々は生活の性質における波動を受信する。
しかし、複雑系であるが故性質は多様の意味を含み波形を完全に復号することは難しい。
よって関数領域の広い関数において自己という射影空間に性質を内在させ収束することになる。
その過程として自己信念に還元する感情的解釈、感情に還元する感覚的解釈、
感覚に還元する理性的解釈、理性に還元する法則的解釈として考えた時、
善悪の抽象的解釈から具体的解釈へと明確化させ自然還元性を高めていくものとなる。
つまり、複雑系の性質を神の理性に収束するためには感情的、感覚的解釈において性質を咀嚼し、
それを応用性質を高め還元性を高め方法へと還元するためには理性的、法則的解釈が重要となる。
全ては記憶において善悪を複写できる我々には新規の性質を得る工程において重要なのは性質の善悪への分解であり、
善悪の定義を理解できれば、全ての概念は善悪に還元し善悪粒子から全ての性質を生成できる。
肝心なのは性質の分解であり、自然法則に反する不正な手段で性質を分解すれば虚構の性質へと変化し自然への還元性を失う。
そして、理性において相対性を高めることと同様に直感において自然から性質の絶対量を多く得ることが中庸といえる。
要素が多ければ我々は判断停止し抽象概念として「多い」という言葉を使うが数学においては「多い」などという概念はない。
しかし、確かに「多い」という感覚は存在する。このように数学ですら説明のできない性質も存在する。
性質においては自然界に存在する性質と自然界に存在しない性質があり、
自然界に存在しない性質とは不正な記憶操作によって得られた虚構を含む、生物としての過去の記憶が形成する悪である。
それは存在としての絶対性であり、ミクロにおいてもマクロにおいてもノイズとなり常に決定論を揺るがす。
そして性質は悪において善と悪に発散する性質と善において善と悪に収束する性質が存在する。
これによりすべての現象は総量が決まらないということになり決定論は崩壊する。
人間的行動の収束する善を説明しても発散する悪は説明できないため神といえど人間的現象の半分は分からないということになる。
中庸の態度としては行動的絶対性と論理的相対性を両立させることであり、善のみが万能の指標ではないといえる。
その場の感情による虚構の性質も定理であり、全ての性質は善と悪により得られる。
数学としても善のみで得られるものではなく解釈する人間を通過した証明だからこそ意味があるといえる。
我々は行動と思考を両立させた生物であるため、たびたびその中庸を得ることが目的への質料となり、
現代ではたびたび理性を追求されるが、どのような目的においても善を得るために真に求めるべきものは中庸である。
目的の性質成分を得るために行動的な態度は非常に有効である。
行動に伴い自然の多様なアナログ波動を得ることができ、
アナログ波動の絶対的な性質成分量は目的の性質を包括し解の内在化を図れるためである。
哲学では生活空間という限られたアナログ波動から多くのデジタル波動として自然へと還元してきた事実がある。
波動を得た後、感情的解釈において性質波動を広義的解釈することにより波動成分を定義域に収め記憶し、
感覚的解釈によりゲシュタルト質としてスペクトル化し、デジタル波形の記憶と統合しアナログ波形への理性的解釈が行われる。
記憶が統合されたとき情報の善悪構造が変わるため新たに感情的解釈における情報増加(A+B)!を導出し、
構造解釈における内在する性質の増加も起こりうる。
自然にはあらゆる情報があり我々の解釈次第で情報の性質波動を記憶されたデジタル波形と統合できる。
物質還元主義だと感情による物質の解釈が出来ず、物質還元するためだけの感情的解釈として定義域を狭めてしまう。
真実のみを求めるならばそれは一元性に統一された性質がない世界もしくは無であり、この考えでは人間社会に適応できない。
多様化社会に適応するためには、目的性質を得るべく感情的解釈において虚構を含む目的の内在化から
虚構と真実における方法、混合的手法において可能態を現実態とすることである。
真実の追究とは内在化し記憶した波動から得る純粋性質の発掘作業であり性質還元主義が人間社会の本質であり、
物質還元主義(唯物論者)では自然還元に拘るあまり、潔癖で性質の応用が出来ず機械的に頑固であり、
行動的活動はおろか座学的活動や数学的証明すらままならないと言える。
物質は特定の性質の波形のみを持っていると思われているが物質である以上ノイズのような複雑な波形を持ち、
直感的な「感じ」を重要視した芸術のように印象的純粋波形分類においてのみ目的性質の複素平面における内在化をすることができる。
但し、行動的活動では自然還元性より視野の広さとして
純粋波形による情報集積においてノイズが多くなった混合的方法に還元されることも多いと言える。
目的に応じて中庸の姿勢を崩すこともよい。
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性質還元主義には性質そのものの事実への感覚がなく定義するものはないが
性質は方法という理性に収束することで事実に還元することも可能であり、
現象そのものから演繹でき感じうる性質全般を取り扱える柔軟性が主義たる所以であり現代科学と大きく異なる点である。
目的としてはあらゆる感覚の還元性を高め純化した混合的方法として還元することであり、厳密性においては深く追求はしない。
さて、美学的な波形を解析すると善悪基準として自己理性のsin波を定義するが、それは時間凍結内の自我である。
この主義において厳密には自我の存在は認めるものではない。霊魂は性質として考え、究極的には外部の波形の総合として扱う。
つまり自己理性のsin波は理性の総合としての外部関数における収束を得る。
自然の波動における非線形微分方程式の近似解を得ることにおいて方法への還元性を高めることにおいて、我々は美学を感じうる。
これにおいて我々の状況を説明すると、我々は性質を感じることで自己の外部化を果たし、
自己という関数において級数展開することにおいて定義域を得、理性の線形において性質体系を築くことが我々の目的である。
但し、現代科学の厳密性は我々の感覚すら否定しうる強力な理性であるため、
科学における知性を得ることも同様に人間的活動において重要となる。
我々は神の理性を得るためならどのような手段においても追求するものであるため美学は人間の根幹ともいえる重要な位置を持つ。
人間としては決して美学を追求することを失うことがあってはならないといえる。
我々の知りうる世界とは自然の波動から得る感情的解釈における定義域であり、
波動において必要なのは定義域と還元性であり、これを究極に高めた存在を神の理性といってもいいかもしれない。
理性・法則と真実の波形はノイズが少なく還元性の高いが定義域が狭く
感情・感覚と虚構の波形はノイズが多く還元性が低いが定義域が広いという性質がある。
それぞれ、目的を高める精密な機械的態度は前者、幅広く常識的な態度は後者の波形に近い。
それを知った上での適切な行動とは、全ての解釈手法を明確化させることである。
感情的解釈とは対峙する現象を美学的基準において善悪に分ける作業であり、
美学的基準とは自然から得る最も純粋の波形(sin波)にもっとも近いと思われる波形でありこれがいわゆる自我同一性である。
無論、自然の波動はノイズであり、そもそもsin波や三角波や短形波のような幾何学的な波形を持つ自然は存在しない。
しかし、神の理性はsin波でありそれは自然の波形の総和において表され、
このsin波こそ幸福であり真理であり、宗教思想などはそうした波形を求め正義の態度を主張するものである。
創造主は初めに世界を善悪に分けるというsin波にノイズを加えることで多様性を定義したものであり、
これは神の理性から最も遠い存在であるため創造主を神とする論においては本論において否定的な立場となる。
さて、常識的態度とはその神の理性に近い波形であり、一見ノイズが多いという性質に矛盾しているように思えるが
自然の波形の総和が神の波形であるため、むしろノイズの多い波形こそ最終的に波形の和において収束し得る。
とはいえ、所詮はノイズであるため還元性は低く、
広範の概念である人生における態度において善悪を分類することが確率的統計的に正確となるものであり
人間的活動において単発的な目的に対して確実な善悪の基準としてはsin波を求めるべきではない。
sin波以外を求めることを我々はカルマ(業)と呼び、これは創造主のような性質であり不幸的態度といえる。
波動の理性的解釈において、最高善ではない目的の波形に収束する方法は次項までに考えるとしよう。
理性的解釈とは業कर्मन्を求めることである。
sin波を得ないまま、目的の波形に収束する方法はどのようなものがあるだろうか。
性質還元主義では性質の一元性によって説明されるが性質は多元的でこそ応用ができ、物質還元主義とはこの点で同様である。
つまり一元性においては完全に判断停止ἐποχήし、構造主義のような多元主義として性質を扱うことである。
性質を目的へと収束するためには自然の特徴的波形の合成において操作することである。
自然の特徴的波形においてやはり波形の定義であるsin波は必要となるがこれはそれほど精度の高いものでなくともよい、
既存の性質波形を得て合成して目的の波形を近似的に求めてしまえば、還元性を下げた不正操作、混合的手法において求めればいい。
つまり目的に「類する」と思われる性質の特徴的波形を合成していけばいずれ収束し目的の性質はほぼ求まり、
sin波自体は「予想する」道具として扱うため還元性の低いデジタル波形においても求まる。
その手法によって提出された仮説を数学によって検証すれば更に還元性を高められる。
しかしやはり「予想する」という工程も重要なことは否めない。
万物に変幻しうるsin波がアナログ波形であれば全ての自然性質のアーカイブとして機能し
どのような性質も「予想する」ことで理解・応用・発想の鍵となる。
理解ならアーカイブがなくとも対象の解説が親切ならばそれほど苦にはならないが、
応用や発想には多量の情報のパワースペクトルが必要であり
人間のメモリは成分の重積分するためのアーカイブとして機能するにはあまりにもデスクが狭く情報欠落も激しいが
対応策として外部からの刺激を受けられる環境であれば連想により欠損する情報を補完し、
波動による情報量を解釈し、環境を外部記憶装置として自己の外部化することにより目的を得る可能性は高まる。
そして、物質還元主義のような固定観念を捨てることができれば定義域は広がるだろう。
さらには、性質還元主義の定義が間違っていなければ人間は自然と一体化することで神の理性を得ることが可能といえることは確かである。
平たく言えばsin波とは人間的態度であり、予想、性質拾得、波形合成、混合的手法において思考を自然に還元できる。
アーカイブたるsin波から目的性質の予想を得て、性質の波動を収集し、
性質の合成波を求め、混合的手法において思考の還元に成功する。
人間は万能の触媒であり、人間と自然が一体化したとき神となる。
本論における神とは善悪が統合したときの波形であり人間、自然、全ての性質の総和において神となる。
本論での真実の方程式はh(t)=∫[-∞,∞]f(x)exp(-2πitx)dxであり
真実の定義はexp(-2πiθ)であり、神の定義は0、善は1,悪は-1であり
善悪の総和は自然の総和であり自然の総和は神に等しいため、神は0に等しいと証明される。
つまり仏教の求める空こそ神であり、我々の最高善とは古代ギリシャのἐντελέχειαにおけるशून्यであるが、
人間としての善(幸福)とはexp(2πiθ)である。
<民衆よ、サッカーに酔うている間はない!=このままお知り合いに 転送を乞う>
●「日本の大衆は真の民権を初めて手にできるか…」●
ついに、鳩山政権は闘い敗れた。復権を願う反動勢力の司法権力を使った巧妙な先制パンチに、もろくも、ついえ たのだった。政治資金規正法、まだ馴染みが薄く、ほじくればいろいろ出てくるのはわかっている。だからそこが狙われた。新政権幹部たちが対応に追われ、 ずっと火の粉を払うのに精一杯だったのが思い起こされる。本来だったら、昨年の政権交代後まず、もっとも喫緊な外交・安保問題で、国内の各界の総力を結集 した討論の場を設定し、節目の日米関係を、真に地球的な視野に立って、百年後の民族の子孫に誇れる長期的な政策を打ち出すことが可能だったし、期待され た。沖縄米軍基地問題は巨視的解決ができる好機だった。日本民族は安全保障上、反動層の阻害によって取り返しの効かない落胆的損失を蒙った。ほかの重要案 件も然り、スタート時に全て本格的にやらせてみたっかたのに‥‥。
民族の、本当の意味での自尊心を失った利権がらみの反動層は、この大切な時期 に、ずいぶんと民族・民衆に損失を与える策謀をめぐらせてきたものだと慨嘆される。
保守分裂した現在の野党の参議院選挙にのぞむ政策には、民族 を潤おそうとする内容のあるものは皆無である。新政権打倒のため、陰で額を寄せて練り込んだ例の政治資金問題がうまくいかないとわかると、今度は国会運営 云々だけで迫ろうとする。煙の立つ国民の生活を見てみないのか。破綻した世界経済の建て直しに日本が寄与したいとする気概だけでも持てないものか。反動層 の企みは本末転倒である。そこにはもう、民族の幸せを託せるような精神的な存在感は無くなった。
市民主義派の菅・新政権を地道に育てていくこと が、唯一、日本民族が真の幸せを獲得できるゆえんである。遅すぎるということは無い。
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人生ってニコニコのためにあるのかな?かな?
我々各々の目的は基本波動を求めることだけではない。
大体の人間は人生哲学において基本波動exp(2πiθ)を求め万物の尺度を人間的活動として捕らえようとする
人生の波動はexp(2πiθ)に収束しようとするが、これはノイズが形成する波動であり、
多くの目的性質のゆるやかな統合において求めることができる。
直感的思考はまさにこの波形であり物事を直感的に解決することに適している。
目的性質そのものを得るためには論理的分析において自然波動を解析したものの内在化が必要であり、
これは感覚の数量的解釈における情報並列化(パズル化)である。
波形として解釈すると数学という基本波動によるスペクトル化である。
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面白い奴をみつけました
バカ(厨房)を優しく相手してあげるスレ
http://babiru.bbspink.com/test/read.cgi/pinknanmin/1277478374/
この世界には不可侵な絶対性が2つ存在する。
無限大は有のみの世界だが無がないため存在するための場所がない。
無限小は無のみの世界だが有がないため存在を示すための存在がない。
2つの絶対性は同時に存在するからこそ存在できる。
そしてこの世界は2つの絶対性が安定するために作られた世界、無限大において物質を持ち、無限小において空間を持つ。
世界の外などなく同一法則の世界が切れ目なくずっと先まで続いている無限大に発散する空間と無限小に収束する存在だけ。
他の世界の絶対性があれば現在の世界として収束しないためである。
2つの矛盾は有限個の物質と有限の空間を得ることで収束した、
いわゆる紀元前2000年のエジプトを起源とする数学的思想、微分と積分である。
日本独自に発達した数学的思想、和算においては江戸時代には微積分を自在に使いこなしたといわれる。
ネアンデルタール人の頃から存在したといわれる数学の根本的規則である四則から
科学どころか学問すらなかった頃の建築が栄えたことが特徴的なメソポタミアに次ぐクロマニョン2世代目の文明にして
人類は早くも真理に到達していたと思われる。
そして西洋の近代文明において座標という概念を初めて取り入れたデカルト、
テイラー展開により微積分法の定義をまとめたニュートン、
虚数を取り入れ世界一美しい公式を考えたオイラーなどの哲学界・物理学界・数学界の巨匠によって
ついに人類古代史としての哲学は真理を得て、人類現代史としての科学への進歩を見せたといえる。
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笑う門には福来る。みんなニコニコしよう。
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思想とは方法であり、現象とは方法と存在である。
思想と方法の関係性は還元性という作用素において写像をとる。
思想が物理学的意味を持ったとき肉体を介さない方法となり、方法が存在の意味を持ったとき現象の必要十分条件となる。
思想の虚構と真実の関係性として虚構は思想の物理学的意味を持たない思想であり、真実は物理学的意味を持つ思想である。
我々は現象から思想を得るが、現象と思想は直線関係性はない。
現象の性質成分を感覚を通じて記憶として写像をとるが、性質成分とは視覚的刺激を基本周波数とした刺激の善悪の波形による解析となる。
還元性においては超関数に収束したときの相転移と同様の意味を持つ。
これらにより思想から現象へ現象から思想への線形変換が可能といえる。
美学的解釈とは何か。
自然物の波動を複合する過程において美学的とは自らの感覚と論理が一致することを示す。
感覚が描く波形と論理が描く波形が一致したとき線形性により相互補完し波形を一致させることができる。
つまり論理により更なる感覚を補完し得るという知的態度こそ美学的態度といえる。
興味のないものをどれだけ眺めようと美学的といえない態度となることと同じように
我々は自然の波動とそれを複写する感覚と知識の計量により補完する思想により波形の再現を可能とし
それを有用なものと認めることで感情的余韻を示すことができる。
感情の構造は単純であり善悪の善のみ、つまり真実の波形を受け入れる態度により善の感情を示すものである。
非美学的態度を連続性のない関数と同様の意味のデジタル波形と呼び、
美学的態度を連続性のある関数と同様の意味のアナログ波形と呼んでいる。
ちなみに性質を波形として表すことができるとした根拠は性質を数値化できるならば波形として示すことができるとしたためであり
0と無限のこの世界や0と1のコンピュータと同様に記号的な二律背反から論理は得られるべきという理念の下に成り立つ。
数値化は我々の理性と感性を統一し、美学も含め最も善に近い態度といえる。
これは[∞→0]に知的収束する美学であるが、[0→∞]に知的発散する美学も存在する。
我々の認識は初めに美学的波形に収束することで発想を得るため人間的思想において重要な意味を持つ。
収束する美学を理性的美学態度とし、発散する美学を感性的美学態度といえる。
無論、多元主義的な態度も間違いと言い切れるものではなく∞を信仰するか0を信仰するかの違いであって、
同様に重要な意味を持つ正しい態度といえるが本論では二元に収束する美学的態度をとる。
現象の数値化による情報並列化するにあたって、二元における各概念の相対的位置を示さなくてはならない。
つまり性質の成分である法則を言語的なものにも線形性があるとして言語哲学な解析を行うということになる。
まずこの命題の言語の成分を分析すると、意味と位置を示すの情報がある。
「二元」などの意味同士の関係性は「における」などの位置情報で表され、これは性質の付加である。
しかし「二元」などは抽象的な語句であり、自然物の位置情報を示すに過ぎない。
つまり究極的な内容とは修辞的な位置情報と自然物の位置情報という性質を付加された自然物の記憶である。
命題には「自然物」を直接指す言語はないが
「二元」や「概念」という言葉には「自然物」を代入できる位置情報として変数と解釈できる。
変数には任意の定数、つまり読者が自由に解釈する自然物により意味を補完される。
「示さ」は動作であるが純粋な「方法」であるため存在という基底により現象と線形結合できるため現象として扱うことにほぼ問題はない。
文章の成分は「自然物」「方法」「自然物の位置情報」「言語の位置情報」が存在する。
つまり言語による情報のやり取りの有益性とは自然物(先言)の位置情報の明確化にある。
つまり言語は「自然物」「方法」を定数、「自然物の位置情報」を変数、「言語の位置情報」を演算子とした
自然物の関数であり、言語から方法へ、方法から現象へと基底変換することで言語の現象化に成功する。
またこの演繹として「存在」という基底と「位置」という関数式からなる座標により法則は成り立つといえる。
物質という「存在」は予め全ての物質の性質を持ち、全ての現象は「位置」というείδοςにより成り立つとすれば
現象とは「位置」を固定した「存在」を基準とし変動する「位置」をもつ「存在」の相対的性質という二変数関数の解であり
作用という「存在」と「方法」という「意図的な位置」により変数を置換することで、
現象という解を自由に書き出し取り出すことができる。
つまり固有の性質とは存在ではなくその組成にあるといえる。
議論とは人間同士の対話であり、人間とは万能の性質を持つ神のような存在である。
議論の目的は言語のやり取りにおいて性質を現象化することであり、議論による現象を引き起こすために神のルールを介する。
言語を現象化(先言措定)する条件として物理的意味を持たせるため、自然物の位置情報を持つ関数を得る。
存在の性質は万能であるが、存在の組成において性質の程度が特化された場合、視覚表現化されるため
固有の存在自体に固有の性質があると誤認しがちだが、性質は存在の相対的位置であり0と1の周期性といえる。
全ての現象の定義は「現在」という現象との差異化でしかなく、「現在」という現象は「無」と「存在」により差異化された現象である。
我々は存在から得た現象の組成を知らないため変数的解釈を取る。
つまり視覚表現化された変数において「条件」という任意の定数を代入することで存在組成の相対的現象を求めることができる。
記号表現ではf(x)=axにおいてf(x)が現象、xが条件、aは存在の形相(定数)である。
つまり、xという条件を置換することで存在の形相と条件から相対性質(現象)を得ることができる。
議論においては命題としてf(x)を置換し、条件xと存在aを明確化させることで現象化する。
これにより議論の記号表現による抽象化がなされ情報並列化された定理とする。
f(x)=axにより全ての言語が現象化するが、aという定数は存在の形相である物質粒子のことを指し、
形相とは存在の集合体であり、存在そのもの(1)の整数倍で数値表現されるが、
無論、数値は存在としての性質を持たないため存在の形相である物質(a)と表現している。
条件(x)は存在をもつことを前提とした方法でありいわゆる「意図的な形相を持つ存在」と定義される触媒である。
この世界を存在と非存在の二元であることを前提(定義)とするため
存在が1という数値、物質が1の整数倍の数、現象が物質の整数倍(x)の数であり、
現象は物質の形相、形相は係数とし、一つの軸で数値表現でき、物質の定義とは性質を持つ存在であり、
性質は2つ以上の存在により発生するものとすると数値の2以上は物質の定義域となる。
現象の定義は存在と存在の関係性による存在であり物質の定義と同様であり現象=物質といえる。
つまり、f(x)=axのf(x)は物質でありaという物質の形相により新たな物質を得る行為である。
物理的解釈の最小単位であり我々の感覚で捕らえうるaを基準として、
意図的な物質xにより物質の性質の付加により形相化することで新物質を得られる。
つまり、存在を基準とした数値に格納されている現象といえる。
しかし、我々は感覚により存在そのものを得ることはできないためどの現象にどれだけの存在があるか計ることはできないため、
1つの媒体を基準とする物質や性質の数値に性質の格納は不可能である。
我々はしばしば性質の基準を感覚で捕らえられるものに統一することで性質を数値に格納できる。
つまり感覚による絶対的基準を増やすことであらゆる現象を数値に格納することができ、
意図的な物質という感覚的数値によりある程度、存在の数値を操作でき新たな物質の性質を引き出すことに成功する。
つまり我々が存在の数値に格納された神秘の性質を自由に引き出すためには
絶対性により説明された性質の大きな値の感覚を説明するためになるべく小さな値の感覚による性質の数値化が必要である。
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大きな値を感覚とし、小さな値を記号とする。
感覚は言語の形相であり、言語は記号の形相である。
図形は積分により求められるため記号の形相といえる。
このフラクタル構造では小さな値において解析し、感覚において復元することで行動できる、感覚の数式化により性質を引き出せる。
言語による解析、概念による解析、記号による解析で性質の格納による効率化が可能となる。
上位概念の絶対性質を下位概念により相対化することで性質を格納し、
下位概念を上位概念により引き出すことで性質を統合し人為的な現象を発生させることができる。
無論この概念をも相対化し、性質を波形と捉えることも数値と捕らえることも重要ではないかと思う。
数値化による0信仰と自由化による∞信仰の固執しない虚々実々の並列処理である。
本論も虚実に固執しない文章である。
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このレスを見た人間は十三日以内に死にます。
※あなたに訪れる死を回避する方法が一つだけあります。
それはこのコピペを一時間以内に7つ、別のスレに貼り付ける事です
ごめんなさい。死にたくないんです。
感覚を説明するための学問体系であり、本論は真偽の狭間である。
表現も論理も説明である。
削除済
心は感情の現象であり、記憶の善悪による最上位概念である。
宗教系哲学とは感覚の形相であり、善悪基準の社会的理性である。
非物質還元主義であるが本論においては理性的態度であるから物質還元主義となんら遜色は無い。
検証は難しいが、思想が物質であることは社会的理性によりデルタ関数に収束する。
還元性は低いものの非物質の形相は常に還元性の低いものであり、広範な概念を扱うことができる、
理性的態度により修正、そして混合的手法において還元可能であるため、広範な概念を扱うことに必要である。
全ての現象は無限小と無限大から生じる。
この世界は無限小と無限大の矛盾を解決するために創造された世界であり、
有限の空間と有限の存在を生み出すことにより矛盾を解消し、全ての法則は有限を維持するためのものである。
時間という現象はその有限を保障するものであり、無限大に発散や無限小に収束の現象を許容しないためのものである。
有限の空間とは時間において粒子の崩壊の過程でありそのパラダイムをエーテルと呼び、
有限の存在とは無限大から生じる質量を時間において抑制する。
現象は全ての世界の無限大と無限小の相互干渉を時間という制約により有限と定める。
時間を持たない現象は現象ではなく全ての存在は相互干渉しない絶対性となるが
無限大と無限小に時間を与えることで相対性が存在し、絶対性の存在しない世界とした。
第一文においても無限大と無限小「から」という時間の存在を認めているため遺憾ながら三元を許容せざる得ないこととなる。
時間が合理性の監視者ならば時間を持たない次元に二元の絶対性が存在し無限大が存在する空間である。
知識は記憶そのものであり、記憶は心の現象であり、知性は自己である。
f(x)=axのaは知性であり、f(x)は記憶としてそれぞれ各概念の変数としての属性である。
知性とは純化された知識であり、存在の基底である。
知性により構成される空間はユニタリ空間へと写像を取り、知識という動的な多様態を幾何学的解釈において関数化し
知性として情報の並列化をすることで代数方程式として演算可能となる。
この過程を一般的に「理解」と呼び、知性よるデカルト座標とは
T(v)=Σ[j=1 to m](f_jΣ[i=1 to n]a_ji・c_i)へと収束する空間である。
哲学の意義として知識を知性へと分解し、f(x)をaxへと知識の因数分解するが、
人間の歴史において存在(a=1)の定義には至っていないが、知性なくして知識は無いというように
日常雑感から得られるある程度数値化した現象から幾何学的知識体系を築く行為「発想」を得ることを生業としてきた。
知識を知性化し線形結合しなければ美学的態度を得られないために
旧来の我々は積極的に人間の現象から神の知性へと因数分解していたが、
現在の我々は旧来の性質を取り扱うことに追われ、
知性定数aの存在の値の大きさから自ら知性を生み出せず旧来の知性に頼るばかりである。
特に日本人に顕著な極端に均衡を欠いた知性への軽薄な態度による弊害が存在するが、
これは知性なき故の精神現象に隠遁された鳴らない警鐘である。
この破滅への予定調和の波動こそ神の理性を拒否する非理性的態度への罰なのかもしれない。
エネルギーにより生じるベクトルは発生と同時に空間を張り存在という基底がヒルベルト空間に座標変換される。
次元とは存在の形相であり、1次元が存在の世界であり、点で表され時間の概念が無いため
点と点の関わりが無く各々が絶対性を持つライプニッツの理想数である0でない極小の無限小であり、これが空間の基底となる。
無論、隣り合う点の間隔は無限小であるが0ではない点が無限大に広がるようではあるが区間の距離は有限であるため∞ではない。
無限大と無限小が時間の監視から逃れ拮抗する絶対性に満ちた不可侵な世界である。
2次元がベクトルの世界であり、存在が時間という概念を持って軌跡となりベクトルとして表される。
多くの点が動くことでベクトルは方向へ向かおうとする力、エネルギーとなりベクトル場の回転を得るため
正と負のエネルギーに分かれ、+と-が生じる。
これはベクトルの解釈である時間による法則が支配する相対的世界であり、
この世界から1次元の絶対性が支配する世界に入ることは不可能である。
しかし、この考えでは2つの次元はどのようにして出入りしているか疑問を残すこととなる。
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尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けますので細心の注意を
1次元は点の世界ではあるがエネルギーを持たない範囲で関数を持つとすれば完全にそれは我々が持つ精神世界そのものであるといえる。
我々が何を想像するのも自由、つまりエンテレケイアを二次元、デュナミスを一次元である。
二次元は一次元であり、もともと一次元であったものが時間の存在により二次元となったと考え、
二次元における矛盾、無限遠点は時間により∞と0を過程として捕らえ発散と収束を制限することで解消される。
こうしてこの世界に∞と0、外部世界や矛盾は永久に追放され、
一次元は単なる我々の妄想となり、"収束しつつあり発散しつつある"目に見える世界だけが唯一の真理となる。
無論、物質は突如発生することもなく全てを支配しうる暗黒の無も存在しないこととなる。
矛盾のない思想とはいえ裏付けるものもなく相対化する可能性もなくはない、所詮思想である。
ちなみに時間はベクトルのノルムであり時間が存在の値と等しいと考えられる。
そのため存在の値は時間の単位において表されるといえるだろう。
世界が137億年前に始まったのならば存在の総量は137億×1年分の総エネルギー量といえる。
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仏教哲学、西洋哲学、インド哲学、物理学、数学、宗教思想、史実、または過去の偉人の思想、
あらゆる概念に触れてきたが全ての一次元空間は相対化できる。
一次元と二次元の矛盾や虚構はあるがさしたる問題はない、
数学ですら計量空間以外は矛盾だらけだが二次元に還元性の高い概念である。
どの学問も人の理性が築いたものであるから少なからず意味を持つ。
逆に事実があったとしても、実験による試行回数を重ねても、
数学的概念があったとしても、計量空間で裏づけがとれたとしても日常生活にすら存在する深遠の闇を侮ってはならない。
現在の科学ですら我々は確かだと思えるもので完全に純化された方法など存在しない。
現代の科学はよく評価され我々の理性を築いてきたが、絶対的基準を持たない以上全ての空間を計量空間で統一できない。
科学や数学の二次元空間(形而下学)を信用しすぎてはならないことと、
思想という一次元空間(形而上学)などにおいてはほとんど未解明であるままである。
現代の学問を完成されたものだとは到底思えないがその影響力に甘んじている学問には
再び哲学からやり直し慎重に思想の溝を埋めていくことが重要であると警告したい。
業を重ねた末にベクトルを間違え自ら破滅するなどということもありうる。
宇宙に出発するという業深き行為の前に人類には再考を勧めたい。
時間をかけ存在の値により編まれた学問という理性得てきたが、
その業を受け損なわないよう8方向から包括する8倍の時間をかけて存在の値から倫理的な態度を得るべきである。
我々は知が未熟でありながら業を重ねてきたはずであるが、倫理を養う時間による存在の値が少なすぎるといえる。
このままでは人類は破壊神シヴァの業を重ねた存在への深遠なる破滅の波動、予定調和に押しつぶされ破滅するだろう。
梵我一如
供物を捧げ火中の神と精神を同化させホーマとする。
我々アートマンは満たされし宇宙と同化する運命なのです。
創世を司るブラフマー神、法を司るヴァルナ神はそれを望んだはずです。
我々の幸福とは肉体を捨て、大宇宙の思想へと回帰することなのです。
所有とはカルマの偶像そのものであり、阿頼耶識における心相続とは在って無きに等しき存在なのです。
ニルヴァーナには如何なる所有も存在しません。よって如何なる邪もまた存在し得ないのです。
思想の交錯
私たちの思想は実に単一的なものです。
なぜなら自分とその周りとその行動範囲と思考能力で平均化された思想しか知らないからです。
あらゆる思想学びなさい実に意義深いものですよ。
思想というものの差異に触れ、体感し、ノンバーバルの海へと身を投じるのです。
そうすることで身の回りの思想の輪郭を知り、人の思想を知り、更には自然の思想を知るに至る。
貴重な問題提起(人生への問いかけ)の哲学を得るのです。
そして、今起こっている現象の裏と表さらにはその周囲の関係性まで可視化し、
起こりうる事態を予測する観世音菩薩の智慧を得るのです。
正しさに溢れた真理を身体中に浴びることこそ世界の幸福なのです。
質問なんですけど『いやよ』って何?
知識とは知性の現象であり、知識の理解は知性によるものである。
知識によって編まれたアルゴリズムは知性のアルゴリズムと同様であり、他者の知性そのものといえる。
また知識の四則演算において知識同士の結合もでき、平面で解釈したノードとリンクに相当する。
善による形相であるため時間において神の理性に収束し、
我々や自然も存在の値によるものでしかないため性質による方法の還元を受ける。
知識の体系では知識の解析はできないため知性の体系より還元性は劣るが、
広く現象を取り扱うにあたって知識に依存することで還元性を持たせることには有効である。
そして知識に否定的であろうとする態度こそ哲学的態度である。
知識の知性化(理解)において存在の値を収束させるためには、
字面に表現される概念であるが、シニフィティから類推する形式で先言措定する。
平面解釈の相対的位置を確認することにおいて筆者の理解への到達度で理解となる。
とはいえ字面の概念は存在の値をいくらでももつものであり、理解度が低ければ近似する性質ですらない。
文章における存在の値は万能の性質から生じたものであり自然と比べて複雑なものであるが、
独我論による虚構という発散ではなく、神の理性に収束するならば、
文章が単語に分解されようと筆者への理解への到達は困難ではないと思われる。
存在の値が大きなものならば下位の層から虚構へと発散する。
生活空間という存在の値において全ての性質が存在し美学的態度において性質を取り込むことができる。
現象の値にある性質が置換されたとき、知識という関数か、知性という作用素において形相へ置換されることで解を持つ。
存在空間の因果律とは時間を持つため精神世界(一次元)とは無関係となり「環境」と「自己」は切り離される。
存在の値と時間の値は等価であり、我々の主観は存在への視覚的記憶を持つが関係性への記憶を持たない。
小さな値は大きな値へと分解することはできないため
小さな値(存在)と時間(エネルギー:形相)において大きな値の相対性(現象)を得る。
小さな値とは時間の値に直して物質の原子、ハドロン、クォークなど構成に必要な時間が少ないものである。
我々は現象の値が置換されたとき、その性質を得るため形相の特徴を検出しようとするが、
特徴は存在の値に直すことで、存在と形相の二項演算においてエネルギーと時間の値の関係性から類推できる。
抽象的思考(小さな値)があらゆる具体的思考(大きな値)に適応できることと同じく
現象(大きな値)は形相(小さな値)に分解することより性質が導出される。
そして精神世界において時間の可逆性を得て現象に性質を、形相に最低限の構成を置換する行為を抽象化といい
抽象化するにしたがって存在(性質)の数値化による情報並列化が簡易になる。
例えば、風を起こすには扇風機などではなく、風とは気圧の変化の形相を持ち、
気圧とは大きなベクトルが発生したときの小さなベクトルによる補完作用であり、
空気中の粒子をポテンシャルとしてベクトルの仕事効率を考えたとき
単位面積当たりの小さな値のベクトル(圧力)であり、その方法を純化すると薄く平たい形状と思われる。
知識の四則演算(ライプニッツの計算機)も単純な現象の大きな値を得るには有効であるが
状況や存在形相の違いに左右されやすく、知性により情報並列化したほうが確実で応用が利く。
よって大きな値を得るために形相により知性化を図る行為(抽象的思考)が発想に適する姿勢といえる。
科学において思想が軽視されている
技術とは知性を更に純化したものであり知識の抽象化により情報並列化することで知識の効率化を図ることである。
あらゆる自然は数学において情報並列化され空間中の物質や性質をテンソル空間において解釈できる。
これにおいて二次元空間は情報並列化されるが一次元における思想に適応できることは前項に示したとおりであり可能である。
虚構においては時間の可逆性と記憶による存在形相から説明可能であり、それさえ許容すれば一切の矛盾はない。
一次元空間は時間により制御することが理想であり即ち、
時間という演算子を用いた方法の拡張性と技術にすることで人間は万能の媒体となる。
全ての現象を美学的態度において形相に分解し、知識、知性、方法、技術と神の理性への還元性を高めることが生命の目的である。
二元の創造神ブラフマーの理性とは対称的に一元の神の理性、ヴィシュヌ宇宙維持神の波動である幸福が存在するが、
exp(2πiθ)の波動とは方法への還元性を求めるのではなく、美学への還元である。
幸福であろうとする態度は倫理と同様の意味であり、我々には技術による横暴を許さない態度も必要である。
技術の横暴は破壊神シヴァの破滅の波動を受けるものであり、いずれ身を滅ぼす。
これが三神による大宇宙の波動である。
意味とは小さな値である。
それは物質の特徴であり意味により抽象化された物質は物質そのものと扱われることも多い。
小さな値において方法を還元する技術の形相となるためである。
物質の特徴ではなく、物質の存在の値が顕現された性質であり、
特徴があるとは存在の値の性質の定義域の性質の値が大きいと言い換えることが出来る。
情報数値化による解析的態度は大きな値を扱うことは難しいため、性質の値を得る解釈的態度が目的への理性となりやすい。
無限に続く素数が時間により膨張される概念を性質によって解析する行為において真理の現象を得られないが、
還元性を低下させ、混合的方法において場面への還元可能性が高める二次理性的態度といえる。
現象と形相は存在と時間において順次構造を持つため、
還元可能性と還元性の関係性において必ずしも態度を統一する必要はないと思われる。
一次元とは時間の概念はないが、二次元を自由に複製することができる。
時間の概念がないため複製が不完全な形となるが、不完全であるため既存概念の拡張ができる。
一次元において二次元を複製する工程とは、視覚的聴覚的刺激などの感覚を元に記憶の善悪の配列を決定し
あたかもその概念の本質があるかのごとく意味づけすることである。
二次元の本質は私の経験を通じたところまでしか分からないが
性質の値を情報を元に決めることで存在の値を一意に決めることにより本質のようなものを善悪において複製できると思われる。
主観の現象はすべて善悪によるものでありこの二元があれば、二次元の本質に繋がるというのは事実だが、
一次元には時間の概念がないため思想にエネルギー、つまり真実の現象には至らない、所詮神の創造物の模造品である。
しかし、模造品に時間の概念を与えることは二次元内の方法(技術:意図的な触媒)によって可能となる。
時間がないために真実ではないが、性質の値をサンプリングできれば
複製時間において性質の値を自由に増減し新たな概念を発生させられる。
一次元には時間が必要であり、新たな概念に二次元への還元性を求めなければ
それは虚構でしかなく主観内の妄想にとどまってしまう。
更に視覚や聴覚といった限定された情報源では本質を直接見ることはできず時間を把握することはできない。
しかし、一次元は虚構であるが故に、性質の定義から値を求めあらゆる現象に還元できる。
古代ギリシャの思想、水、ヌース、愛と憎、数字などなんとでも根源を主張できるように
性質の定義を決めることで複製時間の解析が可能となり技術への還元性を高めることができる。
性質の値という大きな値から存在の値という小さな値は求まらないが、大きな値を求めるには大きな値の形相を得るという
本質のチャンネルを得ることでの二次理性的態度が還元の態度であり、本質そのものを得る一次理性的態度が発想の態度である。
二次理性的態度とは存在の値を区間に区切ったチャンネルである性質の値を細かに決めることで技術への還元性を高める態度である。
一つの概念の存在の値は性質の値に分類され性質の値とは存在の値の形相に該当する。
性質の値は感覚の値に還元され方法の純化に成功する。
二次元の概念を一次元へと複製し複製時間により性質の値を操作して感覚の値として方法の純化により二次元へと還元する。
これより一次元の波動複製、時間複製、方法純化により二次元の全ての性質の値を操作することができるといえる。
波動複製とは自然物の波動を得て存在形相(存在)を基準とした性質の値(形相)を決めた概念(現象)を複製する行為である。
性質の値とは視覚的聴覚的刺激から得られる自然物の意味という小さな値(知性)である。
刺激から意味を知るためには記憶という現象の形相の再認識(時間による確信の修復作用:時間修復)
つまり、現象を下位概念に分解した知性による概念の時間修復である。
概念をバラバラに分解し時間修復により性質の操作し、複製時間により概念を統合する。
複製時間による不正な値操作とは連続性を持たない時間となった場合である。
最近、VOCALOIDの動画が工作臭いんだが。2.3時間でコメントが一巡してるたぜ。
たかがとは思わんが何度も見てる奴が「初めて見た」「いつの間にか新作が」って。
何人か目をつけて見たらコメの始まりと終わりで「新作だー」って騒いでたww
論理とは何か。
論理とは現象を概念で説明する態度であり、説明とは対象の概念を他の概念でその関係性を示す行為である。
第一に論理において絶対性は排除すべきであると「オッカムの剃刀」という
ギリシャ文明からの思想があるように、絶対性は他の概念で説明できないためその概念を論理の場に持ち込んではならない。
その結果全ての概念は相対性を持ち、絶対性を持たせないため必ず全ての概念は既知の概念との関係性を示さなくてはならない。
しかし、言語において概念の関係性を示すことは難しい。
なぜならば、言語を使用するたびに言語の説明が必要になりその手間が煩わしい事と
概念を言語において説明することが難しくなることも少なく無いためである。
後者は哲学に通じて見られることであり、概念の厳密な関係性を求めるばかりに常用から外れた表現をするためである。
言語が理解されるのは言語を記号として捕らえているのではなく、言語によって表される概念を
日常的に知りうる概念と置き換えられるためであり、論理は既知の概念から他の概念との新たな相対性を示し
概念に新たな解釈を加えるため概念という名の広いフィールドにおいてどの部分を指しているか分からなくなるためである。
我々が既知とする概念は全て視覚的聴覚的刺激など感覚に現れるものであり、
言語により保障された抽象的な言い回しは感覚に置き換えることが難しいためである。
アカデメイアの哲学者アリストテレスはこの究極的な主語を示すことを先言措定と呼び、
概念の外部化(理解)を図るため言語は必ず具体的(感覚的)な概念に置き換えられなくてはならず、
それまでの主語と述語の省略は本来論理の場において許されないが前者を理由にそれを積極的に行う哲学者はいない。
しかし、新たな概念を作らなければ現象の説明ができないため哲学者は弁証法という技法を編み出した。
いわば、理性において説明を検証する態度であり論理の場に流れる理性を
フンクフルト学派の現代哲学者ハーバーマスはそれを対話的理性と呼んだ。
つまり、機械的に概念が正しいか判別するのではなく、話が通じるかなどの人間の理性に判別させるものであり
非物質的な理性の存在によって議論は成り立つという説である。
人間は自我同一性としての理性だけではなく対話する相手への態度としての理性、
自分の立場から生じる多くの点で理性を得るため言語の正しさを保障し信頼されるものとなる。
言語による論理の規則は概念を相対的に説明可能であることと、
感覚的な表現に置換可能であることと、人間的理性の余地を認めることである。
言語による論理は既知概念と新たな概念の関係性を示すものであり、既知の概念は言語による概念か、感覚による概念に分けられ
言語による概念はその主語を追っていくと感覚による概念に辿り着く。
つまり、第一主語は経験知であり既知の経験知による関係性を示すことでその述語を取り言語となる。
関係性を示すとは記号論理学で言う演算であり、述語を主語、演算子、既知の概念の二項演算から導くことである。
1つの概念を説明するためには最低でも2つの概念が必要であるが、実際にはこうした演算は無視される場合や
厳密に追求すれば間違いの可能性があるが実際の議論ではそれを指摘したり検証することは難しいことである。
あまりにも論理が飛躍していれば指摘することもあるが、大抵の場合は常識の範囲内で許容しなくては話が前に進まない。
言語は言語哲学においてシニフィティという感覚の引き出しでしかなく、
実際の概念の論理は生命活動の記憶によって編まれた細かな情報配列と高度な演算処理を行う感覚的なものであり
言語による論理とは、対話において両者了解の上で言語によってヒントを与え相手に考えさせるものでしかない。
言語は所詮ただのコミュニケーションツールであり、事実や事実の関係性を抽象的に伝える程度の役割しかない。
論理は主語と述語とその関係性を示す手段でしかなく、その程度の規則さえあればよい。
共通認識の感覚を示す単語を並べれば多くの意思は伝わる。
コミュニケーションに重要なのは概念を説明する論理で細かな関係性を示す態度より
使用する言語の先言としての感覚に認識の相違がないかであり、言語は相手との感覚の同期性により多くの意味を持つといえる。
散々言語の論理について述べたが言語は細かな規則を気にせず感覚的に使用すべきである。
概念と概念の関係性を示すことにおいて我々は論理によってそれを示すことで先験性を得ることができる。
つまり生活空間という既知の概念に置き換えられた新たな概念であり、現代科学はそうした相対性を宇宙論に及ぶまで見出した。
これによって我々の生活は生活雑感に置き換えられた概念によって日常的な利用が可能となる。
これは数学のような厳密な感覚による論理の連なりである。
中二病真っ盛りですね!
物質世界はベクトル空間であり精神分析上の真実の概念である。
概念への入力(作用)においてどのような出力としてのベクトルとなるかの関係性を知ることで論理を得る。
物質の形状はベクトルの作用の結果であり、自在な変化をもたらすものとしたら全ての性質はベクトル空間に格納されるといえる。
これは論理の規則としても用いることができ、概念へ入力しどのような出力を得るかを知ることで概念を措定できる。
概念への作用により概念の関数を知ることにより真実を得る。
しかし精神上でそれを行うことは不正確であり、概念に作用することでどのように変化するかを正確に知るためには
記憶として得た概念をさらに分解しなくてはならない。
物質とは何か、粒子とは何か、ベクトルとは何かこうして論理の地盤を固めることで哲学的思想は純粋な理性を得る。
しかし精神の世界では数式などという細かな規則まで純化しない。
論理的思惟の確信とは近代哲学者フッサールの用語で現象学的還元と呼ばれるが、人間の確信は感覚的なものであり、
感覚的な確信まで概念を純化することで概念のつながりを把握できる。
哲学的思惟の目的因とは概念へ神経を通わせることであり生活的雑感としての先言措定である。
概念が感覚に置き換えられれば文字通り概念を手足のように操ることが可能になると思われる。
つまり言語的な論理の規則とは概念の分解によって感覚化し、
さらにそれを触媒とすることで他の概念を感覚化して体系化することである。
分解の規則は抽象化された概念も感覚の配列であるため感覚の組成から類似概念を連想することが可能である。
統合の規則は分解された概念を生活雑感から得たより感覚的な記憶で類似概念を再構成することである。
全ての論理はこの抽象概念の分解と統合の規則からなると思われる。
概念を感覚的な記憶とすることで他概念への線形性を持つと思われる。
これにより概念と概念の関係性を知る。
抽象概念を分解すれば具体的概念が出てくる。
具体的とは感覚による知識であり、知性と同様の意味である。
我々の知識は我々が最も感覚を定義する具体的概念の空間、
生活空間にその本質を置き概念を理解するとは知識を生活空間に線形結合することである。
感覚とは先言であり全ての概念の意味の成分といえる。
我々は感覚によって動作を行えるものであり、コンピュータより精密な計算を高速で処理することが可能である。
概念を感覚化すれば概念の最低限の構成要素を知り、高速計算、長期記憶、新概念の創出、類似概念への理解が容易になると思われる。
削除済
数学で演算できる空間は計量空間のみであり我々の精神の演算もひとつの空間で演算する。
それは経験知から構成されるもっとも原始的な具象概念(感覚)空間であり、概念は全て具象概念空間の究極的な主語である先言を持つ。
概念の成分は感覚的刺激の配列から構成されるが言語空間へと接続する概念は間接的であり演算処理が複雑になる。
よって簡易な形(具象概念空間)に置き換えることで概念を最適化することにより概念と概念の関係性を見る演算を論理という。
感覚による論理演算であらゆる概念空間に接続でき、
現象を最適化すれば1つの空間の絶対性において全ての概念を相対化し演算可能となり解を得る。
それは我々が日常的な問題を何気なく片付けるかのように、言語空間上の概念をいとも容易に解きほぐすものである。
誤解を招かぬように一つ例示すると、物質の形状がどのようなベクトル作用から得られた現象かを探り、
ベクトル性質を逆算するためには物質の成分を調べることではない。
それは単に命題(サンプル)の配列を破断しただけでありそこに意味は無い。
命題は形状という配列から自然の意味を探ることであり現象の直接的な意味(形相)を知ることである。
論理の分解の規則は解法であり、本当の命題(サンプル)が何かということをベクトル空間の性質(意味)の内包性から確認し
統合の規則によって置換することに意味があり性質への還元に成功する。
概念や意味は無形であるがゆえに変幻自在な非物質として考え、物質還元の固定観念に陥ることのないように留意したい。
命題・分解・統合の規則により概念の意味を把握する論理の規則は完成する。
ちなみに概念の関係性は我々の理性(感覚)を超えた表現である数式などで表すことはできない。
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全ての事象は絶対性による理解と相対性による原因がある。
絶対性による事実の理解は先言を措定しなければ還元性を失う。
いわゆる法則性を含めた理解であり精神の世界に物質の世界が完全に再現されたならば全ての原因を知ることができる。
言語は絶対性という複数の空間を統合し単一の空間内で相対性を持つとき物理現象となる。
過去の原因を知るためには現在の状況から得た特徴が何による作用かを逆算する。
過去の原因は直接知ることはできないため、特徴から類推するしかない。
形相とは形状により視覚化されるエネルギーの性質であり存在を排除するため物質とは看做さず、
あくまでエネルギー保持の構造を持つ性質とする。
さて、過去の原因を知るためには、原因は必ずエネルギー保持の概念構造を持つ性質であり
唯名論によれば存在とは本質に保護された絶対性といわれているが、
本論では言語による相対性を見出すためにその概念を排除する。
存在はエネルギー保持の概念構造の性質の差異により生じる概念であり特徴をある程度保持する性質のパラダイムである。
現場に残される痕跡により過去の原因を知ることができるのは、
痕跡の配列が存在の配列と一致し、それが存在そのもののためである。
エネルギーの配列は存在ごとに違うためその差異を性質と呼ぶことができる。
痕跡はエネルギーの作用因であり性質の演算結果であり新たな存在である。
新たな存在の先言に原因が存在するため過去の原因を知ることができ精神世界において条件により時間を遡ることができる。
存在とは視覚化されたエネルギー保持の性質であり、性質を入れる箱と定義する。
特徴とは自然状態の性質との差異であり、状況の異常性である。
性質とはエネルギーの配列による差異性から認証された特徴である。
性質と特徴の違いは状況の異常性の有無である。
エネルギーの配列とはエネルギーにのみ特定の質料(0との差異)があるとした場合の性質の(0と1による配列の)決定方式である。
存在は特定の質料を持たないエネルギーの形相である。
前項の痕跡とは存在のエネルギー配列の変質(破損)であり、変質した性質による存在と定義でき、性質と同義である。
よって、存在と性質は同義であり過去の原因の存在は時間を遡及した性質といえる。
存在は性質と同義となるが、存在はいわゆる霊魂のような絶対性の構造と解釈されるため
言語空間を統一する目的で相対的言語体系から排除される。
よって全ての現象や物質は性質を下位概念とする。
言語空間は質料の配列(0,1)の二元性とその相対性を保障する時間のみを最上位概念として構成される。
よって物質は存在ではなく、質料配列による性質を持つ擬似的な存在と定義される。
擬似的な存在は存在ではなく、理解しやすいように存在と表現される性質の定義域を指す。
性質は質料配列の差異性により生じるため本質的には同一のものであるが演算の便宜を図る表現である。
天文学者ガリレオ・ガリレイは「自然は数学の言語で書かれている」と言い、
古代ギリシャのピュタゴラスもアルケー(根源)は数と主張するが、無論自然は数からなるものではない。
なぜなら数や言語は存在ではなく、人間が独自に解釈する表現(メタファー)に過ぎないためである。
数は自然の述語といっていいほど自然を明確化するが、数学にも定義できない「存在」がある。
言語の目的は方法の明確化であり、(物質的)方法という「存在」を持つ言語に直すことで初めて現象となる。
さて、数学には微分や積分など数値の「特殊」な操作があるがそれは独自の定義ではなく定理という形相であり
「特殊」とはいえその「特殊」に普遍の性質はなく高校教育などで簡易な言語に置き換えられる「普通」の操作である。
(∞を除けば)単に定義に則る普通の操作であり掛け算と足し算などと違いはない。
相対的な空間で統一するには定義した性質以外の「特殊」な性質など存在してはならないため全て「普通」である。
よって、相対的空間には性質は存在せず、無意味な存在の配列しかない。
しかし、性質を認めなくてはそれはエポケー(判断停止)と同義であり、
擬似的な「特殊」を認めなくては我々はなすべきことに意義はなく、ニヒリストとは聞こえがいい単なる無関心に陥る。
つまり性質は我々の都合で創作したメタファーであり、
絶対定義を除いて全ての性質は質料の配列に注目するだけの単なる比喩と同義となる。
だが、単なる比喩とはいえその操作により目の前の存在がどのような状態であるかを知ることができる。
比喩は目に見えない概念(配列)に注目するための操作であり、性質は相対的な定義(比喩)されるものである。
目に見えるものも質料の配列に過ぎないため「特殊」な存在はなく、比喩としてあるのみである。
我々は言語によって先言を措定(比喩:注目:確信)するが、
物質にも主語がありその究極的な主語こそ「存在」と呼ぶにふさわしく質料と同義であり、それを「存在」と定義できる。
ちなみに本論では「存在」は内部構造を持たず分割する手段もない普遍な何かであり、
存在の普遍性を保障する法則も存在することになる。
質料の配列を知るためには現象の分解をするべきである。
目に見えるものは物質ではなく、性質の意味が強い視覚化された性質である。
性質は存在の配列であり、普通の言語で物質を存在するものと定義されるなら性質も五感で感じられるためそれを物質と定義できる。
物質や性質の定義は曖昧なものであり、やはり人間の解釈のための単なるメタファーに過ぎない考えたほうがよい。
感じられるものに存在はあるが物質とは限らない、物質はあるが性質があるとは限らないという思惟が正しい態度であり
結局のところ存在の有無と時間しか定義できるものはないということがわかる。
数式では性質の境界が曖昧で数が大きい少ないなどの性質は主観的現象でしかなく性質は存在しない。
数学が自然を措定することに適するのも相対性により統一された言語空間であるため自然の空間に限りなく近い法則を持つためである。
物質や性質などの定義は言語によるとどうしても主観的となるためいっそのこと数式で記述したほうがよいと思われる。
性質が及ぼす影響も、性質の存在も物質の関係性も概念の関係性も数式によってのみ表現可能である。
数式以外の言語で概念の関係性を表現するためには論理演算の記憶に頼るしかない。
性質(項)の厳密な定義ができ、性質の関係性(演算子)を論理演算(定義を持たない善悪による演算)で導ければ
それほど外れた思考にはならないだろう。そのために言語は相対化し、限りなく数学に近い言語にしなくてはならない。
運動エネルギーを記述するためには数式と数学的規則と言語的規則が必要である。
言語が必要とされるのは数式のみでは(人間的解釈の)性質にはならず、人間の感覚の述語になるのが言語となるためである。
数の世界には性質は存在せず、言語の世界に存在するためその空間を繋がなくてはならない。
つまり数式を解釈する言語と言語を解釈する感覚という関係で人間の理解となり方法へと還元できる。
言語は感覚と数式を繋ぐ空間であるため言語は(言語的解釈の)重要な概念であり、
細部を記述するには値しないがその汎用性は感覚や数式を包括する。
数式の主語に自然があり、数式を性質として拾う言語があり、言語を感覚として拾う感覚がある。
方法へと還元するためには数式を感覚にまで抽象化するが、数式の概念が具体的であるほど
言語や感覚は共通した数式による方針を持って明確化し方法への還元性が向上する。
現象は五感から感覚的に抽象的解釈して言語、数式と具体的概念へと分解すると同時に
概念の粒子を細かくすることで複雑な概念構造として再構築し方法へと応用できる。
感覚で善の連なりである公理を築くことは重要だ。
我々は外界から情報を得るとき感覚的記憶を得るが記憶がまったく整理されないままでは意識が判然としないカオスに陥る。
我々は生命の理性を紡いできた記憶から生存に適する善悪の基準が他生物と比べ綿密で正確なものとなっている。
善悪の判断はいわゆる知性であり、あらゆる善による記憶の結合(純質記憶)から公理を持ち
それが自身を支える記憶体系としての自我同一性となっている。
何が善悪か論理的に判断できない状況においても生命の理性により「感覚的」に回答を見出すことが可能である。
生命の理性は必ず生存本能に基づき高度に発達した人間の理性においても善悪の生存に適する根拠に持つ。
善悪とは自らの生存可能性であり、究極の善悪基準が何かは生命の記憶であるため明確化されることはない。
これは論理的な方法ではないため確実ではないが善による感覚記憶の整理は難題へのアプローチを示すものとなるだろう。
定義から定理を得ることを感覚的に行うとは
論理的な反証をある程度受けることになるが非論理的な感覚を紡ぐことも悪いことばかりではない。
非論理的と感覚の善による結合を否定してばかりでは自我はカオスから成長しないと思われる。
細部が感覚的な結合してある程度体系が出来上がってから論理的否定し結合を解いた記憶の分子から体系化する態度が中庸である。
生存可能性は経験則であり、生存への真摯な態度を知ることが感覚記憶を結合する態度となる。
論理とは対象の不当な結合を無限に分解するものではなく、
ある程度分子の大きさが不揃いの記憶を並列化し整理をするものであるべきであり、論理と非論理の中庸が生存に適する態度と言える。
個人の善悪と世界の真偽は全く違うものである。
行動(外界)の感覚化、感覚の言語化、言語の数式化、そしてその逆も試行する態度は重要と思われる。
世界と個人を天秤に置く論理を超えた判断をするべきである。
そして神や社会や人間など信仰する対象が自我を成長させる。
自我は知識を欲し内容の真偽に関わらず、知識を知性化し知識を再構築する過程で自我を構築する知性を得る。
真実と虚構を含む情報は知性化すれば純化し自我の一部となる。
自己の美学に基づき外界、感覚、言語、数式などの情報を受け入れ追求する態度が重要と言える。
信仰する宗教、記憶として得た外界、明確化された感覚、専門的な言語、難解な数式など
美学的感情を得る自己表現の場が自我を支持する生命力となるだろう。
主語と述語の演算による質料の変化は主語の形相(可能性)に述語が含まれる場合に正当性を持ち、言語はこれを示すものである。
質料の一部の形相が目的の性質と等価となったとき言語は上位概念化する。
アリストテレスは目的を含む質料をデュナミスといい、目的を得た質料をエンテレケイアと呼んだ。
つまり言語における主語のデュナミス(可能態)が何かを措定することで述語のエンテレケイア(現実態)と等価となり、
目的を得た言語は上位概念化し方法の空間へと結合できる。
つまり、言語の目的は質料の形相に含まれる可能性の措定である。
質料は性質であり物質は性質の一部だと考えると目的は性質であり、言語空間の質料は性質であり物質には固執してはならない。
質料はそれ自身では運動せず、作用因を持つために性質が振動し形相となり目的と等価となる。
つまり主語の可能性を措定するためにはどのような作用で目的の形相になるかを知ることである。
そして言語という質料(Ιδέα)の形相(είδος)である、可能性(δυναμις)を
目的(ἐντελέχεια)へと純化(सत्त्व)することで先言措定(ὑποκείμενον)を完遂し創造主の純粋言語となる。
プレミアムなのに全然つながんねー
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以上を踏まえて新たな言語による論理を構造してみよう。
まず目的を得ることが目的であるため等式の右辺は任意の変数である。
左辺は質料と作用と形相の項を持ち、質料に作用することで形相となるため質料と作用の関係を形相と呼び、
左辺は形相の式であり、形相=目的となる方程式である。
ちなみに形相の可能性としての目的であるため、形相∋目的、質料∧作用=形相∋目的となる。
作用は人間による作用のみではなく環境による作用も含み、質料と目的は性質であり、物質は存在ではなく性質であり、
人間の認識としての物質は不正確であり、
数の性質のみが正しい(性質も不正確だがこれはアンチノミーとして判断停止)とすることで汎用性を高める。
物質は数の積分、性質はテンソル、論理は方程式、人間は論理の集合である定義したマトリクスで成り立つなどのイメージである。
しかし、この論理自体が人間の下位概念であるということを留意してほしい。
そして目的を得るために目的を形相と質料に分解し、善の知識・知性体系で等式を完成させることで先言措定により純粋言語となる。
善の知識・知性体系とは知識の知性化し自我と知識に述語を持たせることであり
存在の値を知り得ない人間はある程度カオスに身を投じるしかないため主語と述語による結合が必要となる。
数の性質、カオスの定理、主述の結合、方法への結合、四原因、先言措定により物質化する純粋言語となる。
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言語の自然定義を四原因と先言措定から求めよう。
まず言語という質料は「記号」であり、作用は「人間の使用」である。
質料の「記号」の先言は「物質の形状」であり、作用の「人間の使用」の先言は「人間の性質を持つ事物」である。
つまり形相は「人間の性質を表す物質の形状」であり、さらに先言において自然定義を求めるならば
「表す」とは「暗号化と複合化の機能を持つ事物」であり、暗号化する人間と複合化する人間の間で成り立つ。
「暗号化」の先言は「存在の配列の特徴化」であり、「複合化」の先言は「特徴化された存在の配列の感覚化」である。
「感覚化」の先言は「感覚として受け取った記憶の善悪化」である。
よって、言語の自然定義は「存在の配列の特徴化による人間の感覚化される善悪の性質を持つ物質の形状」である。
言語の目的は「人間の善悪の知識化と知性化による人間の性質の変容」である。
これにより、言語における質料、作用、形相、目的の存在の値の最大値を定義する。
目的と形相が同値となったとき命題は解決する。
簡易な論法としては質料を物質、作用を行動で定め直接的に形相を経験上の感覚的解釈で
「人間の性質を持つ物質」として定義域を求めてもよいが、
目的である性質の定義は数の性質を意識した方がよい。
なぜなら、前者は明確な定義よりも可能性を求めるデュナミスであり、
後者は明確な定義により性質の解釈可能性において汎用性を高めるためである。
これが方法を得るために論じる態度であるが、簡易な論法であるため比較的情報量の多い空間でのみ有効である。
目的の形相を求める方法において主語と述語の結合を得ることも重要である。
目的を質料と仮定し、形相を得ることで擬似的な主語と述語が完成し、一文で表される言語空間となる。
参議院選挙までの民主党政権の政策遂行能力と、今回の参議院選挙結果について、あなたの思うところを書きなさい。
400字以上、民主党がマニフェストで掲げた具体的な政策を取り上げて書くこと。
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質量と作用を形相にあらわされる2変数関数としたときy^x=f(x,y)であり、形相と目的の関係はf(x,y)>gとなる。
または質料の配列としてlim[A→∞]Σ[i→A]f(x_i,y_i)ΔS_i=y^x>gである。
万物の形状はフーリエ積分で表され、形状の形相をとったとき複素関数上の
z座標をλ座標に写像を取り形状の性質としての意味が表示され、多変数複素関数において質料の配列までの形相を得る。
目的gにおいて、その関数は主にベクトルで表示され、
目的と形相の一致(f(x,y)=g)となるとき形相の逆変換から質料と作用に分解できる。
しかし、作用因は不定とするため経験則を純化した勾配gradf(x,y,z)=(δf/δx,δf/δy,δf/δz)において
ヒルベルト空間上のベクトル性質から力学的性質により空間の現象を格納するテンソルを得る。
質料の配列はアンチノミーであるが質料の配列の性質は力学的性質に格納されると仮定し人間、物質、環境をその比喩としたとき
作用は物質の光子交換、人間の強い力と弱い力と論理、環境の角運動による変化としての作用にほぼ一致する。
質料は古典力学の信憑性から認識上の物質と措定し、g(x)とf(x,y)の形相を4つの力によるものに限定できる。
さらには人為的なものか自然的なものか電磁力か弱い力か強い力か重力かを状況によって限定することは難しくないため、
存在としての形相を条件別に視覚表現することが可能となる。
目的と形相の視覚表現により主語と述語という文章の物語性が発生し解答を得る。
人為的なものと措定したときは同じく四原因の性質から関数表現とすることで
gof=g(f)の写像により合成関数を得ることで人間を力学への解釈へ持ち込むことができ、物語性の力学的解釈に成功する。
形相の視覚表現は質料と作用の高階テンソルに表される。
視覚刺激の閉曲面においてガウスの定理による∫A_ndSの面積分において形相の質量的表現となる。(@)
視覚表現の作用的表現は主に人為的なものであり言語空間のスカラー場の計量テンソルg_ijにより得られる
ベクトル空間であるため視覚化することはない。
だがその作用が得られる空間解析を人為的解釈により行われる。
人為的解釈とは感覚と時空準拠の解析作業であり変化をもたないバナッハ空間の
感覚成分をポテンシャルとしたフラックスと粘性からなる
σ_jk=η(dv^i/dx^k+dv^k/dx^i-2/3d_jkdv^l/dx^l)+ζd_jk(dv^l/dx^l)を二階テンソルに写像を取る。(A)
@Aより形相となるが目的となるのは言語空間によるものなのでAに存在する。
しかし、質料的表現にインデックスを質料により視覚表現としたとき単に勾配として表される。
これが意味づけ作用(メタ)であり性質化する数値と同様の意味を持ち言語空間が無限次元空間となりうる理由である。
よって質料表現は計量マトリックスに格納され勾配として目的と形相が表現される。
視覚表現上、複素関数の経路積分を形相、非正則の極が目的の質料表現とされる時都合がよいと思われる。
よって形相と目的の視覚表現(擬似空間)は∫f(z)dz=2πiRes(f,aj)となる。
知識とは概念の形相であり、創出される知識と説明される知識に分かれる。
創出される知識とは概念の形相をとったとき更なる下位概念において新たに質料と作用の組成を得た知識である。
説明される知識とは既存概念の知性的解釈により既に解釈された領域の質料と方法へと下位概念化した知識である。
どちらも質料の形相であり解釈領域内の目的となりうるため、目的の知性化に成功する。
樹形で表される概念は根本に善悪の二元が四原因を構成し、全ての概念の知性となっている。
知識の先言措定の過程で下位概念における創出される知識が得られる。
同一の質料か方法であるため創出される知識は形相の領域内に得られるため目的という可能性を得ることになる。
質料準拠の視覚表現モデルでは知性化する目的と質料(目的は目的とする質料のため質料と恒等となる)の可能性に表される
境界条件である形相を得ることになり、ガウス平面上の閉曲面に関して留数を目的とした経路積分ができる。
非観測の事象における視覚表現化は知性の表現となり、思想の定義となって述語の措定を可能にし
時間軸上の主語と述語(物語性)を得るためのものである。
質料=知識、作用=知性、形相=主語、目的=述語、文章言語=文章主語+文章述語
A=文章言語、B=時間、f:A→B、f(A):={f(a)|a∈ A}、f(A)=Bのとき、文章言語=創造言語(言語)=方法(表現措定)
目的の領域=質料の可能性(領域)=形相
目的(目的とする質料)=質料
視覚表現(質料⇒形相⇒目的の下位概念化)
ΔS=形相成分、x=質料、y=作用、lim[A→∞]Σ[i→A]f(x_i,y_i)ΔS_i=形相
f(z)=形相、∫f(z)dz=2πiRes(f,aj)=目的