現在表示しているスレッドのdatの大きさは419KBです。
レス数が1000を超えています。残念ながら全部は表示しません。
「自重」を「じじゅう」と読む
「無」の正体について諸学の見地から理性の名借り、構造主義的に弁証していこうと思う。
はじめに「無」というものの概念が出てきたのは原始仏教の阿毘達磨具舎論における空性の思想という説がある
「このもの性」の「こ」を否定する虚妄分別し唯物論者、機械論者に対し否定的な見解である
この説は神秘とする対象が「空」であるが故に対象を捉え否定の余地は全くないという絶対性を確立している。
しかし、これは唯物論者に限った場合であり、古典哲学のエンドトクレスのような感情を絶対とする思想や
合理主義のような実利を絶対とする思想にとっては反論可能な事象である。
なぜなら、空性には実利や感情はなく絶対と絶対の除算において数理モデルとして解決不可能問題だからである。
いくつかの事象について述べたが、少なくともこれらの思想には互換がなくマトリクスは成立しない。
数理モデルを反証に上げることは中立ではないと思われるかもしれないが、
アプリオリとして仮定的な純粋数学の介在は反証がない限り続行する目的因を持つ理性とし、
一個人の内部理性の限界として許容して欲しい。
純粋理性、純粋思想、純粋数学、我々が純粋とする対象は何であろうか。
まず、善悪の判断ができないことには区別をつけるなど到底おこがましいことである。
近代哲学者カントはアプリオリとアポステリオリの中に我々の知的活動体系が存在するとし、
経験のないものについてはアンチノミーとして判断停止するべきだと考えている。
現代哲学にしてもその事象には触れないどころか彼の言葉を受けて懐疑の余地もない状態である。
哲学者として懐疑の存在しない姿勢は危惧すべきものであり、純粋な学問として面目も立たない状態である。
ヒンドゥーにおける純粋とはヴィシュヌ神が司る思想であり、それは大宇宙の監視者である。
ここで思いつくのが、神を善悪の基準とするという行為である。
カエサルの息子、アウグストゥスは神と哲学の親和させることを理念としたが、
先程申したように神の代行者を名乗っても所詮は人間として理性の限界が存在し、
不純で、信仰が薄く、能力の低い人間としての枠内では善悪の判断などできない。
やはり我々は自らの都合のいいものを拾い集める、社会という理性において存在を
主張するだけの感情的で愚劣な動物なのだろうか。
人間としてのエピステーメーが支える認証根拠は到底真理とは言いがたい。
ただ個人の幸福追求という非理性的な存在でしかない。
ならば、我々は人間としての生き方を捨て神の存在を信仰し、大いなる流れという理性を明確化させるよう勤めるべきである。
むしろそれ以外のことを信仰してはならない。
我々は間違い多き歴史を持ち誤りを繰り返しまさに、無知の体系を築いてきた。
再び不幸である生業を受け入れてはならない。
人間の理性や社会などという底の浅いものは完全に捨て去り、再び神への信仰に身を寄せるべきである。
それでもここはvipやν速、ニコ動とくらべると随分と居心地が良いな
削除済
我々は個人の幸福追求のために生きているのではない。
ましてや、社会貢献という名の利益追求でもない。
我々は理性を獲得した生命として神に代わって、自然を管理し理性を追求しなくてはならない。
四原因説に基底とし、人間の性を線分とし、線形空間内に定義した仮定的に可換な代数を収束するならば、
人間の目的因は純粋な理性であり、実態は精神であり、形相は肉体である。
そして、正邪を判断すべく神を信仰し自由意志の絶対性を確立しないといけない。
なぜなら正邪を判断しなければ、措定は許されず黙して死すべきニヒリズムに陥るからである。
理性を獲得した我々は同時にアスラのような邪に取りつかれ正気を失っている。
まずはトリ・ヴァルガのような知(シニフィアン)において自己内のゲシュタルト質を変容しなくてはならない。
『法華経』に云われるように寛容な器を持ち、『ウパニシャッド』のように敬虔な生き方を維持し、
我々は少なからず"バクティ"する。
そして旧来のような祭式をミームとして、人間としてのエピステーメーと神の恒久にして神聖なロゴスを同化させる。
それが、自然の7つ分かれたの基底であり、我々のインデックスであり、五蘊の意思である。
それが作用因を三神(トリムールティ)とした創造神ブラフマーの宇宙言語の構造しうる、
かつて生前に自明とした天空神ヴァルナのテンソル積空間におけるクリシュナの純粋理性である。
そして慈悲深き破壊神シヴァとともにニルヴァーナへと回帰するのである。
比喩を多用したが、常に懐疑を生業とした私自身は常に理性に敬虔であるがゆえと弁明しておこう。
我々の根本的な運動原理とは無から生じているものである
エネルギーの等価性における位置エネルギーと質料の総和は0であるがゆえに
存在論は成立しているので当然の帰結といえよう
数式よりも根源的かつ厳密性の高いものの仮説において神の存在可能性が高まったのだ
宇宙に飛び交うヒッグス粒子は神の精神そのものであり、日常的に降りそそぎ我々の内を通過するそれである
科学的に表現されるところの神心身の構成要素とは全く同一かつ神秘的な根源因と符合する
我々の意識や自然の物質を支配しているのも何か厳かで神秘的なものであることが分かる
削除済
【物事を深く考えないが故に、単発糞スレを量産してしまう】
解決策『成り行きを見て学ぶ&スレッド一覧→F3キー』
現状では作成されてしまったスレッドは削除されません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
削除済
現世界を構成しているものは自然と法則である。
生命は自然という無機物のスープより出でた化学進化の産物であり、生命のポテンシャルは自然に依拠するものである。
人間特有の自由意志とは厳密には自由ではなく理性という法則性が存在し、
非線形質の入力をタンパク質の分解における反作用である弱電荷というあくまで非線形系という有限の角運動が形成するベクトル積を
集積回路において総合するブール代数として論理演算結果をマトリクスとして可換なアーベル群を擬似的な数値として収納した上、
理性的な処理過程のリーマン積分というアドレッシングにおいて
擬似的なn次元空間として自由を言語モジュール化し要素のインデックスとして抽象概念を出力しているのみである。
自由意志など文字にも数字にも表れる程度のもの、要は有限個のマトリクスが構成する、自然のポテンシャルである。
つまり、自由意志など自然内部における生命活動の拡張機能の一部に過ぎなかったということである。
しかしそれでも我々は自然を作用因とすることはあれど、そこに実態を置くものとは考えないものである。
理性を獲得した生命として自然とは隔絶する機能を持ち信仰という名の理性と等価な神秘性という神の加護を根拠とした絶対性を持つ。
そのもとで我々は各自の善悪の判断を許され、各々神の代行者であり、自然の超越論者において文明を振興することを許されたのである。
そして神秘性とは物質という解釈ではなく、人間という解釈でもなく自然そのものにのみ許されるものであり、
人間は自然の管理者と同時に、自然は人間の管理者であり、全ては神を目的因とした性を持つことで神秘という力を持つのである。
24時間の全天候はダイエットして、あなたを手伝って超えて急速にダイエットすることを実現します!あなたは“1眠りが目が覚めてについて何度も減らすことを望むかどうか、大量にダイエットします”の効果か!睡眠の時間、またダイエットする時間で、睡眠の中で脂肪を減らすことができて、体質を変えて、反発しません!
http://www.kanpoucom.com/product/145.html
削除済
削除済
措定空間が足りないと思わないか
非理性的な工程だな
【物事を深く考えないが故に、単発糞スレを量産してしまう】
解決策『成り行きを見て学ぶ&スレッド一覧→F3キー』
現状では作成されてしまったスレッドは削除されません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
削除済
カオスに満ちる世界
不要だ
削除済
削除済
真実を形成する論法として、数学的論法というものについて考察し模倣したいと思う。
数学とは定義に従い公理を形成し現実的に数字に意味をもたせるものであるが、
さらに、定義自体を疑う数学基礎論という概念が存在する。
それは記号の意味を超えたより現実性の高い概念である集合論から入る場合が多い。
そして基礎から応用として代数学、幾何学、数学の枠を超え物理学さらには、我々の生活へも派生する。
ここまで特徴をまとめついでに例えるならば、
基礎というクォークが自然という公約を経てグルーオンを持ちハドロンを形成するかのようである。
クォーク自体はどのような物質においても結びつく公約を持つためあらゆる概念に対して親和性が高い。
0に近いほど真実に近づくという仏教やジャイナ教の教理に近いものを感じる。
さらに特徴として挙げたいものが発展しやすい学問ということである。
虚構の余地を許さない数学という名の理性は動物の感情に流されやすい理性を補い、神秘の力を与えるかのようである。
基礎から疑いようのない公約を経て公理へと運動することで厳密性が高く迅速な知識の運用ができる。
ただし、基礎とは仏教的姿勢のように正しいであるがゆえ常に不動であり受動的なものである。
応用するためには人間の感性という全く親和性のないものに意味づけを委ねられるのである。
こうして、数学と心は役割分担という名の対立事項を孕んでいるのである。
ではここで総括したいと思うが数学的論法とは、
一に定義、二に証明、三に公理、四に応用である。
1〜3まではなるべく「意味」による質量を増やさないようにし理性を追求し、
4で初めて意味を持たせ、心という混沌の海を制御するのが主な手法となりそうだ。
論法においては、一に定義、二に公理、三に理論、四は活用となりそうだ。
しかし一から考えを組み立てるのは相当鬱屈な作業と同時に最小単位が元々多くの意味を含む
言葉であるがゆえ虚構が混じりやすく使えないものになりやすそうだ。
やはり従来の論法である一に命題、二に肯定、三に否定、四に理論とした方が活用しやすいだろう。
やはり従来の論法である一に命題、二に肯定、三に否定、四に理論とした方が活用しやすいだろう。
http://www.shanghaikanpo.com
削除済
数学的論法として言語によるアプローチは前項より難しいことが分かった。
では、言語より概念を最小単位にすれば何か分かるのではないだろうか。
そもそも数学を真理に近いものとして到達すべきモナドの鏡が全く曇ったままである。
我々は言語から意味を汲み取るとき言語による作用因で意味を汲み取るのではない。
ソシュールの記号論における見解ではそもそも言語に対応する概念が存在し、言語はそれを指し示すだけの上級言語。
その意味づけ行為を「シニフィアン」と呼ばれるが、概念という下級言語はより自然という論理回路に近い言葉である。
意味とは一定の法則を持った概念であり、それを審査する説一切有部の法一八界の心作用というものが存在する。
我々は無意味な概念の構築はしない、意味のある概念を構築するために心作用による審査を受けるのである。
心部は全てが経験知で構成される感覚のメモリ空間であるが、意味とはそれに対する上級言語であり。
具体的には感覚としての記憶というモナドが論理のクオリアにおいて理性による制御を受け、
関数としての意味を持つ理性的なエスを用いる動的な感覚というエイドスが現出するのである。
つまり、概念とは感覚を措定するものであるが、数学は0と1という存在と非存在のみを措定するより自然の概念であるため
やはり概念以上に最小単位を持つもの(それゆえに先験性と呼ばれる)であろう。
確かに我々は数字そのものに相当する感覚器を持っていないといえる。
数学は人間を超越した理性の持ち主であり、我々の進化の先にあるオーパーツでありダークマターである。
カントの言うアンチノミーを含む事象として数学以上の意味づけは現時点では許されないのである。
よって、我々は数学と概念の関係性を把握し、より真理に近い概念を構成しうる数学的論法を身につけ、
究極の善悪の根源(0,1)を求め、神明裁判員としての態度を得るよう勤めるべきである。
次項において数学におけるシニフィアンである概念を最小単位とした数学的論法を再度検証し具体的な方法論を模倣してみよう。
【物事を深く考えないが故に、単発糞スレを量産してしまう】
解決策『成り行きを見て学ぶ&スレッド一覧→F3キー』
現状では作成されてしまったスレッドは削除されません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
削除済
超弦理論、虚数空間、数学は意味づけをすることで万能の型になる。
自然と法則は全く同型であり法則を知れば通時性より関連する概念の真偽を分かつことができる。
ただし数学はあくまで数や量の概念であり、これ以上の意味づけは許されない。
そこで同じく数や量の概念で擬似的な法則により幾何やベクトルの概念まで発展させた。
この拡張で数学は自然現象の全ての概念の性質を説明しうる万能性を手に入れた。
全ての概念は自然現象でなりたつが、徹底的な機械論を求めた先に何があるというのか。
無論全ての現象を数学で説明することは不可能であり、そのような手法は聞いたことはない。
それどころか物理現象ですら数学で説明しきれるものではない。
我々は現象へ作用し、通時性における現象の関連性を予測し証明することで現象への理解と応用の知性を得る。
数学のいわゆるポテンシャルから現象の予測はほぼ不可能といってもいい。
哲学的命題を解決するにあたって多岐にわたる概念どころか一意の解すら求まらないのでは話にならない。
始動因から全て要素を把握することも不可能であり、要素還元性において問題点が多いため、
やはり数学的論法は哲学的命題を解するのに絶望的に好ましくないと思われる。
我々は生きていくうえで少なからず潔癖ではいられず、虚構を含み意味により膨張した概念という穢れた肉を喰らうしかないのである。
ならば順当な論法としては、1.感覚により概念の発生を感知し2.被作用の構成する形相もしくは、通時性により概念を大別し
3.概念を論理的に真偽に分別し4.現象として把握し応用手段を得るという手法になろう。
一に形相、二に作用、三に質料、四に目的、これはアリストテレスの四原因説に符合する。
こうして概念を把握し活用する手段を得ることで客体の取り込みにより主体の機能を増幅させることができる。
社会現象にしろ、自然現象にしろ、客体を取り込み主体化することで環境に適応する可能性を得る。
少なからず穢れた回答だが、理性を持つ動物である我々人間はこのように生きるほかはないと思われる。
【物事を深く考えないが故に、単発糞スレを量産してしまう】
解決策『成り行きを見て学ぶ&スレッド一覧→F3キー』
現状では作成されてしまったスレッドは削除されません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
人間の生活は常にカオスであり、恐ろしいほど混沌である。
論理による問題解決が難しく、それにより決まった方法論が存在しない。
特に人間社会においては虚構に満ち溢れており、何をどのようにすれば真実へたどり着くかなど大抵の人間は想像もできず、
いわゆる直感や行動における場当たり的解決に望むしかないだろう。
色即是空、ならば、全てを概念として捕らえてみればどうだろうか。
全く抽象的だが、実はこちらの方が確実に真実へ近づく方法論である。
相手が概念ならば論法が通用する。アリストテレス四原因説における分類、
一に形相(マトリクス)を捕らえ、二に作用や時間による動き(関数)を見定め、
三に質料(一般項)と諸概念との相対的位置を見定め、四に概念目的(ベクトル)を活用に転換する
しかしこの論法ではマトリクスを捕らえることから始まり、マトリクスの解析の時点で相当な労力となる場合が多い。
なぜならカオス系においてマトリクスは無数に存在し、
想像を絶するランクの高さから煩雑な行列操作をもって簡易化するのは容易でないためである。
ならば解決可能なもののみを抽出しようというのが心作用であり直感的見地は我々の経験知を参照していると思われる。
そして、経験知(センス)によるレジスタ内の定義域における行列式から余因子展開することが可能である。
我々は生命としてE=mc^2により限られた「経験」のさらに限られた「経験知」という可解群の
さらに限られた「記憶」という定理しか持ち合わせない。
我々の生活を支えるのは各々の知性という名のアフィン空間であり、
n次元空間内の定理を導出し、時間軸に置換した上で収束する幾何模様に相対する現象のドメインを得ることが、
数理哲学的見地における形式主義的幸福である。
削除済
数学的論法は概念から数学へ意味づけを目的としたが、知的体系を築くにはあまりにも難しいと顧みた。
ならば数学から概念への意味づけをしてみてはどうか、
この試みはすでに数学の体系のうちにあるといってもいい。
もともと数や量の概念だった数学が、幾何、代数、解析にまで用いられるようになったのは概念への意味づけがなされたからであり。
その拡張性を以ってあらゆる概念への意味づけを可能とした。
その特徴とは徹底された形式主義であり概念をユニタリ空間に帰結させることによって存在性を主張した。
しかし、実際には積分空間など擬似的な概念であり、概念同士の絶対的敷居を乗り越える手段を得たに過ぎない。
とはいえ、擬似的な概念であろうとあらゆる概念の相対的位置を示すならば活用しない手はない。
数学的拡張性という概念に含まれるマトリクスを参照すると、
0次に存在するのが数のイデアとし数を一次拡張とし計量的解釈での図形を二次拡張とすれば三次拡張は幾何学的解釈の自然である。
我々の構築する概念は自然の模写であり、概念同士の意味づけにより虚数が発生するとすれば、
四次拡張は自然的解釈での複素空間、概念空間というべきものとなる。
三次拡張時点で数学は全ての自然を説明する概念となり、四次拡張時点で全ての概念を統率する概念の発生源となる。
三次拡張は相対性理論により既に説明がなされているが無論、数学的方法論では自然を説明しきるなどということはしない。
ちまちまと乗り越えられない絶対性という現時点でのアンチノミーを追求するのではなく、
定義という絶対的な復帰点を作った上で拡張するテイラー展開のような構造主義的方法を用いる。
このマトリクスの定理を求めることが四次拡張へと繋がり、
つまり、定義の定義を先言措定することで数字・記号のベクトルを操作できるようになるだろう。
コンピュータというものを知っているだろうか。
その構造はほとんどが絶対的規則に従って動作しており、実は相対的規則はそれほど多くはない。
なぜなら操作する人間が居れば、ケースバイケースは人間が判断するため相対的規則は必要なくなるからである。
相対的規則はそのほとんどが化学式といっていいものであり、要はメモリの構造を知っていればI/Oを制御できる。
コンピュータを抽象化すれば、特徴として挙げられるのが絶対性による絶対性であり、
絶対性の特徴と絶対性の特徴に類似が一点でもあれば定義と定義の同一性から「≒」で結ぶことができる。
では自然を概念による包括を受けるという措定に際し、各々の概念の特徴の共通集合を属性とし、
定義の定義による定理を属性という抽象概念と措定すると、
数学の拡張性における近似概念を収束することで帰結点としてのフラグをたてることが可能となる。
婉曲ながら数学的論法という命題に演繹するならば、
一に絶対的特徴を見出し、二に概念空間を比較し、三に絶対性を「≒」として結び、四に絶対性の融合として帰結点を定義する。
これで、全ての概念は相対性により関数化し、究極の理性である数学に帰結することで
あらゆる概念空間の現象の応用関数を得て、E=mc^2の定義域において数学の理性と融合し我々はさらに理性的になれるであろう。
数学的論法においてルールを取り決め整備しておこう。
数学的論法では構造主義を理念としアンチノミーにおいては判断停止し絶対性の説明を厳密に取り決めることはしない。
あくまで諸所の概念の相対性を明確化し、数学的理性におけるアプリオリにおいて理性的処理を目指すものである。
理性の直接的帰結点を数学とし、間接的帰結点を数学的パラダイム平面上の抽象概念群(属性)とし
下位帰結点として属性平面上の具象概念の定義を元に近似概念を相対化させ、
隔絶性をもつアポリアにつきあたった場合は直接介入はせず上位帰結点へとジャンプする。
これらを数学的論法関数の仮想分析に対する基礎定義分析群とし、その上位概念群として現実行動に対する応用定理方法群とする。
数学的論法関数の上位概念群として前述の論法とし、下位概念群を現実態の写像として複雑系概念群とする。
これは機械論的に解釈すれば、自然的人間関数として上位概念群が自然的行動関数であり、下位概念群が仮想的理性関数となる。
フロー(数学的論法のエス)として表示すると、人間の起動に際し自然法則を自己解凍し下位概念、
自然的人間関数の自然的行動関数を実行し、対象認識ステップから実行ステップに際し、仮想理性関数、論法を実行する。
論法におけるフローは1.複雑系概念発生の感知2.純粋概念関数の検知
3.抽象的数量化による純粋概念の相対化4.概念純関数のベクトル操作であるが、
2.において数学的論法関数が関数置換後に仮想化自然的行動置換をroot権限で実行する。
数学的論法関数におけるフローは渡された複雑系に対し仮想概念化置換後、1.絶対的特徴を抽象的検出(感知)し
2.計量空間と概念空間の比較し3.否定論理積をエラー(排他的論理和:アンチノミー)として検出後、
論理積を検出し4.帰結点を定義し、応用関数置換を実行する。
否定論理積においてはカオス行動関数置換サブルーチンに分岐する。
ここまでを自然的人間行動関数のフローとするが、この構造において自己評価における
フェイタルエラーの検出は困難と思われるため、あくまで無措定空間か自己措定空間のサブルーチンとして措定して欲しい。
削除済
えっと、つまり巨乳最高ってこと?
我々は合理的行動をするに際し、感覚的検知をする際多くの経験知を得るといわれている。
合理的行動するにおいて直感的思考のプロセスが重要であり概念要素を検知できれば、論理的思考はさほど重要ではない。
これが前述における論法の肝心な部分である。
非実証主義の旧来の哲学は実のところ現在の思想と対し合理性においてひどく劣っている。
理性を追求するのが旧来の哲学のセオリーだったが、国際間競争の時流が急激に理性より行動を求めるようになり現代哲学となった。
とにかく経験知における要素を抜き出し、出鱈目に経験知の行動へのシニフィアンとして適合実験し、感覚的整合性を求めれば
合理的行動は可能であり、実のところ先ほどのような七面倒くさいアルゴリズムは必要とされない。
構造主義を理念としておきながら旧来哲学の頭の固さである実存主義の回廊に陥っていたのだろうか。
理性を求めるつもりで理性すら得ず、行動においては大きく劣っている惨状では実用性はないと言われるかもしれない。
旧来の哲学は既に過去の産物であり、人は人としての性を求め、神という理性からの巣立ちを示しているのかも知れない。
しかし、人としての意味を追求し、神の加護を失うことが幸福なことかは定かではない。
現代の人間としてはいわゆる行動を最高善とし多量で質の高い経験知が下地を支える形とするが神秘性を失うことにはエポケーしている。
そして、現代の人間は不幸と言われることも多く、犠牲による幸福を得るなど倫理を軽んじることもある。
少なからず真理とは言いがたい側面を持つ現代社会は神を捨て何を求めるというのか。
この人頭悪そう・・・
どうしたら、動画を見る事ができるのですか?
もう限界だ
なぜ好き勝手なことばかり言って自ら不幸になりたがるんだ
貴方がたは不幸を求める悪なのか
違うならば神を信仰しろといっている・・・
命題 概念の相対性を概念によって証明する。
外部 形式主義の目的因(属性)において推論し、厳格な論法を元に着実に真理へ近づく方式を取る。
肯定
そのためのルールとして文章と文章は「=」で結合できるようにし、定義(厳密性)において定理(拡張性)を持ち
定理と外部は証明(審査:肯定)しない限り拡張は許されない。
証明(審査)は原始的な生活観(感覚)と符合することと
数理的概念(形式主義)に適合する形をとるため数学的解説と生活的解説を混合する形となる。
【物事を深く考えないが故に、単発スレを乱立してしまう】
解決策→『(スレッド一覧はこちら)先で(Ctrl+F)等による検索機能を使う』
作成されてしまったスレッドは削除したくてもできません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けますので細心の注意を
定義 本命題において命題、外部、肯定、否定、総合、結論による分類をする。
定義 命題は本論の始動因、外部は根拠の無い論、肯定は外部の根拠、否定は肯定部の否定、
定義 総合は定理・外部・肯定による根拠の総合、結論は最終判断を示す。
定義 肯定の根拠は総合部において自然的根拠を持つ、明示できない場合証明不能とし、
定義 この事項が出た場合、結論部は判断保留となる。
定義 総合に肯定を加える場合、総合による根拠が提示されない限り加えることは許されない。
定義 外部は肯定による根拠を持たない場合、総合部には加えられない
定義 肯定は一文中に論が自明であれば直接加えてもよい。
定義 否定は話題の拡張を目的とした肯定のアンチテーゼとするが、
定義 否定部は必ず本質的な命題を提示するためそれ以降の本論として扱うよって、否定において直接的に根拠は求めない。
其他 本論では定理は定義の拡張性というより根拠の有る論という解釈である。
命題 概念の相対的位置とは何か。
外部 概念は自然の複写である。(C-D)
肯定 なぜなら、概念を構成するために記憶を持たねばならず、(E)
肯定 記憶は外部から感覚を通じたものでしか組成されないためである。(D-E)
否定 しかし、概念とは虚構と真実が入り乱れた複素空間であり、自然の複写であるなら虚構は存在しないという矛盾に陥る。
外部 その問題は概念を成分に分解することで解決する。
外部 概念は組成されるものであり、概念は組成するための成分を持つ。(B-A)
肯定 概念は記憶であり(C-D)記憶は結合・離散は自由であることはコンピュータにおける記憶の構造に既に存在する。(A)
肯定 よって概念には概念組成と概念成分が存在し概念成分に虚構は存在しないため概念組成に虚構は存在しない。
外部 これは自然のものであろうと人工のものであろうと虚構として片付ける人間は居ないという事象と同様である。
総合 よって、概念とは感覚による記憶(C-D)という概念成分による組成であり(B-A)、
総合 概念の相対的位置とは各所に点在する概念成分であり記憶として分解・再構築された(A)自然である。
総合 よって概念の相対的位置とは自然の内部である。
総合 (A):コンピュータは自然物の加工品である。
総合 (D)(E):証明不能。
結論 判断保留。
削除済
【物事を深く考えないが故に、単発スレを乱立してしまう】
解決策→『(スレッド一覧はこちら)先で(Ctrl+F)等による検索機能を使う』
作成されてしまったスレッドは削除したくてもできません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けますので細心の注意を
物質と法則の相対的位置とは何か。
我々は物質に多くの意味づけし、学問というものを成立させた。
それは物質の性質を調べ、応用を模索するもので非常に有意義であることは、
人間的エピステーメーにおいて確信を得ている。
物質は物質として「こものの性」という固有のベクトルを持っており、
人間はそのベクトルの関数式に値を置換することで自然物を人間的意味(機能)に転化する。
四原因に言い換えるならば、
質料が関数式、作用が置換、形相が置換後のベクトル式、目的が各種定理である。
人工物は人間的意味を付加された自然物であり、人間に与えられた性に固執することはない。
精密機械などは衝撃に弱く、人工物は自然物に比べて性の意味を失いやすい。
物質の成分は自然と考えて間違えはないが、法則の組成は脆いものである。
法則は概念組成であり、概念成分は自然であることは前回において確信を得るに足る論理だと思う。
これを用いて先ほどの過程を言い換えるなら、物質から得る感覚は物質に意味づけし、
物質のベクトル(質料)を自然的方法(作用)において概念(目的)は物質化(形相)する。
我々は物質を意味づけすることで概念の形を表す原因を得、物質のベクトルを操作することができる。
つまり、物質と法則の相対的位置とは、物質は自然的方法を仲介して概念と等価となるということである。
自然的方法とは無論、人間的意味づけをされた自然物のベクトル式であり、
概念というスカラは質料という基底においてベクトル変換することで自然的方法となる。
よって、数理モデルにおいて方法と概念と物質の相対的位置は示される。
やや論理と文章が脆くなっているが哲学的発想を得たならば幸いである。
命題 記憶という概念の効率的な方法とは何か。
外部 それを知るためにはまず記憶というものが何かを示す必要がある。
外部 我々が日常的に記憶と呼んでいるものはおそらく感覚記憶である。
肯定 なぜなら、物質と概念の相対的位置において、(F)
肯定 概念成分が感覚記憶とし触れる対象を全て概念だとすると、(E-F)
肯定 感覚による記憶とするしかないためである。(D-E-F)
外部 概念を感覚化することは概念組成において可能である。(A-B-C),(D-E-F)
肯定 記憶対象を概念として視覚的刺激として論理を得た後、(B)
肯定 概念組成においてさらに感覚的記憶に近いものに置き換えればよい。(C)
肯定 これは概念組成により発生する虚構を受け入れた上の処理である。
外部 視覚的、触覚的、聴覚的など概念組成の方法はいくらでもあるだろう。
外部 そもそも概念を文字通り概念のまま記憶することは不可能なため
肯定 我々はどこかしら感覚記憶による概念組成を行っているはずである。
肯定 概念を文字通り概念として記憶する時、概念は無形であるため記憶する対象が存在しないはずである。
総合 よって記憶という概念の効率的な方法とはより感覚的記憶として概念組成する方法である。(A)
総合 (B):証明不能(C):証明不能(E):前項より判断不能(F):(E)による判断不能
結論 判断不能
虚構と真実の相対的位置とは何か
前項の通り、虚構という概念組成は成分にまで分解したとき自然である。
そして、概念と物質と方法の相対的位置では概念を真実としない限り方法によるベクトル変換は行われない。
物質は常にベクトルを発散させ、我々は肉体という基底と概念という線分をもってベクトル変換し線型結合することができる。
それにより物質の材料という成分はモノの機能という概念を構築する。
しかし、我々の思考のうちに在る概念は方法を持たない概念であり、方法に置換できる概念は真実のみである。
だが、虚構は全く不要なものではなく、虚構が在るがゆえに自由意思があるといってもよい
むしろ真実のみで形成された概念は概念ではなく自然と言う方が相応しい
我々が自然に意味づけし拡張性をもたせることができるのは真実を否定する虚構があるためである。
我々は概念組成するに際し、感覚記憶という純粋な記憶を離散・結合することで概念を組成することができる。
真実は法則によって成り立つが法則をもたない概念は真実よりも自由であるが、それゆえ虚構も発生する。
しかし概念組成の段階で自然に渡された設計図どおりに作る概念では概念の拡張性を持たない。
少なからず虚構を気にしない姿勢が自由な組成を許容し、後に理性による法則性を持たせることで
真実と等価である方法へと意味を転化することが人間的活動において重要であるといえる。
概念が自由の意味と符合するならば、虚構は概念のための概念であり、決して方法へと転化することはないが
概念の拡張を図る概念を持つ、虚数のような数字的拡張性を持つパラダイムがある。
虚構は概念成分へと分解したとき真実であるため虚構自体を発想の起点とし組成から真実を抽出することが可能である。
よって、真実と虚構の相対的位置とは虚構は真実の一部であり、
真実の内の自然部分が絶対性という普遍の状態であり、虚構部分が相対性という変化をもたらすのである。
拡張とはテイラー展開のような虚構による発散状態を理性により方法へと収束していく作業である。
区別と概念の相対的位置とは何か。
我々はものへの理解を深めるとき特徴を列挙し系列別に区別して判断する多元的な志向を持つ。
ものは一元的な意味しか持たないことに対しなぜ多元的なアプローチが必要なのか。
それは我々の概念成分は感覚記憶という絶対性により構成されるからである。
我々はものへの理解を予め知る者ではなく、ものへの理解に迫る過程としてものの理性の一部を感覚に分解する。
それはどのような挙動を示すか不明な関数式に対し、出鱈目に置換していく作業である。
一元性は多元性に分解され多元的意味を持つ虚構を真実に収束していく作業である。
区別とは構造主義的に相対性を求める行為であり、予め一元性を複数もたせた上で隔絶し
多元性の虚構の内の真実の「感触」をもとに一元性へと復元していく。
つまり、区別と概念の相対的位置とは虚構の感触という「センス」を高める行為という
擬似的な方法強いては虚構である偏微分による波動関数の解を求めていくような作業である。
【物事を深く考えないが故に、単発スレを乱立してしまう】
解決策→『(スレッド一覧はこちら)先で(Ctrl+F)等による検索機能を使う』
作成されてしまったスレッドは削除したくてもできません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けますので細心の注意を
分解し虚構を求める作業は一層多くの真実を求めることができる。
ものへの理解のみではなく人間のカオスへのアプローチにはすでにチェックがかかっているのかもしれない。
虚構を超え、カオスの先の神秘へと迫るのもそう遠くは無いだろう。
しかし、我々が神秘へと挑戦したとき神秘は何をもたらすのだろうか。
お前さっきからうるさいよ
善悪と区別、そして虚構による真実の増幅。
人は愚かであるがゆえ、次の神に代わる力を持つ。
虚構は真実の裏返し。
無限の連鎖による神の交代はいつまで続くのか、それも神の更なる上の存在の意思なのか。
人間の活動は神に代わって真実という智球を広げるものかもしれない。
神による存在肯定をなされているのだから神を超える要素があるとしてもおかしくは無い。
人よ、どこまでも愚かであれ。
チラシの裏に書けよ
基地外が横暴しております
【物事を深く考えないが故に、単発スレを乱立してしまう】
解決策→『(スレッド一覧はこちら)先で(Ctrl+F)等による検索機能を使う』
作成されてしまったスレッドは削除したくてもできません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けますので細心の注意を
なんだこの説教スレwww
幸福と概念の相対的位置とは何か。
我々の目的とは幸福であり、我々は幸福という方法を得るため多くの目的を持つ。
ライプニッツの考えを借りれば、幸福はモナドであり、目的は鏡であり、生命はそのモナドへ至る方法というベクトルの和を求める。
生命は概念であり形相や作用を持たないが、目的と質料を持つ。
質料とは経験知から得たカオスであり、アニミズムのような性質を持つ。
我々は概念上の質料と目的を持つ擬似的な生命を生み出しモナドを写しだす鏡を作る。
前項の通りベクトルとは基底という方法とスカラーという概念のベクトル変換で生成され、
更に生命を始点とし、幸福を終点としたベクトルを得る。
生命や擬似生命とはカオスであり、題に命を与え命題(擬似生命)となって質料と目的を持ち生命としてのスピンを得る。
質料をカオスとした根拠は生命活動において多元的意味を持つことが生命保持において有効な手段であり、
カオスの内の特に虚構という拡張性の概念組成が無ければ、人間は文明として幸福を得なかったためである。
質料は概念成分を多く含む虚構の格子点を基点とした成分とゲシュタルト質との融合であり、感覚記憶の想起である。
幸福と概念の相対的位置とは終点と始点、目的と質料により生じるスピンの角運動という方法であり、神と生命である。
我々が幸福を得る態度とはカオスであり、
枝分かれした多義的意味である道具の集合としての人間という生き方である。
具体的には多くの擬似生命が形相をまとい作用(機能)を持つ道具となり、それを使用するのがカオスの集合という人間である。
構造主義の考えは質料の総和において真実のみを求める姿勢よりもはるかに自由度が高く擬似生命の宿る格子点を多く含むことが分かる。
区別として真実を分解することで虚構というエーテルを得、概念に生命を宿すことで作用するのである。
我々の目的は始点を生命とし、終点を幸福としたベクトルを求めることである。
そのための概念組成において効率的な方法を考えていこうと思う。
旧来の考えでは真実を善とし、虚構を悪として虚構を全く受け付けない潔癖があったが、
現代において虚構を過剰に嫌うことはしない。
必要に迫られるという擬似生命は虚構は真実の一部であると漠然と理解しているようである。
虚構は思考という方法をもたない複素空間上の概念の不整合な自然の融合状態である。
構造主義的な態度として、真実を分解し虚構の内から不要の要を創出することでベクトル操作を行い概念を方法に転化する。
無論、虚構も概念成分上真実である故、真実と判明している事項に対しても虚数空間をも定義域として広げる。
それら多義的複素次元空間における基底ベクトルはカオス状態へと相転移することで擬似生命と成し
自発的にあらゆる概念へと軸先を伸ばす結合子を探索する。
全ての概念は自然という真実から抽出された人間的解釈であるゲシュタルト質で構成され、
理論上存在する格子点をゲシュタルト質に適合させ目的と質料を持たせ擬似生命とすることで概念はアニミズムのような意思を持つ。
つまり、概念の格子点をカオスにすることで擬似生命となり
同様の関数において神の定義域における方法により幸福の結合子を得るのである。
削除済
削除済
【物事を深く考えないが故に、単発スレを乱立してしまう】
解決策→『(スレッド一覧はこちら)先で(Ctrl+F)等による検索機能を使う』
作成されてしまったスレッドは削除したくてもできません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けますので細心の注意を
削除済
感覚質で自然、真実と虚構で法則、質料と目的で生命、これで概念上の自然は完成する。
概念上の自然と自然の違いは方法の有無である。
概念上の方法とは真実に適合しようとする理性と虚構に適合しようとする感性という擬似生命である。
この世界が釈迦の胎内だったらという密教の説を想起する。
理性による総括が不十分な我々の概念世界と自然は管理能力以外に何が違うというのだろうか。
神の理性は概念成分までも含め管理し総括するが、とても我々に真似できるものではない。
もしこの説が正しいのであれば神と対面する方法は神にとっての擬似生命以上の意味を持つことである。
神の理性を超える理性を自由意志により得ることができれば神の管理外の存在になりうる。
そうしたとき神の定義域である方法は意味をなさなくなり自らの擬似生命が方法を従える。
では究極の理性とは何か。
神の存在証明をするにあたって数式を唱えた人間がいる。
数学は存在と非存在を措定し、それのみを語る学問であるがゆえ経験知が完全に充足し、根源的な性質と完成された理性を持ち
しばしば我々の概念成分であり純粋記憶である経験知よりも微小な概念の成分を持つ先験性となる。
理性的な学問は数学を基準に巡っているといってもいい、神の存在証明、
特にε-δのような存在・非存在や無限の解析ができれば全ての法則が崩壊し人間の理性に塗り替えられ、
方法を方法によって操り概念が積分されるのではないかと思う。
善悪と概念の相対的位置とは何か。
善と悪はそれぞれ真実と虚構に言い換えられる、概念組成は真実という条件のもと方法と化す。
虚構も真実であるが虚構自体は真実に置き換えない限り方法に収束することはなく発想や応用の手段を得るためのものといえる。
真実を得るための方法は善であり、方法を得るための方法も善であり、目的を得るための方法も善である。
我々が区別する意義は善悪にわけることであり、善は真実という質料と方法という目的をもった擬似生命といえる。
概念組成を方法へと近づけるためには善と善の結合(擬似生命活動の同化)により生み出される。
善悪と概念の相対的位置とは善は真実という質料と方法という目的を持った擬似生命であり、悪は善の否定成分である。
擬似生命の活動は概念成分において真実である。
前項において、全ての自然は概念の波長と調和できると結論付けたため、
この流れは人間活動における理性的活動においても適応可能と考えられるが、
最も理性的な生命は絶対性を持つため神と人間は上位と下位という立場を持ち、現状では神の方法に支配される。
善悪に区別することは業の深いことである。
なぜなら概念を善と悪に分解するため、善による力を得るが、悪による力をも自らのうちに飼うことになる。
虚構より発想を得る善の成分、成分より真実を得る善の組成、組成より真実を得る善の方法
そして、方法の決定権を持つ我々が構成する概念は認識が無いときレプトンのように安定しているが
善悪における認識を持つとき善の崩壊する因子を持つ。
人間社会においても多様化の時代を迎え、善による力を得たが、悪という崩壊因子も同時に内在する。
幸福とはゾロアスターの求める善なのかそれとも仏教の求める空なのか無論創造主は善を求めるようだが
我々は善のみを求めるべきなのだろうか。
削除済
あとは波長の解析作業だ。哲学者はもう必要ない。
手順は虚構の内の真実において説明したとおりだ。
現代の構造主義特有のエポケーにおいて現象の相対的位置を求めるが、私はやはりエポケーはするべきではないと思っている。
絶対性の壁を乗り越えることをあきらめることは自由意志を失い人間の活動の場を制限することである。
それは人間としての尊厳を屠り、差別、欺瞞、嫉妬などの負の感情を増幅させる。
善悪の項での説明の通り明確化させることのみが幸福とは限らない。
哲学や倫理による知の追求の阻害はあるだろうが同時に幸福の選択という大局において活動できる。
構造主義は哲学者としてあるべき態度ではない、やはり実存主義を求める態度こそ古典由来の純粋な姿勢である。
絶対性の壁を少しずつでも崩す努力を我々は忘却するべきではないと思う。
思慮の伴う行動をするべく時には理性の追求の手を休めてもいいのではないだろうか。
とかく日本では理性を追求することが盛んではあるが幸福とは呼べない事象も多い。
理性追求と幸福追求は男性と女性のようなものであり、決して同一ではないことを留意してもらいたい。
理解と概念の相対的位置とは何だろうか。
理解とは我々の概念成分と適合することであり対象はシニフィアンをいえる。
しかし、ただの理解では単なる自己満足であり、我々は現実の波長と調和させ、代数方程式としてアウトプットしなければならない。
理解という概念成分を一意のものへと収束させることで方法(真実)として概念の座標変換が可能となる。
そのためには多くの善悪(区別)が必要となり、やはり何をするにもカルマを背負うことになる。
理解が上手くできないのであれば、概念組成の層を偏微分し取り出せばとある概念成分(0,1)が
虚構という反粒子の角運動による非線形を描き、神の描くベジェ曲線と調和できないことが分かるだろう。
我々の感覚質による波形と相対する方法における波形を得ることで
自由意志のn次元球面の絶対性と方法の相対性は同相であると方法により実証できる。
方法の波形はたった数種類を要素とした行列式の相互作用であり究極的な方法とは無論E=mc^2である。
神は全ての概念成分スペクトルの理性と方法のポテンシャルによる三角形に表される定義域を得ている。
我々の文明の発達は神から与えられる感覚質から生まれる善悪の哲学的逆三角形であり神の定義域に収まるものを理想とすれば、
最終的な形態は中世神学的理念にしてヒンドゥーにおけるabracadabraの象徴的意味である三位一体の正三角形である。
【物事を深く考えないが故に、単発スレを乱立してしまう】
解決策→『(スレッド一覧はこちら)先で(Ctrl+F)等による検索機能を使う』
作成されてしまったスレッドは削除したくてもできません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けますので細心の注意を
数理哲学にとって我々の概念と相対する概念の波長と同調することが
形式主義的理性であり、数学という超理性的事実を基とした認識である。
我々は神の概念と同調するべく内なる粗雑な概念を区別し、概念の量子化によって神の求めた善の波長と同調しやすくなる。
我々が環境の定義域を得るためにあるスキルを身につけようとしたときスキルのデジタル出力の知の波形を
双対ベクトル空間の応力として離散フーリエ変換し自己内の幸福関数を求めるためにスキルの関数を求め代数方程式のポテンシャルを得る。
我々の心所は善のみを求め、破壊による量子化と善による組成の解析接続しテイラー展開による定義域を得る。
しかし、相対する環境の関数と調和することはリーマン予想を解くよりも容易ではない。
我々が必要とするのは意識的なスキルに加えて、無意識的な態度であり、アナログ出力の知が必要となる。
そこで必要なのが我々自身の知の創出的態度であり、自然や事実による知の定義域を解析接続することである。
事実と思想とは究極的には同様の事象と結論付けたが、自ら対象と接するとき思想は他人の考えを基とした定義域であり
事実は自己の考えを基とした定義域という態度に差異が生じる。
自己を支えるのは自己であり他人の考えを引用することは自己の無意識的態度の関数と接続することは不可である。
解釈は客観的には虚構でも自己にしてみれば同一時間内の事実であり、超越論的態度を得るため、アナログにおける行動的態度に加えて虚構の創出的態度でもある。
数学による真実から真実の創出的理性と事実解釈による虚構から真実の発想的態度は人間的活動において同様に重要なものである。
神の理性である自然の波形を求めるためにはそれら両面によるアプローチが必要となるが、更にそれらは相乗効果もある。
態度を理性による意識的区別化し再構成することにより合理的行動を持ち
理性を態度による虚構により抽象化融合することで新たな虚構組成に接続し定義域を拡張する発想的理性を持ちうる。
両者を求める態度はいわゆる中途半端であり両者の波長と同調することが難しくいわゆる無能となりやすい、
更には社会的波長と同調するために結局はどちらかに偏ることでしか自己を支える利益追求は難しいだろう。
しかし自己にとって困難としたものを乗り越えることが可能ならば神の波長へ近づくことが可能となる。
我々は我々自身の理性によって全てをオートメーション化しなくてはならない。
なぜなら我々は精神的存在であり、肉体や物質を理性で制御することで限界効用を高めることを目的としているためである。
これからはこの命題を解決し方法を得ることのみを念頭に論証し、下らない事象においてはエポケーする。
我々の創出的態度とは虚構から真実を抽出する方法と真実から真実を抽出する方法の2つがある。
前述はすべての現象を概念として主観内に入力し、客観へと出力する方法だが、
概念として入力した時点で自然への還元性を失うため全てが虚構となる。
この虚構から真実を得る態度とは方法という近似的な真実という形で客観的出力により自然へと還元することで我々は真実と主張する。
さて、人間周りのI/Oを客観的に簡潔に表現するならば、感性により自然を概念の成分として偏微分し、
理性により方法という自然への還元性において収束することで概念の組成として重積分することである。
自然という非線形波形の関数を予め知ることはできないが、一部分を取り出すことでデジタルの知として入力することができ、
そのデジタル的線形波形からアナログ的非線形波形の類似する性質を予測することができる。
ここから効率的な概念の拡散と収束の論理は大体予想がつく。
まず直交座標系として直交となる(x、y)を求めることから始まる。
波形を解析するにあたって、概念成分の挙動の周期律を見出すことから実数軸を設定する。
何が影響を与えているのか仮説を立て、実際に作用することで二軸で形成される論理を得る。
関数への置換を行い実数軸の概念同士の解析接続と定義域を見出す。
しかしこれは自然的多様性に相対する自由意志のn次元球面の積分路に過ぎず、その波形には更なる多様的な意味がある。
幾何学的意味を見出すためには自由意志のn次元球面の定義域におけるあらゆる角度から作用し挙動を発見しなくてはならない。
この過程において重要なのが行動的感性であり、一見結びつかないようなものを組み合わせ
理論はともかくとりあえず行動という方法に適合するか試用するという直感的作業となる。
たかだか2次元デカルト座標における論理など薄っぺらなものであるため、行動という理性的概念生命に監督させる必要がある。
どのような論理であろうと概念である以上全ては虚構、方法という自然数となった時に正義を主張することが神の波長である。
そして、忘れてはならないのが自然にも神の意思による理性が貫かれていることであり、目に見えない概念生命も存在するということである。
それは霊的な存在に例えられることもあれば、実数を媒介する虚数でもあり、物質を統率する法則であり、全てを包括する神の加護である。
我々の生命は神の理性により支えられ、生命の尊厳とは神の権限であり、汚すことの許されない聖域を倫理が主張するのである。
神が総括描く波形がある座標軸に関して線形性を持つとし、非線形部分我々の虚構と同様の周期律を持つと考えれば納得行くだろうか。
我々の理性と神の理性が同じ周期律を持ち自然が神の理性だとすれば、自然はある座標において線形性を持つと考えられる。
要約すると、腹減ったら飯食っとけ!
ってことだ。
思想や物質は数学的一元性において説明できるということなのです。
思想や物質よりも粒子が細かい概念なので説明は可能なのです。
これからは経験も知識もない事象についても帰納演繹による最低限の知識において予知的超論理思考が求められるのです。
【物事を深く考えないが故に、単発スレを乱立してしまう】
解決策→『(スレッド一覧はこちら)先で(Ctrl+F)等による検索機能を使う』
作成されてしまったスレッドは削除したくてもできません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けますので細心の注意を
直感的行動と概念の相対的位置はなんだろうか。
我々は感覚という概念を媒介して直感的に行動に対する解を求めることができる。
直感的行動において重要な概念は善悪と目的である。
我々は直感的行動において善悪の基準を設定し目的達成のためにアプローチする。
しかし、我々は直感的行動に際し何を善悪に設定しているのだろうか。
善が何ゆえ善なのか説明しようとすると戸惑うことだろう。あくまでこれは経験則に過ぎずいわゆる直感である。
生命の進化上、直感に頼ることほど生存に適する行動はない。
難解な数学的概念も哲学的概念も直感的思考がよりしろになっている。
生命としてのエピステーメーは人間としての知性をはるかに超えているといっていい。
よって何かものかに根拠を求められたとき直感的回答を提示することが正しいことが多いだろう。
態々理性的概念に分解する行為に意味はないし間違いも多いものである。
言語に分解するにも、直感的行動に対して例えば歩行の条件を論じるにおいて自然という
環境の応力テンソルのマトリクスに床の曲率、筋組織における歩行バランスなどの条件からほぼ一意に定まる解を求め
「立つ」と「歩く」という条件を満たしている、それでは具体的な計算式を云々などと説明できるだろうか。
普段から行っている直感とは能力そのものであり、
理性はその能力を制御する程度のものでしかないと自覚せざるを得ない。
しかしこの能力を完全制御できるとしたら我々は計り知れない価値を創出できるのではないだろうか。
直感を理性において明確化させることが旧来から理性を求めるものの目的だったのかもしれない。
直感的思考と概念の相対的位置とは何か。
直感とは感覚から形成されるものであり、それより生じる感性とは生命の理性(継承された知性の総合)という意味合いも含まれる。
ただ生命は人間へとなるまでの間、行動を主体とした生活が多く感性における善悪はその生活空間から派生しているといってもよい。
つまり善悪は行動という概念が自発的に形成する基底(知識)をもつ解空間であり、簡潔にいえば生命活動の絶対的記憶である。
では、行動という関数から派生し調和すべき神の波長(真実の相対的位置)とは何だろうか。
行動という波形を偏微分(概念として抽象化し自然を主観内で解釈)してみれば、行動とは自然的意味を求める行為であり、
欲求という動植物的理性(動物として継承された知性(善)の総合である記憶)の目標という善を持ち、
それまでの障害を悪とする座標系(交点基準)である。
つまり、直感は動物的であり目の前の障害を除去したり、事実問題に対して行動する目標には向いているが、
帰納・演繹など性質の理性的操作において解決する目標には向いていないといえる。
しかし、前項の通り直感的思考は論理的思考のエーテル(能力)そのものである。
行動における善悪を理性的操作により関数間の解析接続(絶対的記憶の相対的位置(概念)を求める)し、
発想、推論、合理的行動などにおいて価値を創出することが人間としての合理的行為であり、中庸の意味とも符合するのである。
直感的思考力は全ての人間に存在するがそのエーテルを摘出する具体的手段を
性質の理性的操作において抽出することにおいて論証していきたい。
あの〜、これ学術論文のスレ?
ていうかこの人何やってんの?荒らしだよねハッキリ言って。
オナニー気持ちいいですか?
削除済
我々の行動の基準(善悪)は継承した絶対的感覚記憶に存在する。
つまり経験上の勘というものを動物の性というパラダイムにおいて絶対性を持っているということである。
最も原始的な生物である昆虫類は特定の刺激に対して特定の反応(0,1)を示す
まさにコンピュータのデジタル回路のような存在である。
そのうちの生存可能性の高い記憶から継承されより効率のよい論理回路、より純度の高い善悪を形成していった。
そして、人となることで記憶の善悪基準を基とした管理能力が発達し、帰納・演繹などの理性的操作において
絶対的記憶を疑い分解・再構築する記憶の相対性を見出すことが可能となった。
我々は善悪という絶対的記憶の真実の相対的位置を理性的操作により模索しなければならない。
そうしたとき善悪の定義域を広げ、擬似的な生命(質料と目的を持つ概念)というノードにリンクし
質料という波長と目的という擬似記憶による善悪基準により思考の生体化(オートメーション化)することができる。
我々は存在と非存在という認識を持っている時点で経験知は充足し数学的思考(純粋論理思考)が可能となる。
無(0)と全(=1+1+1...)を措定することは全ての事象を説明しうる神の波長である。
こうした理性的操作により絶対的記憶の相対的位置を完全に説明できる究極の善悪を基底とした座標空間を与えられれば
どのような障害(悪)をも瞬時に波長を収束し、崩壊もしくは、善へとベクトル変換することができる。
しかし、人間の能力では数学という純粋論理の意味を見出す感覚器官は存在しない。
あくまで我々の能力の限界を考慮し、数学的一元性における全ての管理ではなく、
絶対的な記憶と記憶の相対的位置を求め管理することが人間としての中庸であり、最大限のエーテルを得る方法である。
つまり、絶対的記憶という結節点を元に論理を構築し人間の器を満たすことで
人間という存在と思想という性質が等価価値となるような思想の積分をする行程が必要である。
あらゆる問題に適した合理的行動とは何だろうか。
我々は概念を形成した上で生体活動することで合理的行動をすることができる。
合理的行動の関数とは善悪という基底を持つ座標空間であり、実は「悪」が行動基準となっている。
ある条件化において悪と認識された軌跡を通過しないような善という方法に
近似的な行動のベクトルを目標(最高善)の領域へ伸ばす。
しかし、我々は予め何者が悪かを知ることができず、漠然と行動に際した初手としては右も左もわからない状況である。
まず悪が何者かを知るため悪を通過し、適切に悪と認定する必要がある。
そして、悪という記憶の点で表示される関数(法則性)を見出すことである。
次に、他関数との解析接続による定義域の明確化である。
このように悪の関数を見出した上でそれを基準として回避しつつ行動することが合理的行動である。
合理的行動において特別対策すべくカテゴリ化された情報に関しては
悪の密度が濃いため思想・哲学・スキルなどによる善の関数が重要となる。
三次元直交系やシュレディンガー方程式の波動関数における悪の粒子を回避する善の関数はカテゴリーによる思想の統率である。
主にスキルなどの精密な知的体系の構築はそのカテゴリーという波長において自己の波長を収束することが目的となる。
スキルは悪の粒子を回避すべく作られた非線形幾何学モデルといってもよい。
善の波長は神(最高善)の波長であり、一般の美学的にも評価されることが多く、
形式主義的美学においてもそうした行いを評価すべきである。
人間という親関数は思想の波長を収束することで問題解決の関数によるサブルーチン(カテゴリ)を得る。
このアルゴリズムのフローは悪関数ステップにおいて記憶粒子の善悪認定、善悪認定基準の設定、関数化による定義域の収束、
善関数ステップにおいて善関数波形の収束、過去の記憶との解析接続による定義域の明確化(哲学)、幾何学的美学化である。
問題点としては認定すべき悪の記憶粒子の検出と善悪の認定基準である。
後者は数学的教養があれば設定にそれほど難はないが、
前者においては更なる哲学による思想の統率が重要であると悪関数においてカテゴリ化する。
なお命題において行動と称したが、思想の波形にも収束可能なため解析接続を試みる哲学もよい。
しかしあらゆる概念が明確化されカテゴリ化された現代においてはある程度の善関数は用意されていると思われる。
大衆的思想(常識)による波形の収束と各命題(悪)に対する善関数を収束することが重要と思われる。
【物事を深く考えないが故に、単発スレを乱立してしまう】
解決策→『(スレッド一覧はこちら)先で(Ctrl+F)等による検索機能を使う』
作成されてしまったスレッドは削除したくてもできません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けますので細心の注意を
人間の形成する概念は究極的にはゾロアスター教の最高理念である善悪(0,1)二元論と思われる。
自然が形成する概念も究極的には存在(1+1+1...)と非存在(0)の二元論であり
根源の性質は物質と触媒の二極化されたソリトンによりポテンシャルの拡散係数を形成し自由空間の波形の座標を成すと考えられる。
人間は理性を更なる理性において制御しうる無限に発散しあらゆる形状で表される理性を持ち、
自然とは切り離される根拠として物質変化の万能の触媒となるとは、古代ギリシャのプロタゴラスの論に類似する。
感覚記憶が概念形成の成分といったが、感覚質の組み合わせで発生するのは
あくまで物質概念の感覚でありさらなる細かい粒子(0,1)に相当するものでなければ善悪そのものの性質を説明できないと思われる。
我々の概念の根源は古典自然学者、エンペドクレスの論によって説明されるといえる。
古典的であるが、我々が形成する概念は決して視覚的なものが先行しているわけではなく正負(善悪)とそのパターンにより構成される。
正負の組み合わせにより特定の波形を成したとき発想となり無限に感覚質への結合による発散性質を持つ。
その概念を出力するに際し自然の波形に収束したとき方法となり、手足・物などの物質概念と理性という性質概念を用いて影響となる。
我々の行動の基準は悪でありこれを障害(触媒)と考えれば、
最高善という目標に向かう直線と障害の形成する曲線となり自在な波形をなす。
そして、概念の全ては性質というパラダイム上に存在し視神経から受け取る情報の物質は本質ではなく、
非存在、存在、物質、理性、全ては素と触媒のパターンが無限に発散する性質となる。
それを媒介するものが数学の存在・非存在という措定が経験知を充足され掌握し、非存在が存在へと積分される時、
ストリングの振動から物質存在の性質へと変化し、ゲージ内に収束した性質と
ゲージ外へ発散する性質をある程度五感が受け取るという形となる。
よってこれからは概念の性質を正負(善悪)との相対的位置に還元することで収束する。
人間の形成する概念は究極的にはゾロアスター教の最高理念である善悪(0,1)二元論と思われる。
自然が形成する概念も究極的には存在(1+1+1...)と非存在(0)の二元論であり
根源の性質は物質と触媒の二極化されたソリトンによりポテンシャルの拡散係数を形成し自由空間の波形の座標を成すと考えられる。
人間は理性を更なる理性において制御しうる無限に発散しあらゆる形状で表される理性を持ち、
自然とは切り離される根拠として物質変化の万能の触媒となるとは、古代ギリシャのプロタゴラスの論に類似する。
感覚記憶が概念形成の成分といったが、感覚質の組み合わせで発生するのは
あくまで物質概念の感覚でありさらなる細かい粒子(0,1)に相当するものでなければ善悪そのものの性質を説明できないと思われる。
我々の概念の根源は古典自然学者、エンペドクレスの論によって説明されるといえる。
古典的であるが、我々が形成する概念は決して視覚的なものが先行しているわけではなく正負(善悪)とそのパターンにより構成される。
正負の組み合わせにより特定の波形を成したとき発想となり無限に感覚質への結合による発散性質を持つ。
その概念を出力するに際し自然の波形に収束したとき方法となり、手足・物などの物質概念と理性という性質概念を用いて影響となる。
我々の行動の基準は悪でありこれを障害(触媒)と考えれば、
最高善という目標に向かう直線と障害の形成する曲線となり自在な波形をなす。
そして、概念の全ては性質というパラダイム上に存在し視神経から受け取る情報の物質は本質ではなく、
非存在、存在、物質、理性、全ては素と触媒のパターンが無限に発散する性質となる。
それを媒介するものが数学の存在・非存在という措定が経験知を充足され掌握し、非存在が存在へと積分される時、
ストリングの振動から旋律として物質存在の性質へと変化し、ゲージ内に収束した性質と
ゲージ外へ発散する性質をある程度五感が受け取るという形となる。
数学、美学、音楽などの理性は性質の最も根源的なものを記述しているといえる。
よってこれからは概念の性質を正負(善悪)との相対的位置に還元することで収束する。
削除済
我々は概念の発散する性質を感じ取ったとき善悪による判定をする。
生命は質料と目的を持ち、常に目的を終点とする質料の始点を持ち存在の性質の発散によりベクトル空間を形成する。
しかし、善に直線で結ばれるベクトルならば何の知的構造も必要なく必ずベクトルの進行上に障害(悪)が存在する。
これを回避するためには、他の質料と目的(性質)を持った生命のベクトルの和が必要だ。
我々はその性質を知識の波形を偏微分しデジタルの知性に置換し
ベクトルとして取り込みアナログ知性の波形に変換して障害を回避する手段とする。
しかし、知識はカテゴリ化した悪の結晶体のようなものであり
善のベクトルへ変換するためにエーテルのように粒子の細かいアナログ知性の性質が必要である。
要は緻密な知識粒子のデジタル波形を善悪判定によりさらに緻密なアナログ波形を得ることが知的構造である。
物質の性質、特に組み合わせたとき発散するあらゆる感覚質を善悪判定し神の波形と同調することがいわゆるセンスである。
しかし、実際に思考のツールとして使えるものは粒子のようなノルムの小さなものではなく、カテゴリ化された知的構造である。
ある程度大まかにベクトルの和を図らなければ思考の周波数が状況についていけなくなる。
つまり意識的にミクロからマクロへ影響を及ぼすことは難しい。
よって意識的にベクトルの軌道を修正することは諦めやはり無意識の波形に収束したほうがよいと思われる。
性質を大まかな感覚質に分解し、善悪の要素数を大まかに取った後、原因(悪)を抽出し行動性質の波形に変換し回避する。
回避するとは行動性質の感覚質の波形において収束し行動関数として抽出された言語である。
この行程において重要なのは思考の周波数の条件上、マクロの関数において波形を収束させることである。
状況の性質に波形に収束できる性質ならマクロの性質を用いて近似解を得て判断停止するテイラー展開といえる。
要は理性を得るために必要なのは感覚的に必要そうな知識を得る態度ということである。
善悪そのものである質料(知識)と善悪基準の思考ツールとしての性質により法則(知性)を作ることにより状況の波形に収束するのである。
状況の波形から偏微分すれば原因(善悪)の性質を取り出すことができるため拡散した要素の性質から悪のベクトル空間を中和できる。
やや善悪の収束が困難となったためミクロの議論はここまでとなる。
既出でしたら申しわけ有りません!
さっき生放送していたのですが、順番待ちが終わり
放送を開始しようとしたところ
何故か予約枠が放送中に
なっていました。
予約枠まではあと2日程時間が空いているので
準備中のまま放送はされていません。
予約枠の放送を中止して普通に生放送するには
どうしたら良いのでしょうか?
分かる方がいらっしゃいましたら教えてください
自作動画が第三者に転載されるも、
権利者削除の方法が分からず、
運営に対応してもらえず泣きを見る。
【物事を深く考えないが故に、単発スレを乱立してしまう】
解決策→『(スレッド一覧はこちら)先で(Ctrl+F)等による検索機能を使う』
作成されてしまったスレッドは削除したくてもできません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けますので細心の注意を
法則は神の理性であり物質は性質の集合体であるとして、
この論では哲学的アプローチをする以上、唯物論とは対立する形となる。
よって、唯物論者が概念を物質内の性質として自然の存在・非存在に還元することと同じように、
唯名論者として概念を性質内の物質として神の善悪に分類し還元する手法をとる。
具体的な手法は概念を波形に分解し同一の波形を持つ概念を得て、性質の相対的位置における定義域を得た後
神の理性である物理法則(方法)に収束することで善悪に還元することになる。
事実と概念の相対的位置とは何か。
我々が事実を認証するに当たって善悪の曲線を形成する手段としては媒体から社会的理性の波形を得ることである。
これで当該の回答は提示されたが、粒子的な善悪の問題に措いてもアプローチする。
善悪認証としては視覚的負荷に依存する場合が多い。
情報の信憑性とはよりデータ量の多いものからよりアナログに近い自然のチャンネルを信用するためである。
信憑性の基準としては社会的理性の波形により収束しやすいものである。
例えば言語のチャンネルに含まれるデジタル波形は抽象的でありアナログ波形への収束は難しいため
ドメインを得ることが難しく、信憑性が薄いということになる。
しかし、視覚情報のみでは真実を得るには不十分である。
なぜなら理性を得るためにはあらゆる性質波形の線形性を得なくてはならないためである。
人間の持つ自由意志のn次元球面において曲率テンソルを抽出するためのdz=δz/δx・dx+δz/δy・dyにおいて収束しなくてはならない。
それはカテゴリ化した性質の交点座標であり、いわゆる多角的視点における客観的理性である。
無論その総合において自然的理性に準ずる社会的理性に収束するのである。
二次元デカルト座標をベクトルにおいて表示するならばカテゴリ化した性質の総合において
δf/y-δf/y'=0から善の自由曲線におけるベクトルの和を得ることである。
社会的理性において自然的理性の波形に収束する性質を持つため収束しないものにおいては追求しない。
これにおいて形式主義的美学における収束を得る。
削除済
性質の波動を解読する復号機はカテゴリ化した善悪が形成した格子点である。
波を格子点内に閉じ込めることで収束するのである。
よって知的構造において重要なのは知識による格子であり、カテゴリという隔離した構造が性質の波動を最も捕らえられる。
理性のn次元球面において曲率テンソルを抽出するためのdz=δz/δx・dx+δz/δy・dyにおいて収束するために、
性質という差異性を構造主義的にカテゴリに分割することで解決する必要がある。
我々は自然の非線形幾何における神の波動を得られない以上、絶対性という幼稚さにおいて解決するほかはない。
ここで問題となるのは日本人には難しいとされる全く関連のない波形に収束することである。
カテゴリを得るためには事象に触れ、カテゴリを想起するが、想起のための理性のないものに関しては
(0,1)で構成される波形を純粋に解析するか、行動性パラダイムにおけるカテゴリに収束させるしかない。
前者は数学や音楽などの純粋波形の差異から杷^n(a)/n!(x-a)^nにおいて収束することだが
これは純粋波形から得られた(0,1)において拡散された格子点数の濃度によるものであり
特定概念の波形をテンソル空間のみで収束することは確率的に困難である。
一方の行動性パラダイムとは行動直感主義において虚実混濁のカオスカテゴリを得ることであり、
真実か否かを精査しないことで理性を持たないカテゴリを形成することにおいて解決する方法である。
理性的頑固さを一新する方法にして優秀な触媒である。こういった虚構を厭わない寛大な態度が我々の生活を支えているといえる。
虚構は真実の一部にして、虚構と真実の概念の複素空間におけるカテゴリのアンテナを得ることにおいて
性質の波動(前項で粒子といったが正確にはテンソル空間内の波動現象である)の理性を得る。
虚構すらも真実に帰納することで理性的進捗を得る、多様性を持つ現代社会的であり人間的アプローチといえる。
我々は性質であり、自己環境を構築する性質を持つが、対外環境から環境を構築される性質も存在する。
環境もまた性質であり、性質のゲージ外への特に電荷を持たない粒子(表現上の齟齬)の発散現象を波動と呼ぶ。
無意識の下、波動を得たとき我々はアンテナにより受信した(0,1)のパターンを格子点上の波形に復号した
幅を持ち、格子点を頂点としたポリゴンから得る擬似的な波形(デジタル波形)を構築する。
無意識とは受動的な態度であり、内発的な波形の操作が意識であり、無意識は環境により性質を構築される態度を示す。
性質による波動は物理現象に限らず、存在という性質は自由意志を持ち理性を得たとき、性質は結合する。
我々の内部の悪とは外部から結合した自然の性質であり、いわゆる外部への認識であり知識である。
格子点は外部の負荷を得て(0,1)を持ち、正しいと認識されれば善の性質粒子をもち、誤りであれば悪の性質粒子を持つ。
格子点が稼動状態(0,1)の結ぶ位置的幾何体系が知的構造であり、最高善を知的構造の自然(神の理性)への還元とする。
その内、知的構造が細かいものをカテゴリと呼び、特定概念の波形を得ることに非常に重要な役割を持つ。
理性の挙動において、我々の内部の現象においてミクロの観測を可能にするものであり、
社会的理性、自然的理性、神秘的理性などのマクロの観測は外部を観測することで収束する。
内部から外部への還元方法としては、内部の論理を手段(方法)としたとき内部理性の外部化となる。
全ては性質であり神の波動を得るためには、論理(理性)を頼りに知的構造を得るほかない。
その時、我々は自らが理性的であるという主張は相対的位置を示すことにおいてのみ証明でき、
外部による理性と結合したとき理性的であることを主張できる。
そのために議論する場所から「信用」の波動を得ることも重要である。
内外の波形を収束するにあたって、内部波形の証明とは波動の外部化(方法化)においてのみ証明できる。
つまり人間である以上目的を善によって得るため、功利主義的証明となりその波動を得る。
全ての理性がモデル化されたとき全ての外部は内部のための存在となり、外部を実数軸、内部を直交虚数軸の
複素空間を得ることになり、実数軸上の行動的活動と同等に虚数軸上の活動が重要となる。
抽象的思考とは何か。
性質の波動を復号し、理性へのリンクが成り立たないとき、記号的波形となるが
そのデジタル波形においてカテゴリそのものを演算し、幾何学的意味から波形を持たせることが抽象的思考である。
これは演算の計算式自体は間違いではないため絶対性において理性を崩壊させる手法である。
これは感覚還元主義を基底とした座標において重要な意味を持つ。
感覚とは生命であり、生命活動はその質料(命)と目的(神)において必ず質料は重力子(粒子表現上で言う目的)を持つ。
生命が概念の波形から悪の格子点を見出したとき、ベクトルの修正を行い自由曲線を描く。
不確実を前提とするが、感覚の質料の善(理性)と悪(修正)により着実に目的とする理性に収束することが出来る。
本項は自然(神の理性)モデルにおいて収束しなかったが、形式主義的美学において収束する。
今北産業
【物事を深く考えないが故に、単発スレを乱立してしまう】
解決策→『(スレッド一覧はこちら)先で(Ctrl+F)等による検索機能を使う』
作成されてしまったスレッドは削除したくてもできません
自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けますので細心の注意を