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「自重」を「じじゅう」と読む
理解式とは追体験であり収納的記憶と同義であり、記憶効率と知識の応用に優れた記憶方法でもある。
この方法論は芸術・学問共通のものであり、知識・体験の本質への理解が得られたとき知識や体験が自分の手足のように動かせる。
ただし波動への感性がなくては知識の本質への理解へ至ることはない。
知識の裏に隠された波動を読み取り追体験したとき真っ暗な闇に閉ざされた空間に金属(哲)のような知識の連なりが浮かび上がる。
あたかも論理構造のような印象を覚える。これが論理座標空間という知識の本質構造である。
これが全ての発想の源泉であり、投影した自己(スーパーエゴ)が
自由に動き回れるようになればまさに神から授かるかのごとく知恵が溢れ出すだろう。
やや応用して波動記憶法・波動発想法・波動読書法・波動行動法、精神・心理的能力開発にもなる。
これが知識の哲構造であり、アリストテレス哲学の真髄とはまさに神の知恵である。
そして前項で潜在構造を発表したが、これが完成すれば人類は物理的な鎖から解き放たれ呪術により世界への干渉が可能となる。
ラグナロクによる終末と人間世界の始まり、
人知の哲構造を超えた真なる神の知恵を得ることができれば人類は神話の世界へと飛びたてるだろう。
「コメントしたら自動的に更新されると思いコメントすることをためらう」とか書こうとしたんだけどスレ違いだったようだ
潜在構造を知るためにはまず神の力を信仰しなくてはならない。
この世界に神がいないなどと決め付けてしまってはそこで議論が終わってしまう。
人間が人間を信仰する善のごとく、幸福は神の力によってのみ得られることを信仰する。
善・幸福・神の哲構造もしくは、美を超えた信仰の哲構造を得なくてはならない。
思想の哲構造が見えたならば、超能力的な力学、思想力学が始動する。
信仰という無限の生命力は物理法則によらない現象を起こし、そして物質化するという思想を受け入れなくてはならない。
俗人は思想を持たない。ただ労働し自らを支えるだけの非学芸的存在である。
それゆえ、真善美の哲構造を知ろうともしないだろう。
潜在構造を知るためには再び古典哲学に回帰する必要がある。
当時の思想は神の波動に強く影響を受けたもっとも純粋な真善美の均衡を持つためである。
特に科学が発達しない時代において真の他に善や美に関心があったという点が評価できる。
当時の未知への欲求の精神はまさに無限の生命力をもってして学問の基礎を築き上げた。
一つの偏りもない純粋思想にこそ人類の進歩の哲構造がある。
>>904
ハローワークに行った。
今日も仕事がなかった。
まで読んだ。
真善美の構造について、善を知るためには美を知らなくてはならない。
まだ美についての議論が不十分であるため、善の哲構造への議論は見送る。
初めに美の定義をカオスでないものとしたが、これは主観的なものであり意味が独立したものを指す。
美とは主観的なものであり、カオスを表現しようとしても意味が見出されてはカオスではなくなる。
カオスという名をつけたときすでにカオスではない。
カオスとは追体験の不可能性を表し、全ての要素が即自存在となった時平面的意味である存在・非存在しか見出せなくなる。
これは論理座標上の点の表現であり、美の必要条件として何らかの幾何学的意味を持っていなくてはならない。
これに基づくと、俗人はカオス志向であり生命の幾何学を否定しうる負の存在である。
そして、それすらも存在と認める神の善は美を超越する生命への慈悲である。
神は醜い人間すら生かすだけの理性を持つ。
信仰により物質化するならば、無への善心を持つことである。
つまり、非存在への美学による生命の幾何学を与えることで信仰をするとき存在へと姿を変える。
我々が何よりも美を愛するのは、無から有を生み出すためであり、想像による美学的思想が存在を生み出す力を持つためである。
それは超現実的思想であり、中世時代の西洋はその対象を神として具現化しようと試みたといえる。
そうして生み出された建造物や偶像や思想は究極の美的体系を持つ生命の幾何学である。
しかし、いまだに具現化しないのは信仰とそれを支える真と美が足りないためである。
我々は信仰するために究極の真と美の方法論を生命を材として考えなくてはならない。
まず、神話の世界を再び創造し、存在と非存在の規定を一定の美学を持ったとき存在となることを
生誕した神に希望を告げることで新たな世界とする。
すると、思想力学は美学の理解式による追体験が一定以上の値を持ったとき無から有への力を得て現象や物質となるだろう。
これにより、真善美の思想力学の体系は完成した。
あとはこれらの議論を厳密化し方法論を確固たる地盤として神の再誕を待つのみである。
真の定義は哲構造への理解、美の定義は理解式による生命の幾何学的表現、
善の定義は表現対象を思想信仰により生命の幾何学を与えることである。
まずは神を具現化し、その力で世界の物理法則を緩和させることである。
俗人の道徳心を呼び覚まし世界平和を得るにはその方法しかないだろう。
神という名の芸術性による生命力は信仰への関心を高め、純粋性による論理が信仰の正しい思想を形成し、我々は「信仰」を実践する。
そしていつしか、善という名の神そのものを認識ができるようになると思われる
そのとき、神は姿を現すのだろうか・・・
ただ徒に生命力を信仰に捧げる「福音書」では神を解釈で混濁し
ただ徒に純粋性で信仰を象る「阿毘達磨倶舎論」では神という名に生命を与えることはできない
善に至るための神学議論による芸術性、純粋性に基づく「聖書」を完成させることが人類の急務である
神の素晴らしさを知り、神の認識をもって、初めて我々は生命的認識に至り
「神は復活する」
その報酬に我々は物理法則の鎖から解き放たれ神話の世界へと旅立つのである
我々は生命的認識による神の名に措いて「無から有を生み出す力」を得られるだろう
その力により永遠の命すら生み出す術を授かるのである
「信仰」をするためには生命力がなくてはならない。
信仰を苦行だと感じてしまうもしくは、報酬に期待しすぎるのは不信仰である。
真善美の「信仰」は信仰の素晴らしさを知るところから始まる。
「貴金属」は希少性として重要なものである。
信仰の対象としては申し分ない資質を持っているといえるだろう。
しかし、それは「けばけばしい」という表現において装飾の揶揄の対象とされることもある。
貴金属から得られる波動は単なる希少性の度合いという一次元的な価値ではない。
美は単に存在するものではなく機能という収束式(定数)による連続的な関数という微分可能性において認識における波動となるため
希少性という関数が非連続的なものは波動としての価値を分断させ美を損失してしまう。
信仰のパラメータが強いものであっても「物質」という定数関数は
所詮論理座標上の「点」にすぎないため悪しきカオスの波動を放ち価値を中和させてしまうのである。
ちなみに収束式の価値(x:質料、y:作用)を数値として定義をすれば
物質式の示す関数を普通に積分することで美的価値が数値化される論理座標となる。
しかし定義するためには目的の保存を示す1フェイズシナリオを完成させなくてはならないため不可能に近く、
客観的定義により信仰が失われ生命が存在する意義を失うため定義してはならない。
収束式は質料という潜在性を作用に起因して変化質料となり価値が決定される。
x:質料,y:作用z:変化質料の関数において質料と作用は潜在価値、変化質料は顕在価値という単位で表される。
二変数の演算内容は潜在性の引き出し方は客観的定義は可能だが複雑であるため主観性に隠されてしまうが、
目的への合理性において関数の連続性が得られる。つまり価値の認識と同義である。
価値は主観的認識という積分範囲により認識され、一定の価値を持ったとき判断停止し認識の発散において信仰となる。
カオスは非連続な関数であり、定数関数の非連続的な集合とするならば認識(積分範囲)が分断され価値が得られないことがわかる。
論理座標の扱いは主観性を認めれば数学的には二変数の定積分のイメージができれば分かる範囲だが、
主観性のブラックボックスを解体するのは人間には不可能だろう。
しかし、主観は究極的には数学的定義が理論上可能な客観的な概念ということが分かる。
無論、この定義では追体験は不可能であるためこの議論は信仰の否定にはならない。
というより人間の認識はそもそも不完全かつ単純なものであるためどのような概念にしても肯定も否定もできない。
論理座標は数学的意味としては価値はなく、論拠として価値を持つものである。
ともかく認識を数式化する目的の数理哲学や認識論としての哲学は
これ以上発展の可能性はないため、この議論において人文系学問の基礎理論とし終幕としたいところである。
私が唱えたいのはこんなつまらない結論ではなく信仰の真の力である。
信仰は世界を平和にし、神を認識し、術式により無から現象を起こす非物質的力である。
そうしたとき我々は真の自由を手に入れ、科学を不要とする永遠の世界を築くことができる。
第一始動因たる神は必ず存在するはずである。我々は真善美を信仰し神の理性が統治する新たな世界で幸福を得るべきである。
我々は思想において神と対話し無から現象を起こしてもらう。
「真の認識に基づく美の生命力を信仰に捧げる心」
があれば神は必ず応えるだろう。
文章における生命力は哲構造への追体験にある。
しかし文章の意味は一意のものではないため一定の訓練が必要だろう。
波動状態の文章を生命力を消費せずに収束できるようになれば価値認識が可能となる。
カオスは不連続の関数列であり近似することに意味はない。
数値化できない主観性の情報をそれほどうまく扱えるほど人間の認識は高度には作られていない。
むしろそれを弊害とする部分もあるため、完全にカオスという微分方程式は収束してはならない。
認識の限界はごく浅い部分に存在しそれ故、物質の生命という矛盾を支える信仰を得るのである。
何度も主張するが信仰は学問的、人間についての学問である。
構造主義的に人間社会の理性として不連続を連続とする理性について超越的な姿勢は有害な思想である。
認識を示す理解式は行動式の一部である。
物質の関数列が波動状態であるとき目的は認識の内に存在した場合、想起と着想の条件を満たすため、
論理座標は行動式による非認識を含む物質世界を示し、理解式で認識されたものが現象世界であることが分かる。
つまり論理座標は行動式や理解式という概念を数学的手法として完全に現象を説明できる。
よって、非認識を含む論理座標が「現象」であり、
その仮に存在するとされる主観的手法による偏微分方程式の解法を「因子」その解を「原因」とすることができる。
[「現象」は「因子」により「原因」となる。]
という文章の代数的手法により主観的な解を求めることができる。これを単に「論理」とし、それ以外の方法を「非論理」とする。
この五つの言語でここまでの全ての方法を統一することができる。
人間・生命・信仰などは非論理であり、善で示されるこれらの概念は論理で示される真や美を超越した概念である。
美は論理とかけ離れている印象だが認識のうちに含まれているという理由でそれと考えられる。
学問という概念は論理と非論理を扱うものであるが、点であるカオスは扱われない。
なぜなら、カオスは点で表され認識しても思索の余地がないためである。
ちなみに人間関係は非論理であるが、社会現象を示すためにはこれらを何とかしなければならない。
論理は究極的には客観的であり、非論理は主観的であるため原因は存在しない。
主観や社会はどうしても客観的には説明することはないのである。
ただ一つの方法として信仰が存在し、信仰が強いほど幸福に近づくとしか説明は不可能である。
信仰が集えば物質世界を超越した神を認識できるようになるだろう。
幸福とは非論理と論理の間
論理の教養を持って魂の体験に身を投じることである。
つまり論理とは魂をより良くあるための教養であって真実そのものではない、存在という矛盾は魂による真実である。
論理は存在と無の矛盾や主観と客観の矛盾の正しい解釈を説明することはできない。
その矛盾を乗り越えるのはやはり主観であり、認識の錯誤のなかから生じる虚構である。
我々は真実の中だけで生きているわけではなく、物質も我々も生命や存在という矛盾と戦いながら生きている。
存在する世界の最終的な目的とは存在する権利を無という真実から勝ち取ることである。
客観的現象は全て正しいように見えるが最終的には矛盾する、
主観的現象はほとんど間違っているように見えるが最終的には真実に至る。
真実という教養と美による生命力をもって信仰という虚構から、無という相容れない真実と対抗しなくてはならない。
これがそもそもの信仰の意味である。
信仰は引き入れる力と排する力、何もかもを許容する姿勢は異教の思想を取り入れ信仰の純度を下げる。
そういう意味では世界は平和にしてはならないのかもしれない。
ゾロアスター教は世界的に大きく宗教思想に影響を与え、原始仏教を大乗仏教と小乗仏教に分けたのもこの思想である。
特に大乗仏教は純粋な思想を混濁した大衆に受け入れやすい仏教であり、
「極楽浄土」という考えは「善悪二元論」を強く受け入れている。
そのうち純粋思想の伝統は大衆宗教のカオス状態へと分解されていく。
重要なのは宗教の名ではなく自己の思想であり、どのような思想であろうと自己という持って生まれた純粋性を貫くことが信仰である。
純粋性を貫けない思想は信仰未満といってもいい。
「平和」とは聞こえがいいもののそれは生得の自己の領域を守ったものでなくてはならないだろう。
道徳とは「差別」などマイナス表現を悪と決め付けることではなく、自己の思想を善として全ての価値観を形成することである。
構造主義の思想はこういった思想とは正反対であり、ポストモダンがこういった思想に汚染され
世界的に信仰の純度が下がっていることを耳にすることが多い。
何を善とし何を悪とするべきかは非論理であるため客観的回答はできないがこのままの状態が続けば
神は離れ平和が侵食し無へと分解されていくだろう。
最終的に無を支持するような考えであるが、この思想は仏教ですらない。
宗教以前に自己がなく、宗教は自己ではないということを日本人はなかなか認識できない。
他者の意見に従ってばかりではなく自己は悪い思想と善い思想を見分け引き入れるものと排するものを区別し、
自己にとって善い思想を持つ宗教と契約することで真の道徳を得て、自己にとっての善い知らせを引き入れる方法を学ぶ。
そうして得られる真善美による真の平和に最高善である神は必ず応え、永遠の幸福を約束するだろう。
科学と称し、全く信仰を持たない人文科学は永遠に発達しない。
社会現象の知るべき全ては不可知の問題であり、主観的現象を否定するようではいつまでも雲をつかむような話から抜け出せない。
論理を求めることよりも、幸福を求めることが重要なことを認識するべきである。
各国の主観的立場別に幸福を唱えられる客観的論理など存在しないのである。
[目的条件] 非認識体系の認識体系化の説明
[論理] 目的条件R→善悪想起A→物質の機能表示A→論理関数A→目的合致A
体系
・論理、客観的(順次性)
・一つの絶対を除いて全て相対的(樹形)
・非認識体系Rを認識R、想起Aにより体系化Aする(目的R→A)
認識:定義、Realize
・善悪的定義R→機能的定義A
想起:認識対象の演算による認識、Analyze
客観的:実証可能な
主観的:非実証の、善悪の(経験則に依存する)
機能表示:定義物質の全ての収束形を示す
目的条件:論理関数の変項Zの定義(定義形はZ1)
目的合致:解(X,Y)、質料と作用の定義(定義形はx1とy1)
主観的演算:客観的対象の善悪想起(経験則)
善悪定義:問題解決の主観的困難性
定義物質化:物質認識Rの機能表示Aによる物質定義A(定義物質=波動)
追体験:定義物質化より直感的にする(善悪への適応)
合力定義合致性;質料、作用は目的と共通する機能が少なくとも1つ以上ある
F(X,Y)=Z 論理関数
・目的とは物質機能の1つである(目的∈機能∈物質)
・Xは物質群、Yは作用群、Zは変化物質群である
・物質と作用の主観的演算
x={x1,x2…xN} 波動
・物質認識は機能認識における善悪想起である。(物質の認識)
・物質とは機能の集合である。(物質の定義)
x1+y1=z1 収束形(和)
・物質の機能に作用すると機能変化する(機能合力)
・機能合力は物質定義と同義である(定義物質化)
論理:非認識⇒認識R→定義物質化A→問題R→順次解決A⇒体系化A
・順次性、行動論、理解論、客観的
・行動論(論理関数)、理解論(定義物質化)
行動論:論理関数A→目的条件A→物質想起A→機能表示A→目的合致A
行動論:F(X,Y)=Z→F(X,Y)=Z1→順次置換A、主観的演算A
・解決方法、論理関数
理解論:物質認識R→機能表示A→定義物質化A→追体験A
理解論:x1+y1=z1∈F(X,Y)=Z→行動論
・認識方法、定義物質化
非論理:非認識⇒認識→善悪定義→問題→跳躍解決
・跳躍性、非体系的、主観的、信仰論(善悪定義)
信仰論:機能R→行動論A→善悪定義A→善悪想起A→問題R→解決A
[目的合致]
非認識体系→認識→非論理→論理→認識体系
・信仰論による善悪想起、理解論による物質定義
・行動論による物質想起と論理関数による問題解決と体系化
削除済
善悪定義とは発想の源泉と可能性の意味を持つ生存の知恵である
目的への障害が善悪定義された定義物質(波動)として生存の書庫を形成する
順次置換は合力定義合致性を根拠とする善悪定義された波動で候補を決定する
すなわち行動論の順次置換のソート精度は善悪定義数に依存する
真は定義物質化、美は追体験、善は善悪定義による波動から得られる解法を可能とし、直感的とは応用的であることの説明となる。
非認識体系は理解論により真を得て、行動論による論理関数から信仰論による波動解法により認識体系となる。
論理と非論理をもたなくては問題解決は難しいだろう。
波動の正体は定義物質化された善悪であり、各変項の波動により追体験することで定義物質による夢想が発生する。
これは発想における瞬間的イメージによる幾何学的解法であり、人間的知識は動物生存の知恵から問題解決の知性となる。
真を求める態度とは全てのパルスを一つ残らず定義物質化する態度であり
美を鑑賞する態度とはパルスを定義物質化することで善悪の波動を増幅させ追体験であり
善を知る態度とは自我を持って挑戦的に快楽を求め障害を乗り越えその経験により善悪を明確化していく態度である。
真を求める人間は専門的であり、美を求める人間は学問的であり、善を知る人間は社会的である。
真の定義物質化は一対一の論理の知識でしかなく、善は非論理的な善悪定義でしかないが、
文学、音楽、美術に代表される美という不定形のあらゆるものには表層に現れない本質があり
定義物質化、追体験しそれを認識、想起することで知性、感性、生命力そのものを得ることが出来る。
ちなみに大した感慨もない娯楽と混同するべきではない。
なんとなく思いついたことを非論理といってきって捨てるもしくは無理に論理に纏め上げようとしてはならない
日本には科学信仰に満ちてるが非論理を知ることで開ける世界も存在する。
収束すべきは真でもなく善でもなく常に美であり、それが中庸である。
美とは「それらしさ」を求めることである。
あるがままとは即ち本質であり、自我が非自我の障害を越え
疑いなく「それ自体」を確信したとき複数の時間が支配する「超自然」の四次元に漂う客観的主観の非論理に近似することが出来る。
「それ」の独立した時間(主観)をどう感じ取るかが問題である。
論理の思考は過程を重視し、非論理の思考は結果主義である。
人間が生活するためには両方の思考が必要であり、正規分布のような形で非論理と論理の中間に属する人間が多いと思われる。
この中間の層はいわゆる娯楽や美というものを求める人間であるが、日本人は娯楽より仕事を優先する論理の層に偏分布しているだろう。
しかし、国際協調社会ではむしろ非論理の方を重視すべきであり、論理的解決が困難な問題として
国交や政治などは非論理が解決の有効な手段である。
生活に限れば人間関係や先の見えない人生哲学、場の空気を読む常識的態度のようなものである。
これらを総合すると主観という難問への対処方法としての「社会的」というワードが出てくる。
社会的問題への論理的解決は不可能である。あくまでその場のトップの人間の考えを尊重するべきである。
社会というものを完全に論理で分析しようとすれば、不確定の要素が多く、場の支配的な理論が存在しないため、
その複雑性を少数の理論で片付けようとすれば余計に困難な状況に陥るだろう。
求めるべきは真実でもなく善悪でもなく常に美しさである。
対象は「それ」の独立した時間(主観)であり、「それ」の四次元的機能に気づくための感性もしくは、知性を得ることが出来る。
真実の定義物質化と善悪の経験則(虚構の善悪定義)により論理の断絶を超えて四元機能を認識し、
論理関数から問題を三元順次性・五元跳躍性解決することが出来る。
ちなみに論理関数の目的は合力定義合致性とは別に質料と作用は目的の
全ての機能を持ち、作用は質料の潜在性の起因(存在的方法)に過ぎないという論から
目的に質料と作用が含まれかつ、質料が重要となるため、目的は解(質料)を含む関数と考えられる。
これは認識・非認識に関わらず、わざわざ質料を外から持ってこなくとも目的を持った時点で解決方法を認識しているという論であり、
目的の定義物質化と虚構の善悪定義による追体験により解決する。認識していない事項についても
それは可能であり概念を機能合力で説明することで認識を想起し、
善悪(五元性)により虚構という障害を超え、目的(四元性)の物質化(三元化)することで問題を解決できることを示す。
美学とは虚構の善悪定義を定義物質化し四元機能を生成し、新たな論理や文化を開拓する常に前衛的な場である。
そしてその評価は正しさでもなく良し悪しでもなく美しさ、楽しさである。
態度とは必ずしも正しいものではない確信するまでの宙に浮いている状態から自然と本質をひきつけるものである。
文章を理解や記憶するのではなく次第にその善さを理解し本質を引き寄せることが重要である。
すると本を読むという意識から離れ、自然と運命が情報を巡り合わせるようになるだろう。
宙に浮いている囚われない態度こそが神に集う意識のもっとも流れ流される純粋さである。
どんだけーw
もう>>1が求めている内容を含んだ書き込みが完全に消え去ったぞ
究極の善は究極の真に通じて究極の美を形成する。
真善美とはもともと同一のものであり、人間が不完全であるために神を求めるための3つの方法に分割されたといえる。
三神一体とは究極の存在であり、これをめぐって善悪・醜美・真偽を根源とした全ての概念が生じるのである。
我々はとりあえず善を求めたいところだが、
善ばかり求めるのは安易な娯楽に浸る非生産的な人間であり、やはり不幸に陥るだろう
我々が生きる目的とは最終的に神を求めることを忘れてはならない。
美はルネッサンスの起こりまで宗教と同一視され必要性を感じにくい概念であるが
どのような状況においても求めるべきは美である
削除済
美が求める対象は物質ではなく感情でもない
この世の全てをどのように見るべきか言葉で説明できない難しさがある
世界を主観的なものとするか客観的なものとするかは一切考えず
「場のイデア」を本質とするべきである
絵画には単なる生き写しを額縁の箱に入れるような要領では
質量、人間性、神秘性、感情、均衡、陰影など
ヘーゲルの言う「内的本性」を表現しなくては評価されない
同じことで他人の認識を自分という絵画に表現することで
評価される人物像が描かれる
何かを認識するに際してそれをどのように表現するか
ルドルフ・シュタイナー惹いては芸術家・詩人のゲーテが指摘する
芸術と文学の関係性とは認識の細やかさ表現性によるものと言える
絵画とは高エントロピー空間の写像を平面に取ることである
ここでのエントロピーとは情報量のことであるが、数学的な表現はエントロピーが低い
言語的な表現はエントロピーが高いなどと形容できる
絵画においては物質世界と精神世界を内包する形相世界において認識が行われ、
この四次元空間を二次元平面に写像を取るための定義を表現という言葉に置き換えられる
写実主義でなければ物質そのものを描くことはなく、精神世界の表現も兼ねた形相世界を描く
これが美学における基本的概念といえるだろう。
高度発達した美学においては形相世界そのものの定義がなされ、美学的認識の限界がなければ、
万人が体験したことを生命力あふれ秩序ある表現が可能となるだろう。
その本質は高度な情報交換、惹いてはコミュニケーションである。
美しい言葉遣い、美しい立ち振る舞い、美しい礼儀において中世ヨーロッパ貴族のような高貴な風格を実現しうる。
そして、美の形相世界を超えた善の領域の五次元を定義しうるならば、
信仰や道徳観を持ち個々人が生存や行動に有効な精神を獲得し、目的達成するための合理的知性的集団(組織)を築きことが可能である。
しかし、物質世界ですら不完全な認識しかもたない人類にはさすがに難しい要求といわざる得ない。
絵画に限らずあらゆる場において美的表現は可能である
例えば、アーリア人の残したリグ・ヴェーダの発達させた祭式・儀式などは原始ヒンドゥー思想という形相空間を表現したものであり。
フランスのサン=ドニという教会は思想の表現としてドイツの建築美において反映させた。
空虚無機質な空間を彩るあらゆる活動は美という概念において秩序化される。
それは精神という骨格に物質で肉付けされる文化的空間であり、
祭式や儀礼、または集会なども同じものであり集合秩序化された人間や物質に意味付けされる。
人間活動における表現の重要性を再認識できる一例である。
音楽などもその旋律自体の物理学的意味はほとんどなく、精神における周期性を表現したものであり、
旋律の精神的意味を知らなければそれを美しいものと感じることはできないだろう。
演奏者側においても譜面に施された情報空間の収束を精神的なものに置き換えて形相空間上の追想を行っているといえる。
お前らが何に語っているのか全く分からんw
元の話はずれてないか?w
パパー、このスレなんか怖いよー。
え・・・。
何このスレ・・・。意味分からないし。
読む気うせる(長文だから
あと・ここ、ニコ動初心者にありがちな事}}だから
削除済
感性へのコンプレックスは理論によって超克できる。
これから唱える理論は必ずしも検証される内容の解釈ではなく、単にセンスを培う方法である。
まずエントロピーという重要な概念を定義する。
美は高エントロピー状態を低エントロピー状態へと移行したとき生じる『差異』における概念である。
情報の秩序化のために矛盾した内容を定義したならばさらなるカオスに満ち差異がマイナスの値を示すネゲントロピーとなる。
これが一次元定義であり、次に二次元定義を行う、形相世界は四次元である。
美学的な感性とはすなわち空気を読む能力に等しい。
あらゆる場にはそれぞれ特徴的な空気があり、それを読むことで知識へのエネルギーとなり、
精神的活動としての道具へと加工し、知的生産性を得ることができる。
美学すなわち興味に通じなければいずれも手に入れることはできないだろう。
神学には物語における神聖さのみがあり、それを表現する神の通路と呼ばれる天井の高さはまさに宗教の美学を表現しているといえる。
宗教に生産性がないなどと言う人間は、要するに宗教活動に対する知的生産性がない人間であり
コミュニケーションの機会、そして人脈の限定的な人間という生存可能性への由々しき問題を抱えているといえる。
wを付ければ、暴言吐いても許されると思ってる。
削除済
美学に通じる人間はどのような場においても環境への柔軟な適応力を持ち生存可能性が高い。
美学とは学問を超えた学問であり、唱えられる論の全てはあらゆる枠を取り払う万能理論である。
それは芸術的な感性を基本とし理論や鑑賞のみではなく文芸・絵画・演奏の実習的な経験知も怠るべきではない。
そうすることで特有の概念である形相世界の本質を直感的に理解し表現が可能となる。
美学の対象は人間の文明全てであり
その目的は思想が形成する形相空間を美に基づいた真や善を表現することであり
物質中心の世界に形相空間を認識させ救済することである。
ケータイでプレミア会員なったのにpcは一般会員のままってどうしてなんですか?教えてください><
高エントロピーの場や低エントロピーの場をどう定義すればよいだろうか。
我々の認識に依存するものならばそれを確実な再現性を持たないため定義する必要性が生じる。
形相世界は波動非物質の空間でありそれは物質の機能の合力から生じた
物理学的意味とは異なる非物質空間であるため従来の三次元空間とはまったく定義が異なりむしろ
物質と呼ばれるものはただ一つを実態とされ下部の構造を物質と我々が定義するいわばモナドロジーの空間である。
従来の物理学は実存主義的であり、構造主義的な見方を取り入れ
物質世界と精神世界の垣根を取り払う美学を新時代の学問としての地位を築くべきである。
さらに善の概念を取り入れた宗教学へと発展させたいところである。
美学を知るためには感性的活動としての芸術・宗教分野、理性的活動としての学問分野の全ての美学に通じる必要がある
あらゆるものから美を見出し、理解し理論化していく態度である。
芸術・宗教分野に欠けるならばものの見方を狭め美学を見出すことができず
学問分野に欠けるならば現実への応用を見出せない自己満足となる。
人間文明の全てを理解する認識の喚起と真の認識となってこそ社会貢献の形相世界の最大尤度となる。
宗教学となったとき我々は完全なる精神世界での活動が可能となる。
それは物質世界から完全に独立した虚構・フィクション世界であり。
誰もが思い通りに世界を動かすことができるだろう。
我々が認識する世界は本来物質世界ではなく、精神世界であることはかの有名な文句でルネ・デカルトの証明した通りである。
人類の思想が行き着く先は完全なる精神世界である。
>>956
だってプレミア会員のニコモバのアカウントでもPCで利用しても問題無いしな。
わざわざ余分に金払う必要は無いと思うんだが?
俺はニコモバのアカウントしか持って無い。
我々が娯楽を求める意義とは端的に精神的エネルギーを得るためでありその本性は目的への運動である。
生命は本質的に目的への運動となることに労力を惜しまない存在であり、娯楽は本能的なエネルギーを引き出すことができる。
生命の目的とは第一に生存であり、生存するための目的が派生し樹形状となって無限に枝分かれすることは想像に難しくない。
目的は形相世界の定義物質であることは前述の通り、
娯楽の全ては形相を表現し認識を具体化することは目的への活動として精神的エネルギーを引き出すことができる。
なんか論文みたいな文章べて書き込みしてる奴がいるがよそでやってくれ。
今年のクリスマスもこたつでニコニコ!
美学を見出す
それは赤橙しく活動的なのか、流線上の繊細なのか、瞬く高速なのか、白光の神秘なのか、古代の厳格なのか
その文明や学派はどのような色(シキ)なのか
思想という非日常を通過することで色を手に入れることができる
それはウィリアム・J・グードの宗教観における自己(ヴァリアブル)の加速度において
我々は運動原理を得て、踏み出す。
↑は何したいんだ?
いかにもインテリぶった荒らしだな。
生放送でコメしたら、主さんに「ネームわかるようにしてください」と言われたんですけど、どうすればいいんですか!?><
「こてはん」ってなんですかー?
美術を鑑賞する態度の基本は定義物質化である。
それによって構築された低エントロピー形相空間ではエレメントとしての目的が存在するため。
我々の目的は形相空間の構築と構築の定義である物質化、つまり無矛盾かつ無を仮定しないエーテル空間を成すものである。
三次元空間を二次元平面に写し取ることができるのは要素を論理的格納しているためである。
定義物質化は要素を視覚化する手段であり、その形相空間を三次元空間に格納することで美の概念となる。
その定義物質化と格納術こそ美学の理論の本質と思って相違ない。
『美』の世界へと身を投じてみよう
身を投じるという行為には理論などは関係ない
ただ純粋な自己という生命がその現象の中に入っていくことである
そうして見えてくるのは『善』の世界である
その世界には幸福のみが存在し、その世界にのみ幸福が存在する
自己と美学の融合である。
その『美学』はあらたな日常となる
対象への『信仰』とは対象そのものと同化することである
それは生活空間であり、生命の住居である
無価値を悟ったとき我々は生きる意味を失う
なぜなら目的と同化したならば生きる必要性がなくなるためである
そのとき生命は肉体的活動によって信仰が失われぬように
永遠にして純粋な『死』を望むだろう
往来する『生』より固定した『死』こそ信仰である。
no nameさんコメントしすぎですよww
どんだけ伸ばしたいんですかww
今までやってきたことを確認すると当初に掲げた数理哲学は
長らく抽象的な議論が続き、哲学の数理化は不可能ではないかと頓挫しかけたものだが
大きく分けて、精神機能から始まり数学的論法、波動振動、波動形式、真善美、形相世界
と議論を重ねてきた内にある種の回答らしきものを見出せたといえる。
それは三体系、真善美が存在し、真は物質世界、美は形相世界、善は精神世界を示すものである。
真における機能表示(波動形式)による四原因論、
美におけるエントロピーの解釈による人間文化の理解、善における非論理と信仰の構造
真の議論は物質世界の現状を把握し正しい答えを見出す方法でありこれを使って
人文系・数理系学問の基礎理論まで視野を広げることに成功した。美の議論でその方法論を軸に精神世界まで拡張し
美術の鑑賞態度、音楽の演奏技術、絵画・文芸の創作方法、礼儀作法、コミュニケーション論まで追求した。
数理化には程遠いものの広大な砂漠を彷徨っているような
哲学議論の初手の定石という名のイデアルを示す程度はできたのではないだろうか。
現代科学は人類の大きな力学あり世界は人類の思うがままと信じる人間も多いが、哲学上の議論の多くは未解決であり
言語の抽象性と格闘しながら難解厳密な概念を多く生み出してもなお収拾がつかない状態である、
その難解な問題を解決することは人類の大きな進歩となる。
それは未だ不幸に生きる人類として地位に慢心し運動原理を失い、生きる理由を捨てることは無いという安堵でもあるだろう。
右上はサンタさんからみんなのニコニコを待っている
東京都マンガ規制条例は、志布志の冤罪事件の元鹿児島県警本部長の名誉回復のため
http://hato.2ch.net/test/read.cgi/news/1292053346/
美術・芸術は単なる自己満足ではない。
全ての作品に優劣はなくそこには個性のみが存在するという論もあるが、
形相世界を介した社会への貢献性という観点で優劣をつけるべきというのが持論である。
もう初心者スレですら無い
「にありがち」が抜けてた…
アンケがひどいw
欧米の人間は4人に1人、テレパシーの経験があるという人間が居るという
それは精神世界を通じて聖人の言葉を聴くかのような体験である。
宇宙人と交信していたといわれる偉人ソクラテスのダイモニオン、カトリックに抗うプロテスタント派
宗教革命の中心人物であるマルティン・ルターが聴いたとされる天からの声、
仏教祖の釈迦族ガウタマシッタルーダの悟りとヒンドゥー三神の一帝釈天ブラフマーの教え
それらはユダヤ・キリスト・イスラームの聖典、旧約聖書モーセ黙示録のように運命を導く三大天使の聖なる言語である
万能の才といわれる暗黒の中世時代を切り開いた近代ルネサンス期代表と言うべきヴィンチ村のレオナルド・ダ・ヴィンチのように
真・美を極めたとき、それはすなわち南無妙法の悟りとなり
聖人もしくは如来との聖なる議論(ディレクティステス)に
加わることを許され善の霊感を得ることができるのだろうか。
善を知ることは形而上学を知ることに近い。
私は無意識にニュートン力学の仮定を信じ込まされていたのかもしれない。
ロマン派を代表するゲーテの戯曲がシュルレアリズムを通じて
カントの物と区別される物自体という独特な転回を語りかけるかのように、
物理学的知性との対抗派閥を築き、一の感官を二つに分裂させるかのような眩暈を感じざる得ない。
このようなことならば初めから物質を信仰しなければよかったのだ。
本質は形の上の存在である表現のみを信仰することのみが知性的であり続ける条件だったのかもしれない。
しかし、一介の庶民がそのような知性を持って生活する余裕などどこにあるだろうか。
カテゴリーを超える知など存在せず、信仰のみが全ての観念を属性付け、
認識は不確定性原理のように物質と精神の両極を同時に観測できない形式となっているのだろうか。
訂正>>981
ディレクティステス→ディアレクティケー
訂正>>981
宗教革命→宗教改革
精神分析的に美学は精神病への効果も考えられる
強い自我は否定されることを恐れ他者を斥する力を求めたがる
自我を分裂させないための唯一にして最善の手段である
猶予期間があるならば義務と言う名目の
自我を否定する構造を作り自己への固執を捨てていかなくてはならない
理性を美学でその色を薄めたとき自然と合理性とは別の決まりごとが増えるだろう
四次元空間に拡張された配色は同一のものは少ない
すなわちそれは精神に実在する鮮やかな色と組み合わせである
実在という再現性をもつ概念は信仰する理由としては十分である
三次元を直感的に認識するには物質の曲面に影をつけたり
質量感を主張するような配置なども可能である
認識をするための工夫は言語的、物理的などから制約を作ることで精神や物質の状態を写し取ることができる
そして作品は自己を主張する生命力を持つ
音や連続・非連続、位置、タイミングあらゆる要素は表現手段である
そこから思い出されるイメージとそれらの統一感が作品の生命の詩であろう。
その要素は生物の肉体が分断されたとき生命を保持できないように
作品も同じくイメージの統一性が損なわれるため分解しすぎは不可である
だがどうしてもイメージが限られる場合、要素への分解は可である
言論弾圧気質のサイトであることを理解せずに利用する
いくら自由を主張しようと因果律は存在する
因果律を否定し事実を見定めようともせず自由であろうとすることは
逆に事実に追い込まれても曲解しますます立場を悪くする
即ち不自由であろうとすることと同義である
直感とは本質を映し出すものではなく表面を映し出すものである
そして直感とは分析と同義であり、根拠も無く発生するものではない
直感的イメージとは単なる想起のことに他ならない
記憶と想起と情報の離散結合と善悪付けが精神の要素である
善悪とは本来主観的なものである
部分的な善悪はほかの部分的な善悪とは全く異なる
妥当性は信仰を築くが精神文化の妥当性は存在しない
即ち他者の精神を自分の精神を通じて知ることはできない、つまり一般大衆の心理を知ることはできない。
しかし活動の妥当性が想定できるものに限り共感が可能である
大局の力学は存在しないと考えてよい
我々はあくまで個を主張する存在に過ぎない
ただし、常識という集会場での理性的見解である
どっからどこまでが初心者の定義だよ
アホか
井の中の蛙大海を知らず
>>997ならうんこしてくる
まんこなめてくる
表現とは概念を写すものである
しかし、言語で表せないものを直感で知る必要がある
これを現象学の言葉で『本質直感』と呼ばれる
語彙とはその意味より形に表される美学である