現在表示しているスレッドのdatの大きさは419KBです。
レス数が1000を超えています。残念ながら全部は表示しません。
「自重」を「じじゅう」と読む
美学的な感性とはすなわち空気を読む能力に等しい。
あらゆる場にはそれぞれ特徴的な空気があり、それを読むことで知識へのエネルギーとなり、
精神的活動としての道具へと加工し、知的生産性を得ることができる。
美学すなわち興味に通じなければいずれも手に入れることはできないだろう。
神学には物語における神聖さのみがあり、それを表現する神の通路と呼ばれる天井の高さはまさに宗教の美学を表現しているといえる。
宗教に生産性がないなどと言う人間は、要するに宗教活動に対する知的生産性がない人間であり
コミュニケーションの機会、そして人脈の限定的な人間という生存可能性への由々しき問題を抱えているといえる。
wを付ければ、暴言吐いても許されると思ってる。
削除済
美学に通じる人間はどのような場においても環境への柔軟な適応力を持ち生存可能性が高い。
美学とは学問を超えた学問であり、唱えられる論の全てはあらゆる枠を取り払う万能理論である。
それは芸術的な感性を基本とし理論や鑑賞のみではなく文芸・絵画・演奏の実習的な経験知も怠るべきではない。
そうすることで特有の概念である形相世界の本質を直感的に理解し表現が可能となる。
美学の対象は人間の文明全てであり
その目的は思想が形成する形相空間を美に基づいた真や善を表現することであり
物質中心の世界に形相空間を認識させ救済することである。
ケータイでプレミア会員なったのにpcは一般会員のままってどうしてなんですか?教えてください><
高エントロピーの場や低エントロピーの場をどう定義すればよいだろうか。
我々の認識に依存するものならばそれを確実な再現性を持たないため定義する必要性が生じる。
形相世界は波動非物質の空間でありそれは物質の機能の合力から生じた
物理学的意味とは異なる非物質空間であるため従来の三次元空間とはまったく定義が異なりむしろ
物質と呼ばれるものはただ一つを実態とされ下部の構造を物質と我々が定義するいわばモナドロジーの空間である。
従来の物理学は実存主義的であり、構造主義的な見方を取り入れ
物質世界と精神世界の垣根を取り払う美学を新時代の学問としての地位を築くべきである。
さらに善の概念を取り入れた宗教学へと発展させたいところである。
美学を知るためには感性的活動としての芸術・宗教分野、理性的活動としての学問分野の全ての美学に通じる必要がある
あらゆるものから美を見出し、理解し理論化していく態度である。
芸術・宗教分野に欠けるならばものの見方を狭め美学を見出すことができず
学問分野に欠けるならば現実への応用を見出せない自己満足となる。
人間文明の全てを理解する認識の喚起と真の認識となってこそ社会貢献の形相世界の最大尤度となる。
宗教学となったとき我々は完全なる精神世界での活動が可能となる。
それは物質世界から完全に独立した虚構・フィクション世界であり。
誰もが思い通りに世界を動かすことができるだろう。
我々が認識する世界は本来物質世界ではなく、精神世界であることはかの有名な文句でルネ・デカルトの証明した通りである。
人類の思想が行き着く先は完全なる精神世界である。
>>956
だってプレミア会員のニコモバのアカウントでもPCで利用しても問題無いしな。
わざわざ余分に金払う必要は無いと思うんだが?
俺はニコモバのアカウントしか持って無い。
我々が娯楽を求める意義とは端的に精神的エネルギーを得るためでありその本性は目的への運動である。
生命は本質的に目的への運動となることに労力を惜しまない存在であり、娯楽は本能的なエネルギーを引き出すことができる。
生命の目的とは第一に生存であり、生存するための目的が派生し樹形状となって無限に枝分かれすることは想像に難しくない。
目的は形相世界の定義物質であることは前述の通り、
娯楽の全ては形相を表現し認識を具体化することは目的への活動として精神的エネルギーを引き出すことができる。
なんか論文みたいな文章べて書き込みしてる奴がいるがよそでやってくれ。
今年のクリスマスもこたつでニコニコ!
美学を見出す
それは赤橙しく活動的なのか、流線上の繊細なのか、瞬く高速なのか、白光の神秘なのか、古代の厳格なのか
その文明や学派はどのような色(シキ)なのか
思想という非日常を通過することで色を手に入れることができる
それはウィリアム・J・グードの宗教観における自己(ヴァリアブル)の加速度において
我々は運動原理を得て、踏み出す。
↑は何したいんだ?
いかにもインテリぶった荒らしだな。
生放送でコメしたら、主さんに「ネームわかるようにしてください」と言われたんですけど、どうすればいいんですか!?><
「こてはん」ってなんですかー?
美術を鑑賞する態度の基本は定義物質化である。
それによって構築された低エントロピー形相空間ではエレメントとしての目的が存在するため。
我々の目的は形相空間の構築と構築の定義である物質化、つまり無矛盾かつ無を仮定しないエーテル空間を成すものである。
三次元空間を二次元平面に写し取ることができるのは要素を論理的格納しているためである。
定義物質化は要素を視覚化する手段であり、その形相空間を三次元空間に格納することで美の概念となる。
その定義物質化と格納術こそ美学の理論の本質と思って相違ない。
『美』の世界へと身を投じてみよう
身を投じるという行為には理論などは関係ない
ただ純粋な自己という生命がその現象の中に入っていくことである
そうして見えてくるのは『善』の世界である
その世界には幸福のみが存在し、その世界にのみ幸福が存在する
自己と美学の融合である。
その『美学』はあらたな日常となる
対象への『信仰』とは対象そのものと同化することである
それは生活空間であり、生命の住居である
無価値を悟ったとき我々は生きる意味を失う
なぜなら目的と同化したならば生きる必要性がなくなるためである
そのとき生命は肉体的活動によって信仰が失われぬように
永遠にして純粋な『死』を望むだろう
往来する『生』より固定した『死』こそ信仰である。
no nameさんコメントしすぎですよww
どんだけ伸ばしたいんですかww
今までやってきたことを確認すると当初に掲げた数理哲学は
長らく抽象的な議論が続き、哲学の数理化は不可能ではないかと頓挫しかけたものだが
大きく分けて、精神機能から始まり数学的論法、波動振動、波動形式、真善美、形相世界
と議論を重ねてきた内にある種の回答らしきものを見出せたといえる。
それは三体系、真善美が存在し、真は物質世界、美は形相世界、善は精神世界を示すものである。
真における機能表示(波動形式)による四原因論、
美におけるエントロピーの解釈による人間文化の理解、善における非論理と信仰の構造
真の議論は物質世界の現状を把握し正しい答えを見出す方法でありこれを使って
人文系・数理系学問の基礎理論まで視野を広げることに成功した。美の議論でその方法論を軸に精神世界まで拡張し
美術の鑑賞態度、音楽の演奏技術、絵画・文芸の創作方法、礼儀作法、コミュニケーション論まで追求した。
数理化には程遠いものの広大な砂漠を彷徨っているような
哲学議論の初手の定石という名のイデアルを示す程度はできたのではないだろうか。
現代科学は人類の大きな力学あり世界は人類の思うがままと信じる人間も多いが、哲学上の議論の多くは未解決であり
言語の抽象性と格闘しながら難解厳密な概念を多く生み出してもなお収拾がつかない状態である、
その難解な問題を解決することは人類の大きな進歩となる。
それは未だ不幸に生きる人類として地位に慢心し運動原理を失い、生きる理由を捨てることは無いという安堵でもあるだろう。
右上はサンタさんからみんなのニコニコを待っている
東京都マンガ規制条例は、志布志の冤罪事件の元鹿児島県警本部長の名誉回復のため
http://hato.2ch.net/test/read.cgi/news/1292053346/
美術・芸術は単なる自己満足ではない。
全ての作品に優劣はなくそこには個性のみが存在するという論もあるが、
形相世界を介した社会への貢献性という観点で優劣をつけるべきというのが持論である。
もう初心者スレですら無い
「にありがち」が抜けてた…
アンケがひどいw
欧米の人間は4人に1人、テレパシーの経験があるという人間が居るという
それは精神世界を通じて聖人の言葉を聴くかのような体験である。
宇宙人と交信していたといわれる偉人ソクラテスのダイモニオン、カトリックに抗うプロテスタント派
宗教革命の中心人物であるマルティン・ルターが聴いたとされる天からの声、
仏教祖の釈迦族ガウタマシッタルーダの悟りとヒンドゥー三神の一帝釈天ブラフマーの教え
それらはユダヤ・キリスト・イスラームの聖典、旧約聖書モーセ黙示録のように運命を導く三大天使の聖なる言語である
万能の才といわれる暗黒の中世時代を切り開いた近代ルネサンス期代表と言うべきヴィンチ村のレオナルド・ダ・ヴィンチのように
真・美を極めたとき、それはすなわち南無妙法の悟りとなり
聖人もしくは如来との聖なる議論(ディレクティステス)に
加わることを許され善の霊感を得ることができるのだろうか。
善を知ることは形而上学を知ることに近い。
私は無意識にニュートン力学の仮定を信じ込まされていたのかもしれない。
ロマン派を代表するゲーテの戯曲がシュルレアリズムを通じて
カントの物と区別される物自体という独特な転回を語りかけるかのように、
物理学的知性との対抗派閥を築き、一の感官を二つに分裂させるかのような眩暈を感じざる得ない。
このようなことならば初めから物質を信仰しなければよかったのだ。
本質は形の上の存在である表現のみを信仰することのみが知性的であり続ける条件だったのかもしれない。
しかし、一介の庶民がそのような知性を持って生活する余裕などどこにあるだろうか。
カテゴリーを超える知など存在せず、信仰のみが全ての観念を属性付け、
認識は不確定性原理のように物質と精神の両極を同時に観測できない形式となっているのだろうか。
訂正>>981
ディレクティステス→ディアレクティケー
訂正>>981
宗教革命→宗教改革
精神分析的に美学は精神病への効果も考えられる
強い自我は否定されることを恐れ他者を斥する力を求めたがる
自我を分裂させないための唯一にして最善の手段である
猶予期間があるならば義務と言う名目の
自我を否定する構造を作り自己への固執を捨てていかなくてはならない
理性を美学でその色を薄めたとき自然と合理性とは別の決まりごとが増えるだろう
四次元空間に拡張された配色は同一のものは少ない
すなわちそれは精神に実在する鮮やかな色と組み合わせである
実在という再現性をもつ概念は信仰する理由としては十分である
三次元を直感的に認識するには物質の曲面に影をつけたり
質量感を主張するような配置なども可能である
認識をするための工夫は言語的、物理的などから制約を作ることで精神や物質の状態を写し取ることができる
そして作品は自己を主張する生命力を持つ
音や連続・非連続、位置、タイミングあらゆる要素は表現手段である
そこから思い出されるイメージとそれらの統一感が作品の生命の詩であろう。
その要素は生物の肉体が分断されたとき生命を保持できないように
作品も同じくイメージの統一性が損なわれるため分解しすぎは不可である
だがどうしてもイメージが限られる場合、要素への分解は可である
言論弾圧気質のサイトであることを理解せずに利用する
いくら自由を主張しようと因果律は存在する
因果律を否定し事実を見定めようともせず自由であろうとすることは
逆に事実に追い込まれても曲解しますます立場を悪くする
即ち不自由であろうとすることと同義である
直感とは本質を映し出すものではなく表面を映し出すものである
そして直感とは分析と同義であり、根拠も無く発生するものではない
直感的イメージとは単なる想起のことに他ならない
記憶と想起と情報の離散結合と善悪付けが精神の要素である
善悪とは本来主観的なものである
部分的な善悪はほかの部分的な善悪とは全く異なる
妥当性は信仰を築くが精神文化の妥当性は存在しない
即ち他者の精神を自分の精神を通じて知ることはできない、つまり一般大衆の心理を知ることはできない。
しかし活動の妥当性が想定できるものに限り共感が可能である
大局の力学は存在しないと考えてよい
我々はあくまで個を主張する存在に過ぎない
ただし、常識という集会場での理性的見解である
どっからどこまでが初心者の定義だよ
アホか
井の中の蛙大海を知らず
>>997ならうんこしてくる
まんこなめてくる
表現とは概念を写すものである
しかし、言語で表せないものを直感で知る必要がある
これを現象学の言葉で『本質直感』と呼ばれる
語彙とはその意味より形に表される美学である
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。