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波動構造における潜在構造とは「美」という天上的な価値観を持ったものである。
波動構造は地上的価値観であり、潜在構造であるイデア界が基体のリゾーマタとなっている。
天上の理性(ロゴス)は地上の基準尺(カノン)とは全く異なるものであり、
大きな違いとしてはイデア界は数学的基準尺を持たないため波動解析が不可能である。
誤解のないように言うと、波動構造も潜在構造も主観的であるが、天上界と地上界の相違がある。
そして、波動解析では主客問題の解決はできないが潜在構造を認めたとき主も客も同一構造であることがわかる。
潜在構造はイデアの絶対性を認めなくてはならないため、ゴルギアス的解釈の
時間という因果律のみを持ち「構造の壁」が存在する統一性の無いカオスの構造である。
しかし、純粋な美である「潜在構造的刹那主義」の絶対性において天上界より地上の新の姿を見ることができるのである。
それは「潜在波」であり世界の時間という系に保存される予定調和の波動を見る神の視点である。
全ての美は全ての真と善を統括する。これから虚構により潜在波を解析し、
ダイモニオンの解読と潜在構造的波動形式を成立させる。
自由意志を持ちうる理性のみが解析手段である。
プラトニックにおける因果律を見やすい表にまとめる。
構造主義:ロゴス可、カノン可、主観不可、矛盾不可、時間可、神不可、ケノン不可、美不可、虚像不可、構造可
波動形式:ロゴス可、カノン可、主観一部可、矛盾不可、時間可、神不可、ケノン不可、美不可、虚像一部可、構造可
潜在構造:ロゴス可、カノン不可、主観可、矛盾可、時間可、神恐らく可、ケノン可、美可、虚像可、構造不可(カオス)
矛盾が可能となっているため、時間においてのみ認識可能であり刹那主義の所以である。
波動形式において主観が客観的現象に変化をもたらすものであり、主観は客観的構造を持つものである。
多くの人間は主観に実態はないとしているが、確固たる作用因でありニュートン力学と同じ視覚化されない実態の
客観的現象であり心理学においても個人的思想のうちから客観的構造を見出すことに成功しそれを実態として扱っている。
ミクロ経済学にも限界効用として実態のように取り扱ったり、一部の思想は統計学において数学的説明も可能である。
思想はイデア界における客観的現象として扱うべきであり、我々が実態として扱うものは神の思想として再認識するべきである。
それを認めることで実利となり、それは真理であり世界の波動における潜在構造を知り興味を持つことができるようになる。
それにより運命を知り、神を知り、あらゆる神秘に触れ、真の幸福を得られるのである。
我々は真実や幸福を得るという使命を持ち生命を受けた以上、構造主義や波動形式の思想の鎖を解き放たなくてはならない。
幸福を得るために神を知るべきである。
潜在構造を知るためには神を認証し、イデア界として世界を再認識する必要がある。
このうざすぎる時報ってどうやったら消せますか?
0時近くは時間気にしながら動画見ましょう。
消せないのか・・・いい加減イラッとくるんですけど・・しょうがないか
つプレミアム。
プレミアムでも時報は流れます。
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%8B%E3%82%B3%E5%89%B2off
プレミアムは時報をオフできるんだよ。
>>726
なるほど〜ありがとうございました
一般でも時報を消す方法があるのにプレミアムに入ってしまう。
一般でも通常画質で見れるのに(ry
哲学的問いの発端はアルケーを水としてとらえる自然思想のミレトス派のタレスが言語ゲームを始めたという。
現代科学では根源(普遍の物質)が水でないことがわかっているが、仮にそれを信じることで波動形式の説明が可能となる。
ルールとして、世界の根源を水とし、全ての存在の単位をdl(デシリットル)に置き換えることを可能とすると
存在の素として水が存在し、その量において全ての現象が成り立つとすればX=Ax、X=現象名、A=水の単位(定数)、x=量
現象Xはx[dl]であるという関係式が成り立つ。イデア界も含めるため現象Yは主観的現象も含む。
次に、x[dl]の現象と同じ構造のY=Ayの現象があるとすると、単位が同じなので単に量の加算において新たな現象となる。
これを質料Xと(作用側の)質料Yの関係において変化質料Zが生じるため、Z=A(x+y)とすることができる。
この式は質料と作用の関係式であり、水を根源とした世界としているため実証するまでもなく式が成り立つことが分かる。
この関数を面積分f(x,y)=∬A(x+y)dxdyすることで座標上の基底が認識としての現象を示すため
質料と作用による認識のとりうる範囲(形相)を示し、物質の機能によって主観的にどのようにも物質を解釈できるという
認識の発散を示し決定不可能な作用{yN}={y0,y1,y2・・・}(N→∞)がそれを示している。
それを波動と呼びこの式で表される現象を波動形式と呼ぶ。
現象Zを媒介変数(s,t)として[dl]との単位の交換作用素とするとZ=A(xs+yt)であり
(x,y,s,t)による四変数による波動形式においてこの世界でこの法則が適応できることがわかる。
主観的現象における目的とはある認識(質料)であり、全世界の形相に含まれることは自明であり
積分範囲に含まれるため質料の波動を得ることのみが目的を得る方法論であると証明される。
現象構造化アルゴリズムとは、質料の波動から形相を得て、目的の波動からf(x,y)の解を求めることで
自動的に命題を解決する議論モデルであり主観を扱う自律思考のコンピュータアルゴリズムの原理になりうるだろう。
根拠もなく自演呼ばわりする奴らなんなんすか?
うほいいおとこ
波動形式では個人にとってのアンチノミーの解析は不可能である。
アンチノミーの原因は知識がないこともしくは、虚像が得られていないことである。
単に知識がないのならば調べればよいことだが、知識を得るに際してイメージ(虚像)を得なくてはならない。
虚像と知識の定義について単なる記号としての情報を「知識」、主観的に理解される情報を「虚像」とする。
この虚像は未来の実態であり、アリストテレスの言葉でそれを指し示すならば可能態である。
つまり、潜在構造の潜在とは人間の主観的現象に含まれる現在の可能態であり、未来の現実態である。
四原因説ではこれを目的因と呼び、その一部分は波動形式のマトリクスにより先験的知性(理論)を得る。
しかし、ここまでは数学的カノンが通用する地上界での話であり天上の理性として
人間のアンチノミーを超える超越論的知性が存在し、特に波動形式で触れられないこの現象を潜在構造と呼んでいる。
これがイデア界、つまり神の智慧であり、それは一刹那に思想に浸透し通過していく。
人間は無意識に神の智慧を授かり文明を発達させてきたが、
本論ではその根源を明確化させ意識的に潜在構造を利用できるようにする目的である。
ここまでのまとめとこれからの方針として
>>713-715に波動形式から潜在構造の可能性を見出し
>>718に各思想の特徴をまとめ
>>729に波動形式を明確に定義し
>>716->>719>>732に潜在構造の可能性を示した。
次項からおよそ10ページ分を費やし潜在構造をまとめ、
さらに2,3ページに利用のパターンを示し、4,5ページ分で潜在構造を明確化し定義を示す
その後はさらなる理論に派生しなければ未定である。
削除済
現象の構造において
物質構造、法則構造、波動構造、潜在構造が存在する。
ここで注意したいのが主観は存在しないことである。
主観とは物質界への作用因であり、思想が方法へと形を変えて物質界に存在する。
どのように物質界が数学的に厳密化されようとそれは、認識上に存在する主観的世界である。
このように主観や客観など存在しないことがわかる上、これらの現象をわざわざ分割して考えることは不都合な点も多い。
主観と客観を隔てる証明などいままで存在しない。それは元から幻想であり、
神がすべてを創造したイデア界としたほうが全てのつじつまが合うのである。
次項から潜在構造のためのイデア界の話を発展させていく。イデア界の認証なしに潜在構造を理解することは不可能である。
私は中世スコラ哲学のトマス・アクィナスの目指した天上と地上のアナロギアを潜在構造により証明する。
天上のロゴスのプシュケである潜在構造を知る術は波動を得るときに生じるパトスである。
潜在構造とは唯一天上のト・アペイロンから連なる地上界におけるエチカの幾何学であり、
スピノザの言う唯神論においてデカルトの主客の無矛盾の統合が可能である。
スピノザは神の数学的証明を試みたが、数学とは地上界のカノンであり、
私はパトスとロゴスにおいてのみ知ることができるという見解の違いがある。
同近代の哲学者ライプニッツは唯一の構造をモナドロジーに纏め上げ主客問題の解決と同時に
地上はモナドという普遍なるものを鏡により映し出された幻影だと言う。
構造主義がこのもの性を否定するかのごとく、全ての現象を構造化したとき独立の存在が崩壊する。
しかし、神は衆生のこのような存在のあり方において幻影なるイデアで創世を築いた時、
神はその身を隠すことで独立した存在を認めたならば、構造のカタルシスかのごとくパトスが満ち溢れるアタラクシアを築く。
しかし、このようなあり方について現代科学は不可知な構造を再び呼び起こそうとしているのである。
それは衆生に不幸という報復においてアポカリュプシスする予定調和のロゴスを持っているのかもしれない。
構造主義は崩壊の予兆であり存在が構造となったとき無機物のようなロゴスに至り事実上の死(ケノン)となる。
これにおいても神は不可侵なものという説は強まる。
このように神の存在を認識したときロゴスやパトスの働きにおいてのみ世界の真理へと近づくことができるのである。
科学的な議論は構造主義と波動形式によってまとめられ、哲学的な議論は波動形式によってまとめられ、
神学的な議論は潜在構造によってまとめることができる。
潜在構造の分析は神学的議論を形相とした面積素を波動形式により解析する現象構造化アルゴリズムで行う。
無論、完全に自動化するのではなく私自身のロゴスとパトスにおいて発想を得る。
刹那的な虚像(直感イメージ)の解析と意識化、美学の構造化、神学特有の物語性、イデア界との関係性、
最後に論理への活用法と全世界の構造化と神の定義について論じる。
質料の波動と目的の波動から有効な情報を得る。
波動では作用により認識の発散が起こるが、無意識的な発散も存在する。
それが非構造の流体知であり刹那的な虚像の発想点である。
完全に固形化した知識は存在せず、エーテル(作用側)のように知識は繋がりの少ない形で構造化されている。
作用エーテルは質料から目的へと波動を接続する。
我々は無知であり知識の体系を予め知るものではないため、高度な現象にある知識の法則性を知らない。
だが、形相を質料と作用で満たし発生する法則性を哲学(生活)に解空間を持った時、
知は哲学的法則におけるエーテルとなり質料と目的を満たす形相となり、善悪で編まれた目的の波動を自由に得ることができる。
波動による誘電は構造化された知識の波動を無意識的に受容したとき非構造(潜在構造)の流体知を形成する。
法則の固形化により刹那的な虚像が発生し、質料と作用により構造化し、
法則の善悪解釈からエーテル空間に接続した時初めて知の形相化となる。
ただしい善悪判断ならば、流体知であろうと質料の配列から波動となりうる。
認識の段階として善悪二元からなる質料の配列を導入した場合の論である(本文は発想段階であるが用語は引き継ぐ)
善悪は単に客観性を得る判断基準であり配列とは関係ない。
善悪の発生条件は客観性であり、エーテル構造のシミュレートから得られる可否に従属する快不快の反応である。
無論、客観性を持つ理由は思想を方法化するための管理法である。
あくまで質料と作用のみが認識を形成し波動の総和において形相となる。
この場合エーテル空間は作用側の質料であり、知識はエーテル空間により初めて主観現象の客観性となる。
客観的主観のエーテル空間は客観と一致するため、善悪が真理ならば自然現象と一致する。
与えられた知識は主観的現象における客観的一致をなす為、善悪判断に置かれた時、認識としての質料や作用と定義される。
質料と作用の結果はエーテル空間で明確化された時、善の判断がおかれる限り形相となる。
お尻の穴と間違える
コメントの内容について、運営側からの直接解答は原則いたしません。ご了承ください。
波動形式の例示と再定義として形相をf(z)=1/2n(z1+zN)の等差数列とし、変化質料をz=A(xs+yt)とする。
水を根源とした世界の単位であるA=1[dl]から周波数[hz]の単位に交換する場合。
x=100,y≦5の場合、離散的な量が認識限界とすると形相は
A=1[hz/A],z=A(100[hz]/A+y[hz]/A)⇔z=100+y,y1=0,yN=5,n=6としてz1=100,zN=105,f(z)=615[hz]となり
質料100dl作用5dl以下の場合、形相は615hzであり主観質料(目的)は100≦D≦615となる。
無論[dl]と[hz]の交換は現実には不可能でありパラメータが残るが現実世界に適応でき、主観問題を不等号で取り扱えることがわかる。
頭がパーン系動画の赤字にマジレスをする。
我々の目的は生命活動そのものであるが、言葉通りにただ生きることのみが目的ではない。
活動のうちに生命の波動を持ち、これが我々は快不快としてとらえる善である。
善の基準は思想であり、生命活動を通して得られる価値観であり構造主義台頭のポストモダン思想は構造化が善の指標となっている。
構造化とは知識を管理し行動の合理性を高める行為である。
よって現在の善の定義とは知の構造化であり、合理的行動の潜在性を得ることが我々の目的の波動である。
合理的行動によって知識の管理をすることで生命の波動を得ることに成功する。
構造には、論理物質構造、波動構造、潜在構造があり、我々が目指すべき潜在構造とは波動構造の直感性を高めた形態である。
波動構造とは波動形式のことであり、論理物質構造という現代思想である科学信仰に
四原因説と機能主義と唯名論を基とした波動(認識の発散)の概念を加えたものである。
論理物質構造の欠点とは主観定義(客観定義の質料。客観は主観の形相という関係がある後述)が全く扱えない思想であり、
波動形式の欠点とは直感性(パトス)の欠如である。
パトスとは本質の波動への善悪(波動解釈における真実への反応)であり、
全ての現象から本質の波動において知識を形成するとき潜在構造となる。
これは比喩においてよく現れている現象であり、「〜のようだ」は虚構を含む波動解釈である。
潜在構造の定義材料は揃ったが、主観と客観と真善美の関係性を先に定義する。
ある現象に関して音楽や芸術における情緒が現れるのも波動現象として説明可能である。
芸術的表現や音楽的表現は現象の波動解釈の一であり、質料の最小単位に近いと思われる。
主観は客観の質料であり、第一定義は必ず主観によるものである。
その主観は数学的構造美であり、それぞれの概念が幾何学的エチカに合致したとき客観的定義となる。
これは質料と形相の関係から主観を質料とした集合を形相の客観と定めることもできる。
そして、客観的真実に対する反応が善悪としての快不快の生物的反応である。
その内、美とは本質的真実に対する善の反応であり、真善美の関係とは真実に善悪が対応しより本質的な真実を美とした善である。
主観の内には虚構も存在するが真実も存在する空間であり、客観とは真実のみ存在する空間といえる。
この場合において客観が思想として信頼を寄せるものであるが、主観を重要視しない思想においては本質的真実を見出せないものとなる。
虚構とは真実ではないものを指すが、この真実とは論理物質的構造における真実であり、潜在構造の真実はむしろ虚構に含まれる。
つまり本質的真実を得るためには客観における真実を否定し、虚構を主観における真実と虚構に分けなくては第一定義の美は存在しない。
無論、虚構や出鱈目な論を信仰しようという話ではなくあくまで理性による真実の追究である。
それにおいて命題・証明系の幾何学的考察が必要不可欠なのはいうまでもない。
潜在構造は幾何学的美のロゴスを持ち本質的真実のパトスをもち、波動形式においては数学的定義を行った。
パトスも波動形式における数学的定義のマトリクスにおいて論証可能であり、単なる思い付きのことではない。
次項は、主観と客観、ロゴスとパトス、表面的真実と本質的真実と虚構、
真善美のメカニズムを波動形式的に解釈して潜在構造を完成させる。
次に示すのは言語の定義である。
真実:表面的真実、本質的真実
美:本質的真実への幾何学的エチカをもつ善による快不快の生物的反応
善悪:真実と虚構への快不快の生物的反応
主観:表面的真実、本質的真実、無価値な思想(虚構)、客観の質料
客観:表面的真実、主観の形相
ロゴス:表面的真実を目的とした思想
パトス:本質的真実を目的とした思想
波動形式:ロゴス優位の真実を目的とした表面的真実と本質的真実の構造
潜在構造:パトス優位の美を目的とした本質的真実の構造
潜在構造は必ず数学的構造を得ることが定義の条件である。
潜在構造の定義を示したとき、これを用いたケースにおける議論の収束を行う。
コピペじゃないところが痛いな
質料なの?
質量なの?
論理物質構造と波動構造の違いは目的の概念の有無である。
論理物質構造は質料と作用と形相の形式まで記述可能であり無意識的に質料と作用の関係性と形相の質料化を行っているが、
主観性と客観性の明確な定義がなされていないため目的が形相に含まれるがこれは生命の記憶から善を引き出しているに過ぎない。
生命の記憶とは全世界の可能態・非可能態質料を持ち潜在構造までの善悪の基準となりうるが
膨大なデータベースからソートの手段が存在しないため波動を意識的に引き出すことができず
その場の波動を無意識的に得るだけの場当たり的で動物的な思想に頼らざる得ない。
我々は質料における潜在性を意識的に操作し管理しなくてはならない。
アナクシマンドロスやプラトンやアリストテレスなどの古代ギリシャ哲学を唯一統合しうる思想である
様々な誤読ネタにマジレスする
アメリカ語等明らかなボケにもマジレスする
こういった既存のネタに限ったことじゃないけど
2chと違って即時性が無いから自分のレスがどれほど滑稽か気付く事が出来ないんだろうね
我々は連続的で修正不可能な記憶を引き継ぐために定義をしなくてはならない。
定義とは目に見えるものより確かな論理の鎖である。
その内では思想だろうと物質だろうと関係はない。だが思想の言語による定義は不確実である。
削除済
人間の記憶は波動形式である。
つまり物質は物質としてではなく物質の構造としての波動的解釈において記憶となる。
このように人間の思考機能においてもほぼ波動形式の潜在構造において説明が可能である。
潜在構造に数学的定義がなされれば思考機能の管理ができるようになる。
数学的定義とは単位と量による記述であり厳密な定義である。
必要な材料とその分量を表示する論理である。
波動解釈として現象を理解し、形相によって目的(オブジェクト)を得ることが波動形式であるのに対し、
神のイデアとしての我々の美学をエチカにより解釈を行うのが潜在構造である。
つまり全ての波動は神に帰属し、波動は理性を持つ。
なにかしら現象に関するイメージをもったならばそれはアポカリュプシスであり真理である。
第一実態の波動は常に理性的であり、人間の理性はそれに準ずるものである。
神の定義を行わなくては数学的証明には至らないだろうが神の構造である人が神を知ることは不可能である。
潜在構造は神秘の領域であり数学的証明の不可能性とする。
それと共に社会的現象は各個人の主観的構造の集合であるため主観的であるべきとなる。
理想的な思考モデルが提示されても連鎖的な不可知が大きな形相であるため波動から予知することはできないだろう。
個人は地球に及ぶ波動を持ち、地球は宇宙に及ぶ波動を持ちまさに不可知である。
次項から人間はどうあるべきかという命題において理想的な主観としての客観を論じる。
人間は現象に対し波動解釈を行う。
オブジェクトの波動が現象に感じられたときそれを善の波動とし、より根源的であれば美の波動を得る。
波動における主観的イメージは抽象的でありオブジェクトのイメージを
多元的(真実を一元的とした)に結合しそれを全て含むものが解である。
これは記号が意味を持つように起因元の不完全イメージであり、これを完成させるイメージが現実態である。
質料の主観的イメージは波動解釈において行われそれを潜在性としこれが思考機能の理解である。
波動形式はほぼ人間の思考そのものである。
オブジェクトの波動が形相に含まれていれば質料において波動を得る条件である。
しかし、一つの形相は作用変数から無限大の構造を持つという認識の発散が起こる。
認識の発散を起こさないために作用変数の閾値を現在の環境の波動解釈とすることが条件である。
例えば機能や成分が不明な物質があったとして、我々はそれを解釈するためまず形状や色などの情報の波動解釈を行う。
それにより虚構の多元的オブジェクトを形成し、
一元への収束を行ったとき真実の一元的オブジェ(全ての系で説明される虚像。本質)となる。
・ここでのオブジェクトは虚像の形相、オブジェは虚像そのものである。
・これは潜在構造の論であるが、波動形式の一解釈として統一する。
・オブジェクトに対応してオブジェと名づけたがイデアから神学的解釈を削ぎ落としたものとほぼ同様の意味である。
つまり目的であるオブジェクトは形状や色など曖昧な情報しかない物質から一つのオブジェとしての一元的解釈を行うことと一致する。
この文章において三段論法を使えば目的は多元的物質であることがわかる。
この概念上の非物質は波動からのみ得られることは今更説明不要だがそれを強調するため多元的波動非物質とし
対応するオブジェを一元的物質(オブジェクトの収束は波動非物質の非波動物質化を意味する)とする。
我々がある種のパトスに応じて波動非物質を見出したならば、波動形式に従うことで物質に収束することができると言える。
イデアが主観のものであるとすれば神が創造したという世界観は崩壊し唯一自然のみが正しいということになる。
神学的議論において神が存在することはこの世界が存在する必要条件であることは確定的である。
よって人間の意志が物質から形成されようと潜在構造において神は存在する可能性はある。
潜在構造的には人間の持ちうる非物質は神の導きであると解釈するが波動形式の非物質の扱いはあくまで主観の枠内の話である。
そもそも不完全な人類の議論において神の肯定否定に話を持ち込むことはおかしなことである。
よって本論では神の存在において肯定も否定もしない。そして、波動形式と潜在構造の関係性においては判断停止する。
神の存在や潜在構造については世界の解釈を理神論的立場で論じ、波動形式の場合は唯物論的立場で論じる。
削除済
私の語る神学は西洋哲学・仏教哲学・インド哲学から学んだものでしかないが、この機に神学への学び試みようと思う。
ベルクソンは連続的な時間に広がる空間のうちに人間の質的広がりがあるとしてエラン・ヴィタール(生の躍動)を唱えた。
実存主義の人間の死生への拘りはまさに主観のうちに存在する現象を客観的に実証するものだったといえる。
しかしこの非物質の存在感と生命力をなんと著せばよいだろうか。
波動形式において形相の広がりを無限大へ認識の発散(波動現象)を自由とすることで自我を現してはいるが
この無限大において非物質における質的0の空間を呼び起こすものなのかはわからない。
主観的現象の存在が真ならば、これは非ユークリッド幾何学的な議論なのかもしれない。
もしくは因果律すら崩壊させる超越論が存在するのだろうか。
リーマン球面などの無限の扱いは自然の幾何学的解釈を超えるものである。
水を根源とした世界において無限大の計算をしてみると
z=A(x+y)にxに代入する質料[dl]とy=∞とすると無限大との加算によりz=∞、xは任意の定数となる。
これは質料はどのようなものであろうと作用が無限大である限り形相は無限大でありこれは作用因である人間の価値を表している。
そして時間は有限であり、アンチノミーの値域により人間の価値は有限確定となる。
つまり、人間は物質への作用を決定できる限り物質の形相の潜在性のみを入れる箱のようなものである。
我々の価値が潜在性の量だけ持ちうるとすればアンチノミーの少なさだけ価値が存在すると言える。
しかし、人間の自由とは例え時間が有限であろうと突如神が現れ智慧を授けると言う可能性もあり
その可能性(潜在性)において人間は自由と言える。
そもそも現象学的に認識の捕らえる客観は物自体ではないとすると自我は無限大の自由へと旅立つのである。
人間の潜在性は無限大の物質という形相を持つ。
それは波動形式的に全ての物質に言えることであり、神の介在により全ての物質は神の波動を持つ。
我々が物質を一つ粗末に扱うことは神への冒涜となりそうだが、存在は破断分割されようと無になることはない。
そもそも水を根源とする世界のように存在が一元の世界だとすると、全ての自然は各々名前と言う単位を持つだけの
本質的に同一の存在であるため例え万人の闘争状態となり全て破壊され尽くしても神の目には何事も無い様に映るはずである。
これが真の自由であり、これに異議を唱えるならば同時に神や認識や自我の否定、もしくはこれらの一つでも否定すると
物自体の世界となり全ての価値は有限となる。多元波動の世界において物質は存在しないため結局どちらかの論が真実となる。
削除済
言語空間は多元的オブジェクトにより作られる波動非物質空間であり、数的空間は一元的オブジェにより作られる非波動物質空間である。
つまり言語によるオブジェクトを数式によるオブジェに書き換えたとき物質化する。
例えば、言語を巧みに扱う詐欺師に出会ったとして言語を用いてどちらが論理的であるかの勝負となったとき、
論理的か否かの客観的評価の最高価値はまずだんまりである。なぜなら語らなければ虚構はない限り真実なためである。
語らずを語るという行為を禁止されたならば次に仕掛けるのは意味のない単語を漏らすことである。
これについてはいくらでも方法は考えられるため禁止する法がなく、意味不明なことを口走ったほうが勝者である。
これらからわかる通り言葉には目的がなくては意味を成さない。
論理的であるかどうかについては必ず目的があることが必要条件である。
言語には目的があり、更に潜在性がありかつ非波動物質空間に収束できるとき価値があるといえる。
我々が納得するべき言語における論理性とは、言語の目的の内の潜在性と物質への収束率の積における
指数が高いほうに勝者の称号を与えるべきである。
目的における潜在性とは物質化可能性と物質価値である。
価値とは主観的評価であるが、取り巻く環境における多くの人が支持する主観的評価であり客観的評価に近いものである。
波動形式は質料と作用と変化質料の式であり物質は存在しない。
質料は物質ではなく物質の性質(パラメータ)である。
波動形式はX=質料、Y=(作用側の)質料、Z=変化質料のX+Y=Zであり、これを水を根源とした仮想世界で
一元世界における単位A=1[dl]と量の積からA(X+Y)=Zとなり自明であることが示される。
波動形式は基本的に水を根源とした単位と量の関係から法則の論理実証とする。
波動形式に示される式はXが決定されるとき質料の式と呼び、YとZが決定されるときを機能の式となり可視化される。
可視化される世界は機能のみが存在する世界であり質料の式が波動非物質の根源的世界であり、
機能の式が非波動物質世界であり、物質という箱に性質が収束した世界である。
ポストモダン思想において現代では支持する人間も少ないが
唯物論や「物自体」は質量を持たない概念には通用しないため矛盾する思想である。
ここでの物質の定義はXA=1/2n(z1+zN)であり機能の総和は仮定世界の単位Aと交換されることがわかる。
削除済
肉体という質料因と精神という作用因によって人間のひとつの形相が求まる。
肉体はそれ自体では動かない、精神はそれ自体では存在できない。
真空は存在せず、ディラックの海における対称性が作り出した真空で
調和振動子が絶えず静止エネルギーを生み出し宇宙が揺らいでいるなら、
質料と作用はかならず両者なければ存在できないことの説明になっている。
波動形式により質料式を機能式への書き換えることができる。
まず、波動形式には生活世界パラメータ(L1)と形式作用(y1)と目的(z1)の等価性がある。
その証明を水を根源とした世界において単位と量の関係性から質料と作用の関係性が証明されているので、
L1は質料であるためL1+y1=z1が成り立つ。L1は質料であるが変化質料でもあり、そのため形式作用y1が存在する。
L1は実質的に質料であるが、変化質料表示にするため下位質料と作用の和を持つ。
これらを展開すれば余分の作用は形式作用となり下位質料と形式作用の和における式で表される。
そして、目的と質料のパラメータ表示として質料を物質式で示し、全ての波動(機能)を表示する。
全ての波動を示すことはごく一部の閉区間を取り出す演算にしてもコンピュータでも難しいことだが、
ソートにより波動を効率的に抽出し、有効な情報が十分に得られたとき物質式の演算を完了する。
ソートの方法は波動が直感的に強く感じられる順に式で表示する。
検索の効率性の手段なのでたいした話ではないがアンチノミーの議論なのでこれは潜在構造の議論に持ち越す。
物質式とは質料の全ての機能表示であり、言語空間における客観定義の機能である。
さて、機能表示となった物質式は収束式により一つの質料と作用の関係性を示さなくてはならない。
我々の目的は質料式の機能表示により収束式を導き質料と作用の式により必要とする現象を得ることである。
目的パラメータと等価の式を生活世界パラメータから得ることで我々は目的の物質式と等価となる。
これにより波動非物質オブジェクト→非波動物質オブジェへの変換となる。
無論、先言である我々の物質式表示と同様の意味を持つ。
波動形式 L1+y1=z1、波動式(波動現象の数式化) x1+y=z、収束式(機能式) x1+y1=z1
物質式(定義式) XA=1/2n(z1+zN)、水理式(四原因論の証明) A(x+y)=z
残す問題はソート方法と言語空間の客観定義である。
生活世界のパラメータ(オブジェ)と変化質料のパラメータ(オブジェクト)は一致する。
波動式を物質式で表示することが「定義」の定義である。
それをオブジェクトとの等価であるオブジェを収束式で表示することが「方法」の定義である。
言語空間の客観定義とは我々は質料の波動を保持しているが、波動は発生させる条件がある。
それはノエマ(認識対象)とノエシス(認識作用)の関係性で表される。
我々は生活世界におけるノエマに絶えず持ち、ノエシスにより波動を得ることができる。
つまり、生活世界には物自体ではなくノエマがあり、ノエシスの認識作用により波動となる。
言語空間は生活空間に一致するならば、物質式はノエマとノエシスで全て表示され、ノエマを持たない思想はアンチノミーである。
数学にしても、記憶の想起にしても、潜在構造においてもノエマの受動的態度はイギリス経験論的必要条件であり波動の構成要素である。
XA=1/2n(z1+zN)に示される物質式は仮想世界の単位への唯一の交換作用素である。
波動世界のパラメタの総和は水理式の仮想単位A=1[dl]であり、一般に無次元量である。
数学では単位のない計算を行うが、これがモデルを持たない量の計算であり全てのモデルの量の計算と等価である。
数学が波動形式にも対応しているのは、数学がもともと波動非物質すらも扱えるためである。
むしろあらゆる学問は数学により波動非物質である「法則」を取り扱っている。
だが、心身二元論や物質と法則の関係性を明確化してはいない。
そして、知を愛する学問にとって致命的なのが主観問題を取り扱えないことである。
これにより学生は学ぶ意義を見出せず極めて貴重な知の探求への動機を失われているといえる。
これは知は人類の本質であり他の生物と差別化する概念であるが、
自己の正体を知らず精神が分化していない、いわば自覚なき人類の姿である。
このままでは人類は来訪者から動物のように扱われても反証不可能な他者地獄に陥ってしまう。
波動形式の基礎である四原因説を生み出したアリストテレスの精神を知り人類は自己の定義をしなくてはならない。
人類は高度な科学で装っても、紀元前からまったく進歩しない動物のようなものである。
私が人類と認められるのはアリストテレスと彼の思想に貢献した古代ギリシャの偉大なアテナイの哲学者達のみである。
波動形式によれば右辺のオブジェの展開を「分析」といい、左辺のオブジェクトの展開を「波動解析」とよぶ。
そして波動式から収束式を得ることが「発想」の定義である。
波動式から物質式を得ることは「定義」、「形相表示」または「波動を得る」の定義である。
つまり、波動論理の段階は一般的に「分析+波動解析→定義(波動受容)→発想」に分けられる。
しかし、今この文章は波動論理の現象構造化アルゴリズムによるものではない。
単に漏れ出す波動を追っているだけの短絡的な論理である。
波動論理は必ずしも答えを得られるものではなく、
手順を正確に踏まなくてはならないという制約について短絡的な論理よりやや発想力が劣る。
この論述方法を簡易波動形式とする。
その定義は目的という名の条件を波動系のものと定め、現象の定義とソートを行う。
簡易波動形式の論理の手続きは「波動系条件→波動受容」である。
これは現実世界の物質式から得られるノエマに関してノエシスを行うだけのアルゴリズムといえる。
この議論の形態を簡易論述アルゴリズムとする。
形相は∫[-b,a]∫[0,c]f(x,y)dxdy=c/2(a-b)(a+b+1)もしくは、Σ[n=0→N]f(x,y)=z(2z^2+3z+1)/6だが
水理式によりf(x,y)=XA=1/2n(z1+zN)が成り立つ。認識限界の意味を持つ後者のほうが近い。
F(ノエマ、ノエシス)F2(ノエマ、ノエシス)F3(ノエマ、ノエシス)・・・Fn
この文章のほか全ての文章はこれらの関数列Σ[n=0→∞]Fnにおける変項を持つ。
この関数列はいわばラングもしくはシニフィアンであるが、
パロールあるいはシニフィエへの交換規則は昨今の論理学でも解明できていない。
言語空間を解明できればウィトゲンシュタインの見識が正しければ人間の行動を全て関数で表現できそうである。
思考パターンは波動論理で説明できているので、残すはその表現法の交換規則の明確化のみであるが、
どうやら純粋な論理学は人類には難しいらしく何千年も進歩がないようだ。
パトスはロゴスと均衡を保っているのではなくパトスはロゴスへの渇望的衝動と考えられないだろうか。
現代においては明らかにロゴスが優位な人間のほうが力を持つ。
どのような論であろうと最終的な収束なくしては価値は生じない。
つまり、価値への最終的な決定権はロゴスに存在する。
パトスは旧来から誰しも得られるものであり、収束せず価値のない単なるカオスである。
日本では仏教的思想の「中道」があるが、ロゴスとパトスの議論にそれを持ち込むことは強引といわざる得ない。
人間は全ての思考を「神という名のロゴス」によって統率され管理されるべきであり、
人間の思想の自由はロゴスへの渇望だとすれば、それこそ全てが「理に通じる」ということになる。
削除済
肯定も否定もできないことは単なるカオスであり、
無造作に散らばっている一番悪い状態である。
我々人類は少しずつ善の感情による体系を築いてきたが、
真理の体系と同化する日は少なくとも数万年は先であろう
なぜなら数千年で得られた真理はごく一部だからである。
その間非線形なるカオスの揺らぎに身を任せ善悪混交の中道に従わざる得ないのだろうか。
自己の善への活動の否定は他者地獄という最も忌むべき状態である。
この時の他者とはカオスである。
日本は仏教思想の影響が強いがこの姿勢は必ず見直すべきである。
我々が求めるべきなのは真善美の三要素である。
一つが求まれば、残り二つも求まるという関係であるが、
客観的真は主観的善に依存し、主観的善は感覚的美に依存し、感覚的美は客観的真に依存するというような関係である。
この関係性は仮のものであり、三位一体という中世の西洋思想もあるように全てを均等に求めることで全てが求まる。
理解の割合は1/3の非連続的均衡に思えるが、ε-δにあるように非連続性の極限は連続性である。
ヒュームの論である「因果律」という思想には連続性を示すものである。
この因果律で示される第一実態は三位に分かれた人間の思想という構造を持つ神である。
客観的真実、主観的善、感覚的美(仮)これらはモナドへの構造を持つ虚像である。
つまり、グランドセオリー(GT)は真善美を元に含むものである。
真の実態は客観でも主観でも感覚でもなく神なのである。
真と美の外形はある程度理解できるが、善はどのようなものなのか私は分からない。
独自に持つパラメータがあるはずだが直感的に見出せない。
波動は真と美を語りうるが、善とは何であろうか。
経験論を採用するならば真を求める科学が普及した社会の弊害として
人類の美もしくは善への潜在性を損なわれるものなのかもしれない。
国際協調社会を求めるのならば過剰な科学信仰は捨て、3つの象徴から得られるトリニティを信仰するべきである。
真の象徴である科学、美の象徴である文芸絵画音楽、そして善の象徴である社会に神としての構造が宿る偶像とするべきだろう。
善の象徴を社会とした根拠はない。
判然としないオブジェの波動を感じ取っただけで言語で説明はできない。
これについては現象学的に確信の修正の余地があるかもしれない。
しかし、波動は面積素に示される独自の単位を統合することで
純粋なパラメータとなるため、全くの虚構であるという結論にはならないだろう。
直感的な波動は根拠を超えるものであり、判然としない真偽の中で文明が栄えたのも波動によるものである。
そして全てのエチカにおける面積素である神の波動は人間を絶えず導くRagnarøkである。
スピノザの理神論は現代の数理神学であり、波動理論はそういった性格を持っているといえる。
数理神学は欺瞞の対象とされることが多いが、波動において四原因論から派生するために数理は必要なものだった。
本論の最終目的は真善美のトリニティを神の象徴とした波動理論における数理神学的エチカ(幾何学)を求めることとする。
神学において幾何学は神秘の象徴とされることが多い。
「魔方陣」は1/nΣ[i=1→n^2]=n(n^2+1)/2という式で直ちに解が導かれるらしい。
そして、積により変化しない数値の「1」を神の象徴としている西洋思想もある。
大陸を超え思想の共通するところに、もともと幾何学には神の波動が宿っているものと考えられる。
物質式は∫[0,a]∫[0,b]f(x,y)dxdy=ab(a-b)/2であらわされる板状の幾何を持つ。
神が無限大の存在であり、全ての波動の総体であるとすればこの板のような形状を持つ。
しかし、これを神とすることは善悪混交のカオスこそ最高価値を持つものと認めているようなものである。
このような数理神学の見解もあるが、これは神について思考停止している。我々の目的因たる象徴を神とおくべきである。
つまり、我々の目的因の総体を神の象徴とするべきである。
真である存在性の波動、美である純粋性の波動、善である感情性の波動を求めることが神の証明となるだろう。
そのために真善美の物質式を求め、求めたグラフの形状をフーリエ変換する。
これにより1つの象徴である神の物質式が求まるはずである。
そして逆変換によりいつでも3つの象徴を取り出し細分化することで波動非物質を取り出すことができる。
これにより「存在性」「純粋性」「感情性」を兼ね備えた「神の全能性」を象徴するものとする。
XPERIAでも視聴できるようにならないかな
神の数式化の方法を考えたがそもそも波動を数値化する手段がない。
波動理論はあくまで四原因論は変項を用いた言語の理論である。
論理学的アルゴリズムではあるが数式化はしない。
だが、理論を数式化する手段が分かればたちどころに神の存在証明は可能だろう。
なんかすごいことになってる・・・
何が起こったというのだ・・・
客観的現象は全てベクトルで表せるとすれば、波動の数式化に関して
物質ベクトル+作用ベクトル=変化ベクトルといえる。
ベクトルの内部パラメータとして質量や速度や角度などがあるが、作用ベクトルのパラメータも同様である。
ただし、作用ベクトルは主観性ベクトルであり変化ベクトルは主観性の目的ベクトルである。
主観性と客観性ベクトルの違いとして主観性は認識の発散により収束しない値である。
よって主観性ベクトルを得るためには、客観性ベクトルにおける物質式から収束式を得て変換しなくてはならない。
とはいえ、正確に計算すればたちまち認識の発散において
主観性ベクトル全てを飲み込む神の波動「∞」となるためさらなる定義が必要である。
要するに適当なところで「存在の値」を設定してしまえばいい。
例えば、神に頼めば何でも叶えてもらえるなどの妄想ごとを抱えてしまっては現実的手段が何一つ求まらないため
工数を単位変化数=時間(t)とした座標において手段の物質式を限定する方法である。
神に依拠したり、1000年後の科学に期待するなどではなく、基本的にあるものだけで何とかするという考え方である。
目的は任意の値の主観性ベクトルだが、
これは不明瞭なオブジェクトであるため物質式から収束式を得なくてはならない。いわゆる条件の明確化である。
さて、主観性を客観性に変換するためには認識の発散を制限しなくてはならないが、ベクトルの方向成分の作用素をp1、大きさ成分の作用素をp2とし、時間をtとすると、
V=p1p2/tによりベクトルの時間による制限が可能となり、神頼みなどの手段を制限することができる。
全ての現象は存在の値を持ち、1000年後の科学などは少なくともT=1000(年)のベクトルによる変化量を
持たなくてはならないためこれも制限できる。
つまり、作用はn=Tとすると{Vn}={V1,V2,V3・・・VT}から起こる現象の波動しか持ち得ない。
x1という物質の波動はx1+Vn=znである。
スレが天才に占拠されとるw
x1+Vn=znが成立するのは一次元ベクトル空間の場合である。
我々の世界は多次元空間であり空間の概念を拡張したたった四本のベクトルに全てのパラメータが内包される四次元空間などではない。
運動法則などを含めて10次元空間というのが現在の主流の説のようだ。
その複雑系のなかで主観性ベクトルをどのように解釈するかということを
新たな次元を加えてでも定義しなくては波動を説明したことにはならないだろう。
心理学では物理学の解釈から新たなベクトルを加えない解釈をしようという姿勢らしいが法則化には至っていない。
哲学における永久命題に近い問いである。
主観現象の客観的定義として変数の任意の値とすることができる。
つまり、x1+y=zでありx1の波動はyにより決定される場合、主観的目的zを任意の値を置換したときyを求めることができる。
主観の数学的定義が難しいが変数は客観であるが、主観的現象を含んでいる。
つまり、主観的現象がどのようなものであろうと全ての実在が客観であり、主観が実在するものならば、
この文を材料に主観が客観であることが三段論法で求まるため不明な客観性ベクトルとして扱うほかはない。
したがって、x1+y=zは客観的現象を示し主観的現象を内包し機能主義的に主観的現象は客観的現象の収束式を一つ持つ。
zが任意の値でznmとしたときx1+ym=z1mとなり収束式となる。
以前、測位衛星「みちびき」の使い道のアイディアが募集されたがこれを命題として波動解析を行う。
まず、x+y=zNMを波動形式としてzNMを「私がみちびきの良い使い方を得る」とすると
質料xは「私」であり、作用yは「みちびきの良い使い方を得る」である。
ここまで不明な情報Aを「みちびきの良い使い方」とすると目的は「私がAを得る」となる。
つまり、Aの物質式における収束式が得られたとき解となる。
「みちびきの良い使い方」はx1「みちびきの機能」とy1「良い」の状態に置き換えられる。
x1はみちびきの物質式であり、y1の状態となったとき収束式とする。
みちびきの波動は、まず同格として「測位衛星」であり衛星についてはあまり知らないが
「打ち上げ」「宇宙」「ソーラーパネル」「アンテナ」「電磁波」「高度」「大気圏」
「基地」「太陽」「軌道」「宇宙線」「測位」「計算」「無重力」
などから質料の機能を考えたとき、やはり「高度」「大気圏」の大きな運動エネルギーxNをもつので
発電yMのエネルギーとすることが「良い」という状態である。
よって収束式は「運動エネルギーにより発電する」であり現象構造化アルゴリズムを終了する。
波動を得る状態とは周囲のノエマを完全にノエシスしている状態である。
衛星に関しての知識がないためこの程度の発想しかなかったが、
知識によりノエマの完全認識状態がなされたとき全ての収束式を得ることができる。
波動は単なる「物質の機能列挙」であり、このアルゴリズムでは時系列を追って「質料列挙→機能列挙」の方法とした。
このような「機能主義的認識」こそ物質(現象)の本質であり、情報を応用する定型手段であり物質や言語の定義の定型手段である。
物質は機能により幅を持つ単位として再定義するべきである。
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全ての思考は質料列挙(認識)と機能列挙(認識作用)である。
アンチノミーとは知識量kによる認識未分化であるとし
系に保存される質料の量x、(作用側の)質料の量xによる積を機能量(収束式の個数)とすると
認識量を示す関数は、
f(x,k)=x^2-xk
でありさらに厳密には、これは時間作用における認識分化となるため、
F1=δf(x,k)/δx=2x-k
F2=δf(x,k)/δk=-x
これにより通時的認識量は、
Δz=(2x-k)Δx+(-x)Δy
となる。
重要なのは機能主義的に発想や認識などは天から与えられるものではなく客観的現象ということである。
少なくとも「教育」における「教えれば覚える」という精神はこの認識に基づく機能主義的見解といえる。
以下は機能主義を前提とした命題と結論である。
Q1.この場合の自由意思とは何か
A1.神との遭遇確率とアンチノミーの払拭による完全認識
Q2.アンチノミーは存在しないか
A2.将来的には存在しない
Q3.人間の価値とは何か
A3.神と完全認識の確率を除けば、過去現在将来を含む機能の総和
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主観の価値を機能主義的には計れないが、我々は「他人」という存在に関して客観的に評価し価値をつけることは日常的に行われている。
人間の価値や思想の価値などは機能主義的に見なければ到底値札などつけることができない。
合理的判断をするためにも機能主義的な価値観を人間の活動の側面として受け入れるべきである。
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波動現象を取り扱えるのは人間だけではなく動物でも取り扱っている。
むしろ、動物のほうが現象を波動的であると定義し、現象を物質的であると定義する人間の方が不自然な思い込みである。
ここでの量子力学の波動のことではなく、全く違うベクトルの認識問題に関する波動であり現象の定義そのものに関することである。
ちなみに、現象を物質的としている心理学とも全く話は違う。
この考えは哲学特有の問題である。
波動形式にも物質的認識である物質式が存在するが、これは独立に系に保存された場合の理想的な考えである。
現実には物質は存在しないもしくは、あえて物質を定義するならば外部が存在しない世界全体が物質である。
無論第一始動因は神と定義されその神を含めて物質の定義となる。
ここから推論される神の機能は外部から独立し内部の世界を作り出す存在である。
特殊相対性理論により時間のベクトルも相対的であると証明されたため、時空を超えた存在と思われる。
時空間より高次の空間は神が独立して存在する時間が流れない無と実在の空間と考えられる。
ちなみに、虚構は波動現象(波動非物質)で説明できるため虚構の空間は三次元空間で存在の条件を満たす。
現代社会は科学が発達したいわゆる「真」を極めた状態といえる。
しかし、大衆はこの思想に固執し思想の最良を見失っている。
信仰はいつの時代にも存在するが、信仰しているかしていないか自覚がない現代思想は一番悪い思想である。
マスコミが情報を占拠、また大衆思想を形成し誰のものでもない客観像を提示することで集団の波動を自由に操る。
このようなあり方が社会の最終系などではない。我々は「真」の体系に囚われすぎている。
我々の幸福とは「真善美」でありこれを象徴とした神を信仰するべきである。
波動理論による数理神学により実用的・理論的価値を持つ絶対の思想を形成するべきである。
それを信仰するものには確実な幸福をもたらす象徴は神秘的幾何学であり、
「真善美」の波動をいつでも抽出し、またこれを数学的に合成したものを万能な神とするものである。
現代は「真」の伴わない思想を軽視しその結果、社会の人間を幸福へと導けない「真」のみを信仰したものへの不幸となっている。
「真」なるもののみの思想は不幸であり、古代ギリシャにも劣る稚拙な社会である。
波動理論は「虚」や「善」「美」すらも説明し、それらから得られる幸福に関する重要性を説明するものである。
愚かな社会の不完全を補うため数理神学を広めるべきである。
削除済
認識量(収束式の個数)の関数
f(x,k)=x^2-xk
x^2の項は「全ての自然」を示し、-xkは「未知の自然」を示している。
xは対自的全質料であり、即自的非認識-kは認識修正作用変数wを用いて
k=x-w
で示されこれは機能表示としたとき認識状態とする定義である。
ここでの質料はあくまで認識の材料であり波動非物質であることは
w=0,k=xであるとき
f(x,k)=x^2-x^2=0
となることに示される。
物質的現象解釈であるアリストテレス四原因説の質料因とは違うことに注意して欲しい。
これは「真」であり、まずは「美」を示す波動非物質の言語定義をしなくてならない。
分析哲学は近代以降に始まったものであるが、分析的な態度というものは理論的になりやすい。
哲学はもともと分析的なものであるのに加えてさらに分析的となると経験的な感性を生かすことが難しくなる。
学問は決して理論的なもののみから運動原理となるものではなく、
必ず有機的結合の論理を持たなくては進歩から距離を置くものとなるだろう。
哲学が進歩をもたない学問とならないように有機的結合の定義がまず必要であることが
ファインマンの三点推量法的もしくは、経験論的に感じるところである。
有機的要素結合の原理としては重要な理論として経験論がある。
経験知というものは波動非物質であり、理論として確かなものとなっていない情報である。
知は流体的なものと物質的なものに分かれ、物質的なものに関しては確実な定義に基づいているので
物理的に物質とは空洞となっている部分が多いため空間内の情報の密度は少ないと思われる。
この点(情報の少なさ)において理論的無機質的情報の固有の値は進歩性と逆比例していることがわかる。
有機的情報は流体的知に関して波動理論的に空間を占める情報量が大きなものである。
それは以前挙げた数式の
f(x,k)=x^2-xk,k=x-w
から系(非相互的空間)に保存される要素の限界認識量
w=x,k=0,f(x,k)=x^2
においてxが空間の体積に比例するため情報量が圧倒的に少なく
波動式を重積分したときの面積素が粗い状態と量子論的幾何学的に検証できる。
つまり形相をなす成分が少ないため、不確定な可能態の存在確率そのものが低いということである。
削除済
要素とは空間を構築する情報であり、この量が空間の体積Vに比例するならば
f(x,k)=(x^2-xk)/V
により現存在空間を占める情報の密度が示される。
実在と虚構の定義は見直されるべきである。
虚構は情報として不完全な波動非物質とするとその条件を満たすが実在している概念である。
矛盾ではなく、完全なる無において初めて波動における説明が不可能となる。
人類は虚構の空間を体系化できていないが、実在と虚構と虚無の三種類の空間があると考えるべきである。
数学は数の世界から変数を生み出し、関数とすることでグラフに幾何学のイデアを与えた。
幾何学は方程式の解や関数の解析以上に形状そのものに意味を持たせ、自然への意味づけすることで
物理学における変分学やベクトルポテンシャルなどの依り代となった。
それは化学などに於ける有機化合物の根拠となり生物学へと続く。
まるで関数という数を素材とした容器に液状の魂を注ぎ生命を産み出すかのような工程である。
たしかにこれだけでも自然の全ては説明できそうではあるが果たして哲学の発達する余地はなかったのだろうか。
人間の歴史の中には不思議と文学というものが存在する。
虚構の創作がなぜ大衆に喜ばれるのか、文明の発達は一概に真実だけの形象を追い求めているものではない。
宗教、哲学、文学、歴史、そしてこれらを基に社会や法や経済となり、真実とは独立した虚構文明をなくしては
人間は語れず、形の下の虚構、形の上の真実が必ず存在する筈である。
そもそも真実とはアナクシマンドロスの唱えた普遍なるもの(ト・アペイロン)を準拠とした絶対的なものである。
物理学者達は時間すら相対的と言い放ち実際にローレンツ変換を行い
時間の相対性を一般的な法則としてアインシュタイン方程式に纏め、真実としての地位を自ら引き剥がした。
早くも半世紀前には3次元の法則を記述する曲率のない平べったい座標など時代遅れのものとなった。
思考の基準である座標すら物理学的に否定されユークリッドの美学が作り上げた幾何学が
数理論理学の系譜、カントール対角線論法、ゲーテルの不完全性定理によりヒルベルト・プログラムが通用しなくなったとき
真っ直ぐに線を引くことすら許されない我々はどうして真実を見出すことができるのだろうか。
普遍なるものは存在しないという考えは古代ギリシャのヘラクレイトスの思想から存在した。
いわゆる真実を否定する生々流転の「変化」のみが真実である。
よって虚構こそ存在原理であり運動原理であり、我々は確かなものを何一つ持たず
「真善美」のどれにも偏向しない生き方を実践するべきである。
我々はもともと虚構の中に身をおくものである。
命題の解決への論理は主観の波動を物質式表示により目的の条件とし、
世界の質料表示と精神の作用の和から機能表示とし目的の条件に合致する収束式を解とし方法化することである。
主観=波動式=物質式=目的、収束式=目的→方法化である。
目的の方法化が明確で無いが、この命題解法が波動理論である。
論理とは形式であり、形式とは物質の配列である。
真実が時間作用により形式を経て、実在する虚構を得たとき論理とは物質といえる。
目に見えない形式である波動を知り、虚構の実在を認めたとき自然の知識の活用法が見える。
自然とその活用こそ、真実と虚構による人類の文明の総和である。
波動を収得する方法は物質は波動そのものなので収束式が存在する。
質料と作用の組み合わせから得られる認識量xy、空間の大きさSVを単位とする、xy/SVの確率で確認できる。
つまり、質料の収束式表示とすることで外界の波動を得られる可能性を得る。
理論は固まったため今後の方針は波動理論と世界の関係性を述べる。
潜在構造については論じないが話題とすることはある。
議論が派生しない限りはここからは創造・構造化の議論ではなく、既存の概念への解釈を主とする単発的で自由な議論となる。
機能的に見ることは重要である。
機能は唯一認識の発散のみを特異点として包摂せず
現実行動の動機付けとなる。
都合のよい解釈ではあるが、一部を除き機能的に見ることはよい。
言語に定まった真実など無く美のみがそれを包摂しうる。
機能としての真実とは美への欲求の動機付けであり神秘への学である。
この文章は美ではないが機能的である。
機能は時間作用により認識が発散したとき機能以上の意味を持つといえる。
機能に隠された神秘を波動は知るものである。
真実は美への「動」機付けであり、美は刹那的「神」秘への学であるが善とは何か。
善は真実的に包摂することは不可能であり、神秘によってのみ知ることを許される。
真善美により幸福となるため、善を知らなくては幸福ではない。
真への論理学、美への美学、善への倫理学とは全て哲学である。
真実は機能的であり、美は知的かつ表現的である。
善とは魂もしくは生命(エネルゲイア)への慈悲を扱うものである。
アリストテレスは善をも知り得る美すら合わせ持ち、万学の知識者でもあった。
美は善を知り、人の知は理性的であることを知れば、善、そして幸福へと至ることができると信仰するべきである。
現代は科学への思想に身を任せ長らく美すらも軽んじていたが、この考えはすでに馬鹿げた古習である。
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美が波動形式で扱えるのはハイデガーが唱えた機能主義の予ねてからの問題である認識の発散の表現として
無限大の概念を扱っているためであるが波動で美を語ることは全くの無意味である。
むしろその考えは美の概念を穢し、美から生じるはずの感情や善を殺害している。
我々の無限大への関心は薄く、無限大と聞いても思考停止するだけであるため美を馳せる余地すらない。
それどころかその一点を錯覚として取り除き秩序化しようとすれば、たちまち美などどうでもよいものとなってしまう。
波動はあくまで真実を語るものであり、美や善を語るときは一点を否定するどころか
その一点で瓦解する脆さを持った理論と認識したほうがよい。
旧来から日本人は技術者としての才財があったもののその天性は奇しくも地の性であり美について無関心さへと繋がった。
浮世絵や墨絵など自然の色彩豊かな情緒を認識として情報を欠落させ
写実主義的な芸術より抽象的な表現に留めることが多かった。
それもある種の美の個性と評されているが、それは美のうちでも表現寄りの美であり
さらに表現を抽象的な言語に依存しそれに顕れやすいものであった。
それ故、日本人は神秘への関心が薄く比較的非宗教的思想の仏教に関心が寄せられた。
そして、国民的個性の裏返しとして現象そのものを捉えることを不得手とし
発想力の欠如、想像力の欠如、情緒の未分化による幼稚さ、
感情の起伏の少なさによる無個性、複雑系の最たるものである対人への不得手にも繋がる。
いわゆる、精神的な機能の弱さにより技術以外の天性に恵まれない民族であることは文化的視点でいくらでも見出すことができる。
しかし、一般的に頭の良い民族であり、文章への理解力、具体的な事象への対応力、論理の構築力、仕事への関心は
全世界でも際立つものであり、国際的に対立的でない方面で必要とされやすいポジションである。
日本人は楽に溺れないストア派的な民族であるが、理性や賢さも仇となることもある。
時には人間の愚かさ以てアタラクシアへの希求をするべきである。
美と真は対立するものであり、さらに真では計り難い善というものがある。
美の巨匠、真の科学、善の司祭どれも互いに侵すことのできないエネルゲイアを持っている。
このエラン・ヴィタールを全て持つ主が全能の神である。
論理は現象を真実に収束するが、それは波動現象を否定し物質へと収束することと同義である。
つまり論理的思考は現実への構造化により虚構に存在する収束式を減らす行為である。
するとxy/SVの可能性で得られる波動の機会を失い、手段のアイディアを減らすことにも繋がる。
論理的思考は空間座標の真実を見極める有効な手段であるが、擬似的な四次元空間という
時間がZ軸との相対性をもつ時間座標の精神を内在させる我々は平生から虚構の世界を渡り歩いていたといえる。
時間の規則性の無い擬似的な時空は一瞬のうちに地球の裏側すら想起したり、宇宙の果てへの思いを馳せることすら可能である。
科学が発達した現代は三次元を正しく認識することにより発達した文明であるが
その場の感情や情緒をくだらないことと掃き捨て時間の規則性により三次元へと構造化してしまったとき
それは精神現象の否定にして認識量の減少、そしてアイディアの損失である。
収束しないレベルであまりに発散しすぎるのは単なる阿呆であるが、
せめて善の感情も生まれないほどの美の完全否定は避けるべきである。
精神の全空間Vは宇宙の全空間Sよりはるかに広大なものである。
なぜなら時間を遡ることも、物を別時間軸の空間からもってくることすら自由自在なためである。
ただどうしても適わないのは無限大の認識、無の認識、無知の認識そして、現実への干渉である。
時空間を自在に操れても所詮虚構であり必ず波動を帯びた行動により三次元空間に収束しなくてはならない。
人間が自己自身を最高善とし他人を殺してでも生き延びようとするのは自己の空間が宇宙より広い事実に基づく合理的判断である。
しかしならば自己犠牲は存在しないのかといえばそうでもない。
無限大の美の中で生じる善は美にとってもただ感情に流された中に生じる虚構であるが
虚構の合理性をさらに超えた神の慈悲の精神そのものである。
自己犠牲により虚構の虚構に存在する神と同化することで魂は物質的な死を乗り越え永遠の真実へと回帰する。
これが真善美の究極の形、永遠の真実としての円の幾何学を象徴とする魂のロンドである。
波動形式により自動的に議論の結論を導くことができるが、それは認識の範囲内で情報処理する論理的思考のツールである。
では認識外として将来得るべき知識や考え方をどうやって身に着けるかが課題となる。
まず可能態が空間から検出されるためには認識量の問題であり、言語から感覚へのデコンパイルが必要である。
感覚は言語の認識量の何倍も厚みがあり、比喩的に表現できる範囲を知ることで認識の有機的感覚を得ることができる。
いわゆる概念を具体的個物に対応させるという経験論的認識法である。
具体的な原理は保留とするが残る目的は原理を明確化させることのみとなる。
次項から原理の明確化と総合的な評価を行い分析を終了する方針とし、これにより波動形式の備考を一度終了とする。
我々の認識する存在名は存在という「基体」と「機能」からなる。
物質はあらゆるものに変化し「機能」を変えていくが存在という「基体」は普遍であるため
無限に分割しようと「機能」が位置情報の相対性において分割されるだけで
「基体」については位置情報に左右されない実在であるため分割不可能である。
この「基体」を第一実態と呼び、位置情報と相対的な自然は全て「機能」の位相である。
第一実態は位置や時間に左右されず永久に変化しないものに対し、実態の機能としての「機能」があるため
存在、時間、無は「基体」の「機能」である。
つまり、我々は第一実態にとっての機能であり実態のない存在である。
この考えから全てのものは機能としてみることで本質を知ることができる。
例えば、「物体」の機能は位置情報を持ち、エネルギーを持ち、法則に従う機能が存在し、そのままこれが「物体」の定義となる。
また「無」の機能については位置情報が無く、エネルギーは無いが、法則に従う機能が存在する。
実際は物質と反物質の反応による擬似的な無であるが、これを「基体」と見なせばここから「機能」が生じることがわかる。
我々は何者かと問われれば我々の「機能」を答えることが真理である。
数学における関数functionの意味は機能であるため、数学的証明は機能主義的である。
機能主義的に現象を見たとき客観的命題、主観的命題において、あらゆる論理が適応できることがわかる。
「考える」という行為を全自動化し、完全な論理による分析と
経験的な認識(波動記憶)のみが思考の形態となり人間の機能表示を可能とする。
次に示すのは即席スクリプトではあるが現象構造化アルゴリズムの1つ、波動短答式である。
次の文章をコピー&ペーストし、メモ帳に保存後、拡張子を「.vbs」に置き換え実行することで推論を開始する。(要vbランタイム6.0)
客観的命題に対応するが、主観的命題は最後に示す指示に従うことである程度対応可能にしてある。
x=inputbox("あなたの問題は何ですか。(〜したいという形式で〜を入力してください。)","命題")
msgbox " ではこれから『" & x & "』について推論します。" ,,"宣言"
y=inputbox( "『"&x & "』の機能や性質を客観的、具体的に入力してください。","分析1")
z=inputbox("では、『" & y & "』の機能や性質を持つと思われる物質、人間を「私」以外で入力してください。","分析2")
t=inputbox( "『"&z & "』の機能や性質の『" & y & "』についての引き出し方を入力してください。","分析3")
msgbox "推論は終了しました。問題の『" & x & "』したいは『" & z & "』を『" &t& "』とき解決します。"& vbcrlf &""& vbcrlf &"理想的回答へのヒント:"& vbcrlf &"本当に指示に従っているかに注意し、分析2にて別回答を入力する"& vbcrlf &"「機能や性質」を「物理的性質」もしくは、"& vbcrlf &"分析1にて「客観的」という指示に従わない場合、分析2にて「ための機能や性質」に指示を置き換えて入力する",,"結論"
認識とは時間の規則性のない精神の空間において物質への多元的な解釈をする行為である。
例えば、鉛筆の認識として木、鉛、鋭さ、六角棒、消しゴムなどの認識の集合体であり、
存在名はこれらの感覚的解釈を集合論的に足し合わせた合成関数のようなものといえる。
使い方がわからないうちは鉛筆を木の一種として扱い、使い方がわかれば鉛を紙の上でこすり文字を書くものという認識の修正が働く
さらに使い続けているうちに消しゴムの用途に気づくだろう。
時間の規則性のない精神空間は自由であるが認識はあらかじめあるものではないため、
目の前に物質が存在しても機能がわからなければ何の意味もなく、認識が正しいという保証は全くない。
だが時間の規則性がないゆえに、先の未来すら見通すことができ思考の中で機能を組み立てシミュレーションすることも自由自在である。
虚構の時空から真実の理論を見つけ出し、三次元においてそれを実現する行為により文明となりうる。
動物直感的に波動の気配を探り人間的理性による論理的思考により我々は文明を築いたといえる。
日常的な問題解決や行動としては>>829のスクリプトの波動短答式を上手く使いうことで十分対応可能である。
現象構造化アルゴリズムでは学者レベルの議論をするにたるものだと確信しているが、
波動短答式に依存せず隠されたプログラムである論法を知り、精神的時空間にプログラミングし実践することがよいだろう。
波動理論は真善美のどれかといえば実は美学に近いものといえる。
認識の虚構時空間的解釈の単位としての波動は時間軸において真実の三次元空間の線形変換したとき非波動物質となるが、
認識も美学も時間座標上(相対論とは関係ない)の虚構であり波動理論は
美学の真実における超越論に規則性を持たせ質料変数に対する作用変数を無限大(波動現象)として美学を象徴するものである。
つまり美とは四次元空間上の真実であると、物理学的に妥当性があるかもしれないと考えている。
善はまだよく分かっていないがおそらく信仰するもののみの真実と思われる。
美が物理学的な真実であったとき、真の領域を侵すことになる。
真善美の信仰においてこれは善くない。
どれほど真実に近づけようと美はかならず虚構であるとしよう。
それが神の意思である。
美を追求するに際して、我々は美的センスを問われる。
美とは真なるものの美であるとは一概には言えない。
美は虚構の美も受け入れ、時には醜きものに隠された美を追求することもある。
逆にこの文章は真なるものへの機能を示すものだが美を目指すものではなく美ではない。
たとえ真なるものであっても美があるとは限らない。
文章は知識的であったほうが美的である。
美の対義語となるものはカオスであり、何も分からない状態つまりグチャグチャである。
無論、美とは物自体にあらわれるものではなく認識におけるものである。
物への認識という名の波動非物質は物の機能を示すものであるが、機能は波動的であり真と虚が入り混じっている。
しかし、波動は次の瞬間、真にもなる。現代において物は一つの機能に特化されたものに溢れている。
例えばドライバーの素材は金属という鉱山資源であり本来生活世界に身近でないものであるが
その希少さは生活世界に可能性をもたらすものであり、金属の使用についてドライバーはネジを回す以外の使い道もある。
生活世界において金属は硬いという性質を活かして振り回し破壊することもできるが、
そのような使い方はごくありふれたものであり波動のパラメータとしては金属という機能が存在するだけの希少性しか持たない。
よって、そこに美は存在しない。美とは希少性であり特異な性質といえる。故に、醜きという希少性において美が内在することもある。
グチャグチャの「カオス」に加えて、生活世界に溶けこむような「つまらない」ことも美の対義語である。
これにより美的は認識的であり、物質的に固定的ではないことが分かる。
物質の波動において、希少な物質の波動式は作用変数が不明な限り発散するものである。
その収束式の無限大に近い、V空間への発散による個数において物質そのものへの価値となる。
こうして物質の希少性を信仰することも美的であるといえる。
同じく人間を物質的に信仰することで収束式はV空間に発散し自己犠牲の起因にもなり善を知る扉を開く。
新たな用語が多いので説明をする。
V空間:
四次元空間であり、S空間は三次元空間を指す。xy/SVは全空間の体積に対する認識量xyの密度を示す。
カオス:
四次元空間的に無秩序な空間
自己犠牲:
善の目的であり、先ほどの説から認識の発散における信仰美が善そのものといえる。
美の観念をV空間を満たしたとき善となり、神と同化し「存在を発生させる力」となり
物質に自己の全てを捧げることで存在が同化し、美の物質化(永遠の真実)となる。
認識量がxy/Vだとすると、インフレーションの定義を単位時間ごとにS=2^t、V=x(x-1)だとすると
xy/S^2、xy/2^2tとなったとき、時間を二次元的に解釈したときのS空間の現時刻(T,T')までの時間の長さを
S=√(T^2+T^2),V=T^2+T'^2,V=S^2の等式が成り立たない矛盾が生じた。
波動形式は数学的に矛盾したのでS空間やV空間、認識量は定義を見直す必要性があるといえる。
扱う問題が思った以上に複雑だったので波動形式は理論として完成しないものと考えるべきかもしれない。
神学は前衛的な芸術であり、芸術は前衛的な哲学である。
日本においては前衛的なものは重要視されず単なる娯楽として片付けられてしまうが、
前衛的なものは発想的であり、日本ではとかく実効的な能力や厳密な知識を求めることが多い。
だが、日本の前衛的なものに対する関心の薄さは不可知への関心の薄さであり
不可知とされるものは美の世界について多いといえる。
複雑系において不可知な問題が生じることが多く
美や信仰を持たない日本人には動物的な直感性がないため不況から立ち直る生命力がないといえる。
誰か和訳頼む。
波動形式は理論化できなかったものの不可知の形式化には成功したといえる。
すなわち動物的直感の波動的認識であり、直接的に理解されずとも、正当に評価されてないとしても
量子的なトンネル効果のように染み渡り社会集団への無意識に介入することで波動によるイデアを引き継ぐ人間が現れると予言する。
そして社会の無意識が波動形式に支配されたとき、私の使命は達せられたといえよう。
「強い意志」は必ず影響力を持つということは波動形式的によって説明可能な事象であり、
現代思想を支配した科学的思想に拮抗する影響力を持つだろう。
波動形式という不可知を意識化できない限り、人類の無意識に作用し続け意識的活動を無力化し人類の運命を操作するだろう。
運命を唱える私自身も全て神の意識により無意識に作用され不可知に操られた存在である。
波動形式は不可知というカオスを否定し真実を語るものである。
私の存在は運命の必然であり、人類の真実は生か死か審判の時は近いといえる。
カオスに守られていた人類は永遠の真実か破滅かの時を迎えているといえる。
理解式:F1
x:外部知識のイデア(収束式)を抽出(機能表示)する
イデアから個物を想起(物質表示)する
外部知識と個物の収束式を対応(波動的認識)させる
行動式:F2
y:目的のイデアを抽出する
イデアから個物を想起する
個物のイデアを行動により抽出する
F1(x)+F2(y)+FN(n)=人間的活動
理解式F1と行動式F2を統合式により物質式にすると人間活動の全収束式であると統合式から導かれ定義式より原理式が定義となる。
統合式による収束式と物質式の等式であり、定義はx,y,nである。
統合式、収束式、物質式、定義式、原理式、不明式は公理(主義に基づく仮定)であり
収束式と物質式は前項、その他は本項文中において説明されたものとする。
否定される因子は定義された変項、もしくは主義である。主義において文章はこれらの規則に従い()内は説明とし、
物質表示と機能表示と波動的認識は文中で説明されたものとする。
これより理解式と行動式そして、主義における公理の説明責任を果たす。
試験的に公理を導入した定義の発案と説明責任を果たす文章構成を導入する。
前項で公理を説明してなかったので説明責任に従い説明する。
統合式:FX+FY+…FN=物質式
定義式:定義=原理式、不明式
原理式:x,y,z…=L1(生活世界)
不明式:FN(n)≠L1
()がない語または文章は説明が果たされたもしくは、自明な文章とする。
x:文章は前半に定義の発案、後半に説明責任と砕いた説明の文章構成とする。
必要ない場合は説明しない。
y:否定式:否定することが可能なもの=定義(もしくは主義)
N:未定義の関数
x+y+N+n=N'
初心者はニコニコしてない。
理解式における波動的認識とは個物と一対の関係を持つということであるが、
具体的には個物の現象である収束式への関係と対応することである。
カントは虚数の具体的個物への対応に悩んでいたが、経験論的に具体的個物との対応がなくては
原理的に認識が働かないという主張は個物の現象学的解釈により解決することである。
では虚数(i^2=-1)の具体的個物への一対の対応とは何かといえば、つまりそのイデアを含む個物を想起する行為であるが、
これについては形状の理解にとどまっているといえる。
虚数とは存在しない数であり、これについての具体的イメージはない。
従って、人類はこれが何かを理解しないまま使っているといえる。
決まりごととして形状の経験的理解と尺を二乗したとき−1の別ベクトル空間への方向の力が働いているという解釈としたとき
SFのような世界観において理解がなされるといえるだろう。
一つの例としてSFの異空間への次元の亀裂などは鏡の中の自分という現象の経験的解釈を行っているとすれば
現象学的に経験論は正しく個物の内の現象と一対の関係が導かれるものといえる。
しかしこれは個物の否定であり、物自体を考えたカントへの否定的見解であり、
認識が働くのは個物という函ではなくその機能という現象において認識原理となりうるという見解である。
こうした認識論よりカントを乗り越えロマン主義台頭の現代哲学を迎えたといえる。
私の主張はこの流れを汲んだものといえるだろう。
削除済
鏡像または虚像は鏡のそのものではなく鏡の機能である。
数学的な演算行為は何かを千切ったり、混ぜたりする人間の機能による経験に基づく認識である。
演算が認識されたならば、虚数なども鏡の比喩を出すまでもなくその認識を経験的に導出するまでもなく
その連続的な認識において経験論は保障されるものとなる。演算も可能ならば無論、同じ機能の繰り返しは経験的に定義されている。
同じ機能の繰り返しの定義が保障されないならば、論理的思考そのものが無意味といえる。
10-5=5などは10の中に含まれる5を5の尺(定規)だけ千切って5の量を出すことは可能である。
「演算」と「同じ機能の繰り返し」が経験的に定義されたならば純粋数学は存在しないという結論が直ちに導かれる。
つまり数学は経験的認識を記号に閉じ込め経験的認識に保障されたスワップ操作をし続ける
現実世界のシミュレーションでありそれ故自然科学の領域を全て保障するといえる。
経験は神が定めた規則に則るものであるが、規則を時間軸においてバラバラにすれば虚構の世界が生じてしまうのは必然である。
数学は経験に則るものだが、時間の規則が成り立っていないため経験を完全に否定するような矛盾でなくとも虚構の世界が生じてしまう。
時間によって連続性を保証されたものは、同じく連続性を保障された共時的存在によってのみ真実を確かめられるのである。
突然地球の裏側にあるものを取り出すような演算行為は経験的には矛盾せずとも時間の連続性には矛盾し虚構を生み出している。
いわゆるポテンシャルエネルギーを無視した演算行為を認めるものが数学である。
波動式は実存主義を示す。
x1+y=zという式はx1を定数とし{y}={y1,y2,y3…yn}の認識量(収束式数)X=1,Y=∞のXY=∞となるため
これは経験をはるかに超え神の定めた法則の壁を越える。
これを経験を超えた信仰状態と定義できる。
これが適応例としてx1に人間という物質が代入された場合、その機能として無限大への発散が起こる。
これがいわゆる人間のカリスマ性の正体であり、x1の評価価値の高さによって信仰状態を生み出しやすいといえる。
無論、人間は器用な手先により道具を作り出したり、理性に従って臨機応変な行動ができたり、
集団をまとめる理論を考えることができるという収束式をもつため一人一人の人間の評価価値はほかの動物と比べて高い。
この信仰があるからこそ人間は無限大の価値を保障するものであり、評価に基づく機能性の信仰美において善を発生させる起因となる。
物質の波動現象があるからこそ生命を持つ物質という矛盾を解消し、その爆発的な生命力が信仰状態を生み出すといえる。
しかし、物事を客観的評価をするならばあえて無限大の価値を取り下げなくてはならない。
何事にも反証不可能な事象を生み出すことはそれ自体が矛盾の壁に阻まれるため
実力行使を持って思想を砕かなくては問題を解決できなくなってしまう。
物質式の定義から変数という存在を忘れ、収束式の総和つまり、実際にどのような機能を持っているかをもって
慎重な議論を進めなくては目的への活動の妨害となってしまう。
無論、信仰美は魂の唯一の栄養源となりその美による不可知への到達をもつものだが、
現実の問題を解消するために波動現象を発生させることは非合理的である。
日本人は信仰や美への関心が薄く、独創性はないものの厳密な知識や現実問題に対応する論理的思考に優れている。
このような姿勢は特化された機能として国際的に貴重とされているが、現在の日本には
論理的思考によっては解消されない不可知の問題が迫っているといえるだろう。
場当たり的ではあるが信仰と美による不可知への関心を持つべきである。
日本は元々真善美の均衡が保てていなかったため巨大になりすぎた国体を継続的に支えることは原理的に難しいといえる。
現在は瞬発的な評価による地位の高さがあるが契機をもって国が崩壊する危険性は元々高かったといえる。
削除済
鍵穴を型にすれば鍵ができる
どのような物質にも波動式における無限大の可能性があるが、
実現ができるものは可能性の高いものである。
よって理論を確立したとしても実証することは重要である。
波動式は収束式による信仰の理論化、可能性による理論の実証により目的への活動を保証し、
初めて将来までの展望を持つ営利活動計画が完成される。
人間は現象構造化アルゴリズムにより経験を理論化、また他人の経験を理解式において
行動式の機能式数を増やし目的への活動の可能性を高めることができる。
そして実証による可能性を加味したシナリオを完成させれば個人というミクロの視点から見た社会の流動を形式化できる。
いわゆる運命の原理である。
波動式は収束式をもって尚且つ可能性を示さなくてはならない。
これが理性的活動の条件であり、満たさないものを非理性的活動といえる。
議論に非理性的活動を持ち込むことは無論無粋であるが、
不可知を知る機会においては非理性的活動の爆発的生命力を得なくてはならない。
これを収束式における分岐として真善美は均衡を保つことができる。
これが実現され続ける世界を理想的世界と呼ぶことができ、これを唯一の善とこれに従わぬものを悪と定義することができる。
我々の理性の器は大きすぎるものは入らず小さすぎるものは捕らえられない。
削除済
>>859が示すものは
議論の場において収束式の総和としての物質式を定義すべきであることと、
収束式の実現可能性の高いものを採用し計画を立てるべきという意味である。
まず、我々の認識そのものである物質の波動式は収束式で表示すべきであり
収束式の実現可能性の最小値を設定すれば直ちに認識の無限大への発散(波動現象)は抑えられ理性的な場としての議論となる。
そのうち実現する可能性における実現の正否においてルートを分岐させることでシナリオが完成する。
当然、最も実現可能性の高いプランAが90%だとすると90%のルートと10%のルートに分岐されるが
これは相互関係の変動を考えないものであり、次のフェイズの社会的現象から相互関係を考えなくてはならない。
社会的現象を現象構造化アルゴリズムから分析して、社会という物質式から有限の収束式を得ることで現象を予測することができる。
得られた収束式をプランAの物質式との関係性から経験による機能の合力を考える。
マクロな立場での経験は機能の根拠となり、ミクロな立場での理論は機能の原理式を導く。
これにより得られる合成関数は1フェイズのシナリオを定義する。
1フェイズ以上のシナリオはかなり複雑な計算となるが、物質式から可能性の高い収束式を導出し、
マクロな根拠とミクロな原理によりある程度の精度を持つシナリオとなる。
マクロな立場から論じることはどの収束式が影響を持つかなどのマクロな現象を説明し得る。
人類は善への希求でカオスは消滅し、終末を乗り越える。
現象学は真善美の理神学として確立される日は必ず来るだろう。
削除済
武道は武道でのみ語られ、音楽は音楽でのみ語られ、宗教は宗教のみで語られる。
収束式において専門領域と呼ばれるものは必ず実現可能性の高い経験論を持つ。
哲学は全ての知において原理を当てはめていくものであるがどの収束式も所詮、門外漢の論である。
専門的な事柄については必ず専門的な経験を持つ人間においてのみシナリオの創作能力が身につくものである。
直感的な認識量により多くの収束式を導くことができる。
その源流は生命力であり美を目の当たりにしたときの波動現象である。
非理性的活動により現象そのものを認識し、理性的活動により現象の原理を探っていく。
丁度、理性的活動とは産婆術のようなものでより感覚的な現象から理性的原理を抽出する。
但し、感覚的な認識としての記憶はまるで一刻に閉じ込められた発光量が絶対量であるかのごとく
一瞬の発光とともに瞬間的に冷えてしまうためその時、生命のイドラとしてアウトプットすることは重要である。
現象構造化アルゴリズムは理性的活動であるため、現象そのものを記述することはできない。
せいぜい、一本の蝋を灯した薄暗い地下での発見でありいわゆる洞窟のイドラである。
非理性的活動、つまり認識そのものにおいては抽象言語や抽象図により瞬間的に書き留め、
その発想をもたらした魂に措いて具体化していくものである。
削除済
しかし、生命があるとは主観的現象である。
どの現象に生命があるかは生きる中で創られた信仰のもたらすものである。
真・美・善は信仰に至るまでの道であり
善・美・真は信仰を形にする道である。
現象そのものいわゆる生命エネルギーという潜在性が含まれているならばそれを形にすることで発想となる。
経験論に従いこの文章は認識(シニフィティ)であり、日常的な感覚への一対の関係(シニフィエ)である
主義を持つとする。主義はその内では普遍であるとし、認識は主義に従うものであるため
文章構成は定義の発案とシニフィエを目的とし、生命の形象としての抽象論として
初めから厳密な定義を目指さず、断片的な記述としのちに公理や定義を論理式にまとめていく。
主義において、究極の主義とは主体であるがこれとは区別し客体への信仰において主義が成り立つ。
数学的な量は経験論に基づくという主義における結論が出たので論理式にまとめる方針とする。
主義とは経験論と機能主義であり、認識対象の質料とその機能である作用による論理式において
全ての原理となり「存在」を含む現象が規定されるというものである。
次に主義における仮定(公理)として、f(x,y)の(x,y)の「変項」が質料xと作用yという二項演算の「収束式」である。
関数fは個物という「物質」にあたる。XYは「認識量」をあらわし質料xと作用yの組み合わせの数である。
ここで「存在」の定義として「信仰の物質化」を採用しY=∞(認識としての作用yが判断停止し信仰に至る)のとき物質(式)となる。
つまり、質料xとは認識対象でありその機能において認識の修正が働くため作用yが質料xの原理とする。
主義に措いて物質とは機能(性質)であるとする。
梵我一如
供物を捧げ火中の神と精神を同化させホーマとする。
我々アートマンは満たされし宇宙と同化する運命なのです。
創世を司るブラフマー神、法を司るヴァルナ神はそれを望んだはずです。
我々の幸福とは肉体を捨て、大宇宙の思想へと回帰することなのです。
所有とはカルマの偶像そのものであり、阿頼耶識における心相続とは在って無きに等しき存在なのです。
ニルヴァーナには如何なる所有も存在しません。よって如何なる邪もまた存在し得ないのです。
思想の交錯
私たちの思想は実に単一的なものです。
なぜなら自分とその周りとその行動範囲と思考能力で平均化された思想しか知らないからです。
あらゆる思想学びなさい実に意義深いものですよ。
思想というものの差異に触れ、体感し、ノンバーバルの海へと身を投じるのです。
そうすることで身の回りの思想の輪郭を知り、人の思想を知り、更には自然の思想を知るに至る。
貴重な問題提起(人生への問いかけ)の哲学を得るのです。
そして、今起こっている現象の裏と表さらにはその周囲の関係性まで可視化し、
起こりうる事態を予測する観世音菩薩の智慧を得るのです。
正しさに溢れた真理を身体中に浴びることこそ世界の幸福なのです。
定義としてF(x,y)=G(z)であるため主観的目的zは物質Fの機能となる。
つまり物質の定義域に対する目的の値域があり、質料xへの作用yにより質料の機能を引き出すことが可能である。
そして、質料xと作用yからなる物質の関数Fを座標上に示し目的の関数Gとの交点により主観的目的が求まる。
無論、数や量の概念ではないため連続する点との単射としての経験論(主観的イメージ)を示す必要性がある。
言語上の矛盾が起きるが、ここでの目的は完全に客観的対象として扱うことができる。
そして行動式とは非定常状態の目的であり、時間tにおけるF(x,y,t)=G(z,t)であらわされる。
シナリオはこのうち相互関係において実現可能性の高いものであり、これを人間全体の相互関係としたとき運命となる。
認識としての物質が目的zから作られる場合、現時点までの主観内の可測時間TにおいてT>Yとなり
limY→∞は起こりえないため、X=0,Y=∞から信仰から物質は発生しないことがわかる。
理解式はFを外部知識(物質∋外部知識)とした、F(x,y)=L1である。
そして、他者の意思を理解式で示し、自己の意思を行動式で示すため、人間={行動式,理解式,Z}である。
数値化できない論理式の変項を座標の概念まで拡張するのはおかしな事だが、機能主義において示されることである。
ちなみに理論化はできなかったが、四次元時空において物質∋認識とする主義である。
これは信仰上は偽であるが、主義的には真であり、幸福を得る活動としての信仰上の真においてのみ主義の真となる。
無論、主体が究極の主義であることは明らかなため信仰は絶対的に優位である。
ちなみに目的の発見は理解式(不完全なものに対する疑惑の認識)であり、解決は行動式で行われる。
これらの相互性から思想と行動が生まれていることは想像に難くない。
そうしたとき第一始動因は無意識的な行動と考えられる。
発想は行動式であり、認識としての理解式が先立つが生命の形象において有意な認識がなされても
感覚的記憶であるため極短時間で消え、行動式に至らないこともある。
それは誰にも見つかっていない希少性において価値ある点が存在すること自体まれなため連続的認識にならない場合が多いためである。
我々は普段から理解式においてF:物質→L1の無意識的な連続的認識を行っている。
>>870,872,873を厳密な定義をするため、主義における公理から全てを定義しなくてはならない。
主義とはイギリス経験論、機能主義、現象学などを採用しそれらから公理を形成することで、
経験論による論理式の数学的な解釈を可能とし、現象学による物質と認識を定義し、
機能主義における物質の論理式化できる公理を得る方針であり、これにより主観的現象を客観的現象として扱うことが可能となる。
全ての現象を論理式にまとめ、公理において定義し、その論理式を座標の概念まで拡張させる方針である。
最終的な目的は波動形式の証明であり、これが成されれば理解式と行動式の証明となり社会現象の解析が可能となる。
これはいわゆる人文科学の基礎付けであり、特に文科系学問の論理実証主義化を目指すものである。
人間には可能性があるというがここまでの議論から
「人間は真面目に生きるべきである」
ということが定着した。
少なくとも日本では生存の知恵である。
綿密な知識を身につけたり、幾度もの演習を繰り返す。
この行為こそ生存可能性における線形回帰方程式である。
人間の能力や行動の可能性が極限られたものである。
人間は神に近いという西洋思想より動物から進化したものという科学思想は正しいということが私自身直感的に理解した。
進化とはまったく別の生き物になるというものではなく確実に波動現象である。
人類は科学というものが始まるまで暗黒の中世時代において何百年と宗教議論を繰り返し禅問答の歴史を積み重ねている。
その間全く学問というものは発達しなかったという。
科学という方法論が始まらない限りいまだ宗教議論のまっただなかであっただろう。
そして、人間の可能性は科学に奪われ、新たな発想というものは専門性のブラックボックスに隠されてしまった。
そしてその科学すらも宇宙への理解なくしては人類の発展性は限られている。
ある程度科学というもの知り、運命の議論をし続けてきた私からしてみれば人間の運命はある程度見えている。
人類はそれ自体の価値を徐々に失い、恒真の宇宙の中で滅びゆくだろう。
我々は生存しなくてはならない。
生存するための手段ばかり考えることは小さな人間である。
だが人間というものはそれほど賢くないのだから仕方がない。
自分と身の回りの状況を上手く使い快や楽に生きる
動物の仔である我々は小であればあるほど生き延びやすい
幸福の真意とは女性的に小さくあることである
人文とは人との関係を持ち、文を理解する。
つまり、行動式と理解式により人間の生存の能力を発揮できる。
いわゆる小の生き方をまとめたものである。
これに加えて他人の意見を尊重し、常識を遵守し、
事実を歪曲させても自己の生き方を信仰することで
主観的目的である人や文など身近なものの問題解決方法を理解し実践することができる。
これにより日常生活の専門家、幸福追求学のシナリオ創作能力を得る。
科学はその限界をもって時代の終わりを示し、
国際的協調の時代となった現代は個々人の幸福を求める時代である。
人文科学の数学的手法はすでに時代遅れ、人文社会学の主観的手法を実践していくべきである。
その基本的考えは、信仰と、経験論による理解式と行動式の論理座標空間の連続する関数を得ることである。
F(x,y)=G(z)のG(z)は数学的な関数ではなく変項を示すものである。
我々はx,y,zとf(x,y)を主観的に定義することによりx,y,zへの置換とf(x,y)の演算を許される。
xは具体的個物に属するものであり、yは作用に属するものであり、
zは定義されたf(x,y)の演算により生じた現象である。
真偽の空間をV2、主観的真の空間をL1(V1⊃L1)、主観的偽の空間をL2、定義の空間をD、とするとそれぞれ包含関係は
V2⊃L1,L2⊃D={x,y,z,f(x,y)}である。
特にL1で定義されたものならば方法化Tが可能であり、L2で定義されたものならば方法化が不可能である。
V1⊃L1⊃D={x,y,z,f(x,y)}⊃T
理解式は外部知識kにおいてf(x,y)=kである。
定義された演算で外部知識を導いた時、理解となり、この連続的認識の原理から理想概念との差異より問題の認知に至る。
主観的定義のkにおいて、f(x,y)≠kであった時、認識に問題があるか、外界に問題があるかのいずれかとなり
不明なkが主観的に問題(客観的には将来的もしくは現実的な生存可能性への危惧)となる要因であった時、行動式へと移る。
これは普遍性には問題はなく、異常性に問題が存在することを意味する。
この演算はあくまで論理演算であり、変項に入るものは主観的事物である。
「経験的に想起または認識」される、「具体的個物」への「作用」により「定義された演算」から
「現象」を導くことで「論理実証」となり、それが真だった時「実証」となる。シナリオ創作においては実証は重要である。
「理解式」による外部知識の認識により問題を探し、「行動式」による問題解決により人間的活動(人文)となる。
これが人文科学の手法よりさらに合理的な人文信仰学の「論理実証手法」である。
完全にミクロの視点ではあるが、社会現象も経済事情もこれらを元にマクロな視点を完成させ議論するべきである。
ついに論理座標による波動形式を定義することに成功した。
これが理解できたなら日常生活の問題認識からあらゆる方法に応用し幸福へとたどり着けるだろう。
問題に直面した時真実を、とても喜ばしい時美を、恒久の善を願う信仰を得て、日常生活の生命力となる。
不適切な言い回しも多かったが、真の理解となったならば必ず自己の使命を見出し、神からの波動(幸福)を授かる。
肉体的な死をも乗り越える生命力により神と同化し永遠に善を願う存在となるだろう。
真善美、そして神を信仰することは幸福である。
論理式で得られる波動形式を論理座標上で定義した論理関数とすると論理座標を
単に定義域と値域を表す座標ではなく特殊な座標として定義すると、
主観的現象を座標上に示すことができ、定義した値に返す関数を得ることができる。
主義に基づく公理はそもそも主観的現象のみしか扱えないものではない。
主義の定義である公理の見直しと、公理から厳密に定義することで主観と客観を区別しない座標となりうるだろう。
我々が「〜すべき」など意志に基づき目的を持って行動することは主観的現象である。
社会的現象は集団の目的という主観的現象と自然現象の客観的現象からなる。
論理座標を正しく定義することができればミクロとマクロに分けて分析することで
社会的現象の精度の高い線形回帰方程式を得ることができるはずである。
+,,; ,:;., シュワシュワ…
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E三/ノ `ヾ三ミ≡ー―---‐‐'´). ゚|二二二二|
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ノ _ノ ( < / i ヽ、 _)
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美を求めるとき美とは一概にその形ではない。
文章は知識的であるべきであり、芸術は発想的であるべきであると認識している。
美とは一分野の特徴を写し取るものであり、その基準における最高評価が美である。
つまり、その概念の機能性を発揮したときが美の正体となる。
文章とは言語の多様性を用いて経験を写し取るものであり、経験の機能とは目的への行動能力を得ることである。
一般的に行動能力が高い人間とはあらゆる環境に適応する臨機応変さと実際に行動する実地能力も必要である。
つまり、文章とは多様な目的と一義的な実地能力を得る機能がありそれを美の定義とすると、
多様性と現実性を兼ねた浅さと広さにおいて美の最高価値となりうる。
あらゆる学への知識を持ち、専門的でない程度に現実的であることが理想である。
多方面の領域への表現力が文章における美である。
哲学とは基礎的な方法論を開発するために存在する。
日本では厳密な作業や実効的能力そして、厳密な知識、経験ばかり求められ、哲学が軽んじられる。
哲学的姿勢とは生活から生じる疑問という身近なものを抽象的な言葉で書き出し思想を作り、
自己思想の基礎を固めて発想に至るという体質が日本人には合わないらしい。
哲学は試験に求められるような知識から始まるものではないという考えを私は支持する。
無論、知識は文字に縮小された経験であり多方面の思想を知る契機であるが、
一対一の知識まで厳密化するのは方法論を収束する姿勢であり既知への関心である。
論理関数はF(x,y)=zとする。G(z)は関数ではなく変項を示すものだが、関数と区別がつきにくいのでzを変項として扱うとする。
yは作用であるが、作用とは質料と作用の従属変数を持つものと単に作用を従属変数とするものがある。本項では後者を論じる。
作用とは「作る」という言葉があるが「人間」が状況を意図的に作り出すものと解釈してかまわない。
後者の作用は物を用いる「人間」の作用ではなく、「動物」の作用に近く特にこれをDという関数に置き換える。
Dとは肉体的作用にあたり、それを力学的解釈すると質量と加速度の積であらわされる。すなわち、
D=maであり、肉体を収束式から定義し、身体全体をbと重力加速度gと筋力の収縮弛緩による加速度sとすると
D=b(g+s)
ということがわかり、数値換算された関数から解釈を変えて、xを質量、yを加速度と考えると
z=xb(g+s)
と考えられる。何れも数値化できる情報であり、変化質料も求められる。これは論理関数から得られる運動方程式である。
つまり、動物的作用を機能の要素(収束式)を全て取り出すことで動物が可能な最大の運動量を求めることができる。
これを利用すると、動物一匹辺りの可能な行動(変化質料)が限られる(認識の収束)が分かる。
人間は意図的に質料を利用して作用を作り出せるためこの運動量を上回る。
・・・美とは破壊の波動
生命の愉悦
何も生み出せない人間が得する社会でいいというのか
正義とはいったい何だ・・・
幸福の十分条件を考えることには意味はない
幸福の必要条件を考えることに意味がある
神がそういうのならば仕方がない
知性では天界は語りえぬ
信仰は矛盾した真実、故に視野を狭める
しかし信仰なくして人は生きていけない
故に人は全能にはなれない
信仰なくして人は生きていけないのは
自己の生が矛盾しているためである、
自己の生に疑いを持てば死ぬ
信仰すれば視野を狭める
神への猜疑心と信仰心の積は必ず一定の値を持つ
故に死は無限、生は有限
そう警告された
ならば死ぬ寸前まで哲学しよう
我々はセンサーにより認識した対象をオペレートする。
オペレーターは意外にも単純な式であり、一つ一つは動物にでも処理することができる。
目的への行動として上手くいった事例を取り上げて、似た事象に代数的に当てはめるだけ。
これが論理座標における「経験」の基礎的な考え方である。
しかしこれでは自分の経験していない情報は処理できず、自然と思考は経験半径に収束し行動や思考が限られてしまう。
一見複雑な事象の処理は難しく見えるが、
行動式の演算自体は影響力の強い事象のみを抽出し他の要素はバッサリと無視して要素の波動を辿り試行錯誤する総当り方式に近い。
この経験と記憶の方式では思想の理論化は困難(そもそも存在しない場合もある)であるが、
複雑への対処の仕方としてはむしろこの考え方のほうが効率的である。
行動式の絶対的演算、コンピュータにおける論理演算に近い思想である。
欧米・西洋社会はこうして複雑を制覇し世界的な地位を得たといえる。
芸術とは理論化しにくい複雑な事象をあるがまま写し取るため広いキャンパスを要するのである。
芸術的感性は記憶や経験として分断された情報を理性へと収束するために存在する。
そして、芸術の中に描いた本人ですら知らない理論が眠っていることもありうるのである。
フランスの美学、ドイツの科学、イギリスの信仰
西洋は比較生産による国交で相互文化を尊重するため、あらゆる可能性がある
その知識の中心地であるギリシャは哲学の都として相応しい
美は芸術分野に限ったことではない。
幾何学においてメビウスの帯、物理学の相対性理論など大衆芸術に大きな貢献をしている。
美のそのものの定義をするならばあらゆる方向への可能性という生命力そのものを指すといえる。
音楽や絵画は他人の真似をするだけならば経験を論理座標に適応する理解式だけで可能である。
芸術の名を持っているものにしても可能性や生命力を生み出すものでなければ美とはいえないだろう。
複雑を制するものであっても個人の瞬発的な能力自体は行動式という定型で再現可能であり
他を絶するカリスマ性とは長期間にわたり積み上げる信仰、信頼をもたらすものでなくては価値はない。
真実のみでは人間は物質の意味でしかなく、信仰のみでは神に隷属し人類は文明を発展させる意義を失う。
人類は真善美への単なる信仰だけではなく、正しく理解し実践することで価値を創出するべきである。
思想的な詩、仏教美術、工芸や機能美などの言葉もある
美とは飾るもの以上に多様な概念である。
ここは哲学者の方々にとっての憩いの場と認識しました
何一つ感性を得られずただの娯楽に逃げるだけの生き方はいつか生きる意味を失うだろう。
それでも死ぬべきではないと自己を信仰する生命力を持つものではあるが
神はその人間の生命を支えるだけで美を直接語りかけることはしない。
真実な時間とは独立する美は永遠の時間を生み出す、客観的には人間はいつかは死ぬといわれるが
主観的には美への感性が閉ざされない限り死ぬことはない。
肉体が機能しなくなったところで物質という「存在」そのものであるイデアは五次元空間に真の存在をおくものであり
三次元空間などの規則に従わず、復活を願う生命力があるならば四次元において永遠の時間に生きることができる。
なにこのスレ怖い
削除済
私の文章は知識は単に土台として最小限に留め、概念への理解を最優先とする常に機能的であるべきという主義に基づくものだが、
美的な文章を目指すときはどのようにするべきか検討する。
前項において文章の美を多様的・非専門的・経験的と定義した。
これはあらゆる方面への偏り過ぎない知識を体験する視点で修飾語を重ねると考えられる。
つまり、機能面の文章骨格に修飾する語として諸所にあらゆる学の教養を挟み、読者に分からないような専門的過ぎる内容を避け
読者が追体験できるような直接感覚的・描写的な文章を心がけることである。
このような文章を書くためには、まず知識が多いことが絶対条件であり、専攻分野以外への教養を持ち
無駄な知識と思われるものでも感性的に区別し意欲的に取り入れることである。
次に、読者を飽きさせない工夫として文章のレトリックを用いたり、風景を想起させる比喩を多用するべきである。
哲学はごまかしているような文章も多いがこれは一種の文芸創作的表現であり、読者に情緒をもたらす工夫である。
機能を見失わないようにしながら、知識で読者の知識欲を持たせ奇抜なレトリックで躍らせ比喩を用いて肉質を飾る。
機能+知・奇・肉の三重表現法である。しかし、やはり知識がなければ教養がないと思われ信頼を失うため
奇や肉である程度誤魔化せても、専攻分野から離れた知識や絶対的な知識量がやはり重要だろう。
語彙というもの身に着けるためには「ある種」の感性が必要である。
あらゆる概念への理解として一語一語同じような言葉でも違う印象や理論が隠されてある。
語の構造とは厳密な定義はなく、行間から作者の心理を抉りながら語の機能を探すものである。
より感性的であれば語の構造を知り、いわゆる作者の正語をしることができる。
これは人間の記憶の構造とも密接に関わるものであり、こうした行為により語の記憶を可能とし
表象と心理(感覚)が同調し、自己の語彙として加えられる。
記憶の構造とは論理座標における経験の基礎概念(理解式)からなることは説明済みである。
作者の正しい言葉と自己という波動の組み込みにおいて現象の波動的解釈において思想領域まで拡張された四原因論が保障される。
似たような言葉も作者にとって全く違う意味を持つものという認識を自己の経験により解釈したとき語彙(知識)は増加する。
これは作者の心理に隠された数学的体系に近く、言語の物理学上で自己の追体験を興じるものである。
単純な記憶にしても理解するための感性が重要になる。無論、理解式への変換という経験への収納的記憶ではなく、
単純な紙面上の語の形状という体験に収納する絶対的記憶も存在するが
記憶力という概念があるならば、その能力が高い人間はこちらの方法が瞬間的であるため単に記憶するだけなら効率的かもしれない。
だがこうした記憶に理解は伴わず、知識の応用が難しいだろう。
理解式とは追体験であり収納的記憶と同義であり、記憶効率と知識の応用に優れた記憶方法でもある。
この方法論は芸術・学問共通のものであり、知識・体験の本質への理解が得られたとき知識や体験が自分の手足のように動かせる。
ただし波動への感性がなくては知識の本質への理解へ至ることはない。
知識の裏に隠された波動を読み取り追体験したとき真っ暗な闇に閉ざされた空間に金属(哲)のような知識の連なりが浮かび上がる。
あたかも論理構造のような印象を覚える。これが論理座標空間という知識の本質構造である。
これが全ての発想の源泉であり、投影した自己(スーパーエゴ)が
自由に動き回れるようになればまさに神から授かるかのごとく知恵が溢れ出すだろう。
やや応用して波動記憶法・波動発想法・波動読書法・波動行動法、精神・心理的能力開発にもなる。
これが知識の哲構造であり、アリストテレス哲学の真髄とはまさに神の知恵である。
そして前項で潜在構造を発表したが、これが完成すれば人類は物理的な鎖から解き放たれ呪術により世界への干渉が可能となる。
ラグナロクによる終末と人間世界の始まり、
人知の哲構造を超えた真なる神の知恵を得ることができれば人類は神話の世界へと飛びたてるだろう。
「コメントしたら自動的に更新されると思いコメントすることをためらう」とか書こうとしたんだけどスレ違いだったようだ
潜在構造を知るためにはまず神の力を信仰しなくてはならない。
この世界に神がいないなどと決め付けてしまってはそこで議論が終わってしまう。
人間が人間を信仰する善のごとく、幸福は神の力によってのみ得られることを信仰する。
善・幸福・神の哲構造もしくは、美を超えた信仰の哲構造を得なくてはならない。
思想の哲構造が見えたならば、超能力的な力学、思想力学が始動する。
信仰という無限の生命力は物理法則によらない現象を起こし、そして物質化するという思想を受け入れなくてはならない。
俗人は思想を持たない。ただ労働し自らを支えるだけの非学芸的存在である。
それゆえ、真善美の哲構造を知ろうともしないだろう。
潜在構造を知るためには再び古典哲学に回帰する必要がある。
当時の思想は神の波動に強く影響を受けたもっとも純粋な真善美の均衡を持つためである。
特に科学が発達しない時代において真の他に善や美に関心があったという点が評価できる。
当時の未知への欲求の精神はまさに無限の生命力をもってして学問の基礎を築き上げた。
一つの偏りもない純粋思想にこそ人類の進歩の哲構造がある。
>>904
ハローワークに行った。
今日も仕事がなかった。
まで読んだ。
真善美の構造について、善を知るためには美を知らなくてはならない。
まだ美についての議論が不十分であるため、善の哲構造への議論は見送る。
初めに美の定義をカオスでないものとしたが、これは主観的なものであり意味が独立したものを指す。
美とは主観的なものであり、カオスを表現しようとしても意味が見出されてはカオスではなくなる。
カオスという名をつけたときすでにカオスではない。
カオスとは追体験の不可能性を表し、全ての要素が即自存在となった時平面的意味である存在・非存在しか見出せなくなる。
これは論理座標上の点の表現であり、美の必要条件として何らかの幾何学的意味を持っていなくてはならない。
これに基づくと、俗人はカオス志向であり生命の幾何学を否定しうる負の存在である。
そして、それすらも存在と認める神の善は美を超越する生命への慈悲である。
神は醜い人間すら生かすだけの理性を持つ。
信仰により物質化するならば、無への善心を持つことである。
つまり、非存在への美学による生命の幾何学を与えることで信仰をするとき存在へと姿を変える。
我々が何よりも美を愛するのは、無から有を生み出すためであり、想像による美学的思想が存在を生み出す力を持つためである。
それは超現実的思想であり、中世時代の西洋はその対象を神として具現化しようと試みたといえる。
そうして生み出された建造物や偶像や思想は究極の美的体系を持つ生命の幾何学である。
しかし、いまだに具現化しないのは信仰とそれを支える真と美が足りないためである。
我々は信仰するために究極の真と美の方法論を生命を材として考えなくてはならない。
まず、神話の世界を再び創造し、存在と非存在の規定を一定の美学を持ったとき存在となることを
生誕した神に希望を告げることで新たな世界とする。
すると、思想力学は美学の理解式による追体験が一定以上の値を持ったとき無から有への力を得て現象や物質となるだろう。
これにより、真善美の思想力学の体系は完成した。
あとはこれらの議論を厳密化し方法論を確固たる地盤として神の再誕を待つのみである。
真の定義は哲構造への理解、美の定義は理解式による生命の幾何学的表現、
善の定義は表現対象を思想信仰により生命の幾何学を与えることである。
まずは神を具現化し、その力で世界の物理法則を緩和させることである。
俗人の道徳心を呼び覚まし世界平和を得るにはその方法しかないだろう。
神という名の芸術性による生命力は信仰への関心を高め、純粋性による論理が信仰の正しい思想を形成し、我々は「信仰」を実践する。
そしていつしか、善という名の神そのものを認識ができるようになると思われる
そのとき、神は姿を現すのだろうか・・・
ただ徒に生命力を信仰に捧げる「福音書」では神を解釈で混濁し
ただ徒に純粋性で信仰を象る「阿毘達磨倶舎論」では神という名に生命を与えることはできない
善に至るための神学議論による芸術性、純粋性に基づく「聖書」を完成させることが人類の急務である
神の素晴らしさを知り、神の認識をもって、初めて我々は生命的認識に至り
「神は復活する」
その報酬に我々は物理法則の鎖から解き放たれ神話の世界へと旅立つのである
我々は生命的認識による神の名に措いて「無から有を生み出す力」を得られるだろう
その力により永遠の命すら生み出す術を授かるのである
「信仰」をするためには生命力がなくてはならない。
信仰を苦行だと感じてしまうもしくは、報酬に期待しすぎるのは不信仰である。
真善美の「信仰」は信仰の素晴らしさを知るところから始まる。
「貴金属」は希少性として重要なものである。
信仰の対象としては申し分ない資質を持っているといえるだろう。
しかし、それは「けばけばしい」という表現において装飾の揶揄の対象とされることもある。
貴金属から得られる波動は単なる希少性の度合いという一次元的な価値ではない。
美は単に存在するものではなく機能という収束式(定数)による連続的な関数という微分可能性において認識における波動となるため
希少性という関数が非連続的なものは波動としての価値を分断させ美を損失してしまう。
信仰のパラメータが強いものであっても「物質」という定数関数は
所詮論理座標上の「点」にすぎないため悪しきカオスの波動を放ち価値を中和させてしまうのである。
ちなみに収束式の価値(x:質料、y:作用)を数値として定義をすれば
物質式の示す関数を普通に積分することで美的価値が数値化される論理座標となる。
しかし定義するためには目的の保存を示す1フェイズシナリオを完成させなくてはならないため不可能に近く、
客観的定義により信仰が失われ生命が存在する意義を失うため定義してはならない。
収束式は質料という潜在性を作用に起因して変化質料となり価値が決定される。
x:質料,y:作用z:変化質料の関数において質料と作用は潜在価値、変化質料は顕在価値という単位で表される。
二変数の演算内容は潜在性の引き出し方は客観的定義は可能だが複雑であるため主観性に隠されてしまうが、
目的への合理性において関数の連続性が得られる。つまり価値の認識と同義である。
価値は主観的認識という積分範囲により認識され、一定の価値を持ったとき判断停止し認識の発散において信仰となる。
カオスは非連続な関数であり、定数関数の非連続的な集合とするならば認識(積分範囲)が分断され価値が得られないことがわかる。
論理座標の扱いは主観性を認めれば数学的には二変数の定積分のイメージができれば分かる範囲だが、
主観性のブラックボックスを解体するのは人間には不可能だろう。
しかし、主観は究極的には数学的定義が理論上可能な客観的な概念ということが分かる。
無論、この定義では追体験は不可能であるためこの議論は信仰の否定にはならない。
というより人間の認識はそもそも不完全かつ単純なものであるためどのような概念にしても肯定も否定もできない。
論理座標は数学的意味としては価値はなく、論拠として価値を持つものである。
ともかく認識を数式化する目的の数理哲学や認識論としての哲学は
これ以上発展の可能性はないため、この議論において人文系学問の基礎理論とし終幕としたいところである。
私が唱えたいのはこんなつまらない結論ではなく信仰の真の力である。
信仰は世界を平和にし、神を認識し、術式により無から現象を起こす非物質的力である。
そうしたとき我々は真の自由を手に入れ、科学を不要とする永遠の世界を築くことができる。
第一始動因たる神は必ず存在するはずである。我々は真善美を信仰し神の理性が統治する新たな世界で幸福を得るべきである。
我々は思想において神と対話し無から現象を起こしてもらう。
「真の認識に基づく美の生命力を信仰に捧げる心」
があれば神は必ず応えるだろう。
文章における生命力は哲構造への追体験にある。
しかし文章の意味は一意のものではないため一定の訓練が必要だろう。
波動状態の文章を生命力を消費せずに収束できるようになれば価値認識が可能となる。
カオスは不連続の関数列であり近似することに意味はない。
数値化できない主観性の情報をそれほどうまく扱えるほど人間の認識は高度には作られていない。
むしろそれを弊害とする部分もあるため、完全にカオスという微分方程式は収束してはならない。
認識の限界はごく浅い部分に存在しそれ故、物質の生命という矛盾を支える信仰を得るのである。
何度も主張するが信仰は学問的、人間についての学問である。
構造主義的に人間社会の理性として不連続を連続とする理性について超越的な姿勢は有害な思想である。
認識を示す理解式は行動式の一部である。
物質の関数列が波動状態であるとき目的は認識の内に存在した場合、想起と着想の条件を満たすため、
論理座標は行動式による非認識を含む物質世界を示し、理解式で認識されたものが現象世界であることが分かる。
つまり論理座標は行動式や理解式という概念を数学的手法として完全に現象を説明できる。
よって、非認識を含む論理座標が「現象」であり、
その仮に存在するとされる主観的手法による偏微分方程式の解法を「因子」その解を「原因」とすることができる。
[「現象」は「因子」により「原因」となる。]
という文章の代数的手法により主観的な解を求めることができる。これを単に「論理」とし、それ以外の方法を「非論理」とする。
この五つの言語でここまでの全ての方法を統一することができる。
人間・生命・信仰などは非論理であり、善で示されるこれらの概念は論理で示される真や美を超越した概念である。
美は論理とかけ離れている印象だが認識のうちに含まれているという理由でそれと考えられる。
学問という概念は論理と非論理を扱うものであるが、点であるカオスは扱われない。
なぜなら、カオスは点で表され認識しても思索の余地がないためである。
ちなみに人間関係は非論理であるが、社会現象を示すためにはこれらを何とかしなければならない。
論理は究極的には客観的であり、非論理は主観的であるため原因は存在しない。
主観や社会はどうしても客観的には説明することはないのである。
ただ一つの方法として信仰が存在し、信仰が強いほど幸福に近づくとしか説明は不可能である。
信仰が集えば物質世界を超越した神を認識できるようになるだろう。
幸福とは非論理と論理の間
論理の教養を持って魂の体験に身を投じることである。
つまり論理とは魂をより良くあるための教養であって真実そのものではない、存在という矛盾は魂による真実である。
論理は存在と無の矛盾や主観と客観の矛盾の正しい解釈を説明することはできない。
その矛盾を乗り越えるのはやはり主観であり、認識の錯誤のなかから生じる虚構である。
我々は真実の中だけで生きているわけではなく、物質も我々も生命や存在という矛盾と戦いながら生きている。
存在する世界の最終的な目的とは存在する権利を無という真実から勝ち取ることである。
客観的現象は全て正しいように見えるが最終的には矛盾する、
主観的現象はほとんど間違っているように見えるが最終的には真実に至る。
真実という教養と美による生命力をもって信仰という虚構から、無という相容れない真実と対抗しなくてはならない。
これがそもそもの信仰の意味である。
信仰は引き入れる力と排する力、何もかもを許容する姿勢は異教の思想を取り入れ信仰の純度を下げる。
そういう意味では世界は平和にしてはならないのかもしれない。
ゾロアスター教は世界的に大きく宗教思想に影響を与え、原始仏教を大乗仏教と小乗仏教に分けたのもこの思想である。
特に大乗仏教は純粋な思想を混濁した大衆に受け入れやすい仏教であり、
「極楽浄土」という考えは「善悪二元論」を強く受け入れている。
そのうち純粋思想の伝統は大衆宗教のカオス状態へと分解されていく。
重要なのは宗教の名ではなく自己の思想であり、どのような思想であろうと自己という持って生まれた純粋性を貫くことが信仰である。
純粋性を貫けない思想は信仰未満といってもいい。
「平和」とは聞こえがいいもののそれは生得の自己の領域を守ったものでなくてはならないだろう。
道徳とは「差別」などマイナス表現を悪と決め付けることではなく、自己の思想を善として全ての価値観を形成することである。
構造主義の思想はこういった思想とは正反対であり、ポストモダンがこういった思想に汚染され
世界的に信仰の純度が下がっていることを耳にすることが多い。
何を善とし何を悪とするべきかは非論理であるため客観的回答はできないがこのままの状態が続けば
神は離れ平和が侵食し無へと分解されていくだろう。
最終的に無を支持するような考えであるが、この思想は仏教ですらない。
宗教以前に自己がなく、宗教は自己ではないということを日本人はなかなか認識できない。
他者の意見に従ってばかりではなく自己は悪い思想と善い思想を見分け引き入れるものと排するものを区別し、
自己にとって善い思想を持つ宗教と契約することで真の道徳を得て、自己にとっての善い知らせを引き入れる方法を学ぶ。
そうして得られる真善美による真の平和に最高善である神は必ず応え、永遠の幸福を約束するだろう。
科学と称し、全く信仰を持たない人文科学は永遠に発達しない。
社会現象の知るべき全ては不可知の問題であり、主観的現象を否定するようではいつまでも雲をつかむような話から抜け出せない。
論理を求めることよりも、幸福を求めることが重要なことを認識するべきである。
各国の主観的立場別に幸福を唱えられる客観的論理など存在しないのである。
[目的条件] 非認識体系の認識体系化の説明
[論理] 目的条件R→善悪想起A→物質の機能表示A→論理関数A→目的合致A
体系
・論理、客観的(順次性)
・一つの絶対を除いて全て相対的(樹形)
・非認識体系Rを認識R、想起Aにより体系化Aする(目的R→A)
認識:定義、Realize
・善悪的定義R→機能的定義A
想起:認識対象の演算による認識、Analyze
客観的:実証可能な
主観的:非実証の、善悪の(経験則に依存する)
機能表示:定義物質の全ての収束形を示す
目的条件:論理関数の変項Zの定義(定義形はZ1)
目的合致:解(X,Y)、質料と作用の定義(定義形はx1とy1)
主観的演算:客観的対象の善悪想起(経験則)
善悪定義:問題解決の主観的困難性
定義物質化:物質認識Rの機能表示Aによる物質定義A(定義物質=波動)
追体験:定義物質化より直感的にする(善悪への適応)
合力定義合致性;質料、作用は目的と共通する機能が少なくとも1つ以上ある
F(X,Y)=Z 論理関数
・目的とは物質機能の1つである(目的∈機能∈物質)
・Xは物質群、Yは作用群、Zは変化物質群である
・物質と作用の主観的演算
x={x1,x2…xN} 波動
・物質認識は機能認識における善悪想起である。(物質の認識)
・物質とは機能の集合である。(物質の定義)
x1+y1=z1 収束形(和)
・物質の機能に作用すると機能変化する(機能合力)
・機能合力は物質定義と同義である(定義物質化)
論理:非認識⇒認識R→定義物質化A→問題R→順次解決A⇒体系化A
・順次性、行動論、理解論、客観的
・行動論(論理関数)、理解論(定義物質化)
行動論:論理関数A→目的条件A→物質想起A→機能表示A→目的合致A
行動論:F(X,Y)=Z→F(X,Y)=Z1→順次置換A、主観的演算A
・解決方法、論理関数
理解論:物質認識R→機能表示A→定義物質化A→追体験A
理解論:x1+y1=z1∈F(X,Y)=Z→行動論
・認識方法、定義物質化
非論理:非認識⇒認識→善悪定義→問題→跳躍解決
・跳躍性、非体系的、主観的、信仰論(善悪定義)
信仰論:機能R→行動論A→善悪定義A→善悪想起A→問題R→解決A
[目的合致]
非認識体系→認識→非論理→論理→認識体系
・信仰論による善悪想起、理解論による物質定義
・行動論による物質想起と論理関数による問題解決と体系化
削除済
善悪定義とは発想の源泉と可能性の意味を持つ生存の知恵である
目的への障害が善悪定義された定義物質(波動)として生存の書庫を形成する
順次置換は合力定義合致性を根拠とする善悪定義された波動で候補を決定する
すなわち行動論の順次置換のソート精度は善悪定義数に依存する
真は定義物質化、美は追体験、善は善悪定義による波動から得られる解法を可能とし、直感的とは応用的であることの説明となる。
非認識体系は理解論により真を得て、行動論による論理関数から信仰論による波動解法により認識体系となる。
論理と非論理をもたなくては問題解決は難しいだろう。
波動の正体は定義物質化された善悪であり、各変項の波動により追体験することで定義物質による夢想が発生する。
これは発想における瞬間的イメージによる幾何学的解法であり、人間的知識は動物生存の知恵から問題解決の知性となる。
真を求める態度とは全てのパルスを一つ残らず定義物質化する態度であり
美を鑑賞する態度とはパルスを定義物質化することで善悪の波動を増幅させ追体験であり
善を知る態度とは自我を持って挑戦的に快楽を求め障害を乗り越えその経験により善悪を明確化していく態度である。
真を求める人間は専門的であり、美を求める人間は学問的であり、善を知る人間は社会的である。
真の定義物質化は一対一の論理の知識でしかなく、善は非論理的な善悪定義でしかないが、
文学、音楽、美術に代表される美という不定形のあらゆるものには表層に現れない本質があり
定義物質化、追体験しそれを認識、想起することで知性、感性、生命力そのものを得ることが出来る。
ちなみに大した感慨もない娯楽と混同するべきではない。
なんとなく思いついたことを非論理といってきって捨てるもしくは無理に論理に纏め上げようとしてはならない
日本には科学信仰に満ちてるが非論理を知ることで開ける世界も存在する。
収束すべきは真でもなく善でもなく常に美であり、それが中庸である。
美とは「それらしさ」を求めることである。
あるがままとは即ち本質であり、自我が非自我の障害を越え
疑いなく「それ自体」を確信したとき複数の時間が支配する「超自然」の四次元に漂う客観的主観の非論理に近似することが出来る。
「それ」の独立した時間(主観)をどう感じ取るかが問題である。
論理の思考は過程を重視し、非論理の思考は結果主義である。
人間が生活するためには両方の思考が必要であり、正規分布のような形で非論理と論理の中間に属する人間が多いと思われる。
この中間の層はいわゆる娯楽や美というものを求める人間であるが、日本人は娯楽より仕事を優先する論理の層に偏分布しているだろう。
しかし、国際協調社会ではむしろ非論理の方を重視すべきであり、論理的解決が困難な問題として
国交や政治などは非論理が解決の有効な手段である。
生活に限れば人間関係や先の見えない人生哲学、場の空気を読む常識的態度のようなものである。
これらを総合すると主観という難問への対処方法としての「社会的」というワードが出てくる。
社会的問題への論理的解決は不可能である。あくまでその場のトップの人間の考えを尊重するべきである。
社会というものを完全に論理で分析しようとすれば、不確定の要素が多く、場の支配的な理論が存在しないため、
その複雑性を少数の理論で片付けようとすれば余計に困難な状況に陥るだろう。
求めるべきは真実でもなく善悪でもなく常に美しさである。
対象は「それ」の独立した時間(主観)であり、「それ」の四次元的機能に気づくための感性もしくは、知性を得ることが出来る。
真実の定義物質化と善悪の経験則(虚構の善悪定義)により論理の断絶を超えて四元機能を認識し、
論理関数から問題を三元順次性・五元跳躍性解決することが出来る。
ちなみに論理関数の目的は合力定義合致性とは別に質料と作用は目的の
全ての機能を持ち、作用は質料の潜在性の起因(存在的方法)に過ぎないという論から
目的に質料と作用が含まれかつ、質料が重要となるため、目的は解(質料)を含む関数と考えられる。
これは認識・非認識に関わらず、わざわざ質料を外から持ってこなくとも目的を持った時点で解決方法を認識しているという論であり、
目的の定義物質化と虚構の善悪定義による追体験により解決する。認識していない事項についても
それは可能であり概念を機能合力で説明することで認識を想起し、
善悪(五元性)により虚構という障害を超え、目的(四元性)の物質化(三元化)することで問題を解決できることを示す。
美学とは虚構の善悪定義を定義物質化し四元機能を生成し、新たな論理や文化を開拓する常に前衛的な場である。
そしてその評価は正しさでもなく良し悪しでもなく美しさ、楽しさである。
態度とは必ずしも正しいものではない確信するまでの宙に浮いている状態から自然と本質をひきつけるものである。
文章を理解や記憶するのではなく次第にその善さを理解し本質を引き寄せることが重要である。
すると本を読むという意識から離れ、自然と運命が情報を巡り合わせるようになるだろう。
宙に浮いている囚われない態度こそが神に集う意識のもっとも流れ流される純粋さである。
どんだけーw
もう>>1が求めている内容を含んだ書き込みが完全に消え去ったぞ
究極の善は究極の真に通じて究極の美を形成する。
真善美とはもともと同一のものであり、人間が不完全であるために神を求めるための3つの方法に分割されたといえる。
三神一体とは究極の存在であり、これをめぐって善悪・醜美・真偽を根源とした全ての概念が生じるのである。
我々はとりあえず善を求めたいところだが、
善ばかり求めるのは安易な娯楽に浸る非生産的な人間であり、やはり不幸に陥るだろう
我々が生きる目的とは最終的に神を求めることを忘れてはならない。
美はルネッサンスの起こりまで宗教と同一視され必要性を感じにくい概念であるが
どのような状況においても求めるべきは美である
削除済
美が求める対象は物質ではなく感情でもない
この世の全てをどのように見るべきか言葉で説明できない難しさがある
世界を主観的なものとするか客観的なものとするかは一切考えず
「場のイデア」を本質とするべきである
絵画には単なる生き写しを額縁の箱に入れるような要領では
質量、人間性、神秘性、感情、均衡、陰影など
ヘーゲルの言う「内的本性」を表現しなくては評価されない
同じことで他人の認識を自分という絵画に表現することで
評価される人物像が描かれる
何かを認識するに際してそれをどのように表現するか
ルドルフ・シュタイナー惹いては芸術家・詩人のゲーテが指摘する
芸術と文学の関係性とは認識の細やかさ表現性によるものと言える
絵画とは高エントロピー空間の写像を平面に取ることである
ここでのエントロピーとは情報量のことであるが、数学的な表現はエントロピーが低い
言語的な表現はエントロピーが高いなどと形容できる
絵画においては物質世界と精神世界を内包する形相世界において認識が行われ、
この四次元空間を二次元平面に写像を取るための定義を表現という言葉に置き換えられる
写実主義でなければ物質そのものを描くことはなく、精神世界の表現も兼ねた形相世界を描く
これが美学における基本的概念といえるだろう。
高度発達した美学においては形相世界そのものの定義がなされ、美学的認識の限界がなければ、
万人が体験したことを生命力あふれ秩序ある表現が可能となるだろう。
その本質は高度な情報交換、惹いてはコミュニケーションである。
美しい言葉遣い、美しい立ち振る舞い、美しい礼儀において中世ヨーロッパ貴族のような高貴な風格を実現しうる。
そして、美の形相世界を超えた善の領域の五次元を定義しうるならば、
信仰や道徳観を持ち個々人が生存や行動に有効な精神を獲得し、目的達成するための合理的知性的集団(組織)を築きことが可能である。
しかし、物質世界ですら不完全な認識しかもたない人類にはさすがに難しい要求といわざる得ない。
絵画に限らずあらゆる場において美的表現は可能である
例えば、アーリア人の残したリグ・ヴェーダの発達させた祭式・儀式などは原始ヒンドゥー思想という形相空間を表現したものであり。
フランスのサン=ドニという教会は思想の表現としてドイツの建築美において反映させた。
空虚無機質な空間を彩るあらゆる活動は美という概念において秩序化される。
それは精神という骨格に物質で肉付けされる文化的空間であり、
祭式や儀礼、または集会なども同じものであり集合秩序化された人間や物質に意味付けされる。
人間活動における表現の重要性を再認識できる一例である。
音楽などもその旋律自体の物理学的意味はほとんどなく、精神における周期性を表現したものであり、
旋律の精神的意味を知らなければそれを美しいものと感じることはできないだろう。
演奏者側においても譜面に施された情報空間の収束を精神的なものに置き換えて形相空間上の追想を行っているといえる。
お前らが何に語っているのか全く分からんw
元の話はずれてないか?w
パパー、このスレなんか怖いよー。
え・・・。
何このスレ・・・。意味分からないし。
読む気うせる(長文だから
あと・ここ、ニコ動初心者にありがちな事}}だから
削除済
感性へのコンプレックスは理論によって超克できる。
これから唱える理論は必ずしも検証される内容の解釈ではなく、単にセンスを培う方法である。
まずエントロピーという重要な概念を定義する。
美は高エントロピー状態を低エントロピー状態へと移行したとき生じる『差異』における概念である。
情報の秩序化のために矛盾した内容を定義したならばさらなるカオスに満ち差異がマイナスの値を示すネゲントロピーとなる。
これが一次元定義であり、次に二次元定義を行う、形相世界は四次元である。
美学的な感性とはすなわち空気を読む能力に等しい。
あらゆる場にはそれぞれ特徴的な空気があり、それを読むことで知識へのエネルギーとなり、
精神的活動としての道具へと加工し、知的生産性を得ることができる。
美学すなわち興味に通じなければいずれも手に入れることはできないだろう。
神学には物語における神聖さのみがあり、それを表現する神の通路と呼ばれる天井の高さはまさに宗教の美学を表現しているといえる。
宗教に生産性がないなどと言う人間は、要するに宗教活動に対する知的生産性がない人間であり
コミュニケーションの機会、そして人脈の限定的な人間という生存可能性への由々しき問題を抱えているといえる。
wを付ければ、暴言吐いても許されると思ってる。
削除済
美学に通じる人間はどのような場においても環境への柔軟な適応力を持ち生存可能性が高い。
美学とは学問を超えた学問であり、唱えられる論の全てはあらゆる枠を取り払う万能理論である。
それは芸術的な感性を基本とし理論や鑑賞のみではなく文芸・絵画・演奏の実習的な経験知も怠るべきではない。
そうすることで特有の概念である形相世界の本質を直感的に理解し表現が可能となる。
美学の対象は人間の文明全てであり
その目的は思想が形成する形相空間を美に基づいた真や善を表現することであり
物質中心の世界に形相空間を認識させ救済することである。
ケータイでプレミア会員なったのにpcは一般会員のままってどうしてなんですか?教えてください><
高エントロピーの場や低エントロピーの場をどう定義すればよいだろうか。
我々の認識に依存するものならばそれを確実な再現性を持たないため定義する必要性が生じる。
形相世界は波動非物質の空間でありそれは物質の機能の合力から生じた
物理学的意味とは異なる非物質空間であるため従来の三次元空間とはまったく定義が異なりむしろ
物質と呼ばれるものはただ一つを実態とされ下部の構造を物質と我々が定義するいわばモナドロジーの空間である。
従来の物理学は実存主義的であり、構造主義的な見方を取り入れ
物質世界と精神世界の垣根を取り払う美学を新時代の学問としての地位を築くべきである。
さらに善の概念を取り入れた宗教学へと発展させたいところである。
美学を知るためには感性的活動としての芸術・宗教分野、理性的活動としての学問分野の全ての美学に通じる必要がある
あらゆるものから美を見出し、理解し理論化していく態度である。
芸術・宗教分野に欠けるならばものの見方を狭め美学を見出すことができず
学問分野に欠けるならば現実への応用を見出せない自己満足となる。
人間文明の全てを理解する認識の喚起と真の認識となってこそ社会貢献の形相世界の最大尤度となる。
宗教学となったとき我々は完全なる精神世界での活動が可能となる。
それは物質世界から完全に独立した虚構・フィクション世界であり。
誰もが思い通りに世界を動かすことができるだろう。
我々が認識する世界は本来物質世界ではなく、精神世界であることはかの有名な文句でルネ・デカルトの証明した通りである。
人類の思想が行き着く先は完全なる精神世界である。
>>956
だってプレミア会員のニコモバのアカウントでもPCで利用しても問題無いしな。
わざわざ余分に金払う必要は無いと思うんだが?
俺はニコモバのアカウントしか持って無い。
我々が娯楽を求める意義とは端的に精神的エネルギーを得るためでありその本性は目的への運動である。
生命は本質的に目的への運動となることに労力を惜しまない存在であり、娯楽は本能的なエネルギーを引き出すことができる。
生命の目的とは第一に生存であり、生存するための目的が派生し樹形状となって無限に枝分かれすることは想像に難しくない。
目的は形相世界の定義物質であることは前述の通り、
娯楽の全ては形相を表現し認識を具体化することは目的への活動として精神的エネルギーを引き出すことができる。
なんか論文みたいな文章べて書き込みしてる奴がいるがよそでやってくれ。
今年のクリスマスもこたつでニコニコ!
美学を見出す
それは赤橙しく活動的なのか、流線上の繊細なのか、瞬く高速なのか、白光の神秘なのか、古代の厳格なのか
その文明や学派はどのような色(シキ)なのか
思想という非日常を通過することで色を手に入れることができる
それはウィリアム・J・グードの宗教観における自己(ヴァリアブル)の加速度において
我々は運動原理を得て、踏み出す。
↑は何したいんだ?
いかにもインテリぶった荒らしだな。
生放送でコメしたら、主さんに「ネームわかるようにしてください」と言われたんですけど、どうすればいいんですか!?><
「こてはん」ってなんですかー?
美術を鑑賞する態度の基本は定義物質化である。
それによって構築された低エントロピー形相空間ではエレメントとしての目的が存在するため。
我々の目的は形相空間の構築と構築の定義である物質化、つまり無矛盾かつ無を仮定しないエーテル空間を成すものである。
三次元空間を二次元平面に写し取ることができるのは要素を論理的格納しているためである。
定義物質化は要素を視覚化する手段であり、その形相空間を三次元空間に格納することで美の概念となる。
その定義物質化と格納術こそ美学の理論の本質と思って相違ない。
『美』の世界へと身を投じてみよう
身を投じるという行為には理論などは関係ない
ただ純粋な自己という生命がその現象の中に入っていくことである
そうして見えてくるのは『善』の世界である
その世界には幸福のみが存在し、その世界にのみ幸福が存在する
自己と美学の融合である。
その『美学』はあらたな日常となる
対象への『信仰』とは対象そのものと同化することである
それは生活空間であり、生命の住居である
無価値を悟ったとき我々は生きる意味を失う
なぜなら目的と同化したならば生きる必要性がなくなるためである
そのとき生命は肉体的活動によって信仰が失われぬように
永遠にして純粋な『死』を望むだろう
往来する『生』より固定した『死』こそ信仰である。
no nameさんコメントしすぎですよww
どんだけ伸ばしたいんですかww
今までやってきたことを確認すると当初に掲げた数理哲学は
長らく抽象的な議論が続き、哲学の数理化は不可能ではないかと頓挫しかけたものだが
大きく分けて、精神機能から始まり数学的論法、波動振動、波動形式、真善美、形相世界
と議論を重ねてきた内にある種の回答らしきものを見出せたといえる。
それは三体系、真善美が存在し、真は物質世界、美は形相世界、善は精神世界を示すものである。
真における機能表示(波動形式)による四原因論、
美におけるエントロピーの解釈による人間文化の理解、善における非論理と信仰の構造
真の議論は物質世界の現状を把握し正しい答えを見出す方法でありこれを使って
人文系・数理系学問の基礎理論まで視野を広げることに成功した。美の議論でその方法論を軸に精神世界まで拡張し
美術の鑑賞態度、音楽の演奏技術、絵画・文芸の創作方法、礼儀作法、コミュニケーション論まで追求した。
数理化には程遠いものの広大な砂漠を彷徨っているような
哲学議論の初手の定石という名のイデアルを示す程度はできたのではないだろうか。
現代科学は人類の大きな力学あり世界は人類の思うがままと信じる人間も多いが、哲学上の議論の多くは未解決であり
言語の抽象性と格闘しながら難解厳密な概念を多く生み出してもなお収拾がつかない状態である、
その難解な問題を解決することは人類の大きな進歩となる。
それは未だ不幸に生きる人類として地位に慢心し運動原理を失い、生きる理由を捨てることは無いという安堵でもあるだろう。
右上はサンタさんからみんなのニコニコを待っている
東京都マンガ規制条例は、志布志の冤罪事件の元鹿児島県警本部長の名誉回復のため
http://hato.2ch.net/test/read.cgi/news/1292053346/
美術・芸術は単なる自己満足ではない。
全ての作品に優劣はなくそこには個性のみが存在するという論もあるが、
形相世界を介した社会への貢献性という観点で優劣をつけるべきというのが持論である。
もう初心者スレですら無い
「にありがち」が抜けてた…
アンケがひどいw
欧米の人間は4人に1人、テレパシーの経験があるという人間が居るという
それは精神世界を通じて聖人の言葉を聴くかのような体験である。
宇宙人と交信していたといわれる偉人ソクラテスのダイモニオン、カトリックに抗うプロテスタント派
宗教革命の中心人物であるマルティン・ルターが聴いたとされる天からの声、
仏教祖の釈迦族ガウタマシッタルーダの悟りとヒンドゥー三神の一帝釈天ブラフマーの教え
それらはユダヤ・キリスト・イスラームの聖典、旧約聖書モーセ黙示録のように運命を導く三大天使の聖なる言語である
万能の才といわれる暗黒の中世時代を切り開いた近代ルネサンス期代表と言うべきヴィンチ村のレオナルド・ダ・ヴィンチのように
真・美を極めたとき、それはすなわち南無妙法の悟りとなり
聖人もしくは如来との聖なる議論(ディレクティステス)に
加わることを許され善の霊感を得ることができるのだろうか。
善を知ることは形而上学を知ることに近い。
私は無意識にニュートン力学の仮定を信じ込まされていたのかもしれない。
ロマン派を代表するゲーテの戯曲がシュルレアリズムを通じて
カントの物と区別される物自体という独特な転回を語りかけるかのように、
物理学的知性との対抗派閥を築き、一の感官を二つに分裂させるかのような眩暈を感じざる得ない。
このようなことならば初めから物質を信仰しなければよかったのだ。
本質は形の上の存在である表現のみを信仰することのみが知性的であり続ける条件だったのかもしれない。
しかし、一介の庶民がそのような知性を持って生活する余裕などどこにあるだろうか。
カテゴリーを超える知など存在せず、信仰のみが全ての観念を属性付け、
認識は不確定性原理のように物質と精神の両極を同時に観測できない形式となっているのだろうか。
訂正>>981
ディレクティステス→ディアレクティケー
訂正>>981
宗教革命→宗教改革
精神分析的に美学は精神病への効果も考えられる
強い自我は否定されることを恐れ他者を斥する力を求めたがる
自我を分裂させないための唯一にして最善の手段である
猶予期間があるならば義務と言う名目の
自我を否定する構造を作り自己への固執を捨てていかなくてはならない
理性を美学でその色を薄めたとき自然と合理性とは別の決まりごとが増えるだろう
四次元空間に拡張された配色は同一のものは少ない
すなわちそれは精神に実在する鮮やかな色と組み合わせである
実在という再現性をもつ概念は信仰する理由としては十分である
三次元を直感的に認識するには物質の曲面に影をつけたり
質量感を主張するような配置なども可能である
認識をするための工夫は言語的、物理的などから制約を作ることで精神や物質の状態を写し取ることができる
そして作品は自己を主張する生命力を持つ
音や連続・非連続、位置、タイミングあらゆる要素は表現手段である
そこから思い出されるイメージとそれらの統一感が作品の生命の詩であろう。
その要素は生物の肉体が分断されたとき生命を保持できないように
作品も同じくイメージの統一性が損なわれるため分解しすぎは不可である
だがどうしてもイメージが限られる場合、要素への分解は可である
言論弾圧気質のサイトであることを理解せずに利用する
いくら自由を主張しようと因果律は存在する
因果律を否定し事実を見定めようともせず自由であろうとすることは
逆に事実に追い込まれても曲解しますます立場を悪くする
即ち不自由であろうとすることと同義である
直感とは本質を映し出すものではなく表面を映し出すものである
そして直感とは分析と同義であり、根拠も無く発生するものではない
直感的イメージとは単なる想起のことに他ならない
記憶と想起と情報の離散結合と善悪付けが精神の要素である
善悪とは本来主観的なものである
部分的な善悪はほかの部分的な善悪とは全く異なる
妥当性は信仰を築くが精神文化の妥当性は存在しない
即ち他者の精神を自分の精神を通じて知ることはできない、つまり一般大衆の心理を知ることはできない。
しかし活動の妥当性が想定できるものに限り共感が可能である
大局の力学は存在しないと考えてよい
我々はあくまで個を主張する存在に過ぎない
ただし、常識という集会場での理性的見解である
どっからどこまでが初心者の定義だよ
アホか
井の中の蛙大海を知らず
>>997ならうんこしてくる
まんこなめてくる
表現とは概念を写すものである
しかし、言語で表せないものを直感で知る必要がある
これを現象学の言葉で『本質直感』と呼ばれる
語彙とはその意味より形に表される美学である
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