ニコニコ動画初心者にありがちなこと


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1 名前: no name :2007/11/17(土) 00:41:53 ID:zKahl6tg

「自重」を「じじゅう」と読む

825 名前: no name :2010/10/05(火) 01:16:50 ID:5wXAee+L

論理は現象を真実に収束するが、それは波動現象を否定し物質へと収束することと同義である。
つまり論理的思考は現実への構造化により虚構に存在する収束式を減らす行為である。
するとxy/SVの可能性で得られる波動の機会を失い、手段のアイディアを減らすことにも繋がる。
論理的思考は空間座標の真実を見極める有効な手段であるが、擬似的な四次元空間という
時間がZ軸との相対性をもつ時間座標の精神を内在させる我々は平生から虚構の世界を渡り歩いていたといえる。
時間の規則性の無い擬似的な時空は一瞬のうちに地球の裏側すら想起したり、宇宙の果てへの思いを馳せることすら可能である。
科学が発達した現代は三次元を正しく認識することにより発達した文明であるが
その場の感情や情緒をくだらないことと掃き捨て時間の規則性により三次元へと構造化してしまったとき
それは精神現象の否定にして認識量の減少、そしてアイディアの損失である。
収束しないレベルであまりに発散しすぎるのは単なる阿呆であるが、
せめて善の感情も生まれないほどの美の完全否定は避けるべきである。

826 名前: no name :2010/10/05(火) 04:42:28 ID:5wXAee+L

精神の全空間Vは宇宙の全空間Sよりはるかに広大なものである。
なぜなら時間を遡ることも、物を別時間軸の空間からもってくることすら自由自在なためである。
ただどうしても適わないのは無限大の認識、無の認識、無知の認識そして、現実への干渉である。
時空間を自在に操れても所詮虚構であり必ず波動を帯びた行動により三次元空間に収束しなくてはならない。
人間が自己自身を最高善とし他人を殺してでも生き延びようとするのは自己の空間が宇宙より広い事実に基づく合理的判断である。

しかしならば自己犠牲は存在しないのかといえばそうでもない。
無限大の美の中で生じる善は美にとってもただ感情に流された中に生じる虚構であるが
虚構の合理性をさらに超えた神の慈悲の精神そのものである。
自己犠牲により虚構の虚構に存在する神と同化することで魂は物質的な死を乗り越え永遠の真実へと回帰する。
これが真善美の究極の形、永遠の真実としての円の幾何学を象徴とする魂のロンドである。

827 名前: no name :2010/10/05(火) 14:27:09 ID:QRavjGXE

波動形式により自動的に議論の結論を導くことができるが、それは認識の範囲内で情報処理する論理的思考のツールである。
では認識外として将来得るべき知識や考え方をどうやって身に着けるかが課題となる。
まず可能態が空間から検出されるためには認識量の問題であり、言語から感覚へのデコンパイルが必要である。
感覚は言語の認識量の何倍も厚みがあり、比喩的に表現できる範囲を知ることで認識の有機的感覚を得ることができる。
いわゆる概念を具体的個物に対応させるという経験論的認識法である。
具体的な原理は保留とするが残る目的は原理を明確化させることのみとなる。
次項から原理の明確化と総合的な評価を行い分析を終了する方針とし、これにより波動形式の備考を一度終了とする。

828 名前: no name :2010/10/06(水) 18:13:53 ID:RH8QATdb

我々の認識する存在名は存在という「基体」と「機能」からなる。
物質はあらゆるものに変化し「機能」を変えていくが存在という「基体」は普遍であるため
無限に分割しようと「機能」が位置情報の相対性において分割されるだけで
「基体」については位置情報に左右されない実在であるため分割不可能である。
この「基体」を第一実態と呼び、位置情報と相対的な自然は全て「機能」の位相である。
第一実態は位置や時間に左右されず永久に変化しないものに対し、実態の機能としての「機能」があるため
存在、時間、無は「基体」の「機能」である。

つまり、我々は第一実態にとっての機能であり実態のない存在である。
この考えから全てのものは機能としてみることで本質を知ることができる。
例えば、「物体」の機能は位置情報を持ち、エネルギーを持ち、法則に従う機能が存在し、そのままこれが「物体」の定義となる。
また「無」の機能については位置情報が無く、エネルギーは無いが、法則に従う機能が存在する。
実際は物質と反物質の反応による擬似的な無であるが、これを「基体」と見なせばここから「機能」が生じることがわかる。
我々は何者かと問われれば我々の「機能」を答えることが真理である。
数学における関数functionの意味は機能であるため、数学的証明は機能主義的である。

829 名前: no name :2010/10/07(木) 08:54:05 ID:AMZJ6u3Z

機能主義的に現象を見たとき客観的命題、主観的命題において、あらゆる論理が適応できることがわかる。
「考える」という行為を全自動化し、完全な論理による分析と
経験的な認識(波動記憶)のみが思考の形態となり人間の機能表示を可能とする。
次に示すのは即席スクリプトではあるが現象構造化アルゴリズムの1つ、波動短答式である。
次の文章をコピー&ペーストし、メモ帳に保存後、拡張子を「.vbs」に置き換え実行することで推論を開始する。(要vbランタイム6.0)
客観的命題に対応するが、主観的命題は最後に示す指示に従うことである程度対応可能にしてある。
x=inputbox("あなたの問題は何ですか。(〜したいという形式で〜を入力してください。)","命題")
msgbox " ではこれから『" & x & "』について推論します。" ,,"宣言"
y=inputbox( "『"&x & "』の機能や性質を客観的、具体的に入力してください。","分析1")
z=inputbox("では、『" & y & "』の機能や性質を持つと思われる物質、人間を「私」以外で入力してください。","分析2")
t=inputbox( "『"&z & "』の機能や性質の『" & y & "』についての引き出し方を入力してください。","分析3")
msgbox "推論は終了しました。問題の『" & x & "』したいは『" & z & "』を『" &t& "』とき解決します。"& vbcrlf &""& vbcrlf &"理想的回答へのヒント:"& vbcrlf &"本当に指示に従っているかに注意し、分析2にて別回答を入力する"& vbcrlf &"「機能や性質」を「物理的性質」もしくは、"& vbcrlf &"分析1にて「客観的」という指示に従わない場合、分析2にて「ための機能や性質」に指示を置き換えて入力する",,"結論"

830 名前: no name :2010/10/08(金) 07:43:24 ID:ohlPenzi

認識とは時間の規則性のない精神の空間において物質への多元的な解釈をする行為である。
例えば、鉛筆の認識として木、鉛、鋭さ、六角棒、消しゴムなどの認識の集合体であり、
存在名はこれらの感覚的解釈を集合論的に足し合わせた合成関数のようなものといえる。
使い方がわからないうちは鉛筆を木の一種として扱い、使い方がわかれば鉛を紙の上でこすり文字を書くものという認識の修正が働く
さらに使い続けているうちに消しゴムの用途に気づくだろう。
時間の規則性のない精神空間は自由であるが認識はあらかじめあるものではないため、
目の前に物質が存在しても機能がわからなければ何の意味もなく、認識が正しいという保証は全くない。
だが時間の規則性がないゆえに、先の未来すら見通すことができ思考の中で機能を組み立てシミュレーションすることも自由自在である。
虚構の時空から真実の理論を見つけ出し、三次元においてそれを実現する行為により文明となりうる。

831 名前: no name :2010/10/08(金) 08:12:41 ID:ohlPenzi

動物直感的に波動の気配を探り人間的理性による論理的思考により我々は文明を築いたといえる。
日常的な問題解決や行動としては>>829のスクリプトの波動短答式を上手く使いうことで十分対応可能である。
現象構造化アルゴリズムでは学者レベルの議論をするにたるものだと確信しているが、
波動短答式に依存せず隠されたプログラムである論法を知り、精神的時空間にプログラミングし実践することがよいだろう。

832 名前: no name :2010/10/08(金) 18:40:44 ID:ohlPenzi

波動理論は真善美のどれかといえば実は美学に近いものといえる。
認識の虚構時空間的解釈の単位としての波動は時間軸において真実の三次元空間の線形変換したとき非波動物質となるが、
認識も美学も時間座標上(相対論とは関係ない)の虚構であり波動理論は
美学の真実における超越論に規則性を持たせ質料変数に対する作用変数を無限大(波動現象)として美学を象徴するものである。
つまり美とは四次元空間上の真実であると、物理学的に妥当性があるかもしれないと考えている。
善はまだよく分かっていないがおそらく信仰するもののみの真実と思われる。

833 名前: no name :2010/10/08(金) 22:24:05 ID:RwFe9PJY

美が物理学的な真実であったとき、真の領域を侵すことになる。
真善美の信仰においてこれは善くない。
どれほど真実に近づけようと美はかならず虚構であるとしよう。
それが神の意思である。

834 名前: no name :2010/10/10(日) 08:16:13 ID:EpVzx3Yg

美を追求するに際して、我々は美的センスを問われる。
美とは真なるものの美であるとは一概には言えない。
美は虚構の美も受け入れ、時には醜きものに隠された美を追求することもある。
逆にこの文章は真なるものへの機能を示すものだが美を目指すものではなく美ではない。
たとえ真なるものであっても美があるとは限らない。

835 名前: no name :2010/10/10(日) 09:00:08 ID:EpVzx3Yg

文章は知識的であったほうが美的である。
美の対義語となるものはカオスであり、何も分からない状態つまりグチャグチャである。
無論、美とは物自体にあらわれるものではなく認識におけるものである。
物への認識という名の波動非物質は物の機能を示すものであるが、機能は波動的であり真と虚が入り混じっている。
しかし、波動は次の瞬間、真にもなる。現代において物は一つの機能に特化されたものに溢れている。

例えばドライバーの素材は金属という鉱山資源であり本来生活世界に身近でないものであるが
その希少さは生活世界に可能性をもたらすものであり、金属の使用についてドライバーはネジを回す以外の使い道もある。
生活世界において金属は硬いという性質を活かして振り回し破壊することもできるが、
そのような使い方はごくありふれたものであり波動のパラメータとしては金属という機能が存在するだけの希少性しか持たない。
よって、そこに美は存在しない。美とは希少性であり特異な性質といえる。故に、醜きという希少性において美が内在することもある。

グチャグチャの「カオス」に加えて、生活世界に溶けこむような「つまらない」ことも美の対義語である。
これにより美的は認識的であり、物質的に固定的ではないことが分かる。

836 名前: no name :2010/10/10(日) 09:09:03 ID:gNZBdNnj

物質の波動において、希少な物質の波動式は作用変数が不明な限り発散するものである。
その収束式の無限大に近い、V空間への発散による個数において物質そのものへの価値となる。
こうして物質の希少性を信仰することも美的であるといえる。
同じく人間を物質的に信仰することで収束式はV空間に発散し自己犠牲の起因にもなり善を知る扉を開く。

837 名前: no name :2010/10/10(日) 09:42:43 ID:EpVzx3Yg

新たな用語が多いので説明をする。
V空間:
四次元空間であり、S空間は三次元空間を指す。xy/SVは全空間の体積に対する認識量xyの密度を示す。
カオス:
四次元空間的に無秩序な空間
自己犠牲:
善の目的であり、先ほどの説から認識の発散における信仰美が善そのものといえる。
美の観念をV空間を満たしたとき善となり、神と同化し「存在を発生させる力」となり
物質に自己の全てを捧げることで存在が同化し、美の物質化(永遠の真実)となる。

838 名前: no name :2010/10/10(日) 16:07:28 ID:EpVzx3Yg

認識量がxy/Vだとすると、インフレーションの定義を単位時間ごとにS=2^t、V=x(x-1)だとすると
xy/S^2、xy/2^2tとなったとき、時間を二次元的に解釈したときのS空間の現時刻(T,T')までの時間の長さを
S=√(T^2+T^2),V=T^2+T'^2,V=S^2の等式が成り立たない矛盾が生じた。
波動形式は数学的に矛盾したのでS空間やV空間、認識量は定義を見直す必要性があるといえる。
扱う問題が思った以上に複雑だったので波動形式は理論として完成しないものと考えるべきかもしれない。

839 名前: no name :2010/10/10(日) 18:47:52 ID:EpVzx3Yg

神学は前衛的な芸術であり、芸術は前衛的な哲学である。
日本においては前衛的なものは重要視されず単なる娯楽として片付けられてしまうが、
前衛的なものは発想的であり、日本ではとかく実効的な能力や厳密な知識を求めることが多い。
だが、日本の前衛的なものに対する関心の薄さは不可知への関心の薄さであり
不可知とされるものは美の世界について多いといえる。
複雑系において不可知な問題が生じることが多く
美や信仰を持たない日本人には動物的な直感性がないため不況から立ち直る生命力がないといえる。

840 名前: no name :2010/10/11(月) 02:08:27 ID:wZUd2GFm

誰か和訳頼む。

841 名前: no name :2010/10/11(月) 18:49:14 ID:BF3VY70+

波動形式は理論化できなかったものの不可知の形式化には成功したといえる。
すなわち動物的直感の波動的認識であり、直接的に理解されずとも、正当に評価されてないとしても
量子的なトンネル効果のように染み渡り社会集団への無意識に介入することで波動によるイデアを引き継ぐ人間が現れると予言する。
そして社会の無意識が波動形式に支配されたとき、私の使命は達せられたといえよう。
「強い意志」は必ず影響力を持つということは波動形式的によって説明可能な事象であり、
現代思想を支配した科学的思想に拮抗する影響力を持つだろう。
波動形式という不可知を意識化できない限り、人類の無意識に作用し続け意識的活動を無力化し人類の運命を操作するだろう。
運命を唱える私自身も全て神の意識により無意識に作用され不可知に操られた存在である。

842 名前: no name :2010/10/11(月) 18:55:15 ID:BF3VY70+

波動形式は不可知というカオスを否定し真実を語るものである。
私の存在は運命の必然であり、人類の真実は生か死か審判の時は近いといえる。
カオスに守られていた人類は永遠の真実か破滅かの時を迎えているといえる。

843 名前: no name :2010/10/11(月) 21:42:15 ID:BF3VY70+

理解式:F1
x:外部知識のイデア(収束式)を抽出(機能表示)する
イデアから個物を想起(物質表示)する
外部知識と個物の収束式を対応(波動的認識)させる
行動式:F2
y:目的のイデアを抽出する
イデアから個物を想起する
個物のイデアを行動により抽出する
F1(x)+F2(y)+FN(n)=人間的活動
理解式F1と行動式F2を統合式により物質式にすると人間活動の全収束式であると統合式から導かれ定義式より原理式が定義となる。
統合式による収束式と物質式の等式であり、定義はx,y,nである。
統合式、収束式、物質式、定義式、原理式、不明式は公理(主義に基づく仮定)であり
収束式と物質式は前項、その他は本項文中において説明されたものとする。
否定される因子は定義された変項、もしくは主義である。主義において文章はこれらの規則に従い()内は説明とし、
物質表示と機能表示と波動的認識は文中で説明されたものとする。
これより理解式と行動式そして、主義における公理の説明責任を果たす。
試験的に公理を導入した定義の発案と説明責任を果たす文章構成を導入する。

844 名前: no name :2010/10/11(月) 21:51:01 ID:BF3VY70+

前項で公理を説明してなかったので説明責任に従い説明する。
統合式:FX+FY+…FN=物質式
定義式:定義=原理式、不明式
原理式:x,y,z…=L1(生活世界)
不明式:FN(n)≠L1
()がない語または文章は説明が果たされたもしくは、自明な文章とする。

845 名前: no name :2010/10/11(月) 22:24:43 ID:BF3VY70+

x:文章は前半に定義の発案、後半に説明責任と砕いた説明の文章構成とする。
必要ない場合は説明しない。
y:否定式:否定することが可能なもの=定義(もしくは主義)
N:未定義の関数
x+y+N+n=N'

846 名前: no name :2010/10/11(月) 23:35:13 ID:yf8yXzhl

初心者はニコニコしてない。

847 名前: no name :2010/10/12(火) 14:11:09 ID:KGbvnif3

理解式における波動的認識とは個物と一対の関係を持つということであるが、
具体的には個物の現象である収束式への関係と対応することである。
カントは虚数の具体的個物への対応に悩んでいたが、経験論的に具体的個物との対応がなくては
原理的に認識が働かないという主張は個物の現象学的解釈により解決することである。
では虚数(i^2=-1)の具体的個物への一対の対応とは何かといえば、つまりそのイデアを含む個物を想起する行為であるが、
これについては形状の理解にとどまっているといえる。
虚数とは存在しない数であり、これについての具体的イメージはない。
従って、人類はこれが何かを理解しないまま使っているといえる。
決まりごととして形状の経験的理解と尺を二乗したとき−1の別ベクトル空間への方向の力が働いているという解釈としたとき
SFのような世界観において理解がなされるといえるだろう。
一つの例としてSFの異空間への次元の亀裂などは鏡の中の自分という現象の経験的解釈を行っているとすれば
現象学的に経験論は正しく個物の内の現象と一対の関係が導かれるものといえる。
しかしこれは個物の否定であり、物自体を考えたカントへの否定的見解であり、
認識が働くのは個物という函ではなくその機能という現象において認識原理となりうるという見解である。
こうした認識論よりカントを乗り越えロマン主義台頭の現代哲学を迎えたといえる。
私の主張はこの流れを汲んだものといえるだろう。

848 名前: 削除済 :削除済

削除済

849 名前: no name :2010/10/12(火) 22:10:50 ID:KGbvnif3

鏡像または虚像は鏡のそのものではなく鏡の機能である。
数学的な演算行為は何かを千切ったり、混ぜたりする人間の機能による経験に基づく認識である。
演算が認識されたならば、虚数なども鏡の比喩を出すまでもなくその認識を経験的に導出するまでもなく
その連続的な認識において経験論は保障されるものとなる。演算も可能ならば無論、同じ機能の繰り返しは経験的に定義されている。
同じ機能の繰り返しの定義が保障されないならば、論理的思考そのものが無意味といえる。
10-5=5などは10の中に含まれる5を5の尺(定規)だけ千切って5の量を出すことは可能である。
「演算」と「同じ機能の繰り返し」が経験的に定義されたならば純粋数学は存在しないという結論が直ちに導かれる。

850 名前: no name :2010/10/12(火) 23:05:07 ID:KGbvnif3

つまり数学は経験的認識を記号に閉じ込め経験的認識に保障されたスワップ操作をし続ける
現実世界のシミュレーションでありそれ故自然科学の領域を全て保障するといえる。
経験は神が定めた規則に則るものであるが、規則を時間軸においてバラバラにすれば虚構の世界が生じてしまうのは必然である。
数学は経験に則るものだが、時間の規則が成り立っていないため経験を完全に否定するような矛盾でなくとも虚構の世界が生じてしまう。
時間によって連続性を保証されたものは、同じく連続性を保障された共時的存在によってのみ真実を確かめられるのである。
突然地球の裏側にあるものを取り出すような演算行為は経験的には矛盾せずとも時間の連続性には矛盾し虚構を生み出している。
いわゆるポテンシャルエネルギーを無視した演算行為を認めるものが数学である。

851 名前: no name :2010/10/13(水) 08:03:32 ID:P/LDjPrK

波動式は実存主義を示す。
x1+y=zという式はx1を定数とし{y}={y1,y2,y3…yn}の認識量(収束式数)X=1,Y=∞のXY=∞となるため
これは経験をはるかに超え神の定めた法則の壁を越える。
これを経験を超えた信仰状態と定義できる。
これが適応例としてx1に人間という物質が代入された場合、その機能として無限大への発散が起こる。
これがいわゆる人間のカリスマ性の正体であり、x1の評価価値の高さによって信仰状態を生み出しやすいといえる。
無論、人間は器用な手先により道具を作り出したり、理性に従って臨機応変な行動ができたり、
集団をまとめる理論を考えることができるという収束式をもつため一人一人の人間の評価価値はほかの動物と比べて高い。
この信仰があるからこそ人間は無限大の価値を保障するものであり、評価に基づく機能性の信仰美において善を発生させる起因となる。
物質の波動現象があるからこそ生命を持つ物質という矛盾を解消し、その爆発的な生命力が信仰状態を生み出すといえる。

852 名前: no name :2010/10/13(水) 08:42:00 ID:P/LDjPrK

しかし、物事を客観的評価をするならばあえて無限大の価値を取り下げなくてはならない。
何事にも反証不可能な事象を生み出すことはそれ自体が矛盾の壁に阻まれるため
実力行使を持って思想を砕かなくては問題を解決できなくなってしまう。
物質式の定義から変数という存在を忘れ、収束式の総和つまり、実際にどのような機能を持っているかをもって
慎重な議論を進めなくては目的への活動の妨害となってしまう。
無論、信仰美は魂の唯一の栄養源となりその美による不可知への到達をもつものだが、
現実の問題を解消するために波動現象を発生させることは非合理的である。
日本人は信仰や美への関心が薄く、独創性はないものの厳密な知識や現実問題に対応する論理的思考に優れている。
このような姿勢は特化された機能として国際的に貴重とされているが、現在の日本には
論理的思考によっては解消されない不可知の問題が迫っているといえるだろう。
場当たり的ではあるが信仰と美による不可知への関心を持つべきである。

853 名前: no name :2010/10/13(水) 08:57:21 ID:NqDapuqX

日本は元々真善美の均衡が保てていなかったため巨大になりすぎた国体を継続的に支えることは原理的に難しいといえる。
現在は瞬発的な評価による地位の高さがあるが契機をもって国が崩壊する危険性は元々高かったといえる。

854 名前: 削除済 :削除済

削除済

855 名前: no name :2010/10/13(水) 20:36:46 ID:DSDOtN7v

鍵穴を型にすれば鍵ができる

856 名前: no name :2010/10/13(水) 21:16:40 ID:DSDOtN7v

どのような物質にも波動式における無限大の可能性があるが、
実現ができるものは可能性の高いものである。
よって理論を確立したとしても実証することは重要である。
波動式は収束式による信仰の理論化、可能性による理論の実証により目的への活動を保証し、
初めて将来までの展望を持つ営利活動計画が完成される。

857 名前: no name :2010/10/13(水) 21:24:01 ID:NqDapuqX

人間は現象構造化アルゴリズムにより経験を理論化、また他人の経験を理解式において
行動式の機能式数を増やし目的への活動の可能性を高めることができる。
そして実証による可能性を加味したシナリオを完成させれば個人というミクロの視点から見た社会の流動を形式化できる。
いわゆる運命の原理である。

858 名前: no name :2010/10/13(水) 21:54:43 ID:DSDOtN7v

波動式は収束式をもって尚且つ可能性を示さなくてはならない。
これが理性的活動の条件であり、満たさないものを非理性的活動といえる。
議論に非理性的活動を持ち込むことは無論無粋であるが、
不可知を知る機会においては非理性的活動の爆発的生命力を得なくてはならない。
これを収束式における分岐として真善美は均衡を保つことができる。
これが実現され続ける世界を理想的世界と呼ぶことができ、これを唯一の善とこれに従わぬものを悪と定義することができる。

859 名前: no name :2010/10/14(木) 00:35:30 ID:CnzU9yPM

我々の理性の器は大きすぎるものは入らず小さすぎるものは捕らえられない。

860 名前: 削除済 :削除済

削除済

861 名前: no name :2010/10/14(木) 15:05:22 ID:qJl/YJ1Q

>>859が示すものは
議論の場において収束式の総和としての物質式を定義すべきであることと、
収束式の実現可能性の高いものを採用し計画を立てるべきという意味である。
まず、我々の認識そのものである物質の波動式は収束式で表示すべきであり
収束式の実現可能性の最小値を設定すれば直ちに認識の無限大への発散(波動現象)は抑えられ理性的な場としての議論となる。
そのうち実現する可能性における実現の正否においてルートを分岐させることでシナリオが完成する。
当然、最も実現可能性の高いプランAが90%だとすると90%のルートと10%のルートに分岐されるが
これは相互関係の変動を考えないものであり、次のフェイズの社会的現象から相互関係を考えなくてはならない。
社会的現象を現象構造化アルゴリズムから分析して、社会という物質式から有限の収束式を得ることで現象を予測することができる。
得られた収束式をプランAの物質式との関係性から経験による機能の合力を考える。
マクロな立場での経験は機能の根拠となり、ミクロな立場での理論は機能の原理式を導く。
これにより得られる合成関数は1フェイズのシナリオを定義する。
1フェイズ以上のシナリオはかなり複雑な計算となるが、物質式から可能性の高い収束式を導出し、
マクロな根拠とミクロな原理によりある程度の精度を持つシナリオとなる。
マクロな立場から論じることはどの収束式が影響を持つかなどのマクロな現象を説明し得る。

862 名前: no name :2010/10/14(木) 20:02:19 ID:qJl/YJ1Q

人類は善への希求でカオスは消滅し、終末を乗り越える。
現象学は真善美の理神学として確立される日は必ず来るだろう。

863 名前: 削除済 :削除済

削除済

864 名前: no name :2010/10/14(木) 20:22:09 ID:qJl/YJ1Q

武道は武道でのみ語られ、音楽は音楽でのみ語られ、宗教は宗教のみで語られる。
収束式において専門領域と呼ばれるものは必ず実現可能性の高い経験論を持つ。
哲学は全ての知において原理を当てはめていくものであるがどの収束式も所詮、門外漢の論である。
専門的な事柄については必ず専門的な経験を持つ人間においてのみシナリオの創作能力が身につくものである。

865 名前: no name :2010/10/15(金) 17:15:19 ID:3HmZiTGb

直感的な認識量により多くの収束式を導くことができる。
その源流は生命力であり美を目の当たりにしたときの波動現象である。
非理性的活動により現象そのものを認識し、理性的活動により現象の原理を探っていく。
丁度、理性的活動とは産婆術のようなものでより感覚的な現象から理性的原理を抽出する。
但し、感覚的な認識としての記憶はまるで一刻に閉じ込められた発光量が絶対量であるかのごとく
一瞬の発光とともに瞬間的に冷えてしまうためその時、生命のイドラとしてアウトプットすることは重要である。

866 名前: no name :2010/10/15(金) 17:37:06 ID:3HmZiTGb

現象構造化アルゴリズムは理性的活動であるため、現象そのものを記述することはできない。
せいぜい、一本の蝋を灯した薄暗い地下での発見でありいわゆる洞窟のイドラである。
非理性的活動、つまり認識そのものにおいては抽象言語や抽象図により瞬間的に書き留め、
その発想をもたらした魂に措いて具体化していくものである。

867 名前: 削除済 :削除済

削除済

868 名前: no name :2010/10/15(金) 17:49:53 ID:3HmZiTGb

しかし、生命があるとは主観的現象である。
どの現象に生命があるかは生きる中で創られた信仰のもたらすものである。

869 名前: no name :2010/10/15(金) 18:02:05 ID:3HmZiTGb

真・美・善は信仰に至るまでの道であり
善・美・真は信仰を形にする道である。
現象そのものいわゆる生命エネルギーという潜在性が含まれているならばそれを形にすることで発想となる。

870 名前: no name :2010/10/16(土) 16:10:09 ID:ySJuavcs

経験論に従いこの文章は認識(シニフィティ)であり、日常的な感覚への一対の関係(シニフィエ)である
主義を持つとする。主義はその内では普遍であるとし、認識は主義に従うものであるため
文章構成は定義の発案とシニフィエを目的とし、生命の形象としての抽象論として
初めから厳密な定義を目指さず、断片的な記述としのちに公理や定義を論理式にまとめていく。

主義において、究極の主義とは主体であるがこれとは区別し客体への信仰において主義が成り立つ。
数学的な量は経験論に基づくという主義における結論が出たので論理式にまとめる方針とする。
主義とは経験論と機能主義であり、認識対象の質料とその機能である作用による論理式において
全ての原理となり「存在」を含む現象が規定されるというものである。
次に主義における仮定(公理)として、f(x,y)の(x,y)の「変項」が質料xと作用yという二項演算の「収束式」である。
関数fは個物という「物質」にあたる。XYは「認識量」をあらわし質料xと作用yの組み合わせの数である。
ここで「存在」の定義として「信仰の物質化」を採用しY=∞(認識としての作用yが判断停止し信仰に至る)のとき物質(式)となる。
つまり、質料xとは認識対象でありその機能において認識の修正が働くため作用yが質料xの原理とする。
主義に措いて物質とは機能(性質)であるとする。

871 名前: no name :2010/10/16(土) 18:08:22 ID:ySJuavcs

梵我一如
供物を捧げ火中の神と精神を同化させホーマとする。
我々アートマンは満たされし宇宙と同化する運命なのです。
創世を司るブラフマー神、法を司るヴァルナ神はそれを望んだはずです。
我々の幸福とは肉体を捨て、大宇宙の思想へと回帰することなのです。
所有とはカルマの偶像そのものであり、阿頼耶識における心相続とは在って無きに等しき存在なのです。
ニルヴァーナには如何なる所有も存在しません。よって如何なる邪もまた存在し得ないのです。
思想の交錯
私たちの思想は実に単一的なものです。
なぜなら自分とその周りとその行動範囲と思考能力で平均化された思想しか知らないからです。
あらゆる思想学びなさい実に意義深いものですよ。
思想というものの差異に触れ、体感し、ノンバーバルの海へと身を投じるのです。
そうすることで身の回りの思想の輪郭を知り、人の思想を知り、更には自然の思想を知るに至る。
貴重な問題提起(人生への問いかけ)の哲学を得るのです。
そして、今起こっている現象の裏と表さらにはその周囲の関係性まで可視化し、
起こりうる事態を予測する観世音菩薩の智慧を得るのです。
正しさに溢れた真理を身体中に浴びることこそ世界の幸福なのです。

872 名前: no name :2010/10/17(日) 02:52:28 ID:QapGR3VT

定義としてF(x,y)=G(z)であるため主観的目的zは物質Fの機能となる。
つまり物質の定義域に対する目的の値域があり、質料xへの作用yにより質料の機能を引き出すことが可能である。
そして、質料xと作用yからなる物質の関数Fを座標上に示し目的の関数Gとの交点により主観的目的が求まる。
無論、数や量の概念ではないため連続する点との単射としての経験論(主観的イメージ)を示す必要性がある。
言語上の矛盾が起きるが、ここでの目的は完全に客観的対象として扱うことができる。
そして行動式とは非定常状態の目的であり、時間tにおけるF(x,y,t)=G(z,t)であらわされる。
シナリオはこのうち相互関係において実現可能性の高いものであり、これを人間全体の相互関係としたとき運命となる。
認識としての物質が目的zから作られる場合、現時点までの主観内の可測時間TにおいてT>Yとなり
limY→∞は起こりえないため、X=0,Y=∞から信仰から物質は発生しないことがわかる。
理解式はFを外部知識(物質∋外部知識)とした、F(x,y)=L1である。
そして、他者の意思を理解式で示し、自己の意思を行動式で示すため、人間={行動式,理解式,Z}である。
数値化できない論理式の変項を座標の概念まで拡張するのはおかしな事だが、機能主義において示されることである。
ちなみに理論化はできなかったが、四次元時空において物質∋認識とする主義である。
これは信仰上は偽であるが、主義的には真であり、幸福を得る活動としての信仰上の真においてのみ主義の真となる。
無論、主体が究極の主義であることは明らかなため信仰は絶対的に優位である。

873 名前: no name :2010/10/17(日) 03:18:07 ID:QapGR3VT

ちなみに目的の発見は理解式(不完全なものに対する疑惑の認識)であり、解決は行動式で行われる。
これらの相互性から思想と行動が生まれていることは想像に難くない。
そうしたとき第一始動因は無意識的な行動と考えられる。

発想は行動式であり、認識としての理解式が先立つが生命の形象において有意な認識がなされても
感覚的記憶であるため極短時間で消え、行動式に至らないこともある。
それは誰にも見つかっていない希少性において価値ある点が存在すること自体まれなため連続的認識にならない場合が多いためである。
我々は普段から理解式においてF:物質→L1の無意識的な連続的認識を行っている。

874 名前: no name :2010/10/18(月) 02:53:55 ID:Ml+niiEu

>>870,872,873を厳密な定義をするため、主義における公理から全てを定義しなくてはならない。
主義とはイギリス経験論、機能主義、現象学などを採用しそれらから公理を形成することで、
経験論による論理式の数学的な解釈を可能とし、現象学による物質と認識を定義し、
機能主義における物質の論理式化できる公理を得る方針であり、これにより主観的現象を客観的現象として扱うことが可能となる。
全ての現象を論理式にまとめ、公理において定義し、その論理式を座標の概念まで拡張させる方針である。
最終的な目的は波動形式の証明であり、これが成されれば理解式と行動式の証明となり社会現象の解析が可能となる。
これはいわゆる人文科学の基礎付けであり、特に文科系学問の論理実証主義化を目指すものである。

875 名前: no name :2010/10/18(月) 21:45:04 ID:Ml+niiEu

人間には可能性があるというがここまでの議論から
「人間は真面目に生きるべきである」
ということが定着した。
少なくとも日本では生存の知恵である。
綿密な知識を身につけたり、幾度もの演習を繰り返す。
この行為こそ生存可能性における線形回帰方程式である。
人間の能力や行動の可能性が極限られたものである。
人間は神に近いという西洋思想より動物から進化したものという科学思想は正しいということが私自身直感的に理解した。
進化とはまったく別の生き物になるというものではなく確実に波動現象である。

人類は科学というものが始まるまで暗黒の中世時代において何百年と宗教議論を繰り返し禅問答の歴史を積み重ねている。
その間全く学問というものは発達しなかったという。
科学という方法論が始まらない限りいまだ宗教議論のまっただなかであっただろう。

そして、人間の可能性は科学に奪われ、新たな発想というものは専門性のブラックボックスに隠されてしまった。
そしてその科学すらも宇宙への理解なくしては人類の発展性は限られている。
ある程度科学というもの知り、運命の議論をし続けてきた私からしてみれば人間の運命はある程度見えている。

人類はそれ自体の価値を徐々に失い、恒真の宇宙の中で滅びゆくだろう。

876 名前: no name :2010/10/18(月) 23:51:09 ID:Ml+niiEu

我々は生存しなくてはならない。
生存するための手段ばかり考えることは小さな人間である。
だが人間というものはそれほど賢くないのだから仕方がない。

877 名前: no name :2010/10/18(月) 23:59:32 ID:Ml+niiEu

自分と身の回りの状況を上手く使い快や楽に生きる
動物の仔である我々は小であればあるほど生き延びやすい

幸福の真意とは女性的に小さくあることである

878 名前: no name :2010/10/19(火) 00:53:54 ID:LO743AJR

人文とは人との関係を持ち、文を理解する。
つまり、行動式と理解式により人間の生存の能力を発揮できる。
いわゆる小の生き方をまとめたものである。

これに加えて他人の意見を尊重し、常識を遵守し、
事実を歪曲させても自己の生き方を信仰することで
主観的目的である人や文など身近なものの問題解決方法を理解し実践することができる。
これにより日常生活の専門家、幸福追求学のシナリオ創作能力を得る。

科学はその限界をもって時代の終わりを示し、
国際的協調の時代となった現代は個々人の幸福を求める時代である。
人文科学の数学的手法はすでに時代遅れ、人文社会学の主観的手法を実践していくべきである。
その基本的考えは、信仰と、経験論による理解式と行動式の論理座標空間の連続する関数を得ることである。

879 名前: no name :2010/10/20(水) 02:05:34 ID:6C8P56X8

F(x,y)=G(z)のG(z)は数学的な関数ではなく変項を示すものである。
我々はx,y,zとf(x,y)を主観的に定義することによりx,y,zへの置換とf(x,y)の演算を許される。
xは具体的個物に属するものであり、yは作用に属するものであり、
zは定義されたf(x,y)の演算により生じた現象である。
真偽の空間をV2、主観的真の空間をL1(V1⊃L1)、主観的偽の空間をL2、定義の空間をD、とするとそれぞれ包含関係は
V2⊃L1,L2⊃D={x,y,z,f(x,y)}である。
特にL1で定義されたものならば方法化Tが可能であり、L2で定義されたものならば方法化が不可能である。
V1⊃L1⊃D={x,y,z,f(x,y)}⊃T
理解式は外部知識kにおいてf(x,y)=kである。
定義された演算で外部知識を導いた時、理解となり、この連続的認識の原理から理想概念との差異より問題の認知に至る。
主観的定義のkにおいて、f(x,y)≠kであった時、認識に問題があるか、外界に問題があるかのいずれかとなり
不明なkが主観的に問題(客観的には将来的もしくは現実的な生存可能性への危惧)となる要因であった時、行動式へと移る。
これは普遍性には問題はなく、異常性に問題が存在することを意味する。
この演算はあくまで論理演算であり、変項に入るものは主観的事物である。
「経験的に想起または認識」される、「具体的個物」への「作用」により「定義された演算」から
「現象」を導くことで「論理実証」となり、それが真だった時「実証」となる。シナリオ創作においては実証は重要である。
「理解式」による外部知識の認識により問題を探し、「行動式」による問題解決により人間的活動(人文)となる。
これが人文科学の手法よりさらに合理的な人文信仰学の「論理実証手法」である。
完全にミクロの視点ではあるが、社会現象も経済事情もこれらを元にマクロな視点を完成させ議論するべきである。

880 名前: no name :2010/10/20(水) 17:43:28 ID:WCKyZg8L

ついに論理座標による波動形式を定義することに成功した。
これが理解できたなら日常生活の問題認識からあらゆる方法に応用し幸福へとたどり着けるだろう。
問題に直面した時真実を、とても喜ばしい時美を、恒久の善を願う信仰を得て、日常生活の生命力となる。

不適切な言い回しも多かったが、真の理解となったならば必ず自己の使命を見出し、神からの波動(幸福)を授かる。
肉体的な死をも乗り越える生命力により神と同化し永遠に善を願う存在となるだろう。

真善美、そして神を信仰することは幸福である。

881 名前: no name :2010/10/22(金) 01:20:40 ID:W94nU+eo

論理式で得られる波動形式を論理座標上で定義した論理関数とすると論理座標を
単に定義域と値域を表す座標ではなく特殊な座標として定義すると、
主観的現象を座標上に示すことができ、定義した値に返す関数を得ることができる。
主義に基づく公理はそもそも主観的現象のみしか扱えないものではない。
主義の定義である公理の見直しと、公理から厳密に定義することで主観と客観を区別しない座標となりうるだろう。

882 名前: no name :2010/10/22(金) 01:34:41 ID:W94nU+eo

我々が「〜すべき」など意志に基づき目的を持って行動することは主観的現象である。
社会的現象は集団の目的という主観的現象と自然現象の客観的現象からなる。
論理座標を正しく定義することができればミクロとマクロに分けて分析することで
社会的現象の精度の高い線形回帰方程式を得ることができるはずである。

883 名前: no name :2010/10/22(金) 05:34:34 ID:AwcDoAqw

           +,,; ,:;.,  シュワシュワ…
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     |、.. -――- .、  / "゙゙゙゙゙゙゙'.l三三三三三ヨ   /,|| o゚。 ゚ 。||
     !      │ l,     ,!       |   / ⊂||'゚ 。.o"o ||
     iヽ、    _,/ !  `-----'"       _|  (つ⊂|| o゚。o . ゚||
     |  `゙゙゙゙´゛  ,!          ,i     / )  /.ヽ⊂||o゚_。_0_o_||
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      ヽ (      ぐ'''''''' /      ノ ∧ ヽ_/
     | ヽ ヽ、   ヾ''" /     / /  ゝ )
     | ノノヽヽ   `´      ノノ     |
     .ノ   /⌒ヽ    「 ̄フ   /⌒ヽ   ',
    /  ノ    ヽ   |  /   /   ,ゝ  )
    \  `ヽ    )   )/  /    /  /
      \  \   /  / i   i   /   <_
      ノ  _ノ (   < /   i   ヽ、  _)
     <.,,_/~    ヽ,,_)(___ノ     ̄

884 名前: no name :2010/10/25(月) 22:24:43 ID:+EkbeIGU

美を求めるとき美とは一概にその形ではない。
文章は知識的であるべきであり、芸術は発想的であるべきであると認識している。
美とは一分野の特徴を写し取るものであり、その基準における最高評価が美である。
つまり、その概念の機能性を発揮したときが美の正体となる。

文章とは言語の多様性を用いて経験を写し取るものであり、経験の機能とは目的への行動能力を得ることである。
一般的に行動能力が高い人間とはあらゆる環境に適応する臨機応変さと実際に行動する実地能力も必要である。
つまり、文章とは多様な目的と一義的な実地能力を得る機能がありそれを美の定義とすると、
多様性と現実性を兼ねた浅さと広さにおいて美の最高価値となりうる。
あらゆる学への知識を持ち、専門的でない程度に現実的であることが理想である。
多方面の領域への表現力が文章における美である。

885 名前: no name :2010/10/27(水) 01:30:44 ID:7PwZ09nY

哲学とは基礎的な方法論を開発するために存在する。
日本では厳密な作業や実効的能力そして、厳密な知識、経験ばかり求められ、哲学が軽んじられる。
哲学的姿勢とは生活から生じる疑問という身近なものを抽象的な言葉で書き出し思想を作り、
自己思想の基礎を固めて発想に至るという体質が日本人には合わないらしい。
哲学は試験に求められるような知識から始まるものではないという考えを私は支持する。
無論、知識は文字に縮小された経験であり多方面の思想を知る契機であるが、
一対一の知識まで厳密化するのは方法論を収束する姿勢であり既知への関心である。

論理関数はF(x,y)=zとする。G(z)は関数ではなく変項を示すものだが、関数と区別がつきにくいのでzを変項として扱うとする。
yは作用であるが、作用とは質料と作用の従属変数を持つものと単に作用を従属変数とするものがある。本項では後者を論じる。
作用とは「作る」という言葉があるが「人間」が状況を意図的に作り出すものと解釈してかまわない。
後者の作用は物を用いる「人間」の作用ではなく、「動物」の作用に近く特にこれをDという関数に置き換える。
Dとは肉体的作用にあたり、それを力学的解釈すると質量と加速度の積であらわされる。すなわち、
D=maであり、肉体を収束式から定義し、身体全体をbと重力加速度gと筋力の収縮弛緩による加速度sとすると
D=b(g+s)
ということがわかり、数値換算された関数から解釈を変えて、xを質量、yを加速度と考えると
z=xb(g+s)
と考えられる。何れも数値化できる情報であり、変化質料も求められる。これは論理関数から得られる運動方程式である。
つまり、動物的作用を機能の要素(収束式)を全て取り出すことで動物が可能な最大の運動量を求めることができる。
これを利用すると、動物一匹辺りの可能な行動(変化質料)が限られる(認識の収束)が分かる。
人間は意図的に質料を利用して作用を作り出せるためこの運動量を上回る。

886 名前: no name :2010/10/27(水) 20:58:31 ID:cSru86U7

・・・美とは破壊の波動
生命の愉悦

887 名前: no name :2010/10/28(木) 17:41:51 ID:rDSnfaJO

何も生み出せない人間が得する社会でいいというのか
正義とはいったい何だ・・・

888 名前: no name :2010/10/28(木) 17:50:49 ID:rDSnfaJO

幸福の十分条件を考えることには意味はない
幸福の必要条件を考えることに意味がある

神がそういうのならば仕方がない
知性では天界は語りえぬ

889 名前: no name :2010/10/28(木) 18:20:28 ID:rDSnfaJO

信仰は矛盾した真実、故に視野を狭める
しかし信仰なくして人は生きていけない
故に人は全能にはなれない

890 名前: no name :2010/10/28(木) 18:31:43 ID:wNniMgqh

信仰なくして人は生きていけないのは
自己の生が矛盾しているためである、

自己の生に疑いを持てば死ぬ
信仰すれば視野を狭める
神への猜疑心と信仰心の積は必ず一定の値を持つ

故に死は無限、生は有限
そう警告された
ならば死ぬ寸前まで哲学しよう

891 名前: no name :2010/10/29(金) 12:20:42 ID:CHMZCaIO

我々はセンサーにより認識した対象をオペレートする。
オペレーターは意外にも単純な式であり、一つ一つは動物にでも処理することができる。
目的への行動として上手くいった事例を取り上げて、似た事象に代数的に当てはめるだけ。
これが論理座標における「経験」の基礎的な考え方である。
しかしこれでは自分の経験していない情報は処理できず、自然と思考は経験半径に収束し行動や思考が限られてしまう。
一見複雑な事象の処理は難しく見えるが、
行動式の演算自体は影響力の強い事象のみを抽出し他の要素はバッサリと無視して要素の波動を辿り試行錯誤する総当り方式に近い。
この経験と記憶の方式では思想の理論化は困難(そもそも存在しない場合もある)であるが、
複雑への対処の仕方としてはむしろこの考え方のほうが効率的である。
行動式の絶対的演算、コンピュータにおける論理演算に近い思想である。
欧米・西洋社会はこうして複雑を制覇し世界的な地位を得たといえる。
芸術とは理論化しにくい複雑な事象をあるがまま写し取るため広いキャンパスを要するのである。
芸術的感性は記憶や経験として分断された情報を理性へと収束するために存在する。
そして、芸術の中に描いた本人ですら知らない理論が眠っていることもありうるのである。

892 名前: no name :2010/10/29(金) 20:55:34 ID:CHMZCaIO

フランスの美学、ドイツの科学、イギリスの信仰
西洋は比較生産による国交で相互文化を尊重するため、あらゆる可能性がある
その知識の中心地であるギリシャは哲学の都として相応しい

893 名前: no name :2010/10/30(土) 06:29:11 ID:R0QdSwnp

美は芸術分野に限ったことではない。
幾何学においてメビウスの帯、物理学の相対性理論など大衆芸術に大きな貢献をしている。
美のそのものの定義をするならばあらゆる方向への可能性という生命力そのものを指すといえる。
音楽や絵画は他人の真似をするだけならば経験を論理座標に適応する理解式だけで可能である。
芸術の名を持っているものにしても可能性や生命力を生み出すものでなければ美とはいえないだろう。
複雑を制するものであっても個人の瞬発的な能力自体は行動式という定型で再現可能であり
他を絶するカリスマ性とは長期間にわたり積み上げる信仰、信頼をもたらすものでなくては価値はない。
真実のみでは人間は物質の意味でしかなく、信仰のみでは神に隷属し人類は文明を発展させる意義を失う。
人類は真善美への単なる信仰だけではなく、正しく理解し実践することで価値を創出するべきである。

894 名前: no name :2010/10/30(土) 08:21:19 ID:R0QdSwnp

思想的な詩、仏教美術、工芸や機能美などの言葉もある
美とは飾るもの以上に多様な概念である。

895 名前: no name :2010/10/30(土) 11:30:13 ID:wFPjrDzO

ここは哲学者の方々にとっての憩いの場と認識しました

896 名前: no name :2010/10/30(土) 19:30:44 ID:R0QdSwnp

何一つ感性を得られずただの娯楽に逃げるだけの生き方はいつか生きる意味を失うだろう。
それでも死ぬべきではないと自己を信仰する生命力を持つものではあるが
神はその人間の生命を支えるだけで美を直接語りかけることはしない。
真実な時間とは独立する美は永遠の時間を生み出す、客観的には人間はいつかは死ぬといわれるが
主観的には美への感性が閉ざされない限り死ぬことはない。
肉体が機能しなくなったところで物質という「存在」そのものであるイデアは五次元空間に真の存在をおくものであり
三次元空間などの規則に従わず、復活を願う生命力があるならば四次元において永遠の時間に生きることができる。

897 名前: no name :2010/10/30(土) 22:50:59 ID:a1Oqm7wF

なにこのスレ怖い

898 名前: 削除済 :削除済

削除済

899 名前: no name :2010/10/31(日) 05:53:29 ID:UFHHJNi1

私の文章は知識は単に土台として最小限に留め、概念への理解を最優先とする常に機能的であるべきという主義に基づくものだが、
美的な文章を目指すときはどのようにするべきか検討する。
前項において文章の美を多様的・非専門的・経験的と定義した。
これはあらゆる方面への偏り過ぎない知識を体験する視点で修飾語を重ねると考えられる。
つまり、機能面の文章骨格に修飾する語として諸所にあらゆる学の教養を挟み、読者に分からないような専門的過ぎる内容を避け
読者が追体験できるような直接感覚的・描写的な文章を心がけることである。

このような文章を書くためには、まず知識が多いことが絶対条件であり、専攻分野以外への教養を持ち
無駄な知識と思われるものでも感性的に区別し意欲的に取り入れることである。
次に、読者を飽きさせない工夫として文章のレトリックを用いたり、風景を想起させる比喩を多用するべきである。
哲学はごまかしているような文章も多いがこれは一種の文芸創作的表現であり、読者に情緒をもたらす工夫である。
機能を見失わないようにしながら、知識で読者の知識欲を持たせ奇抜なレトリックで躍らせ比喩を用いて肉質を飾る。
機能+知・奇・肉の三重表現法である。しかし、やはり知識がなければ教養がないと思われ信頼を失うため
奇や肉である程度誤魔化せても、専攻分野から離れた知識や絶対的な知識量がやはり重要だろう。

900 名前: no name :2010/10/31(日) 18:15:16 ID:UFHHJNi1

語彙というもの身に着けるためには「ある種」の感性が必要である。
あらゆる概念への理解として一語一語同じような言葉でも違う印象や理論が隠されてある。
語の構造とは厳密な定義はなく、行間から作者の心理を抉りながら語の機能を探すものである。
より感性的であれば語の構造を知り、いわゆる作者の正語をしることができる。
これは人間の記憶の構造とも密接に関わるものであり、こうした行為により語の記憶を可能とし
表象と心理(感覚)が同調し、自己の語彙として加えられる。
記憶の構造とは論理座標における経験の基礎概念(理解式)からなることは説明済みである。
作者の正しい言葉と自己という波動の組み込みにおいて現象の波動的解釈において思想領域まで拡張された四原因論が保障される。
似たような言葉も作者にとって全く違う意味を持つものという認識を自己の経験により解釈したとき語彙(知識)は増加する。
これは作者の心理に隠された数学的体系に近く、言語の物理学上で自己の追体験を興じるものである。
単純な記憶にしても理解するための感性が重要になる。無論、理解式への変換という経験への収納的記憶ではなく、
単純な紙面上の語の形状という体験に収納する絶対的記憶も存在するが
記憶力という概念があるならば、その能力が高い人間はこちらの方法が瞬間的であるため単に記憶するだけなら効率的かもしれない。
だがこうした記憶に理解は伴わず、知識の応用が難しいだろう。

901 名前: no name :2010/11/01(月) 02:19:47 ID:1vsAwaie

理解式とは追体験であり収納的記憶と同義であり、記憶効率と知識の応用に優れた記憶方法でもある。
この方法論は芸術・学問共通のものであり、知識・体験の本質への理解が得られたとき知識や体験が自分の手足のように動かせる。
ただし波動への感性がなくては知識の本質への理解へ至ることはない。
知識の裏に隠された波動を読み取り追体験したとき真っ暗な闇に閉ざされた空間に金属(哲)のような知識の連なりが浮かび上がる。
あたかも論理構造のような印象を覚える。これが論理座標空間という知識の本質構造である。
これが全ての発想の源泉であり、投影した自己(スーパーエゴ)が
自由に動き回れるようになればまさに神から授かるかのごとく知恵が溢れ出すだろう。
やや応用して波動記憶法・波動発想法・波動読書法・波動行動法、精神・心理的能力開発にもなる。
これが知識の哲構造であり、アリストテレス哲学の真髄とはまさに神の知恵である。
そして前項で潜在構造を発表したが、これが完成すれば人類は物理的な鎖から解き放たれ呪術により世界への干渉が可能となる。
ラグナロクによる終末と人間世界の始まり、
人知の哲構造を超えた真なる神の知恵を得ることができれば人類は神話の世界へと飛びたてるだろう。

902 名前: no name :2010/11/01(月) 17:31:26 ID:qemT+U8t

「コメントしたら自動的に更新されると思いコメントすることをためらう」とか書こうとしたんだけどスレ違いだったようだ

903 名前: no name :2010/11/01(月) 17:57:32 ID:QfGcXV2x

潜在構造を知るためにはまず神の力を信仰しなくてはならない。
この世界に神がいないなどと決め付けてしまってはそこで議論が終わってしまう。
人間が人間を信仰する善のごとく、幸福は神の力によってのみ得られることを信仰する。
善・幸福・神の哲構造もしくは、美を超えた信仰の哲構造を得なくてはならない。
思想の哲構造が見えたならば、超能力的な力学、思想力学が始動する。
信仰という無限の生命力は物理法則によらない現象を起こし、そして物質化するという思想を受け入れなくてはならない。

904 名前: no name :2010/11/01(月) 18:53:01 ID:QfGcXV2x

俗人は思想を持たない。ただ労働し自らを支えるだけの非学芸的存在である。
それゆえ、真善美の哲構造を知ろうともしないだろう。

潜在構造を知るためには再び古典哲学に回帰する必要がある。
当時の思想は神の波動に強く影響を受けたもっとも純粋な真善美の均衡を持つためである。
特に科学が発達しない時代において真の他に善や美に関心があったという点が評価できる。
当時の未知への欲求の精神はまさに無限の生命力をもってして学問の基礎を築き上げた。
一つの偏りもない純粋思想にこそ人類の進歩の哲構造がある。

905 名前: no name :2010/11/01(月) 21:38:11 ID:AAoch8Sp

>>904
ハローワークに行った。
今日も仕事がなかった。

まで読んだ。

906 名前: no name :2010/11/01(月) 21:44:11 ID:QfGcXV2x

真善美の構造について、善を知るためには美を知らなくてはならない。
まだ美についての議論が不十分であるため、善の哲構造への議論は見送る。
初めに美の定義をカオスでないものとしたが、これは主観的なものであり意味が独立したものを指す。
美とは主観的なものであり、カオスを表現しようとしても意味が見出されてはカオスではなくなる。
カオスという名をつけたときすでにカオスではない。
カオスとは追体験の不可能性を表し、全ての要素が即自存在となった時平面的意味である存在・非存在しか見出せなくなる。
これは論理座標上の点の表現であり、美の必要条件として何らかの幾何学的意味を持っていなくてはならない。

これに基づくと、俗人はカオス志向であり生命の幾何学を否定しうる負の存在である。
そして、それすらも存在と認める神の善は美を超越する生命への慈悲である。
神は醜い人間すら生かすだけの理性を持つ。

907 名前: no name :2010/11/01(月) 22:23:20 ID:QfGcXV2x

信仰により物質化するならば、無への善心を持つことである。
つまり、非存在への美学による生命の幾何学を与えることで信仰をするとき存在へと姿を変える。
我々が何よりも美を愛するのは、無から有を生み出すためであり、想像による美学的思想が存在を生み出す力を持つためである。
それは超現実的思想であり、中世時代の西洋はその対象を神として具現化しようと試みたといえる。
そうして生み出された建造物や偶像や思想は究極の美的体系を持つ生命の幾何学である。
しかし、いまだに具現化しないのは信仰とそれを支える真と美が足りないためである。
我々は信仰するために究極の真と美の方法論を生命を材として考えなくてはならない。
まず、神話の世界を再び創造し、存在と非存在の規定を一定の美学を持ったとき存在となることを
生誕した神に希望を告げることで新たな世界とする。
すると、思想力学は美学の理解式による追体験が一定以上の値を持ったとき無から有への力を得て現象や物質となるだろう。
これにより、真善美の思想力学の体系は完成した。
あとはこれらの議論を厳密化し方法論を確固たる地盤として神の再誕を待つのみである。

真の定義は哲構造への理解、美の定義は理解式による生命の幾何学的表現、
善の定義は表現対象を思想信仰により生命の幾何学を与えることである。
まずは神を具現化し、その力で世界の物理法則を緩和させることである。
俗人の道徳心を呼び覚まし世界平和を得るにはその方法しかないだろう。

908 名前: no name :2010/11/02(火) 03:04:04 ID:N1Jf/BWt

神という名の芸術性による生命力は信仰への関心を高め、純粋性による論理が信仰の正しい思想を形成し、我々は「信仰」を実践する。
そしていつしか、善という名の神そのものを認識ができるようになると思われる
そのとき、神は姿を現すのだろうか・・・

909 名前: no name :2010/11/02(火) 03:55:39 ID:pclYHOg8

ただ徒に生命力を信仰に捧げる「福音書」では神を解釈で混濁し
ただ徒に純粋性で信仰を象る「阿毘達磨倶舎論」では神という名に生命を与えることはできない
善に至るための神学議論による芸術性、純粋性に基づく「聖書」を完成させることが人類の急務である

神の素晴らしさを知り、神の認識をもって、初めて我々は生命的認識に至り
「神は復活する」
その報酬に我々は物理法則の鎖から解き放たれ神話の世界へと旅立つのである
我々は生命的認識による神の名に措いて「無から有を生み出す力」を得られるだろう
その力により永遠の命すら生み出す術を授かるのである

910 名前: no name :2010/11/02(火) 06:24:57 ID:N1Jf/BWt

「信仰」をするためには生命力がなくてはならない。
信仰を苦行だと感じてしまうもしくは、報酬に期待しすぎるのは不信仰である。
真善美の「信仰」は信仰の素晴らしさを知るところから始まる。

911 名前: no name :2010/11/02(火) 20:14:15 ID:N1Jf/BWt

「貴金属」は希少性として重要なものである。
信仰の対象としては申し分ない資質を持っているといえるだろう。
しかし、それは「けばけばしい」という表現において装飾の揶揄の対象とされることもある。
貴金属から得られる波動は単なる希少性の度合いという一次元的な価値ではない。
美は単に存在するものではなく機能という収束式(定数)による連続的な関数という微分可能性において認識における波動となるため
希少性という関数が非連続的なものは波動としての価値を分断させ美を損失してしまう。
信仰のパラメータが強いものであっても「物質」という定数関数は
所詮論理座標上の「点」にすぎないため悪しきカオスの波動を放ち価値を中和させてしまうのである。
ちなみに収束式の価値(x:質料、y:作用)を数値として定義をすれば
物質式の示す関数を普通に積分することで美的価値が数値化される論理座標となる。
しかし定義するためには目的の保存を示す1フェイズシナリオを完成させなくてはならないため不可能に近く、
客観的定義により信仰が失われ生命が存在する意義を失うため定義してはならない。

912 名前: no name :2010/11/02(火) 22:06:38 ID:N1Jf/BWt

収束式は質料という潜在性を作用に起因して変化質料となり価値が決定される。
x:質料,y:作用z:変化質料の関数において質料と作用は潜在価値、変化質料は顕在価値という単位で表される。
二変数の演算内容は潜在性の引き出し方は客観的定義は可能だが複雑であるため主観性に隠されてしまうが、
目的への合理性において関数の連続性が得られる。つまり価値の認識と同義である。
価値は主観的認識という積分範囲により認識され、一定の価値を持ったとき判断停止し認識の発散において信仰となる。
カオスは非連続な関数であり、定数関数の非連続的な集合とするならば認識(積分範囲)が分断され価値が得られないことがわかる。
論理座標の扱いは主観性を認めれば数学的には二変数の定積分のイメージができれば分かる範囲だが、
主観性のブラックボックスを解体するのは人間には不可能だろう。
しかし、主観は究極的には数学的定義が理論上可能な客観的な概念ということが分かる。

無論、この定義では追体験は不可能であるためこの議論は信仰の否定にはならない。
というより人間の認識はそもそも不完全かつ単純なものであるためどのような概念にしても肯定も否定もできない。
論理座標は数学的意味としては価値はなく、論拠として価値を持つものである。
ともかく認識を数式化する目的の数理哲学や認識論としての哲学は
これ以上発展の可能性はないため、この議論において人文系学問の基礎理論とし終幕としたいところである。

913 名前: no name :2010/11/02(火) 23:44:36 ID:N1Jf/BWt

私が唱えたいのはこんなつまらない結論ではなく信仰の真の力である。
信仰は世界を平和にし、神を認識し、術式により無から現象を起こす非物質的力である。
そうしたとき我々は真の自由を手に入れ、科学を不要とする永遠の世界を築くことができる。
第一始動因たる神は必ず存在するはずである。我々は真善美を信仰し神の理性が統治する新たな世界で幸福を得るべきである。

914 名前: no name :2010/11/03(水) 05:31:59 ID:vlnHLQQW

我々は思想において神と対話し無から現象を起こしてもらう。

「真の認識に基づく美の生命力を信仰に捧げる心」

があれば神は必ず応えるだろう。

915 名前: no name :2010/11/03(水) 10:04:54 ID:vlnHLQQW

文章における生命力は哲構造への追体験にある。
しかし文章の意味は一意のものではないため一定の訓練が必要だろう。
波動状態の文章を生命力を消費せずに収束できるようになれば価値認識が可能となる。

916 名前: no name :2010/11/03(水) 22:58:01 ID:vlnHLQQW

カオスは不連続の関数列であり近似することに意味はない。
数値化できない主観性の情報をそれほどうまく扱えるほど人間の認識は高度には作られていない。
むしろそれを弊害とする部分もあるため、完全にカオスという微分方程式は収束してはならない。
認識の限界はごく浅い部分に存在しそれ故、物質の生命という矛盾を支える信仰を得るのである。
何度も主張するが信仰は学問的、人間についての学問である。
構造主義的に人間社会の理性として不連続を連続とする理性について超越的な姿勢は有害な思想である。

917 名前: no name :2010/11/04(木) 02:11:06 ID:bMug0JwG

認識を示す理解式は行動式の一部である。
物質の関数列が波動状態であるとき目的は認識の内に存在した場合、想起と着想の条件を満たすため、
論理座標は行動式による非認識を含む物質世界を示し、理解式で認識されたものが現象世界であることが分かる。
つまり論理座標は行動式や理解式という概念を数学的手法として完全に現象を説明できる。
よって、非認識を含む論理座標が「現象」であり、
その仮に存在するとされる主観的手法による偏微分方程式の解法を「因子」その解を「原因」とすることができる。
[「現象」は「因子」により「原因」となる。]
という文章の代数的手法により主観的な解を求めることができる。これを単に「論理」とし、それ以外の方法を「非論理」とする。
この五つの言語でここまでの全ての方法を統一することができる。

918 名前: no name :2010/11/04(木) 05:11:46 ID:bMug0JwG

人間・生命・信仰などは非論理であり、善で示されるこれらの概念は論理で示される真や美を超越した概念である。
美は論理とかけ離れている印象だが認識のうちに含まれているという理由でそれと考えられる。
学問という概念は論理と非論理を扱うものであるが、点であるカオスは扱われない。
なぜなら、カオスは点で表され認識しても思索の余地がないためである。
ちなみに人間関係は非論理であるが、社会現象を示すためにはこれらを何とかしなければならない。
論理は究極的には客観的であり、非論理は主観的であるため原因は存在しない。
主観や社会はどうしても客観的には説明することはないのである。
ただ一つの方法として信仰が存在し、信仰が強いほど幸福に近づくとしか説明は不可能である。
信仰が集えば物質世界を超越した神を認識できるようになるだろう。

919 名前: no name :2010/11/04(木) 15:25:01 ID:bMug0JwG

幸福とは非論理と論理の間
論理の教養を持って魂の体験に身を投じることである。
つまり論理とは魂をより良くあるための教養であって真実そのものではない、存在という矛盾は魂による真実である。

920 名前: no name :2010/11/04(木) 20:38:03 ID:bMug0JwG

論理は存在と無の矛盾や主観と客観の矛盾の正しい解釈を説明することはできない。
その矛盾を乗り越えるのはやはり主観であり、認識の錯誤のなかから生じる虚構である。
我々は真実の中だけで生きているわけではなく、物質も我々も生命や存在という矛盾と戦いながら生きている。
存在する世界の最終的な目的とは存在する権利を無という真実から勝ち取ることである。

客観的現象は全て正しいように見えるが最終的には矛盾する、
主観的現象はほとんど間違っているように見えるが最終的には真実に至る。
真実という教養と美による生命力をもって信仰という虚構から、無という相容れない真実と対抗しなくてはならない。
これがそもそもの信仰の意味である。

921 名前: no name :2010/11/05(金) 01:07:35 ID:7lcV8+fJ

信仰は引き入れる力と排する力、何もかもを許容する姿勢は異教の思想を取り入れ信仰の純度を下げる。
そういう意味では世界は平和にしてはならないのかもしれない。
ゾロアスター教は世界的に大きく宗教思想に影響を与え、原始仏教を大乗仏教と小乗仏教に分けたのもこの思想である。
特に大乗仏教は純粋な思想を混濁した大衆に受け入れやすい仏教であり、
「極楽浄土」という考えは「善悪二元論」を強く受け入れている。
そのうち純粋思想の伝統は大衆宗教のカオス状態へと分解されていく。
重要なのは宗教の名ではなく自己の思想であり、どのような思想であろうと自己という持って生まれた純粋性を貫くことが信仰である。
純粋性を貫けない思想は信仰未満といってもいい。
「平和」とは聞こえがいいもののそれは生得の自己の領域を守ったものでなくてはならないだろう。
道徳とは「差別」などマイナス表現を悪と決め付けることではなく、自己の思想を善として全ての価値観を形成することである。

922 名前: no name :2010/11/05(金) 02:24:45 ID:7lcV8+fJ

構造主義の思想はこういった思想とは正反対であり、ポストモダンがこういった思想に汚染され
世界的に信仰の純度が下がっていることを耳にすることが多い。
何を善とし何を悪とするべきかは非論理であるため客観的回答はできないがこのままの状態が続けば
神は離れ平和が侵食し無へと分解されていくだろう。
最終的に無を支持するような考えであるが、この思想は仏教ですらない。
宗教以前に自己がなく、宗教は自己ではないということを日本人はなかなか認識できない。
他者の意見に従ってばかりではなく自己は悪い思想と善い思想を見分け引き入れるものと排するものを区別し、
自己にとって善い思想を持つ宗教と契約することで真の道徳を得て、自己にとっての善い知らせを引き入れる方法を学ぶ。
そうして得られる真善美による真の平和に最高善である神は必ず応え、永遠の幸福を約束するだろう。

923 名前: no name :2010/11/05(金) 10:53:54 ID:7lcV8+fJ

科学と称し、全く信仰を持たない人文科学は永遠に発達しない。
社会現象の知るべき全ては不可知の問題であり、主観的現象を否定するようではいつまでも雲をつかむような話から抜け出せない。
論理を求めることよりも、幸福を求めることが重要なことを認識するべきである。
各国の主観的立場別に幸福を唱えられる客観的論理など存在しないのである。

924 名前: no name :2010/11/08(月) 08:08:00 ID:5ZcCAslX

[目的条件] 非認識体系の認識体系化の説明
[論理] 目的条件R→善悪想起A→物質の機能表示A→論理関数A→目的合致A
体系
・論理、客観的(順次性)
・一つの絶対を除いて全て相対的(樹形)
・非認識体系Rを認識R、想起Aにより体系化Aする(目的R→A)
認識:定義、Realize
・善悪的定義R→機能的定義A
想起:認識対象の演算による認識、Analyze
客観的:実証可能な
主観的:非実証の、善悪の(経験則に依存する)
機能表示:定義物質の全ての収束形を示す
目的条件:論理関数の変項Zの定義(定義形はZ1)
目的合致:解(X,Y)、質料と作用の定義(定義形はx1とy1)
主観的演算:客観的対象の善悪想起(経験則)
善悪定義:問題解決の主観的困難性
定義物質化:物質認識Rの機能表示Aによる物質定義A(定義物質=波動)
追体験:定義物質化より直感的にする(善悪への適応)
合力定義合致性;質料、作用は目的と共通する機能が少なくとも1つ以上ある

F(X,Y)=Z 論理関数
・目的とは物質機能の1つである(目的∈機能∈物質)
・Xは物質群、Yは作用群、Zは変化物質群である
・物質と作用の主観的演算
x={x1,x2…xN} 波動
・物質認識は機能認識における善悪想起である。(物質の認識)
・物質とは機能の集合である。(物質の定義)
x1+y1=z1 収束形(和)
・物質の機能に作用すると機能変化する(機能合力)
・機能合力は物質定義と同義である(定義物質化)

論理:非認識⇒認識R→定義物質化A→問題R→順次解決A⇒体系化A
 ・順次性、行動論、理解論、客観的
 ・行動論(論理関数)、理解論(定義物質化)
行動論:論理関数A→目的条件A→物質想起A→機能表示A→目的合致A
行動論:F(X,Y)=Z→F(X,Y)=Z1→順次置換A、主観的演算A
 ・解決方法、論理関数
理解論:物質認識R→機能表示A→定義物質化A→追体験A
理解論:x1+y1=z1∈F(X,Y)=Z→行動論
 ・認識方法、定義物質化

非論理:非認識⇒認識→善悪定義→問題→跳躍解決
 ・跳躍性、非体系的、主観的、信仰論(善悪定義)
信仰論:機能R→行動論A→善悪定義A→善悪想起A→問題R→解決A

[目的合致]
非認識体系→認識→非論理→論理→認識体系
・信仰論による善悪想起、理解論による物質定義
・行動論による物質想起と論理関数による問題解決と体系化

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