ニコニコ動画初心者にありがちなこと


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1 名前: no name :2007/11/17(土) 00:41:53 ID:zKahl6tg

「自重」を「じじゅう」と読む

804 名前: no name :2010/09/29(水) 02:44:19 ID:Bbu9z02n

波動現象を取り扱えるのは人間だけではなく動物でも取り扱っている。
むしろ、動物のほうが現象を波動的であると定義し、現象を物質的であると定義する人間の方が不自然な思い込みである。

ここでの量子力学の波動のことではなく、全く違うベクトルの認識問題に関する波動であり現象の定義そのものに関することである。
ちなみに、現象を物質的としている心理学とも全く話は違う。
この考えは哲学特有の問題である。

805 名前: no name :2010/09/29(水) 03:34:44 ID:VTQhPdVs

波動形式にも物質的認識である物質式が存在するが、これは独立に系に保存された場合の理想的な考えである。
現実には物質は存在しないもしくは、あえて物質を定義するならば外部が存在しない世界全体が物質である。

無論第一始動因は神と定義されその神を含めて物質の定義となる。
ここから推論される神の機能は外部から独立し内部の世界を作り出す存在である。
特殊相対性理論により時間のベクトルも相対的であると証明されたため、時空を超えた存在と思われる。
時空間より高次の空間は神が独立して存在する時間が流れない無と実在の空間と考えられる。
ちなみに、虚構は波動現象(波動非物質)で説明できるため虚構の空間は三次元空間で存在の条件を満たす。

806 名前: no name :2010/09/29(水) 07:50:03 ID:Bbu9z02n

現代社会は科学が発達したいわゆる「真」を極めた状態といえる。
しかし、大衆はこの思想に固執し思想の最良を見失っている。
信仰はいつの時代にも存在するが、信仰しているかしていないか自覚がない現代思想は一番悪い思想である。
マスコミが情報を占拠、また大衆思想を形成し誰のものでもない客観像を提示することで集団の波動を自由に操る。
このようなあり方が社会の最終系などではない。我々は「真」の体系に囚われすぎている。

807 名前: no name :2010/09/29(水) 08:02:49 ID:VTQhPdVs

我々の幸福とは「真善美」でありこれを象徴とした神を信仰するべきである。
波動理論による数理神学により実用的・理論的価値を持つ絶対の思想を形成するべきである。
それを信仰するものには確実な幸福をもたらす象徴は神秘的幾何学であり、
「真善美」の波動をいつでも抽出し、またこれを数学的に合成したものを万能な神とするものである。

現代は「真」の伴わない思想を軽視しその結果、社会の人間を幸福へと導けない「真」のみを信仰したものへの不幸となっている。
「真」なるもののみの思想は不幸であり、古代ギリシャにも劣る稚拙な社会である。
波動理論は「虚」や「善」「美」すらも説明し、それらから得られる幸福に関する重要性を説明するものである。
愚かな社会の不完全を補うため数理神学を広めるべきである。

808 名前: 削除済 :削除済

削除済

809 名前: no name :2010/09/30(木) 04:55:40 ID:SoOmBTPf

認識量(収束式の個数)の関数
f(x,k)=x^2-xk
x^2の項は「全ての自然」を示し、-xkは「未知の自然」を示している。
xは対自的全質料であり、即自的非認識-kは認識修正作用変数wを用いて
k=x-w
で示されこれは機能表示としたとき認識状態とする定義である。
ここでの質料はあくまで認識の材料であり波動非物質であることは
w=0,k=xであるとき
f(x,k)=x^2-x^2=0
となることに示される。
物質的現象解釈であるアリストテレス四原因説の質料因とは違うことに注意して欲しい。
これは「真」であり、まずは「美」を示す波動非物質の言語定義をしなくてならない。

810 名前: no name :2010/09/30(木) 13:21:07 ID:SoOmBTPf

分析哲学は近代以降に始まったものであるが、分析的な態度というものは理論的になりやすい。
哲学はもともと分析的なものであるのに加えてさらに分析的となると経験的な感性を生かすことが難しくなる。
学問は決して理論的なもののみから運動原理となるものではなく、
必ず有機的結合の論理を持たなくては進歩から距離を置くものとなるだろう。
哲学が進歩をもたない学問とならないように有機的結合の定義がまず必要であることが
ファインマンの三点推量法的もしくは、経験論的に感じるところである。

有機的要素結合の原理としては重要な理論として経験論がある。
経験知というものは波動非物質であり、理論として確かなものとなっていない情報である。
知は流体的なものと物質的なものに分かれ、物質的なものに関しては確実な定義に基づいているので
物理的に物質とは空洞となっている部分が多いため空間内の情報の密度は少ないと思われる。
この点(情報の少なさ)において理論的無機質的情報の固有の値は進歩性と逆比例していることがわかる。
有機的情報は流体的知に関して波動理論的に空間を占める情報量が大きなものである。
それは以前挙げた数式の
f(x,k)=x^2-xk,k=x-w
から系(非相互的空間)に保存される要素の限界認識量
w=x,k=0,f(x,k)=x^2
においてxが空間の体積に比例するため情報量が圧倒的に少なく
波動式を重積分したときの面積素が粗い状態と量子論的幾何学的に検証できる。
つまり形相をなす成分が少ないため、不確定な可能態の存在確率そのものが低いということである。

811 名前: 削除済 :削除済

削除済

812 名前: no name :2010/10/01(金) 03:09:03 ID:S2uA25ML

要素とは空間を構築する情報であり、この量が空間の体積Vに比例するならば
f(x,k)=(x^2-xk)/V
により現存在空間を占める情報の密度が示される。

813 名前: no name :2010/10/01(金) 04:09:42 ID:S2uA25ML

実在と虚構の定義は見直されるべきである。
虚構は情報として不完全な波動非物質とするとその条件を満たすが実在している概念である。
矛盾ではなく、完全なる無において初めて波動における説明が不可能となる。
人類は虚構の空間を体系化できていないが、実在と虚構と虚無の三種類の空間があると考えるべきである。

814 名前: no name :2010/10/02(土) 15:56:13 ID:GrFKjsNH

数学は数の世界から変数を生み出し、関数とすることでグラフに幾何学のイデアを与えた。
幾何学は方程式の解や関数の解析以上に形状そのものに意味を持たせ、自然への意味づけすることで
物理学における変分学やベクトルポテンシャルなどの依り代となった。
それは化学などに於ける有機化合物の根拠となり生物学へと続く。
まるで関数という数を素材とした容器に液状の魂を注ぎ生命を産み出すかのような工程である。

たしかにこれだけでも自然の全ては説明できそうではあるが果たして哲学の発達する余地はなかったのだろうか。
人間の歴史の中には不思議と文学というものが存在する。
虚構の創作がなぜ大衆に喜ばれるのか、文明の発達は一概に真実だけの形象を追い求めているものではない。
宗教、哲学、文学、歴史、そしてこれらを基に社会や法や経済となり、真実とは独立した虚構文明をなくしては
人間は語れず、形の下の虚構、形の上の真実が必ず存在する筈である。

815 名前: no name :2010/10/03(日) 03:13:36 ID:PQW1WcdA

そもそも真実とはアナクシマンドロスの唱えた普遍なるもの(ト・アペイロン)を準拠とした絶対的なものである。
物理学者達は時間すら相対的と言い放ち実際にローレンツ変換を行い
時間の相対性を一般的な法則としてアインシュタイン方程式に纏め、真実としての地位を自ら引き剥がした。
早くも半世紀前には3次元の法則を記述する曲率のない平べったい座標など時代遅れのものとなった。

思考の基準である座標すら物理学的に否定されユークリッドの美学が作り上げた幾何学が
数理論理学の系譜、カントール対角線論法、ゲーテルの不完全性定理によりヒルベルト・プログラムが通用しなくなったとき
真っ直ぐに線を引くことすら許されない我々はどうして真実を見出すことができるのだろうか。
普遍なるものは存在しないという考えは古代ギリシャのヘラクレイトスの思想から存在した。
いわゆる真実を否定する生々流転の「変化」のみが真実である。
よって虚構こそ存在原理であり運動原理であり、我々は確かなものを何一つ持たず
「真善美」のどれにも偏向しない生き方を実践するべきである。
我々はもともと虚構の中に身をおくものである。

816 名前: no name :2010/10/03(日) 14:18:33 ID:PQW1WcdA

命題の解決への論理は主観の波動を物質式表示により目的の条件とし、
世界の質料表示と精神の作用の和から機能表示とし目的の条件に合致する収束式を解とし方法化することである。
主観=波動式=物質式=目的、収束式=目的→方法化である。
目的の方法化が明確で無いが、この命題解法が波動理論である。

論理とは形式であり、形式とは物質の配列である。
真実が時間作用により形式を経て、実在する虚構を得たとき論理とは物質といえる。
目に見えない形式である波動を知り、虚構の実在を認めたとき自然の知識の活用法が見える。
自然とその活用こそ、真実と虚構による人類の文明の総和である。

817 名前: no name :2010/10/03(日) 14:34:57 ID:PQW1WcdA

波動を収得する方法は物質は波動そのものなので収束式が存在する。
質料と作用の組み合わせから得られる認識量xy、空間の大きさSVを単位とする、xy/SVの確率で確認できる。
つまり、質料の収束式表示とすることで外界の波動を得られる可能性を得る。

818 名前: no name :2010/10/03(日) 15:03:14 ID:PQW1WcdA

理論は固まったため今後の方針は波動理論と世界の関係性を述べる。
潜在構造については論じないが話題とすることはある。
議論が派生しない限りはここからは創造・構造化の議論ではなく、既存の概念への解釈を主とする単発的で自由な議論となる。

819 名前: no name :2010/10/04(月) 06:25:10 ID:VU5q2ull

機能的に見ることは重要である。
機能は唯一認識の発散のみを特異点として包摂せず
現実行動の動機付けとなる。
都合のよい解釈ではあるが、一部を除き機能的に見ることはよい。

言語に定まった真実など無く美のみがそれを包摂しうる。
機能としての真実とは美への欲求の動機付けであり神秘への学である。
この文章は美ではないが機能的である。
機能は時間作用により認識が発散したとき機能以上の意味を持つといえる。
機能に隠された神秘を波動は知るものである。

820 名前: no name :2010/10/04(月) 07:04:29 ID:aXAugiJ0

真実は美への「動」機付けであり、美は刹那的「神」秘への学であるが善とは何か。
善は真実的に包摂することは不可能であり、神秘によってのみ知ることを許される。
真善美により幸福となるため、善を知らなくては幸福ではない。
真への論理学、美への美学、善への倫理学とは全て哲学である。
真実は機能的であり、美は知的かつ表現的である。
善とは魂もしくは生命(エネルゲイア)への慈悲を扱うものである。
アリストテレスは善をも知り得る美すら合わせ持ち、万学の知識者でもあった。
美は善を知り、人の知は理性的であることを知れば、善、そして幸福へと至ることができると信仰するべきである。
現代は科学への思想に身を任せ長らく美すらも軽んじていたが、この考えはすでに馬鹿げた古習である。

821 名前: 削除済 :削除済

削除済

822 名前: no name :2010/10/04(月) 13:48:23 ID:LNo/NOMI

美が波動形式で扱えるのはハイデガーが唱えた機能主義の予ねてからの問題である認識の発散の表現として
無限大の概念を扱っているためであるが波動で美を語ることは全くの無意味である。
むしろその考えは美の概念を穢し、美から生じるはずの感情や善を殺害している。

我々の無限大への関心は薄く、無限大と聞いても思考停止するだけであるため美を馳せる余地すらない。
それどころかその一点を錯覚として取り除き秩序化しようとすれば、たちまち美などどうでもよいものとなってしまう。
波動はあくまで真実を語るものであり、美や善を語るときは一点を否定するどころか
その一点で瓦解する脆さを持った理論と認識したほうがよい。

823 名前: no name :2010/10/04(月) 15:05:08 ID:LNo/NOMI

旧来から日本人は技術者としての才財があったもののその天性は奇しくも地の性であり美について無関心さへと繋がった。
浮世絵や墨絵など自然の色彩豊かな情緒を認識として情報を欠落させ
写実主義的な芸術より抽象的な表現に留めることが多かった。
それもある種の美の個性と評されているが、それは美のうちでも表現寄りの美であり
さらに表現を抽象的な言語に依存しそれに顕れやすいものであった。
それ故、日本人は神秘への関心が薄く比較的非宗教的思想の仏教に関心が寄せられた。

そして、国民的個性の裏返しとして現象そのものを捉えることを不得手とし
発想力の欠如、想像力の欠如、情緒の未分化による幼稚さ、
感情の起伏の少なさによる無個性、複雑系の最たるものである対人への不得手にも繋がる。
いわゆる、精神的な機能の弱さにより技術以外の天性に恵まれない民族であることは文化的視点でいくらでも見出すことができる。
しかし、一般的に頭の良い民族であり、文章への理解力、具体的な事象への対応力、論理の構築力、仕事への関心は
全世界でも際立つものであり、国際的に対立的でない方面で必要とされやすいポジションである。
日本人は楽に溺れないストア派的な民族であるが、理性や賢さも仇となることもある。
時には人間の愚かさ以てアタラクシアへの希求をするべきである。

824 名前: no name :2010/10/04(月) 16:29:31 ID:LNo/NOMI

美と真は対立するものであり、さらに真では計り難い善というものがある。
美の巨匠、真の科学、善の司祭どれも互いに侵すことのできないエネルゲイアを持っている。
このエラン・ヴィタールを全て持つ主が全能の神である。

825 名前: no name :2010/10/05(火) 01:16:50 ID:5wXAee+L

論理は現象を真実に収束するが、それは波動現象を否定し物質へと収束することと同義である。
つまり論理的思考は現実への構造化により虚構に存在する収束式を減らす行為である。
するとxy/SVの可能性で得られる波動の機会を失い、手段のアイディアを減らすことにも繋がる。
論理的思考は空間座標の真実を見極める有効な手段であるが、擬似的な四次元空間という
時間がZ軸との相対性をもつ時間座標の精神を内在させる我々は平生から虚構の世界を渡り歩いていたといえる。
時間の規則性の無い擬似的な時空は一瞬のうちに地球の裏側すら想起したり、宇宙の果てへの思いを馳せることすら可能である。
科学が発達した現代は三次元を正しく認識することにより発達した文明であるが
その場の感情や情緒をくだらないことと掃き捨て時間の規則性により三次元へと構造化してしまったとき
それは精神現象の否定にして認識量の減少、そしてアイディアの損失である。
収束しないレベルであまりに発散しすぎるのは単なる阿呆であるが、
せめて善の感情も生まれないほどの美の完全否定は避けるべきである。

826 名前: no name :2010/10/05(火) 04:42:28 ID:5wXAee+L

精神の全空間Vは宇宙の全空間Sよりはるかに広大なものである。
なぜなら時間を遡ることも、物を別時間軸の空間からもってくることすら自由自在なためである。
ただどうしても適わないのは無限大の認識、無の認識、無知の認識そして、現実への干渉である。
時空間を自在に操れても所詮虚構であり必ず波動を帯びた行動により三次元空間に収束しなくてはならない。
人間が自己自身を最高善とし他人を殺してでも生き延びようとするのは自己の空間が宇宙より広い事実に基づく合理的判断である。

しかしならば自己犠牲は存在しないのかといえばそうでもない。
無限大の美の中で生じる善は美にとってもただ感情に流された中に生じる虚構であるが
虚構の合理性をさらに超えた神の慈悲の精神そのものである。
自己犠牲により虚構の虚構に存在する神と同化することで魂は物質的な死を乗り越え永遠の真実へと回帰する。
これが真善美の究極の形、永遠の真実としての円の幾何学を象徴とする魂のロンドである。

827 名前: no name :2010/10/05(火) 14:27:09 ID:QRavjGXE

波動形式により自動的に議論の結論を導くことができるが、それは認識の範囲内で情報処理する論理的思考のツールである。
では認識外として将来得るべき知識や考え方をどうやって身に着けるかが課題となる。
まず可能態が空間から検出されるためには認識量の問題であり、言語から感覚へのデコンパイルが必要である。
感覚は言語の認識量の何倍も厚みがあり、比喩的に表現できる範囲を知ることで認識の有機的感覚を得ることができる。
いわゆる概念を具体的個物に対応させるという経験論的認識法である。
具体的な原理は保留とするが残る目的は原理を明確化させることのみとなる。
次項から原理の明確化と総合的な評価を行い分析を終了する方針とし、これにより波動形式の備考を一度終了とする。

828 名前: no name :2010/10/06(水) 18:13:53 ID:RH8QATdb

我々の認識する存在名は存在という「基体」と「機能」からなる。
物質はあらゆるものに変化し「機能」を変えていくが存在という「基体」は普遍であるため
無限に分割しようと「機能」が位置情報の相対性において分割されるだけで
「基体」については位置情報に左右されない実在であるため分割不可能である。
この「基体」を第一実態と呼び、位置情報と相対的な自然は全て「機能」の位相である。
第一実態は位置や時間に左右されず永久に変化しないものに対し、実態の機能としての「機能」があるため
存在、時間、無は「基体」の「機能」である。

つまり、我々は第一実態にとっての機能であり実態のない存在である。
この考えから全てのものは機能としてみることで本質を知ることができる。
例えば、「物体」の機能は位置情報を持ち、エネルギーを持ち、法則に従う機能が存在し、そのままこれが「物体」の定義となる。
また「無」の機能については位置情報が無く、エネルギーは無いが、法則に従う機能が存在する。
実際は物質と反物質の反応による擬似的な無であるが、これを「基体」と見なせばここから「機能」が生じることがわかる。
我々は何者かと問われれば我々の「機能」を答えることが真理である。
数学における関数functionの意味は機能であるため、数学的証明は機能主義的である。

829 名前: no name :2010/10/07(木) 08:54:05 ID:AMZJ6u3Z

機能主義的に現象を見たとき客観的命題、主観的命題において、あらゆる論理が適応できることがわかる。
「考える」という行為を全自動化し、完全な論理による分析と
経験的な認識(波動記憶)のみが思考の形態となり人間の機能表示を可能とする。
次に示すのは即席スクリプトではあるが現象構造化アルゴリズムの1つ、波動短答式である。
次の文章をコピー&ペーストし、メモ帳に保存後、拡張子を「.vbs」に置き換え実行することで推論を開始する。(要vbランタイム6.0)
客観的命題に対応するが、主観的命題は最後に示す指示に従うことである程度対応可能にしてある。
x=inputbox("あなたの問題は何ですか。(〜したいという形式で〜を入力してください。)","命題")
msgbox " ではこれから『" & x & "』について推論します。" ,,"宣言"
y=inputbox( "『"&x & "』の機能や性質を客観的、具体的に入力してください。","分析1")
z=inputbox("では、『" & y & "』の機能や性質を持つと思われる物質、人間を「私」以外で入力してください。","分析2")
t=inputbox( "『"&z & "』の機能や性質の『" & y & "』についての引き出し方を入力してください。","分析3")
msgbox "推論は終了しました。問題の『" & x & "』したいは『" & z & "』を『" &t& "』とき解決します。"& vbcrlf &""& vbcrlf &"理想的回答へのヒント:"& vbcrlf &"本当に指示に従っているかに注意し、分析2にて別回答を入力する"& vbcrlf &"「機能や性質」を「物理的性質」もしくは、"& vbcrlf &"分析1にて「客観的」という指示に従わない場合、分析2にて「ための機能や性質」に指示を置き換えて入力する",,"結論"

830 名前: no name :2010/10/08(金) 07:43:24 ID:ohlPenzi

認識とは時間の規則性のない精神の空間において物質への多元的な解釈をする行為である。
例えば、鉛筆の認識として木、鉛、鋭さ、六角棒、消しゴムなどの認識の集合体であり、
存在名はこれらの感覚的解釈を集合論的に足し合わせた合成関数のようなものといえる。
使い方がわからないうちは鉛筆を木の一種として扱い、使い方がわかれば鉛を紙の上でこすり文字を書くものという認識の修正が働く
さらに使い続けているうちに消しゴムの用途に気づくだろう。
時間の規則性のない精神空間は自由であるが認識はあらかじめあるものではないため、
目の前に物質が存在しても機能がわからなければ何の意味もなく、認識が正しいという保証は全くない。
だが時間の規則性がないゆえに、先の未来すら見通すことができ思考の中で機能を組み立てシミュレーションすることも自由自在である。
虚構の時空から真実の理論を見つけ出し、三次元においてそれを実現する行為により文明となりうる。

831 名前: no name :2010/10/08(金) 08:12:41 ID:ohlPenzi

動物直感的に波動の気配を探り人間的理性による論理的思考により我々は文明を築いたといえる。
日常的な問題解決や行動としては>>829のスクリプトの波動短答式を上手く使いうことで十分対応可能である。
現象構造化アルゴリズムでは学者レベルの議論をするにたるものだと確信しているが、
波動短答式に依存せず隠されたプログラムである論法を知り、精神的時空間にプログラミングし実践することがよいだろう。

832 名前: no name :2010/10/08(金) 18:40:44 ID:ohlPenzi

波動理論は真善美のどれかといえば実は美学に近いものといえる。
認識の虚構時空間的解釈の単位としての波動は時間軸において真実の三次元空間の線形変換したとき非波動物質となるが、
認識も美学も時間座標上(相対論とは関係ない)の虚構であり波動理論は
美学の真実における超越論に規則性を持たせ質料変数に対する作用変数を無限大(波動現象)として美学を象徴するものである。
つまり美とは四次元空間上の真実であると、物理学的に妥当性があるかもしれないと考えている。
善はまだよく分かっていないがおそらく信仰するもののみの真実と思われる。

833 名前: no name :2010/10/08(金) 22:24:05 ID:RwFe9PJY

美が物理学的な真実であったとき、真の領域を侵すことになる。
真善美の信仰においてこれは善くない。
どれほど真実に近づけようと美はかならず虚構であるとしよう。
それが神の意思である。

834 名前: no name :2010/10/10(日) 08:16:13 ID:EpVzx3Yg

美を追求するに際して、我々は美的センスを問われる。
美とは真なるものの美であるとは一概には言えない。
美は虚構の美も受け入れ、時には醜きものに隠された美を追求することもある。
逆にこの文章は真なるものへの機能を示すものだが美を目指すものではなく美ではない。
たとえ真なるものであっても美があるとは限らない。

835 名前: no name :2010/10/10(日) 09:00:08 ID:EpVzx3Yg

文章は知識的であったほうが美的である。
美の対義語となるものはカオスであり、何も分からない状態つまりグチャグチャである。
無論、美とは物自体にあらわれるものではなく認識におけるものである。
物への認識という名の波動非物質は物の機能を示すものであるが、機能は波動的であり真と虚が入り混じっている。
しかし、波動は次の瞬間、真にもなる。現代において物は一つの機能に特化されたものに溢れている。

例えばドライバーの素材は金属という鉱山資源であり本来生活世界に身近でないものであるが
その希少さは生活世界に可能性をもたらすものであり、金属の使用についてドライバーはネジを回す以外の使い道もある。
生活世界において金属は硬いという性質を活かして振り回し破壊することもできるが、
そのような使い方はごくありふれたものであり波動のパラメータとしては金属という機能が存在するだけの希少性しか持たない。
よって、そこに美は存在しない。美とは希少性であり特異な性質といえる。故に、醜きという希少性において美が内在することもある。

グチャグチャの「カオス」に加えて、生活世界に溶けこむような「つまらない」ことも美の対義語である。
これにより美的は認識的であり、物質的に固定的ではないことが分かる。

836 名前: no name :2010/10/10(日) 09:09:03 ID:gNZBdNnj

物質の波動において、希少な物質の波動式は作用変数が不明な限り発散するものである。
その収束式の無限大に近い、V空間への発散による個数において物質そのものへの価値となる。
こうして物質の希少性を信仰することも美的であるといえる。
同じく人間を物質的に信仰することで収束式はV空間に発散し自己犠牲の起因にもなり善を知る扉を開く。

837 名前: no name :2010/10/10(日) 09:42:43 ID:EpVzx3Yg

新たな用語が多いので説明をする。
V空間:
四次元空間であり、S空間は三次元空間を指す。xy/SVは全空間の体積に対する認識量xyの密度を示す。
カオス:
四次元空間的に無秩序な空間
自己犠牲:
善の目的であり、先ほどの説から認識の発散における信仰美が善そのものといえる。
美の観念をV空間を満たしたとき善となり、神と同化し「存在を発生させる力」となり
物質に自己の全てを捧げることで存在が同化し、美の物質化(永遠の真実)となる。

838 名前: no name :2010/10/10(日) 16:07:28 ID:EpVzx3Yg

認識量がxy/Vだとすると、インフレーションの定義を単位時間ごとにS=2^t、V=x(x-1)だとすると
xy/S^2、xy/2^2tとなったとき、時間を二次元的に解釈したときのS空間の現時刻(T,T')までの時間の長さを
S=√(T^2+T^2),V=T^2+T'^2,V=S^2の等式が成り立たない矛盾が生じた。
波動形式は数学的に矛盾したのでS空間やV空間、認識量は定義を見直す必要性があるといえる。
扱う問題が思った以上に複雑だったので波動形式は理論として完成しないものと考えるべきかもしれない。

839 名前: no name :2010/10/10(日) 18:47:52 ID:EpVzx3Yg

神学は前衛的な芸術であり、芸術は前衛的な哲学である。
日本においては前衛的なものは重要視されず単なる娯楽として片付けられてしまうが、
前衛的なものは発想的であり、日本ではとかく実効的な能力や厳密な知識を求めることが多い。
だが、日本の前衛的なものに対する関心の薄さは不可知への関心の薄さであり
不可知とされるものは美の世界について多いといえる。
複雑系において不可知な問題が生じることが多く
美や信仰を持たない日本人には動物的な直感性がないため不況から立ち直る生命力がないといえる。

840 名前: no name :2010/10/11(月) 02:08:27 ID:wZUd2GFm

誰か和訳頼む。

841 名前: no name :2010/10/11(月) 18:49:14 ID:BF3VY70+

波動形式は理論化できなかったものの不可知の形式化には成功したといえる。
すなわち動物的直感の波動的認識であり、直接的に理解されずとも、正当に評価されてないとしても
量子的なトンネル効果のように染み渡り社会集団への無意識に介入することで波動によるイデアを引き継ぐ人間が現れると予言する。
そして社会の無意識が波動形式に支配されたとき、私の使命は達せられたといえよう。
「強い意志」は必ず影響力を持つということは波動形式的によって説明可能な事象であり、
現代思想を支配した科学的思想に拮抗する影響力を持つだろう。
波動形式という不可知を意識化できない限り、人類の無意識に作用し続け意識的活動を無力化し人類の運命を操作するだろう。
運命を唱える私自身も全て神の意識により無意識に作用され不可知に操られた存在である。

842 名前: no name :2010/10/11(月) 18:55:15 ID:BF3VY70+

波動形式は不可知というカオスを否定し真実を語るものである。
私の存在は運命の必然であり、人類の真実は生か死か審判の時は近いといえる。
カオスに守られていた人類は永遠の真実か破滅かの時を迎えているといえる。

843 名前: no name :2010/10/11(月) 21:42:15 ID:BF3VY70+

理解式:F1
x:外部知識のイデア(収束式)を抽出(機能表示)する
イデアから個物を想起(物質表示)する
外部知識と個物の収束式を対応(波動的認識)させる
行動式:F2
y:目的のイデアを抽出する
イデアから個物を想起する
個物のイデアを行動により抽出する
F1(x)+F2(y)+FN(n)=人間的活動
理解式F1と行動式F2を統合式により物質式にすると人間活動の全収束式であると統合式から導かれ定義式より原理式が定義となる。
統合式による収束式と物質式の等式であり、定義はx,y,nである。
統合式、収束式、物質式、定義式、原理式、不明式は公理(主義に基づく仮定)であり
収束式と物質式は前項、その他は本項文中において説明されたものとする。
否定される因子は定義された変項、もしくは主義である。主義において文章はこれらの規則に従い()内は説明とし、
物質表示と機能表示と波動的認識は文中で説明されたものとする。
これより理解式と行動式そして、主義における公理の説明責任を果たす。
試験的に公理を導入した定義の発案と説明責任を果たす文章構成を導入する。

844 名前: no name :2010/10/11(月) 21:51:01 ID:BF3VY70+

前項で公理を説明してなかったので説明責任に従い説明する。
統合式:FX+FY+…FN=物質式
定義式:定義=原理式、不明式
原理式:x,y,z…=L1(生活世界)
不明式:FN(n)≠L1
()がない語または文章は説明が果たされたもしくは、自明な文章とする。

845 名前: no name :2010/10/11(月) 22:24:43 ID:BF3VY70+

x:文章は前半に定義の発案、後半に説明責任と砕いた説明の文章構成とする。
必要ない場合は説明しない。
y:否定式:否定することが可能なもの=定義(もしくは主義)
N:未定義の関数
x+y+N+n=N'

846 名前: no name :2010/10/11(月) 23:35:13 ID:yf8yXzhl

初心者はニコニコしてない。

847 名前: no name :2010/10/12(火) 14:11:09 ID:KGbvnif3

理解式における波動的認識とは個物と一対の関係を持つということであるが、
具体的には個物の現象である収束式への関係と対応することである。
カントは虚数の具体的個物への対応に悩んでいたが、経験論的に具体的個物との対応がなくては
原理的に認識が働かないという主張は個物の現象学的解釈により解決することである。
では虚数(i^2=-1)の具体的個物への一対の対応とは何かといえば、つまりそのイデアを含む個物を想起する行為であるが、
これについては形状の理解にとどまっているといえる。
虚数とは存在しない数であり、これについての具体的イメージはない。
従って、人類はこれが何かを理解しないまま使っているといえる。
決まりごととして形状の経験的理解と尺を二乗したとき−1の別ベクトル空間への方向の力が働いているという解釈としたとき
SFのような世界観において理解がなされるといえるだろう。
一つの例としてSFの異空間への次元の亀裂などは鏡の中の自分という現象の経験的解釈を行っているとすれば
現象学的に経験論は正しく個物の内の現象と一対の関係が導かれるものといえる。
しかしこれは個物の否定であり、物自体を考えたカントへの否定的見解であり、
認識が働くのは個物という函ではなくその機能という現象において認識原理となりうるという見解である。
こうした認識論よりカントを乗り越えロマン主義台頭の現代哲学を迎えたといえる。
私の主張はこの流れを汲んだものといえるだろう。

848 名前: 削除済 :削除済

削除済

849 名前: no name :2010/10/12(火) 22:10:50 ID:KGbvnif3

鏡像または虚像は鏡のそのものではなく鏡の機能である。
数学的な演算行為は何かを千切ったり、混ぜたりする人間の機能による経験に基づく認識である。
演算が認識されたならば、虚数なども鏡の比喩を出すまでもなくその認識を経験的に導出するまでもなく
その連続的な認識において経験論は保障されるものとなる。演算も可能ならば無論、同じ機能の繰り返しは経験的に定義されている。
同じ機能の繰り返しの定義が保障されないならば、論理的思考そのものが無意味といえる。
10-5=5などは10の中に含まれる5を5の尺(定規)だけ千切って5の量を出すことは可能である。
「演算」と「同じ機能の繰り返し」が経験的に定義されたならば純粋数学は存在しないという結論が直ちに導かれる。

850 名前: no name :2010/10/12(火) 23:05:07 ID:KGbvnif3

つまり数学は経験的認識を記号に閉じ込め経験的認識に保障されたスワップ操作をし続ける
現実世界のシミュレーションでありそれ故自然科学の領域を全て保障するといえる。
経験は神が定めた規則に則るものであるが、規則を時間軸においてバラバラにすれば虚構の世界が生じてしまうのは必然である。
数学は経験に則るものだが、時間の規則が成り立っていないため経験を完全に否定するような矛盾でなくとも虚構の世界が生じてしまう。
時間によって連続性を保証されたものは、同じく連続性を保障された共時的存在によってのみ真実を確かめられるのである。
突然地球の裏側にあるものを取り出すような演算行為は経験的には矛盾せずとも時間の連続性には矛盾し虚構を生み出している。
いわゆるポテンシャルエネルギーを無視した演算行為を認めるものが数学である。

851 名前: no name :2010/10/13(水) 08:03:32 ID:P/LDjPrK

波動式は実存主義を示す。
x1+y=zという式はx1を定数とし{y}={y1,y2,y3…yn}の認識量(収束式数)X=1,Y=∞のXY=∞となるため
これは経験をはるかに超え神の定めた法則の壁を越える。
これを経験を超えた信仰状態と定義できる。
これが適応例としてx1に人間という物質が代入された場合、その機能として無限大への発散が起こる。
これがいわゆる人間のカリスマ性の正体であり、x1の評価価値の高さによって信仰状態を生み出しやすいといえる。
無論、人間は器用な手先により道具を作り出したり、理性に従って臨機応変な行動ができたり、
集団をまとめる理論を考えることができるという収束式をもつため一人一人の人間の評価価値はほかの動物と比べて高い。
この信仰があるからこそ人間は無限大の価値を保障するものであり、評価に基づく機能性の信仰美において善を発生させる起因となる。
物質の波動現象があるからこそ生命を持つ物質という矛盾を解消し、その爆発的な生命力が信仰状態を生み出すといえる。

852 名前: no name :2010/10/13(水) 08:42:00 ID:P/LDjPrK

しかし、物事を客観的評価をするならばあえて無限大の価値を取り下げなくてはならない。
何事にも反証不可能な事象を生み出すことはそれ自体が矛盾の壁に阻まれるため
実力行使を持って思想を砕かなくては問題を解決できなくなってしまう。
物質式の定義から変数という存在を忘れ、収束式の総和つまり、実際にどのような機能を持っているかをもって
慎重な議論を進めなくては目的への活動の妨害となってしまう。
無論、信仰美は魂の唯一の栄養源となりその美による不可知への到達をもつものだが、
現実の問題を解消するために波動現象を発生させることは非合理的である。
日本人は信仰や美への関心が薄く、独創性はないものの厳密な知識や現実問題に対応する論理的思考に優れている。
このような姿勢は特化された機能として国際的に貴重とされているが、現在の日本には
論理的思考によっては解消されない不可知の問題が迫っているといえるだろう。
場当たり的ではあるが信仰と美による不可知への関心を持つべきである。

853 名前: no name :2010/10/13(水) 08:57:21 ID:NqDapuqX

日本は元々真善美の均衡が保てていなかったため巨大になりすぎた国体を継続的に支えることは原理的に難しいといえる。
現在は瞬発的な評価による地位の高さがあるが契機をもって国が崩壊する危険性は元々高かったといえる。

854 名前: 削除済 :削除済

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855 名前: no name :2010/10/13(水) 20:36:46 ID:DSDOtN7v

鍵穴を型にすれば鍵ができる

856 名前: no name :2010/10/13(水) 21:16:40 ID:DSDOtN7v

どのような物質にも波動式における無限大の可能性があるが、
実現ができるものは可能性の高いものである。
よって理論を確立したとしても実証することは重要である。
波動式は収束式による信仰の理論化、可能性による理論の実証により目的への活動を保証し、
初めて将来までの展望を持つ営利活動計画が完成される。

857 名前: no name :2010/10/13(水) 21:24:01 ID:NqDapuqX

人間は現象構造化アルゴリズムにより経験を理論化、また他人の経験を理解式において
行動式の機能式数を増やし目的への活動の可能性を高めることができる。
そして実証による可能性を加味したシナリオを完成させれば個人というミクロの視点から見た社会の流動を形式化できる。
いわゆる運命の原理である。

858 名前: no name :2010/10/13(水) 21:54:43 ID:DSDOtN7v

波動式は収束式をもって尚且つ可能性を示さなくてはならない。
これが理性的活動の条件であり、満たさないものを非理性的活動といえる。
議論に非理性的活動を持ち込むことは無論無粋であるが、
不可知を知る機会においては非理性的活動の爆発的生命力を得なくてはならない。
これを収束式における分岐として真善美は均衡を保つことができる。
これが実現され続ける世界を理想的世界と呼ぶことができ、これを唯一の善とこれに従わぬものを悪と定義することができる。

859 名前: no name :2010/10/14(木) 00:35:30 ID:CnzU9yPM

我々の理性の器は大きすぎるものは入らず小さすぎるものは捕らえられない。

860 名前: 削除済 :削除済

削除済

861 名前: no name :2010/10/14(木) 15:05:22 ID:qJl/YJ1Q

>>859が示すものは
議論の場において収束式の総和としての物質式を定義すべきであることと、
収束式の実現可能性の高いものを採用し計画を立てるべきという意味である。
まず、我々の認識そのものである物質の波動式は収束式で表示すべきであり
収束式の実現可能性の最小値を設定すれば直ちに認識の無限大への発散(波動現象)は抑えられ理性的な場としての議論となる。
そのうち実現する可能性における実現の正否においてルートを分岐させることでシナリオが完成する。
当然、最も実現可能性の高いプランAが90%だとすると90%のルートと10%のルートに分岐されるが
これは相互関係の変動を考えないものであり、次のフェイズの社会的現象から相互関係を考えなくてはならない。
社会的現象を現象構造化アルゴリズムから分析して、社会という物質式から有限の収束式を得ることで現象を予測することができる。
得られた収束式をプランAの物質式との関係性から経験による機能の合力を考える。
マクロな立場での経験は機能の根拠となり、ミクロな立場での理論は機能の原理式を導く。
これにより得られる合成関数は1フェイズのシナリオを定義する。
1フェイズ以上のシナリオはかなり複雑な計算となるが、物質式から可能性の高い収束式を導出し、
マクロな根拠とミクロな原理によりある程度の精度を持つシナリオとなる。
マクロな立場から論じることはどの収束式が影響を持つかなどのマクロな現象を説明し得る。

862 名前: no name :2010/10/14(木) 20:02:19 ID:qJl/YJ1Q

人類は善への希求でカオスは消滅し、終末を乗り越える。
現象学は真善美の理神学として確立される日は必ず来るだろう。

863 名前: 削除済 :削除済

削除済

864 名前: no name :2010/10/14(木) 20:22:09 ID:qJl/YJ1Q

武道は武道でのみ語られ、音楽は音楽でのみ語られ、宗教は宗教のみで語られる。
収束式において専門領域と呼ばれるものは必ず実現可能性の高い経験論を持つ。
哲学は全ての知において原理を当てはめていくものであるがどの収束式も所詮、門外漢の論である。
専門的な事柄については必ず専門的な経験を持つ人間においてのみシナリオの創作能力が身につくものである。

865 名前: no name :2010/10/15(金) 17:15:19 ID:3HmZiTGb

直感的な認識量により多くの収束式を導くことができる。
その源流は生命力であり美を目の当たりにしたときの波動現象である。
非理性的活動により現象そのものを認識し、理性的活動により現象の原理を探っていく。
丁度、理性的活動とは産婆術のようなものでより感覚的な現象から理性的原理を抽出する。
但し、感覚的な認識としての記憶はまるで一刻に閉じ込められた発光量が絶対量であるかのごとく
一瞬の発光とともに瞬間的に冷えてしまうためその時、生命のイドラとしてアウトプットすることは重要である。

866 名前: no name :2010/10/15(金) 17:37:06 ID:3HmZiTGb

現象構造化アルゴリズムは理性的活動であるため、現象そのものを記述することはできない。
せいぜい、一本の蝋を灯した薄暗い地下での発見でありいわゆる洞窟のイドラである。
非理性的活動、つまり認識そのものにおいては抽象言語や抽象図により瞬間的に書き留め、
その発想をもたらした魂に措いて具体化していくものである。

867 名前: 削除済 :削除済

削除済

868 名前: no name :2010/10/15(金) 17:49:53 ID:3HmZiTGb

しかし、生命があるとは主観的現象である。
どの現象に生命があるかは生きる中で創られた信仰のもたらすものである。

869 名前: no name :2010/10/15(金) 18:02:05 ID:3HmZiTGb

真・美・善は信仰に至るまでの道であり
善・美・真は信仰を形にする道である。
現象そのものいわゆる生命エネルギーという潜在性が含まれているならばそれを形にすることで発想となる。

870 名前: no name :2010/10/16(土) 16:10:09 ID:ySJuavcs

経験論に従いこの文章は認識(シニフィティ)であり、日常的な感覚への一対の関係(シニフィエ)である
主義を持つとする。主義はその内では普遍であるとし、認識は主義に従うものであるため
文章構成は定義の発案とシニフィエを目的とし、生命の形象としての抽象論として
初めから厳密な定義を目指さず、断片的な記述としのちに公理や定義を論理式にまとめていく。

主義において、究極の主義とは主体であるがこれとは区別し客体への信仰において主義が成り立つ。
数学的な量は経験論に基づくという主義における結論が出たので論理式にまとめる方針とする。
主義とは経験論と機能主義であり、認識対象の質料とその機能である作用による論理式において
全ての原理となり「存在」を含む現象が規定されるというものである。
次に主義における仮定(公理)として、f(x,y)の(x,y)の「変項」が質料xと作用yという二項演算の「収束式」である。
関数fは個物という「物質」にあたる。XYは「認識量」をあらわし質料xと作用yの組み合わせの数である。
ここで「存在」の定義として「信仰の物質化」を採用しY=∞(認識としての作用yが判断停止し信仰に至る)のとき物質(式)となる。
つまり、質料xとは認識対象でありその機能において認識の修正が働くため作用yが質料xの原理とする。
主義に措いて物質とは機能(性質)であるとする。

871 名前: no name :2010/10/16(土) 18:08:22 ID:ySJuavcs

梵我一如
供物を捧げ火中の神と精神を同化させホーマとする。
我々アートマンは満たされし宇宙と同化する運命なのです。
創世を司るブラフマー神、法を司るヴァルナ神はそれを望んだはずです。
我々の幸福とは肉体を捨て、大宇宙の思想へと回帰することなのです。
所有とはカルマの偶像そのものであり、阿頼耶識における心相続とは在って無きに等しき存在なのです。
ニルヴァーナには如何なる所有も存在しません。よって如何なる邪もまた存在し得ないのです。
思想の交錯
私たちの思想は実に単一的なものです。
なぜなら自分とその周りとその行動範囲と思考能力で平均化された思想しか知らないからです。
あらゆる思想学びなさい実に意義深いものですよ。
思想というものの差異に触れ、体感し、ノンバーバルの海へと身を投じるのです。
そうすることで身の回りの思想の輪郭を知り、人の思想を知り、更には自然の思想を知るに至る。
貴重な問題提起(人生への問いかけ)の哲学を得るのです。
そして、今起こっている現象の裏と表さらにはその周囲の関係性まで可視化し、
起こりうる事態を予測する観世音菩薩の智慧を得るのです。
正しさに溢れた真理を身体中に浴びることこそ世界の幸福なのです。

872 名前: no name :2010/10/17(日) 02:52:28 ID:QapGR3VT

定義としてF(x,y)=G(z)であるため主観的目的zは物質Fの機能となる。
つまり物質の定義域に対する目的の値域があり、質料xへの作用yにより質料の機能を引き出すことが可能である。
そして、質料xと作用yからなる物質の関数Fを座標上に示し目的の関数Gとの交点により主観的目的が求まる。
無論、数や量の概念ではないため連続する点との単射としての経験論(主観的イメージ)を示す必要性がある。
言語上の矛盾が起きるが、ここでの目的は完全に客観的対象として扱うことができる。
そして行動式とは非定常状態の目的であり、時間tにおけるF(x,y,t)=G(z,t)であらわされる。
シナリオはこのうち相互関係において実現可能性の高いものであり、これを人間全体の相互関係としたとき運命となる。
認識としての物質が目的zから作られる場合、現時点までの主観内の可測時間TにおいてT>Yとなり
limY→∞は起こりえないため、X=0,Y=∞から信仰から物質は発生しないことがわかる。
理解式はFを外部知識(物質∋外部知識)とした、F(x,y)=L1である。
そして、他者の意思を理解式で示し、自己の意思を行動式で示すため、人間={行動式,理解式,Z}である。
数値化できない論理式の変項を座標の概念まで拡張するのはおかしな事だが、機能主義において示されることである。
ちなみに理論化はできなかったが、四次元時空において物質∋認識とする主義である。
これは信仰上は偽であるが、主義的には真であり、幸福を得る活動としての信仰上の真においてのみ主義の真となる。
無論、主体が究極の主義であることは明らかなため信仰は絶対的に優位である。

873 名前: no name :2010/10/17(日) 03:18:07 ID:QapGR3VT

ちなみに目的の発見は理解式(不完全なものに対する疑惑の認識)であり、解決は行動式で行われる。
これらの相互性から思想と行動が生まれていることは想像に難くない。
そうしたとき第一始動因は無意識的な行動と考えられる。

発想は行動式であり、認識としての理解式が先立つが生命の形象において有意な認識がなされても
感覚的記憶であるため極短時間で消え、行動式に至らないこともある。
それは誰にも見つかっていない希少性において価値ある点が存在すること自体まれなため連続的認識にならない場合が多いためである。
我々は普段から理解式においてF:物質→L1の無意識的な連続的認識を行っている。

874 名前: no name :2010/10/18(月) 02:53:55 ID:Ml+niiEu

>>870,872,873を厳密な定義をするため、主義における公理から全てを定義しなくてはならない。
主義とはイギリス経験論、機能主義、現象学などを採用しそれらから公理を形成することで、
経験論による論理式の数学的な解釈を可能とし、現象学による物質と認識を定義し、
機能主義における物質の論理式化できる公理を得る方針であり、これにより主観的現象を客観的現象として扱うことが可能となる。
全ての現象を論理式にまとめ、公理において定義し、その論理式を座標の概念まで拡張させる方針である。
最終的な目的は波動形式の証明であり、これが成されれば理解式と行動式の証明となり社会現象の解析が可能となる。
これはいわゆる人文科学の基礎付けであり、特に文科系学問の論理実証主義化を目指すものである。

875 名前: no name :2010/10/18(月) 21:45:04 ID:Ml+niiEu

人間には可能性があるというがここまでの議論から
「人間は真面目に生きるべきである」
ということが定着した。
少なくとも日本では生存の知恵である。
綿密な知識を身につけたり、幾度もの演習を繰り返す。
この行為こそ生存可能性における線形回帰方程式である。
人間の能力や行動の可能性が極限られたものである。
人間は神に近いという西洋思想より動物から進化したものという科学思想は正しいということが私自身直感的に理解した。
進化とはまったく別の生き物になるというものではなく確実に波動現象である。

人類は科学というものが始まるまで暗黒の中世時代において何百年と宗教議論を繰り返し禅問答の歴史を積み重ねている。
その間全く学問というものは発達しなかったという。
科学という方法論が始まらない限りいまだ宗教議論のまっただなかであっただろう。

そして、人間の可能性は科学に奪われ、新たな発想というものは専門性のブラックボックスに隠されてしまった。
そしてその科学すらも宇宙への理解なくしては人類の発展性は限られている。
ある程度科学というもの知り、運命の議論をし続けてきた私からしてみれば人間の運命はある程度見えている。

人類はそれ自体の価値を徐々に失い、恒真の宇宙の中で滅びゆくだろう。

876 名前: no name :2010/10/18(月) 23:51:09 ID:Ml+niiEu

我々は生存しなくてはならない。
生存するための手段ばかり考えることは小さな人間である。
だが人間というものはそれほど賢くないのだから仕方がない。

877 名前: no name :2010/10/18(月) 23:59:32 ID:Ml+niiEu

自分と身の回りの状況を上手く使い快や楽に生きる
動物の仔である我々は小であればあるほど生き延びやすい

幸福の真意とは女性的に小さくあることである

878 名前: no name :2010/10/19(火) 00:53:54 ID:LO743AJR

人文とは人との関係を持ち、文を理解する。
つまり、行動式と理解式により人間の生存の能力を発揮できる。
いわゆる小の生き方をまとめたものである。

これに加えて他人の意見を尊重し、常識を遵守し、
事実を歪曲させても自己の生き方を信仰することで
主観的目的である人や文など身近なものの問題解決方法を理解し実践することができる。
これにより日常生活の専門家、幸福追求学のシナリオ創作能力を得る。

科学はその限界をもって時代の終わりを示し、
国際的協調の時代となった現代は個々人の幸福を求める時代である。
人文科学の数学的手法はすでに時代遅れ、人文社会学の主観的手法を実践していくべきである。
その基本的考えは、信仰と、経験論による理解式と行動式の論理座標空間の連続する関数を得ることである。

879 名前: no name :2010/10/20(水) 02:05:34 ID:6C8P56X8

F(x,y)=G(z)のG(z)は数学的な関数ではなく変項を示すものである。
我々はx,y,zとf(x,y)を主観的に定義することによりx,y,zへの置換とf(x,y)の演算を許される。
xは具体的個物に属するものであり、yは作用に属するものであり、
zは定義されたf(x,y)の演算により生じた現象である。
真偽の空間をV2、主観的真の空間をL1(V1⊃L1)、主観的偽の空間をL2、定義の空間をD、とするとそれぞれ包含関係は
V2⊃L1,L2⊃D={x,y,z,f(x,y)}である。
特にL1で定義されたものならば方法化Tが可能であり、L2で定義されたものならば方法化が不可能である。
V1⊃L1⊃D={x,y,z,f(x,y)}⊃T
理解式は外部知識kにおいてf(x,y)=kである。
定義された演算で外部知識を導いた時、理解となり、この連続的認識の原理から理想概念との差異より問題の認知に至る。
主観的定義のkにおいて、f(x,y)≠kであった時、認識に問題があるか、外界に問題があるかのいずれかとなり
不明なkが主観的に問題(客観的には将来的もしくは現実的な生存可能性への危惧)となる要因であった時、行動式へと移る。
これは普遍性には問題はなく、異常性に問題が存在することを意味する。
この演算はあくまで論理演算であり、変項に入るものは主観的事物である。
「経験的に想起または認識」される、「具体的個物」への「作用」により「定義された演算」から
「現象」を導くことで「論理実証」となり、それが真だった時「実証」となる。シナリオ創作においては実証は重要である。
「理解式」による外部知識の認識により問題を探し、「行動式」による問題解決により人間的活動(人文)となる。
これが人文科学の手法よりさらに合理的な人文信仰学の「論理実証手法」である。
完全にミクロの視点ではあるが、社会現象も経済事情もこれらを元にマクロな視点を完成させ議論するべきである。

880 名前: no name :2010/10/20(水) 17:43:28 ID:WCKyZg8L

ついに論理座標による波動形式を定義することに成功した。
これが理解できたなら日常生活の問題認識からあらゆる方法に応用し幸福へとたどり着けるだろう。
問題に直面した時真実を、とても喜ばしい時美を、恒久の善を願う信仰を得て、日常生活の生命力となる。

不適切な言い回しも多かったが、真の理解となったならば必ず自己の使命を見出し、神からの波動(幸福)を授かる。
肉体的な死をも乗り越える生命力により神と同化し永遠に善を願う存在となるだろう。

真善美、そして神を信仰することは幸福である。

881 名前: no name :2010/10/22(金) 01:20:40 ID:W94nU+eo

論理式で得られる波動形式を論理座標上で定義した論理関数とすると論理座標を
単に定義域と値域を表す座標ではなく特殊な座標として定義すると、
主観的現象を座標上に示すことができ、定義した値に返す関数を得ることができる。
主義に基づく公理はそもそも主観的現象のみしか扱えないものではない。
主義の定義である公理の見直しと、公理から厳密に定義することで主観と客観を区別しない座標となりうるだろう。

882 名前: no name :2010/10/22(金) 01:34:41 ID:W94nU+eo

我々が「〜すべき」など意志に基づき目的を持って行動することは主観的現象である。
社会的現象は集団の目的という主観的現象と自然現象の客観的現象からなる。
論理座標を正しく定義することができればミクロとマクロに分けて分析することで
社会的現象の精度の高い線形回帰方程式を得ることができるはずである。

883 名前: no name :2010/10/22(金) 05:34:34 ID:AwcDoAqw

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      ノ  _ノ (   < /   i   ヽ、  _)
     <.,,_/~    ヽ,,_)(___ノ     ̄

884 名前: no name :2010/10/25(月) 22:24:43 ID:+EkbeIGU

美を求めるとき美とは一概にその形ではない。
文章は知識的であるべきであり、芸術は発想的であるべきであると認識している。
美とは一分野の特徴を写し取るものであり、その基準における最高評価が美である。
つまり、その概念の機能性を発揮したときが美の正体となる。

文章とは言語の多様性を用いて経験を写し取るものであり、経験の機能とは目的への行動能力を得ることである。
一般的に行動能力が高い人間とはあらゆる環境に適応する臨機応変さと実際に行動する実地能力も必要である。
つまり、文章とは多様な目的と一義的な実地能力を得る機能がありそれを美の定義とすると、
多様性と現実性を兼ねた浅さと広さにおいて美の最高価値となりうる。
あらゆる学への知識を持ち、専門的でない程度に現実的であることが理想である。
多方面の領域への表現力が文章における美である。

885 名前: no name :2010/10/27(水) 01:30:44 ID:7PwZ09nY

哲学とは基礎的な方法論を開発するために存在する。
日本では厳密な作業や実効的能力そして、厳密な知識、経験ばかり求められ、哲学が軽んじられる。
哲学的姿勢とは生活から生じる疑問という身近なものを抽象的な言葉で書き出し思想を作り、
自己思想の基礎を固めて発想に至るという体質が日本人には合わないらしい。
哲学は試験に求められるような知識から始まるものではないという考えを私は支持する。
無論、知識は文字に縮小された経験であり多方面の思想を知る契機であるが、
一対一の知識まで厳密化するのは方法論を収束する姿勢であり既知への関心である。

論理関数はF(x,y)=zとする。G(z)は関数ではなく変項を示すものだが、関数と区別がつきにくいのでzを変項として扱うとする。
yは作用であるが、作用とは質料と作用の従属変数を持つものと単に作用を従属変数とするものがある。本項では後者を論じる。
作用とは「作る」という言葉があるが「人間」が状況を意図的に作り出すものと解釈してかまわない。
後者の作用は物を用いる「人間」の作用ではなく、「動物」の作用に近く特にこれをDという関数に置き換える。
Dとは肉体的作用にあたり、それを力学的解釈すると質量と加速度の積であらわされる。すなわち、
D=maであり、肉体を収束式から定義し、身体全体をbと重力加速度gと筋力の収縮弛緩による加速度sとすると
D=b(g+s)
ということがわかり、数値換算された関数から解釈を変えて、xを質量、yを加速度と考えると
z=xb(g+s)
と考えられる。何れも数値化できる情報であり、変化質料も求められる。これは論理関数から得られる運動方程式である。
つまり、動物的作用を機能の要素(収束式)を全て取り出すことで動物が可能な最大の運動量を求めることができる。
これを利用すると、動物一匹辺りの可能な行動(変化質料)が限られる(認識の収束)が分かる。
人間は意図的に質料を利用して作用を作り出せるためこの運動量を上回る。

886 名前: no name :2010/10/27(水) 20:58:31 ID:cSru86U7

・・・美とは破壊の波動
生命の愉悦

887 名前: no name :2010/10/28(木) 17:41:51 ID:rDSnfaJO

何も生み出せない人間が得する社会でいいというのか
正義とはいったい何だ・・・

888 名前: no name :2010/10/28(木) 17:50:49 ID:rDSnfaJO

幸福の十分条件を考えることには意味はない
幸福の必要条件を考えることに意味がある

神がそういうのならば仕方がない
知性では天界は語りえぬ

889 名前: no name :2010/10/28(木) 18:20:28 ID:rDSnfaJO

信仰は矛盾した真実、故に視野を狭める
しかし信仰なくして人は生きていけない
故に人は全能にはなれない

890 名前: no name :2010/10/28(木) 18:31:43 ID:wNniMgqh

信仰なくして人は生きていけないのは
自己の生が矛盾しているためである、

自己の生に疑いを持てば死ぬ
信仰すれば視野を狭める
神への猜疑心と信仰心の積は必ず一定の値を持つ

故に死は無限、生は有限
そう警告された
ならば死ぬ寸前まで哲学しよう

891 名前: no name :2010/10/29(金) 12:20:42 ID:CHMZCaIO

我々はセンサーにより認識した対象をオペレートする。
オペレーターは意外にも単純な式であり、一つ一つは動物にでも処理することができる。
目的への行動として上手くいった事例を取り上げて、似た事象に代数的に当てはめるだけ。
これが論理座標における「経験」の基礎的な考え方である。
しかしこれでは自分の経験していない情報は処理できず、自然と思考は経験半径に収束し行動や思考が限られてしまう。
一見複雑な事象の処理は難しく見えるが、
行動式の演算自体は影響力の強い事象のみを抽出し他の要素はバッサリと無視して要素の波動を辿り試行錯誤する総当り方式に近い。
この経験と記憶の方式では思想の理論化は困難(そもそも存在しない場合もある)であるが、
複雑への対処の仕方としてはむしろこの考え方のほうが効率的である。
行動式の絶対的演算、コンピュータにおける論理演算に近い思想である。
欧米・西洋社会はこうして複雑を制覇し世界的な地位を得たといえる。
芸術とは理論化しにくい複雑な事象をあるがまま写し取るため広いキャンパスを要するのである。
芸術的感性は記憶や経験として分断された情報を理性へと収束するために存在する。
そして、芸術の中に描いた本人ですら知らない理論が眠っていることもありうるのである。

892 名前: no name :2010/10/29(金) 20:55:34 ID:CHMZCaIO

フランスの美学、ドイツの科学、イギリスの信仰
西洋は比較生産による国交で相互文化を尊重するため、あらゆる可能性がある
その知識の中心地であるギリシャは哲学の都として相応しい

893 名前: no name :2010/10/30(土) 06:29:11 ID:R0QdSwnp

美は芸術分野に限ったことではない。
幾何学においてメビウスの帯、物理学の相対性理論など大衆芸術に大きな貢献をしている。
美のそのものの定義をするならばあらゆる方向への可能性という生命力そのものを指すといえる。
音楽や絵画は他人の真似をするだけならば経験を論理座標に適応する理解式だけで可能である。
芸術の名を持っているものにしても可能性や生命力を生み出すものでなければ美とはいえないだろう。
複雑を制するものであっても個人の瞬発的な能力自体は行動式という定型で再現可能であり
他を絶するカリスマ性とは長期間にわたり積み上げる信仰、信頼をもたらすものでなくては価値はない。
真実のみでは人間は物質の意味でしかなく、信仰のみでは神に隷属し人類は文明を発展させる意義を失う。
人類は真善美への単なる信仰だけではなく、正しく理解し実践することで価値を創出するべきである。

894 名前: no name :2010/10/30(土) 08:21:19 ID:R0QdSwnp

思想的な詩、仏教美術、工芸や機能美などの言葉もある
美とは飾るもの以上に多様な概念である。

895 名前: no name :2010/10/30(土) 11:30:13 ID:wFPjrDzO

ここは哲学者の方々にとっての憩いの場と認識しました

896 名前: no name :2010/10/30(土) 19:30:44 ID:R0QdSwnp

何一つ感性を得られずただの娯楽に逃げるだけの生き方はいつか生きる意味を失うだろう。
それでも死ぬべきではないと自己を信仰する生命力を持つものではあるが
神はその人間の生命を支えるだけで美を直接語りかけることはしない。
真実な時間とは独立する美は永遠の時間を生み出す、客観的には人間はいつかは死ぬといわれるが
主観的には美への感性が閉ざされない限り死ぬことはない。
肉体が機能しなくなったところで物質という「存在」そのものであるイデアは五次元空間に真の存在をおくものであり
三次元空間などの規則に従わず、復活を願う生命力があるならば四次元において永遠の時間に生きることができる。

897 名前: no name :2010/10/30(土) 22:50:59 ID:a1Oqm7wF

なにこのスレ怖い

898 名前: 削除済 :削除済

削除済

899 名前: no name :2010/10/31(日) 05:53:29 ID:UFHHJNi1

私の文章は知識は単に土台として最小限に留め、概念への理解を最優先とする常に機能的であるべきという主義に基づくものだが、
美的な文章を目指すときはどのようにするべきか検討する。
前項において文章の美を多様的・非専門的・経験的と定義した。
これはあらゆる方面への偏り過ぎない知識を体験する視点で修飾語を重ねると考えられる。
つまり、機能面の文章骨格に修飾する語として諸所にあらゆる学の教養を挟み、読者に分からないような専門的過ぎる内容を避け
読者が追体験できるような直接感覚的・描写的な文章を心がけることである。

このような文章を書くためには、まず知識が多いことが絶対条件であり、専攻分野以外への教養を持ち
無駄な知識と思われるものでも感性的に区別し意欲的に取り入れることである。
次に、読者を飽きさせない工夫として文章のレトリックを用いたり、風景を想起させる比喩を多用するべきである。
哲学はごまかしているような文章も多いがこれは一種の文芸創作的表現であり、読者に情緒をもたらす工夫である。
機能を見失わないようにしながら、知識で読者の知識欲を持たせ奇抜なレトリックで躍らせ比喩を用いて肉質を飾る。
機能+知・奇・肉の三重表現法である。しかし、やはり知識がなければ教養がないと思われ信頼を失うため
奇や肉である程度誤魔化せても、専攻分野から離れた知識や絶対的な知識量がやはり重要だろう。

900 名前: no name :2010/10/31(日) 18:15:16 ID:UFHHJNi1

語彙というもの身に着けるためには「ある種」の感性が必要である。
あらゆる概念への理解として一語一語同じような言葉でも違う印象や理論が隠されてある。
語の構造とは厳密な定義はなく、行間から作者の心理を抉りながら語の機能を探すものである。
より感性的であれば語の構造を知り、いわゆる作者の正語をしることができる。
これは人間の記憶の構造とも密接に関わるものであり、こうした行為により語の記憶を可能とし
表象と心理(感覚)が同調し、自己の語彙として加えられる。
記憶の構造とは論理座標における経験の基礎概念(理解式)からなることは説明済みである。
作者の正しい言葉と自己という波動の組み込みにおいて現象の波動的解釈において思想領域まで拡張された四原因論が保障される。
似たような言葉も作者にとって全く違う意味を持つものという認識を自己の経験により解釈したとき語彙(知識)は増加する。
これは作者の心理に隠された数学的体系に近く、言語の物理学上で自己の追体験を興じるものである。
単純な記憶にしても理解するための感性が重要になる。無論、理解式への変換という経験への収納的記憶ではなく、
単純な紙面上の語の形状という体験に収納する絶対的記憶も存在するが
記憶力という概念があるならば、その能力が高い人間はこちらの方法が瞬間的であるため単に記憶するだけなら効率的かもしれない。
だがこうした記憶に理解は伴わず、知識の応用が難しいだろう。

901 名前: no name :2010/11/01(月) 02:19:47 ID:1vsAwaie

理解式とは追体験であり収納的記憶と同義であり、記憶効率と知識の応用に優れた記憶方法でもある。
この方法論は芸術・学問共通のものであり、知識・体験の本質への理解が得られたとき知識や体験が自分の手足のように動かせる。
ただし波動への感性がなくては知識の本質への理解へ至ることはない。
知識の裏に隠された波動を読み取り追体験したとき真っ暗な闇に閉ざされた空間に金属(哲)のような知識の連なりが浮かび上がる。
あたかも論理構造のような印象を覚える。これが論理座標空間という知識の本質構造である。
これが全ての発想の源泉であり、投影した自己(スーパーエゴ)が
自由に動き回れるようになればまさに神から授かるかのごとく知恵が溢れ出すだろう。
やや応用して波動記憶法・波動発想法・波動読書法・波動行動法、精神・心理的能力開発にもなる。
これが知識の哲構造であり、アリストテレス哲学の真髄とはまさに神の知恵である。
そして前項で潜在構造を発表したが、これが完成すれば人類は物理的な鎖から解き放たれ呪術により世界への干渉が可能となる。
ラグナロクによる終末と人間世界の始まり、
人知の哲構造を超えた真なる神の知恵を得ることができれば人類は神話の世界へと飛びたてるだろう。

902 名前: no name :2010/11/01(月) 17:31:26 ID:qemT+U8t

「コメントしたら自動的に更新されると思いコメントすることをためらう」とか書こうとしたんだけどスレ違いだったようだ

903 名前: no name :2010/11/01(月) 17:57:32 ID:QfGcXV2x

潜在構造を知るためにはまず神の力を信仰しなくてはならない。
この世界に神がいないなどと決め付けてしまってはそこで議論が終わってしまう。
人間が人間を信仰する善のごとく、幸福は神の力によってのみ得られることを信仰する。
善・幸福・神の哲構造もしくは、美を超えた信仰の哲構造を得なくてはならない。
思想の哲構造が見えたならば、超能力的な力学、思想力学が始動する。
信仰という無限の生命力は物理法則によらない現象を起こし、そして物質化するという思想を受け入れなくてはならない。

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