ニコニコ動画初心者にありがちなこと


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■ニコニコ動画初心者にありがちなこと

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1 名前: no name :2007/11/17(土) 00:41:53 ID:zKahl6tg

「自重」を「じじゅう」と読む

753 名前: 削除済 :削除済

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754 名前: no name :2010/09/11(土) 16:42:18 ID:tEVHeyEp

人間の記憶は波動形式である。
つまり物質は物質としてではなく物質の構造としての波動的解釈において記憶となる。
このように人間の思考機能においてもほぼ波動形式の潜在構造において説明が可能である。
潜在構造に数学的定義がなされれば思考機能の管理ができるようになる。

755 名前: no name :2010/09/11(土) 17:03:03 ID:tEVHeyEp

数学的定義とは単位と量による記述であり厳密な定義である。
必要な材料とその分量を表示する論理である。

756 名前: no name :2010/09/11(土) 20:42:54 ID:tEVHeyEp

波動解釈として現象を理解し、形相によって目的(オブジェクト)を得ることが波動形式であるのに対し、
神のイデアとしての我々の美学をエチカにより解釈を行うのが潜在構造である。
つまり全ての波動は神に帰属し、波動は理性を持つ。
なにかしら現象に関するイメージをもったならばそれはアポカリュプシスであり真理である。
第一実態の波動は常に理性的であり、人間の理性はそれに準ずるものである。
神の定義を行わなくては数学的証明には至らないだろうが神の構造である人が神を知ることは不可能である。
潜在構造は神秘の領域であり数学的証明の不可能性とする。
それと共に社会的現象は各個人の主観的構造の集合であるため主観的であるべきとなる。
理想的な思考モデルが提示されても連鎖的な不可知が大きな形相であるため波動から予知することはできないだろう。
個人は地球に及ぶ波動を持ち、地球は宇宙に及ぶ波動を持ちまさに不可知である。
次項から人間はどうあるべきかという命題において理想的な主観としての客観を論じる。

757 名前: no name :2010/09/11(土) 21:24:27 ID:tEVHeyEp

人間は現象に対し波動解釈を行う。
オブジェクトの波動が現象に感じられたときそれを善の波動とし、より根源的であれば美の波動を得る。
波動における主観的イメージは抽象的でありオブジェクトのイメージを
多元的(真実を一元的とした)に結合しそれを全て含むものが解である。
これは記号が意味を持つように起因元の不完全イメージであり、これを完成させるイメージが現実態である。
質料の主観的イメージは波動解釈において行われそれを潜在性としこれが思考機能の理解である。

758 名前: no name :2010/09/12(日) 17:16:47 ID:ectFlPH0

波動形式はほぼ人間の思考そのものである。
オブジェクトの波動が形相に含まれていれば質料において波動を得る条件である。
しかし、一つの形相は作用変数から無限大の構造を持つという認識の発散が起こる。
認識の発散を起こさないために作用変数の閾値を現在の環境の波動解釈とすることが条件である。

例えば機能や成分が不明な物質があったとして、我々はそれを解釈するためまず形状や色などの情報の波動解釈を行う。
それにより虚構の多元的オブジェクトを形成し、
一元への収束を行ったとき真実の一元的オブジェ(全ての系で説明される虚像。本質)となる。
・ここでのオブジェクトは虚像の形相、オブジェは虚像そのものである。
・これは潜在構造の論であるが、波動形式の一解釈として統一する。
・オブジェクトに対応してオブジェと名づけたがイデアから神学的解釈を削ぎ落としたものとほぼ同様の意味である。

つまり目的であるオブジェクトは形状や色など曖昧な情報しかない物質から一つのオブジェとしての一元的解釈を行うことと一致する。
この文章において三段論法を使えば目的は多元的物質であることがわかる。
この概念上の非物質は波動からのみ得られることは今更説明不要だがそれを強調するため多元的波動非物質とし
対応するオブジェを一元的物質(オブジェクトの収束は波動非物質の非波動物質化を意味する)とする。
我々がある種のパトスに応じて波動非物質を見出したならば、波動形式に従うことで物質に収束することができると言える。

759 名前: no name :2010/09/13(月) 01:21:18 ID:cJhy/LOn

イデアが主観のものであるとすれば神が創造したという世界観は崩壊し唯一自然のみが正しいということになる。
神学的議論において神が存在することはこの世界が存在する必要条件であることは確定的である。
よって人間の意志が物質から形成されようと潜在構造において神は存在する可能性はある。
潜在構造的には人間の持ちうる非物質は神の導きであると解釈するが波動形式の非物質の扱いはあくまで主観の枠内の話である。
そもそも不完全な人類の議論において神の肯定否定に話を持ち込むことはおかしなことである。
よって本論では神の存在において肯定も否定もしない。そして、波動形式と潜在構造の関係性においては判断停止する。
神の存在や潜在構造については世界の解釈を理神論的立場で論じ、波動形式の場合は唯物論的立場で論じる。

760 名前: 削除済 :削除済

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761 名前: no name :2010/09/13(月) 01:43:24 ID:cJhy/LOn

私の語る神学は西洋哲学・仏教哲学・インド哲学から学んだものでしかないが、この機に神学への学び試みようと思う。

762 名前: no name :2010/09/13(月) 15:02:23 ID:cJhy/LOn

ベルクソンは連続的な時間に広がる空間のうちに人間の質的広がりがあるとしてエラン・ヴィタール(生の躍動)を唱えた。
実存主義の人間の死生への拘りはまさに主観のうちに存在する現象を客観的に実証するものだったといえる。
しかしこの非物質の存在感と生命力をなんと著せばよいだろうか。
波動形式において形相の広がりを無限大へ認識の発散(波動現象)を自由とすることで自我を現してはいるが
この無限大において非物質における質的0の空間を呼び起こすものなのかはわからない。
主観的現象の存在が真ならば、これは非ユークリッド幾何学的な議論なのかもしれない。

763 名前: no name :2010/09/13(月) 15:11:05 ID:bGgevFEw

もしくは因果律すら崩壊させる超越論が存在するのだろうか。
リーマン球面などの無限の扱いは自然の幾何学的解釈を超えるものである。

764 名前: no name :2010/09/13(月) 22:32:45 ID:AKM8spK7

水を根源とした世界において無限大の計算をしてみると
z=A(x+y)にxに代入する質料[dl]とy=∞とすると無限大との加算によりz=∞、xは任意の定数となる。
これは質料はどのようなものであろうと作用が無限大である限り形相は無限大でありこれは作用因である人間の価値を表している。
そして時間は有限であり、アンチノミーの値域により人間の価値は有限確定となる。
つまり、人間は物質への作用を決定できる限り物質の形相の潜在性のみを入れる箱のようなものである。
我々の価値が潜在性の量だけ持ちうるとすればアンチノミーの少なさだけ価値が存在すると言える。
しかし、人間の自由とは例え時間が有限であろうと突如神が現れ智慧を授けると言う可能性もあり
その可能性(潜在性)において人間は自由と言える。
そもそも現象学的に認識の捕らえる客観は物自体ではないとすると自我は無限大の自由へと旅立つのである。

765 名前: no name :2010/09/13(月) 23:12:59 ID:AKM8spK7

人間の潜在性は無限大の物質という形相を持つ。
それは波動形式的に全ての物質に言えることであり、神の介在により全ての物質は神の波動を持つ。
我々が物質を一つ粗末に扱うことは神への冒涜となりそうだが、存在は破断分割されようと無になることはない。
そもそも水を根源とする世界のように存在が一元の世界だとすると、全ての自然は各々名前と言う単位を持つだけの
本質的に同一の存在であるため例え万人の闘争状態となり全て破壊され尽くしても神の目には何事も無い様に映るはずである。
これが真の自由であり、これに異議を唱えるならば同時に神や認識や自我の否定、もしくはこれらの一つでも否定すると
物自体の世界となり全ての価値は有限となる。多元波動の世界において物質は存在しないため結局どちらかの論が真実となる。

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767 名前: no name :2010/09/14(火) 00:25:12 ID:lhtqyNVh

言語空間は多元的オブジェクトにより作られる波動非物質空間であり、数的空間は一元的オブジェにより作られる非波動物質空間である。
つまり言語によるオブジェクトを数式によるオブジェに書き換えたとき物質化する。
例えば、言語を巧みに扱う詐欺師に出会ったとして言語を用いてどちらが論理的であるかの勝負となったとき、
論理的か否かの客観的評価の最高価値はまずだんまりである。なぜなら語らなければ虚構はない限り真実なためである。
語らずを語るという行為を禁止されたならば次に仕掛けるのは意味のない単語を漏らすことである。
これについてはいくらでも方法は考えられるため禁止する法がなく、意味不明なことを口走ったほうが勝者である。
これらからわかる通り言葉には目的がなくては意味を成さない。
論理的であるかどうかについては必ず目的があることが必要条件である。
言語には目的があり、更に潜在性がありかつ非波動物質空間に収束できるとき価値があるといえる。
我々が納得するべき言語における論理性とは、言語の目的の内の潜在性と物質への収束率の積における
指数が高いほうに勝者の称号を与えるべきである。

768 名前: no name :2010/09/14(火) 00:42:49 ID:lhtqyNVh

目的における潜在性とは物質化可能性と物質価値である。
価値とは主観的評価であるが、取り巻く環境における多くの人が支持する主観的評価であり客観的評価に近いものである。

769 名前: no name :2010/09/18(土) 01:36:14 ID:RAvwe7i+

波動形式は質料と作用と変化質料の式であり物質は存在しない。
質料は物質ではなく物質の性質(パラメータ)である。
波動形式はX=質料、Y=(作用側の)質料、Z=変化質料のX+Y=Zであり、これを水を根源とした仮想世界で
一元世界における単位A=1[dl]と量の積からA(X+Y)=Zとなり自明であることが示される。
波動形式は基本的に水を根源とした単位と量の関係から法則の論理実証とする。
波動形式に示される式はXが決定されるとき質料の式と呼び、YとZが決定されるときを機能の式となり可視化される。
可視化される世界は機能のみが存在する世界であり質料の式が波動非物質の根源的世界であり、
機能の式が非波動物質世界であり、物質という箱に性質が収束した世界である。
ポストモダン思想において現代では支持する人間も少ないが
唯物論や「物自体」は質量を持たない概念には通用しないため矛盾する思想である。
ここでの物質の定義はXA=1/2n(z1+zN)であり機能の総和は仮定世界の単位Aと交換されることがわかる。

770 名前: 削除済 :削除済

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771 名前: no name :2010/09/18(土) 02:44:33 ID:RAvwe7i+

肉体という質料因と精神という作用因によって人間のひとつの形相が求まる。
肉体はそれ自体では動かない、精神はそれ自体では存在できない。
真空は存在せず、ディラックの海における対称性が作り出した真空で
調和振動子が絶えず静止エネルギーを生み出し宇宙が揺らいでいるなら、
質料と作用はかならず両者なければ存在できないことの説明になっている。

772 名前: no name :2010/09/19(日) 20:06:21 ID:4MOn2hCo

波動形式により質料式を機能式への書き換えることができる。
まず、波動形式には生活世界パラメータ(L1)と形式作用(y1)と目的(z1)の等価性がある。
その証明を水を根源とした世界において単位と量の関係性から質料と作用の関係性が証明されているので、
L1は質料であるためL1+y1=z1が成り立つ。L1は質料であるが変化質料でもあり、そのため形式作用y1が存在する。

L1は実質的に質料であるが、変化質料表示にするため下位質料と作用の和を持つ。
これらを展開すれば余分の作用は形式作用となり下位質料と形式作用の和における式で表される。
そして、目的と質料のパラメータ表示として質料を物質式で示し、全ての波動(機能)を表示する。
全ての波動を示すことはごく一部の閉区間を取り出す演算にしてもコンピュータでも難しいことだが、
ソートにより波動を効率的に抽出し、有効な情報が十分に得られたとき物質式の演算を完了する。
ソートの方法は波動が直感的に強く感じられる順に式で表示する。
検索の効率性の手段なのでたいした話ではないがアンチノミーの議論なのでこれは潜在構造の議論に持ち越す。
物質式とは質料の全ての機能表示であり、言語空間における客観定義の機能である。

さて、機能表示となった物質式は収束式により一つの質料と作用の関係性を示さなくてはならない。
我々の目的は質料式の機能表示により収束式を導き質料と作用の式により必要とする現象を得ることである。
目的パラメータと等価の式を生活世界パラメータから得ることで我々は目的の物質式と等価となる。
これにより波動非物質オブジェクト→非波動物質オブジェへの変換となる。
無論、先言である我々の物質式表示と同様の意味を持つ。

773 名前: no name :2010/09/19(日) 20:25:03 ID:4MOn2hCo

波動形式 L1+y1=z1、波動式(波動現象の数式化) x1+y=z、収束式(機能式) x1+y1=z1
物質式(定義式) XA=1/2n(z1+zN)、水理式(四原因論の証明) A(x+y)=z
残す問題はソート方法と言語空間の客観定義である。

774 名前: no name :2010/09/19(日) 21:57:40 ID:4MOn2hCo

生活世界のパラメータ(オブジェ)と変化質料のパラメータ(オブジェクト)は一致する。
波動式を物質式で表示することが「定義」の定義である。
それをオブジェクトとの等価であるオブジェを収束式で表示することが「方法」の定義である。

言語空間の客観定義とは我々は質料の波動を保持しているが、波動は発生させる条件がある。
それはノエマ(認識対象)とノエシス(認識作用)の関係性で表される。
我々は生活世界におけるノエマに絶えず持ち、ノエシスにより波動を得ることができる。
つまり、生活世界には物自体ではなくノエマがあり、ノエシスの認識作用により波動となる。
言語空間は生活空間に一致するならば、物質式はノエマとノエシスで全て表示され、ノエマを持たない思想はアンチノミーである。
数学にしても、記憶の想起にしても、潜在構造においてもノエマの受動的態度はイギリス経験論的必要条件であり波動の構成要素である。

775 名前: no name :2010/09/21(火) 23:52:03 ID:LUUXlakl

XA=1/2n(z1+zN)に示される物質式は仮想世界の単位への唯一の交換作用素である。
波動世界のパラメタの総和は水理式の仮想単位A=1[dl]であり、一般に無次元量である。
数学では単位のない計算を行うが、これがモデルを持たない量の計算であり全てのモデルの量の計算と等価である。
数学が波動形式にも対応しているのは、数学がもともと波動非物質すらも扱えるためである。
むしろあらゆる学問は数学により波動非物質である「法則」を取り扱っている。

だが、心身二元論や物質と法則の関係性を明確化してはいない。
そして、知を愛する学問にとって致命的なのが主観問題を取り扱えないことである。
これにより学生は学ぶ意義を見出せず極めて貴重な知の探求への動機を失われているといえる。
これは知は人類の本質であり他の生物と差別化する概念であるが、
自己の正体を知らず精神が分化していない、いわば自覚なき人類の姿である。

このままでは人類は来訪者から動物のように扱われても反証不可能な他者地獄に陥ってしまう。
波動形式の基礎である四原因説を生み出したアリストテレスの精神を知り人類は自己の定義をしなくてはならない。
人類は高度な科学で装っても、紀元前からまったく進歩しない動物のようなものである。
私が人類と認められるのはアリストテレスと彼の思想に貢献した古代ギリシャの偉大なアテナイの哲学者達のみである。

776 名前: no name :2010/09/22(水) 17:37:25 ID:PTZ3c35R

波動形式によれば右辺のオブジェの展開を「分析」といい、左辺のオブジェクトの展開を「波動解析」とよぶ。
そして波動式から収束式を得ることが「発想」の定義である。
波動式から物質式を得ることは「定義」、「形相表示」または「波動を得る」の定義である。
つまり、波動論理の段階は一般的に「分析+波動解析→定義(波動受容)→発想」に分けられる。
しかし、今この文章は波動論理の現象構造化アルゴリズムによるものではない。
単に漏れ出す波動を追っているだけの短絡的な論理である。
波動論理は必ずしも答えを得られるものではなく、
手順を正確に踏まなくてはならないという制約について短絡的な論理よりやや発想力が劣る。
この論述方法を簡易波動形式とする。
その定義は目的という名の条件を波動系のものと定め、現象の定義とソートを行う。
簡易波動形式の論理の手続きは「波動系条件→波動受容」である。
これは現実世界の物質式から得られるノエマに関してノエシスを行うだけのアルゴリズムといえる。
この議論の形態を簡易論述アルゴリズムとする。

777 名前: no name :2010/09/22(水) 23:01:10 ID:PTZ3c35R

形相は∫[-b,a]∫[0,c]f(x,y)dxdy=c/2(a-b)(a+b+1)もしくは、Σ[n=0→N]f(x,y)=z(2z^2+3z+1)/6だが
水理式によりf(x,y)=XA=1/2n(z1+zN)が成り立つ。認識限界の意味を持つ後者のほうが近い。

778 名前: no name :2010/09/23(木) 02:24:09 ID:aKdGvm2R

F(ノエマ、ノエシス)F2(ノエマ、ノエシス)F3(ノエマ、ノエシス)・・・Fn
この文章のほか全ての文章はこれらの関数列Σ[n=0→∞]Fnにおける変項を持つ。
この関数列はいわばラングもしくはシニフィアンであるが、
パロールあるいはシニフィエへの交換規則は昨今の論理学でも解明できていない。
言語空間を解明できればウィトゲンシュタインの見識が正しければ人間の行動を全て関数で表現できそうである。
思考パターンは波動論理で説明できているので、残すはその表現法の交換規則の明確化のみであるが、
どうやら純粋な論理学は人類には難しいらしく何千年も進歩がないようだ。

779 名前: no name :2010/09/23(木) 02:53:03 ID:aKdGvm2R

パトスはロゴスと均衡を保っているのではなくパトスはロゴスへの渇望的衝動と考えられないだろうか。
現代においては明らかにロゴスが優位な人間のほうが力を持つ。
どのような論であろうと最終的な収束なくしては価値は生じない。
つまり、価値への最終的な決定権はロゴスに存在する。
パトスは旧来から誰しも得られるものであり、収束せず価値のない単なるカオスである。
日本では仏教的思想の「中道」があるが、ロゴスとパトスの議論にそれを持ち込むことは強引といわざる得ない。
人間は全ての思考を「神という名のロゴス」によって統率され管理されるべきであり、
人間の思想の自由はロゴスへの渇望だとすれば、それこそ全てが「理に通じる」ということになる。

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781 名前: no name :2010/09/23(木) 19:14:44 ID:WU/oDbB2

肯定も否定もできないことは単なるカオスであり、
無造作に散らばっている一番悪い状態である。
我々人類は少しずつ善の感情による体系を築いてきたが、
真理の体系と同化する日は少なくとも数万年は先であろう
なぜなら数千年で得られた真理はごく一部だからである。
その間非線形なるカオスの揺らぎに身を任せ善悪混交の中道に従わざる得ないのだろうか。
自己の善への活動の否定は他者地獄という最も忌むべき状態である。
この時の他者とはカオスである。
日本は仏教思想の影響が強いがこの姿勢は必ず見直すべきである。

782 名前: no name :2010/09/23(木) 21:26:37 ID:WU/oDbB2

我々が求めるべきなのは真善美の三要素である。
一つが求まれば、残り二つも求まるという関係であるが、
客観的真は主観的善に依存し、主観的善は感覚的美に依存し、感覚的美は客観的真に依存するというような関係である。
この関係性は仮のものであり、三位一体という中世の西洋思想もあるように全てを均等に求めることで全てが求まる。
理解の割合は1/3の非連続的均衡に思えるが、ε-δにあるように非連続性の極限は連続性である。
ヒュームの論である「因果律」という思想には連続性を示すものである。

783 名前: no name :2010/09/23(木) 22:36:33 ID:WU/oDbB2

この因果律で示される第一実態は三位に分かれた人間の思想という構造を持つ神である。
客観的真実、主観的善、感覚的美(仮)これらはモナドへの構造を持つ虚像である。
つまり、グランドセオリー(GT)は真善美を元に含むものである。
真の実態は客観でも主観でも感覚でもなく神なのである。

784 名前: no name :2010/09/24(金) 06:06:48 ID:y5evKobu

真と美の外形はある程度理解できるが、善はどのようなものなのか私は分からない。
独自に持つパラメータがあるはずだが直感的に見出せない。
波動は真と美を語りうるが、善とは何であろうか。

785 名前: no name :2010/09/24(金) 06:44:34 ID:dp+0LNsp

経験論を採用するならば真を求める科学が普及した社会の弊害として
人類の美もしくは善への潜在性を損なわれるものなのかもしれない。
国際協調社会を求めるのならば過剰な科学信仰は捨て、3つの象徴から得られるトリニティを信仰するべきである。
真の象徴である科学、美の象徴である文芸絵画音楽、そして善の象徴である社会に神としての構造が宿る偶像とするべきだろう。

786 名前: no name :2010/09/24(金) 07:33:56 ID:y5evKobu

善の象徴を社会とした根拠はない。
判然としないオブジェの波動を感じ取っただけで言語で説明はできない。
これについては現象学的に確信の修正の余地があるかもしれない。

しかし、波動は面積素に示される独自の単位を統合することで
純粋なパラメータとなるため、全くの虚構であるという結論にはならないだろう。
直感的な波動は根拠を超えるものであり、判然としない真偽の中で文明が栄えたのも波動によるものである。
そして全てのエチカにおける面積素である神の波動は人間を絶えず導くRagnarøkである。

787 名前: no name :2010/09/24(金) 08:58:43 ID:y5evKobu

スピノザの理神論は現代の数理神学であり、波動理論はそういった性格を持っているといえる。
数理神学は欺瞞の対象とされることが多いが、波動において四原因論から派生するために数理は必要なものだった。

本論の最終目的は真善美のトリニティを神の象徴とした波動理論における数理神学的エチカ(幾何学)を求めることとする。

788 名前: no name :2010/09/24(金) 09:34:49 ID:y5evKobu

神学において幾何学は神秘の象徴とされることが多い。
「魔方陣」は1/nΣ[i=1→n^2]=n(n^2+1)/2という式で直ちに解が導かれるらしい。
そして、積により変化しない数値の「1」を神の象徴としている西洋思想もある。
大陸を超え思想の共通するところに、もともと幾何学には神の波動が宿っているものと考えられる。

789 名前: no name :2010/09/24(金) 19:16:01 ID:y5evKobu

物質式は∫[0,a]∫[0,b]f(x,y)dxdy=ab(a-b)/2であらわされる板状の幾何を持つ。
神が無限大の存在であり、全ての波動の総体であるとすればこの板のような形状を持つ。

しかし、これを神とすることは善悪混交のカオスこそ最高価値を持つものと認めているようなものである。
このような数理神学の見解もあるが、これは神について思考停止している。我々の目的因たる象徴を神とおくべきである。
つまり、我々の目的因の総体を神の象徴とするべきである。

真である存在性の波動、美である純粋性の波動、善である感情性の波動を求めることが神の証明となるだろう。
そのために真善美の物質式を求め、求めたグラフの形状をフーリエ変換する。
これにより1つの象徴である神の物質式が求まるはずである。
そして逆変換によりいつでも3つの象徴を取り出し細分化することで波動非物質を取り出すことができる。
これにより「存在性」「純粋性」「感情性」を兼ね備えた「神の全能性」を象徴するものとする。

790 名前: no name :2010/09/24(金) 19:37:17 ID:jcx9ZWEw

XPERIAでも視聴できるようにならないかな

791 名前: no name :2010/09/24(金) 20:04:06 ID:y5evKobu

神の数式化の方法を考えたがそもそも波動を数値化する手段がない。
波動理論はあくまで四原因論は変項を用いた言語の理論である。
論理学的アルゴリズムではあるが数式化はしない。
だが、理論を数式化する手段が分かればたちどころに神の存在証明は可能だろう。

792 名前: no name :2010/09/24(金) 20:39:34 ID:/IE3ALWK

なんかすごいことになってる・・・
何が起こったというのだ・・・

793 名前: no name :2010/09/25(土) 01:59:11 ID:yXI/mPYi

客観的現象は全てベクトルで表せるとすれば、波動の数式化に関して
物質ベクトル+作用ベクトル=変化ベクトルといえる。
ベクトルの内部パラメータとして質量や速度や角度などがあるが、作用ベクトルのパラメータも同様である。
ただし、作用ベクトルは主観性ベクトルであり変化ベクトルは主観性の目的ベクトルである。
主観性と客観性ベクトルの違いとして主観性は認識の発散により収束しない値である。
よって主観性ベクトルを得るためには、客観性ベクトルにおける物質式から収束式を得て変換しなくてはならない。
とはいえ、正確に計算すればたちまち認識の発散において
主観性ベクトル全てを飲み込む神の波動「∞」となるためさらなる定義が必要である。
要するに適当なところで「存在の値」を設定してしまえばいい。
例えば、神に頼めば何でも叶えてもらえるなどの妄想ごとを抱えてしまっては現実的手段が何一つ求まらないため
工数を単位変化数=時間(t)とした座標において手段の物質式を限定する方法である。
神に依拠したり、1000年後の科学に期待するなどではなく、基本的にあるものだけで何とかするという考え方である。

794 名前: no name :2010/09/25(土) 21:57:09 ID:J1NvFKuH

目的は任意の値の主観性ベクトルだが、
これは不明瞭なオブジェクトであるため物質式から収束式を得なくてはならない。いわゆる条件の明確化である。
さて、主観性を客観性に変換するためには認識の発散を制限しなくてはならないが、ベクトルの方向成分の作用素をp1、大きさ成分の作用素をp2とし、時間をtとすると、
V=p1p2/tによりベクトルの時間による制限が可能となり、神頼みなどの手段を制限することができる。
全ての現象は存在の値を持ち、1000年後の科学などは少なくともT=1000(年)のベクトルによる変化量を
持たなくてはならないためこれも制限できる。
つまり、作用はn=Tとすると{Vn}={V1,V2,V3・・・VT}から起こる現象の波動しか持ち得ない。
x1という物質の波動はx1+Vn=znである。

795 名前: no name :2010/09/25(土) 22:10:24 ID:GzKPYnil

スレが天才に占拠されとるw

796 名前: no name :2010/09/26(日) 20:46:44 ID:rG4PqCv7

x1+Vn=znが成立するのは一次元ベクトル空間の場合である。
我々の世界は多次元空間であり空間の概念を拡張したたった四本のベクトルに全てのパラメータが内包される四次元空間などではない。
運動法則などを含めて10次元空間というのが現在の主流の説のようだ。
その複雑系のなかで主観性ベクトルをどのように解釈するかということを
新たな次元を加えてでも定義しなくては波動を説明したことにはならないだろう。

心理学では物理学の解釈から新たなベクトルを加えない解釈をしようという姿勢らしいが法則化には至っていない。
哲学における永久命題に近い問いである。

797 名前: no name :2010/09/27(月) 05:00:45 ID:nA7MWUD4

主観現象の客観的定義として変数の任意の値とすることができる。
つまり、x1+y=zでありx1の波動はyにより決定される場合、主観的目的zを任意の値を置換したときyを求めることができる。
主観の数学的定義が難しいが変数は客観であるが、主観的現象を含んでいる。
つまり、主観的現象がどのようなものであろうと全ての実在が客観であり、主観が実在するものならば、
この文を材料に主観が客観であることが三段論法で求まるため不明な客観性ベクトルとして扱うほかはない。
したがって、x1+y=zは客観的現象を示し主観的現象を内包し機能主義的に主観的現象は客観的現象の収束式を一つ持つ。
zが任意の値でznmとしたときx1+ym=z1mとなり収束式となる。

798 名前: no name :2010/09/27(月) 10:05:21 ID:nA7MWUD4

以前、測位衛星「みちびき」の使い道のアイディアが募集されたがこれを命題として波動解析を行う。
まず、x+y=zNMを波動形式としてzNMを「私がみちびきの良い使い方を得る」とすると
質料xは「私」であり、作用yは「みちびきの良い使い方を得る」である。
ここまで不明な情報Aを「みちびきの良い使い方」とすると目的は「私がAを得る」となる。
つまり、Aの物質式における収束式が得られたとき解となる。

「みちびきの良い使い方」はx1「みちびきの機能」とy1「良い」の状態に置き換えられる。
x1はみちびきの物質式であり、y1の状態となったとき収束式とする。
みちびきの波動は、まず同格として「測位衛星」であり衛星についてはあまり知らないが
「打ち上げ」「宇宙」「ソーラーパネル」「アンテナ」「電磁波」「高度」「大気圏」
「基地」「太陽」「軌道」「宇宙線」「測位」「計算」「無重力」
などから質料の機能を考えたとき、やはり「高度」「大気圏」の大きな運動エネルギーxNをもつので
発電yMのエネルギーとすることが「良い」という状態である。
よって収束式は「運動エネルギーにより発電する」であり現象構造化アルゴリズムを終了する。

波動を得る状態とは周囲のノエマを完全にノエシスしている状態である。
衛星に関しての知識がないためこの程度の発想しかなかったが、
知識によりノエマの完全認識状態がなされたとき全ての収束式を得ることができる。
波動は単なる「物質の機能列挙」であり、このアルゴリズムでは時系列を追って「質料列挙→機能列挙」の方法とした。
このような「機能主義的認識」こそ物質(現象)の本質であり、情報を応用する定型手段であり物質や言語の定義の定型手段である。
物質は機能により幅を持つ単位として再定義するべきである。

799 名前: 削除済 :削除済

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800 名前: no name :2010/09/28(火) 00:09:36 ID:MJb8qucM

全ての思考は質料列挙(認識)と機能列挙(認識作用)である。
アンチノミーとは知識量kによる認識未分化であるとし
系に保存される質料の量x、(作用側の)質料の量xによる積を機能量(収束式の個数)とすると
認識量を示す関数は、
f(x,k)=x^2-xk
でありさらに厳密には、これは時間作用における認識分化となるため、
F1=δf(x,k)/δx=2x-k
F2=δf(x,k)/δk=-x
これにより通時的認識量は、
Δz=(2x-k)Δx+(-x)Δy
となる。

重要なのは機能主義的に発想や認識などは天から与えられるものではなく客観的現象ということである。
少なくとも「教育」における「教えれば覚える」という精神はこの認識に基づく機能主義的見解といえる。

以下は機能主義を前提とした命題と結論である。
Q1.この場合の自由意思とは何か
A1.神との遭遇確率とアンチノミーの払拭による完全認識
Q2.アンチノミーは存在しないか
A2.将来的には存在しない
Q3.人間の価値とは何か
A3.神と完全認識の確率を除けば、過去現在将来を含む機能の総和

801 名前: 削除済 :削除済

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802 名前: no name :2010/09/28(火) 21:41:27 ID:MJb8qucM

主観の価値を機能主義的には計れないが、我々は「他人」という存在に関して客観的に評価し価値をつけることは日常的に行われている。
人間の価値や思想の価値などは機能主義的に見なければ到底値札などつけることができない。
合理的判断をするためにも機能主義的な価値観を人間の活動の側面として受け入れるべきである。

803 名前: 削除済 :削除済

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804 名前: no name :2010/09/29(水) 02:44:19 ID:Bbu9z02n

波動現象を取り扱えるのは人間だけではなく動物でも取り扱っている。
むしろ、動物のほうが現象を波動的であると定義し、現象を物質的であると定義する人間の方が不自然な思い込みである。

ここでの量子力学の波動のことではなく、全く違うベクトルの認識問題に関する波動であり現象の定義そのものに関することである。
ちなみに、現象を物質的としている心理学とも全く話は違う。
この考えは哲学特有の問題である。

805 名前: no name :2010/09/29(水) 03:34:44 ID:VTQhPdVs

波動形式にも物質的認識である物質式が存在するが、これは独立に系に保存された場合の理想的な考えである。
現実には物質は存在しないもしくは、あえて物質を定義するならば外部が存在しない世界全体が物質である。

無論第一始動因は神と定義されその神を含めて物質の定義となる。
ここから推論される神の機能は外部から独立し内部の世界を作り出す存在である。
特殊相対性理論により時間のベクトルも相対的であると証明されたため、時空を超えた存在と思われる。
時空間より高次の空間は神が独立して存在する時間が流れない無と実在の空間と考えられる。
ちなみに、虚構は波動現象(波動非物質)で説明できるため虚構の空間は三次元空間で存在の条件を満たす。

806 名前: no name :2010/09/29(水) 07:50:03 ID:Bbu9z02n

現代社会は科学が発達したいわゆる「真」を極めた状態といえる。
しかし、大衆はこの思想に固執し思想の最良を見失っている。
信仰はいつの時代にも存在するが、信仰しているかしていないか自覚がない現代思想は一番悪い思想である。
マスコミが情報を占拠、また大衆思想を形成し誰のものでもない客観像を提示することで集団の波動を自由に操る。
このようなあり方が社会の最終系などではない。我々は「真」の体系に囚われすぎている。

807 名前: no name :2010/09/29(水) 08:02:49 ID:VTQhPdVs

我々の幸福とは「真善美」でありこれを象徴とした神を信仰するべきである。
波動理論による数理神学により実用的・理論的価値を持つ絶対の思想を形成するべきである。
それを信仰するものには確実な幸福をもたらす象徴は神秘的幾何学であり、
「真善美」の波動をいつでも抽出し、またこれを数学的に合成したものを万能な神とするものである。

現代は「真」の伴わない思想を軽視しその結果、社会の人間を幸福へと導けない「真」のみを信仰したものへの不幸となっている。
「真」なるもののみの思想は不幸であり、古代ギリシャにも劣る稚拙な社会である。
波動理論は「虚」や「善」「美」すらも説明し、それらから得られる幸福に関する重要性を説明するものである。
愚かな社会の不完全を補うため数理神学を広めるべきである。

808 名前: 削除済 :削除済

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809 名前: no name :2010/09/30(木) 04:55:40 ID:SoOmBTPf

認識量(収束式の個数)の関数
f(x,k)=x^2-xk
x^2の項は「全ての自然」を示し、-xkは「未知の自然」を示している。
xは対自的全質料であり、即自的非認識-kは認識修正作用変数wを用いて
k=x-w
で示されこれは機能表示としたとき認識状態とする定義である。
ここでの質料はあくまで認識の材料であり波動非物質であることは
w=0,k=xであるとき
f(x,k)=x^2-x^2=0
となることに示される。
物質的現象解釈であるアリストテレス四原因説の質料因とは違うことに注意して欲しい。
これは「真」であり、まずは「美」を示す波動非物質の言語定義をしなくてならない。

810 名前: no name :2010/09/30(木) 13:21:07 ID:SoOmBTPf

分析哲学は近代以降に始まったものであるが、分析的な態度というものは理論的になりやすい。
哲学はもともと分析的なものであるのに加えてさらに分析的となると経験的な感性を生かすことが難しくなる。
学問は決して理論的なもののみから運動原理となるものではなく、
必ず有機的結合の論理を持たなくては進歩から距離を置くものとなるだろう。
哲学が進歩をもたない学問とならないように有機的結合の定義がまず必要であることが
ファインマンの三点推量法的もしくは、経験論的に感じるところである。

有機的要素結合の原理としては重要な理論として経験論がある。
経験知というものは波動非物質であり、理論として確かなものとなっていない情報である。
知は流体的なものと物質的なものに分かれ、物質的なものに関しては確実な定義に基づいているので
物理的に物質とは空洞となっている部分が多いため空間内の情報の密度は少ないと思われる。
この点(情報の少なさ)において理論的無機質的情報の固有の値は進歩性と逆比例していることがわかる。
有機的情報は流体的知に関して波動理論的に空間を占める情報量が大きなものである。
それは以前挙げた数式の
f(x,k)=x^2-xk,k=x-w
から系(非相互的空間)に保存される要素の限界認識量
w=x,k=0,f(x,k)=x^2
においてxが空間の体積に比例するため情報量が圧倒的に少なく
波動式を重積分したときの面積素が粗い状態と量子論的幾何学的に検証できる。
つまり形相をなす成分が少ないため、不確定な可能態の存在確率そのものが低いということである。

811 名前: 削除済 :削除済

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812 名前: no name :2010/10/01(金) 03:09:03 ID:S2uA25ML

要素とは空間を構築する情報であり、この量が空間の体積Vに比例するならば
f(x,k)=(x^2-xk)/V
により現存在空間を占める情報の密度が示される。

813 名前: no name :2010/10/01(金) 04:09:42 ID:S2uA25ML

実在と虚構の定義は見直されるべきである。
虚構は情報として不完全な波動非物質とするとその条件を満たすが実在している概念である。
矛盾ではなく、完全なる無において初めて波動における説明が不可能となる。
人類は虚構の空間を体系化できていないが、実在と虚構と虚無の三種類の空間があると考えるべきである。

814 名前: no name :2010/10/02(土) 15:56:13 ID:GrFKjsNH

数学は数の世界から変数を生み出し、関数とすることでグラフに幾何学のイデアを与えた。
幾何学は方程式の解や関数の解析以上に形状そのものに意味を持たせ、自然への意味づけすることで
物理学における変分学やベクトルポテンシャルなどの依り代となった。
それは化学などに於ける有機化合物の根拠となり生物学へと続く。
まるで関数という数を素材とした容器に液状の魂を注ぎ生命を産み出すかのような工程である。

たしかにこれだけでも自然の全ては説明できそうではあるが果たして哲学の発達する余地はなかったのだろうか。
人間の歴史の中には不思議と文学というものが存在する。
虚構の創作がなぜ大衆に喜ばれるのか、文明の発達は一概に真実だけの形象を追い求めているものではない。
宗教、哲学、文学、歴史、そしてこれらを基に社会や法や経済となり、真実とは独立した虚構文明をなくしては
人間は語れず、形の下の虚構、形の上の真実が必ず存在する筈である。

815 名前: no name :2010/10/03(日) 03:13:36 ID:PQW1WcdA

そもそも真実とはアナクシマンドロスの唱えた普遍なるもの(ト・アペイロン)を準拠とした絶対的なものである。
物理学者達は時間すら相対的と言い放ち実際にローレンツ変換を行い
時間の相対性を一般的な法則としてアインシュタイン方程式に纏め、真実としての地位を自ら引き剥がした。
早くも半世紀前には3次元の法則を記述する曲率のない平べったい座標など時代遅れのものとなった。

思考の基準である座標すら物理学的に否定されユークリッドの美学が作り上げた幾何学が
数理論理学の系譜、カントール対角線論法、ゲーテルの不完全性定理によりヒルベルト・プログラムが通用しなくなったとき
真っ直ぐに線を引くことすら許されない我々はどうして真実を見出すことができるのだろうか。
普遍なるものは存在しないという考えは古代ギリシャのヘラクレイトスの思想から存在した。
いわゆる真実を否定する生々流転の「変化」のみが真実である。
よって虚構こそ存在原理であり運動原理であり、我々は確かなものを何一つ持たず
「真善美」のどれにも偏向しない生き方を実践するべきである。
我々はもともと虚構の中に身をおくものである。

816 名前: no name :2010/10/03(日) 14:18:33 ID:PQW1WcdA

命題の解決への論理は主観の波動を物質式表示により目的の条件とし、
世界の質料表示と精神の作用の和から機能表示とし目的の条件に合致する収束式を解とし方法化することである。
主観=波動式=物質式=目的、収束式=目的→方法化である。
目的の方法化が明確で無いが、この命題解法が波動理論である。

論理とは形式であり、形式とは物質の配列である。
真実が時間作用により形式を経て、実在する虚構を得たとき論理とは物質といえる。
目に見えない形式である波動を知り、虚構の実在を認めたとき自然の知識の活用法が見える。
自然とその活用こそ、真実と虚構による人類の文明の総和である。

817 名前: no name :2010/10/03(日) 14:34:57 ID:PQW1WcdA

波動を収得する方法は物質は波動そのものなので収束式が存在する。
質料と作用の組み合わせから得られる認識量xy、空間の大きさSVを単位とする、xy/SVの確率で確認できる。
つまり、質料の収束式表示とすることで外界の波動を得られる可能性を得る。

818 名前: no name :2010/10/03(日) 15:03:14 ID:PQW1WcdA

理論は固まったため今後の方針は波動理論と世界の関係性を述べる。
潜在構造については論じないが話題とすることはある。
議論が派生しない限りはここからは創造・構造化の議論ではなく、既存の概念への解釈を主とする単発的で自由な議論となる。

819 名前: no name :2010/10/04(月) 06:25:10 ID:VU5q2ull

機能的に見ることは重要である。
機能は唯一認識の発散のみを特異点として包摂せず
現実行動の動機付けとなる。
都合のよい解釈ではあるが、一部を除き機能的に見ることはよい。

言語に定まった真実など無く美のみがそれを包摂しうる。
機能としての真実とは美への欲求の動機付けであり神秘への学である。
この文章は美ではないが機能的である。
機能は時間作用により認識が発散したとき機能以上の意味を持つといえる。
機能に隠された神秘を波動は知るものである。

820 名前: no name :2010/10/04(月) 07:04:29 ID:aXAugiJ0

真実は美への「動」機付けであり、美は刹那的「神」秘への学であるが善とは何か。
善は真実的に包摂することは不可能であり、神秘によってのみ知ることを許される。
真善美により幸福となるため、善を知らなくては幸福ではない。
真への論理学、美への美学、善への倫理学とは全て哲学である。
真実は機能的であり、美は知的かつ表現的である。
善とは魂もしくは生命(エネルゲイア)への慈悲を扱うものである。
アリストテレスは善をも知り得る美すら合わせ持ち、万学の知識者でもあった。
美は善を知り、人の知は理性的であることを知れば、善、そして幸福へと至ることができると信仰するべきである。
現代は科学への思想に身を任せ長らく美すらも軽んじていたが、この考えはすでに馬鹿げた古習である。

821 名前: 削除済 :削除済

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822 名前: no name :2010/10/04(月) 13:48:23 ID:LNo/NOMI

美が波動形式で扱えるのはハイデガーが唱えた機能主義の予ねてからの問題である認識の発散の表現として
無限大の概念を扱っているためであるが波動で美を語ることは全くの無意味である。
むしろその考えは美の概念を穢し、美から生じるはずの感情や善を殺害している。

我々の無限大への関心は薄く、無限大と聞いても思考停止するだけであるため美を馳せる余地すらない。
それどころかその一点を錯覚として取り除き秩序化しようとすれば、たちまち美などどうでもよいものとなってしまう。
波動はあくまで真実を語るものであり、美や善を語るときは一点を否定するどころか
その一点で瓦解する脆さを持った理論と認識したほうがよい。

823 名前: no name :2010/10/04(月) 15:05:08 ID:LNo/NOMI

旧来から日本人は技術者としての才財があったもののその天性は奇しくも地の性であり美について無関心さへと繋がった。
浮世絵や墨絵など自然の色彩豊かな情緒を認識として情報を欠落させ
写実主義的な芸術より抽象的な表現に留めることが多かった。
それもある種の美の個性と評されているが、それは美のうちでも表現寄りの美であり
さらに表現を抽象的な言語に依存しそれに顕れやすいものであった。
それ故、日本人は神秘への関心が薄く比較的非宗教的思想の仏教に関心が寄せられた。

そして、国民的個性の裏返しとして現象そのものを捉えることを不得手とし
発想力の欠如、想像力の欠如、情緒の未分化による幼稚さ、
感情の起伏の少なさによる無個性、複雑系の最たるものである対人への不得手にも繋がる。
いわゆる、精神的な機能の弱さにより技術以外の天性に恵まれない民族であることは文化的視点でいくらでも見出すことができる。
しかし、一般的に頭の良い民族であり、文章への理解力、具体的な事象への対応力、論理の構築力、仕事への関心は
全世界でも際立つものであり、国際的に対立的でない方面で必要とされやすいポジションである。
日本人は楽に溺れないストア派的な民族であるが、理性や賢さも仇となることもある。
時には人間の愚かさ以てアタラクシアへの希求をするべきである。

824 名前: no name :2010/10/04(月) 16:29:31 ID:LNo/NOMI

美と真は対立するものであり、さらに真では計り難い善というものがある。
美の巨匠、真の科学、善の司祭どれも互いに侵すことのできないエネルゲイアを持っている。
このエラン・ヴィタールを全て持つ主が全能の神である。

825 名前: no name :2010/10/05(火) 01:16:50 ID:5wXAee+L

論理は現象を真実に収束するが、それは波動現象を否定し物質へと収束することと同義である。
つまり論理的思考は現実への構造化により虚構に存在する収束式を減らす行為である。
するとxy/SVの可能性で得られる波動の機会を失い、手段のアイディアを減らすことにも繋がる。
論理的思考は空間座標の真実を見極める有効な手段であるが、擬似的な四次元空間という
時間がZ軸との相対性をもつ時間座標の精神を内在させる我々は平生から虚構の世界を渡り歩いていたといえる。
時間の規則性の無い擬似的な時空は一瞬のうちに地球の裏側すら想起したり、宇宙の果てへの思いを馳せることすら可能である。
科学が発達した現代は三次元を正しく認識することにより発達した文明であるが
その場の感情や情緒をくだらないことと掃き捨て時間の規則性により三次元へと構造化してしまったとき
それは精神現象の否定にして認識量の減少、そしてアイディアの損失である。
収束しないレベルであまりに発散しすぎるのは単なる阿呆であるが、
せめて善の感情も生まれないほどの美の完全否定は避けるべきである。

826 名前: no name :2010/10/05(火) 04:42:28 ID:5wXAee+L

精神の全空間Vは宇宙の全空間Sよりはるかに広大なものである。
なぜなら時間を遡ることも、物を別時間軸の空間からもってくることすら自由自在なためである。
ただどうしても適わないのは無限大の認識、無の認識、無知の認識そして、現実への干渉である。
時空間を自在に操れても所詮虚構であり必ず波動を帯びた行動により三次元空間に収束しなくてはならない。
人間が自己自身を最高善とし他人を殺してでも生き延びようとするのは自己の空間が宇宙より広い事実に基づく合理的判断である。

しかしならば自己犠牲は存在しないのかといえばそうでもない。
無限大の美の中で生じる善は美にとってもただ感情に流された中に生じる虚構であるが
虚構の合理性をさらに超えた神の慈悲の精神そのものである。
自己犠牲により虚構の虚構に存在する神と同化することで魂は物質的な死を乗り越え永遠の真実へと回帰する。
これが真善美の究極の形、永遠の真実としての円の幾何学を象徴とする魂のロンドである。

827 名前: no name :2010/10/05(火) 14:27:09 ID:QRavjGXE

波動形式により自動的に議論の結論を導くことができるが、それは認識の範囲内で情報処理する論理的思考のツールである。
では認識外として将来得るべき知識や考え方をどうやって身に着けるかが課題となる。
まず可能態が空間から検出されるためには認識量の問題であり、言語から感覚へのデコンパイルが必要である。
感覚は言語の認識量の何倍も厚みがあり、比喩的に表現できる範囲を知ることで認識の有機的感覚を得ることができる。
いわゆる概念を具体的個物に対応させるという経験論的認識法である。
具体的な原理は保留とするが残る目的は原理を明確化させることのみとなる。
次項から原理の明確化と総合的な評価を行い分析を終了する方針とし、これにより波動形式の備考を一度終了とする。

828 名前: no name :2010/10/06(水) 18:13:53 ID:RH8QATdb

我々の認識する存在名は存在という「基体」と「機能」からなる。
物質はあらゆるものに変化し「機能」を変えていくが存在という「基体」は普遍であるため
無限に分割しようと「機能」が位置情報の相対性において分割されるだけで
「基体」については位置情報に左右されない実在であるため分割不可能である。
この「基体」を第一実態と呼び、位置情報と相対的な自然は全て「機能」の位相である。
第一実態は位置や時間に左右されず永久に変化しないものに対し、実態の機能としての「機能」があるため
存在、時間、無は「基体」の「機能」である。

つまり、我々は第一実態にとっての機能であり実態のない存在である。
この考えから全てのものは機能としてみることで本質を知ることができる。
例えば、「物体」の機能は位置情報を持ち、エネルギーを持ち、法則に従う機能が存在し、そのままこれが「物体」の定義となる。
また「無」の機能については位置情報が無く、エネルギーは無いが、法則に従う機能が存在する。
実際は物質と反物質の反応による擬似的な無であるが、これを「基体」と見なせばここから「機能」が生じることがわかる。
我々は何者かと問われれば我々の「機能」を答えることが真理である。
数学における関数functionの意味は機能であるため、数学的証明は機能主義的である。

829 名前: no name :2010/10/07(木) 08:54:05 ID:AMZJ6u3Z

機能主義的に現象を見たとき客観的命題、主観的命題において、あらゆる論理が適応できることがわかる。
「考える」という行為を全自動化し、完全な論理による分析と
経験的な認識(波動記憶)のみが思考の形態となり人間の機能表示を可能とする。
次に示すのは即席スクリプトではあるが現象構造化アルゴリズムの1つ、波動短答式である。
次の文章をコピー&ペーストし、メモ帳に保存後、拡張子を「.vbs」に置き換え実行することで推論を開始する。(要vbランタイム6.0)
客観的命題に対応するが、主観的命題は最後に示す指示に従うことである程度対応可能にしてある。
x=inputbox("あなたの問題は何ですか。(〜したいという形式で〜を入力してください。)","命題")
msgbox " ではこれから『" & x & "』について推論します。" ,,"宣言"
y=inputbox( "『"&x & "』の機能や性質を客観的、具体的に入力してください。","分析1")
z=inputbox("では、『" & y & "』の機能や性質を持つと思われる物質、人間を「私」以外で入力してください。","分析2")
t=inputbox( "『"&z & "』の機能や性質の『" & y & "』についての引き出し方を入力してください。","分析3")
msgbox "推論は終了しました。問題の『" & x & "』したいは『" & z & "』を『" &t& "』とき解決します。"& vbcrlf &""& vbcrlf &"理想的回答へのヒント:"& vbcrlf &"本当に指示に従っているかに注意し、分析2にて別回答を入力する"& vbcrlf &"「機能や性質」を「物理的性質」もしくは、"& vbcrlf &"分析1にて「客観的」という指示に従わない場合、分析2にて「ための機能や性質」に指示を置き換えて入力する",,"結論"

830 名前: no name :2010/10/08(金) 07:43:24 ID:ohlPenzi

認識とは時間の規則性のない精神の空間において物質への多元的な解釈をする行為である。
例えば、鉛筆の認識として木、鉛、鋭さ、六角棒、消しゴムなどの認識の集合体であり、
存在名はこれらの感覚的解釈を集合論的に足し合わせた合成関数のようなものといえる。
使い方がわからないうちは鉛筆を木の一種として扱い、使い方がわかれば鉛を紙の上でこすり文字を書くものという認識の修正が働く
さらに使い続けているうちに消しゴムの用途に気づくだろう。
時間の規則性のない精神空間は自由であるが認識はあらかじめあるものではないため、
目の前に物質が存在しても機能がわからなければ何の意味もなく、認識が正しいという保証は全くない。
だが時間の規則性がないゆえに、先の未来すら見通すことができ思考の中で機能を組み立てシミュレーションすることも自由自在である。
虚構の時空から真実の理論を見つけ出し、三次元においてそれを実現する行為により文明となりうる。

831 名前: no name :2010/10/08(金) 08:12:41 ID:ohlPenzi

動物直感的に波動の気配を探り人間的理性による論理的思考により我々は文明を築いたといえる。
日常的な問題解決や行動としては>>829のスクリプトの波動短答式を上手く使いうことで十分対応可能である。
現象構造化アルゴリズムでは学者レベルの議論をするにたるものだと確信しているが、
波動短答式に依存せず隠されたプログラムである論法を知り、精神的時空間にプログラミングし実践することがよいだろう。

832 名前: no name :2010/10/08(金) 18:40:44 ID:ohlPenzi

波動理論は真善美のどれかといえば実は美学に近いものといえる。
認識の虚構時空間的解釈の単位としての波動は時間軸において真実の三次元空間の線形変換したとき非波動物質となるが、
認識も美学も時間座標上(相対論とは関係ない)の虚構であり波動理論は
美学の真実における超越論に規則性を持たせ質料変数に対する作用変数を無限大(波動現象)として美学を象徴するものである。
つまり美とは四次元空間上の真実であると、物理学的に妥当性があるかもしれないと考えている。
善はまだよく分かっていないがおそらく信仰するもののみの真実と思われる。

833 名前: no name :2010/10/08(金) 22:24:05 ID:RwFe9PJY

美が物理学的な真実であったとき、真の領域を侵すことになる。
真善美の信仰においてこれは善くない。
どれほど真実に近づけようと美はかならず虚構であるとしよう。
それが神の意思である。

834 名前: no name :2010/10/10(日) 08:16:13 ID:EpVzx3Yg

美を追求するに際して、我々は美的センスを問われる。
美とは真なるものの美であるとは一概には言えない。
美は虚構の美も受け入れ、時には醜きものに隠された美を追求することもある。
逆にこの文章は真なるものへの機能を示すものだが美を目指すものではなく美ではない。
たとえ真なるものであっても美があるとは限らない。

835 名前: no name :2010/10/10(日) 09:00:08 ID:EpVzx3Yg

文章は知識的であったほうが美的である。
美の対義語となるものはカオスであり、何も分からない状態つまりグチャグチャである。
無論、美とは物自体にあらわれるものではなく認識におけるものである。
物への認識という名の波動非物質は物の機能を示すものであるが、機能は波動的であり真と虚が入り混じっている。
しかし、波動は次の瞬間、真にもなる。現代において物は一つの機能に特化されたものに溢れている。

例えばドライバーの素材は金属という鉱山資源であり本来生活世界に身近でないものであるが
その希少さは生活世界に可能性をもたらすものであり、金属の使用についてドライバーはネジを回す以外の使い道もある。
生活世界において金属は硬いという性質を活かして振り回し破壊することもできるが、
そのような使い方はごくありふれたものであり波動のパラメータとしては金属という機能が存在するだけの希少性しか持たない。
よって、そこに美は存在しない。美とは希少性であり特異な性質といえる。故に、醜きという希少性において美が内在することもある。

グチャグチャの「カオス」に加えて、生活世界に溶けこむような「つまらない」ことも美の対義語である。
これにより美的は認識的であり、物質的に固定的ではないことが分かる。

836 名前: no name :2010/10/10(日) 09:09:03 ID:gNZBdNnj

物質の波動において、希少な物質の波動式は作用変数が不明な限り発散するものである。
その収束式の無限大に近い、V空間への発散による個数において物質そのものへの価値となる。
こうして物質の希少性を信仰することも美的であるといえる。
同じく人間を物質的に信仰することで収束式はV空間に発散し自己犠牲の起因にもなり善を知る扉を開く。

837 名前: no name :2010/10/10(日) 09:42:43 ID:EpVzx3Yg

新たな用語が多いので説明をする。
V空間:
四次元空間であり、S空間は三次元空間を指す。xy/SVは全空間の体積に対する認識量xyの密度を示す。
カオス:
四次元空間的に無秩序な空間
自己犠牲:
善の目的であり、先ほどの説から認識の発散における信仰美が善そのものといえる。
美の観念をV空間を満たしたとき善となり、神と同化し「存在を発生させる力」となり
物質に自己の全てを捧げることで存在が同化し、美の物質化(永遠の真実)となる。

838 名前: no name :2010/10/10(日) 16:07:28 ID:EpVzx3Yg

認識量がxy/Vだとすると、インフレーションの定義を単位時間ごとにS=2^t、V=x(x-1)だとすると
xy/S^2、xy/2^2tとなったとき、時間を二次元的に解釈したときのS空間の現時刻(T,T')までの時間の長さを
S=√(T^2+T^2),V=T^2+T'^2,V=S^2の等式が成り立たない矛盾が生じた。
波動形式は数学的に矛盾したのでS空間やV空間、認識量は定義を見直す必要性があるといえる。
扱う問題が思った以上に複雑だったので波動形式は理論として完成しないものと考えるべきかもしれない。

839 名前: no name :2010/10/10(日) 18:47:52 ID:EpVzx3Yg

神学は前衛的な芸術であり、芸術は前衛的な哲学である。
日本においては前衛的なものは重要視されず単なる娯楽として片付けられてしまうが、
前衛的なものは発想的であり、日本ではとかく実効的な能力や厳密な知識を求めることが多い。
だが、日本の前衛的なものに対する関心の薄さは不可知への関心の薄さであり
不可知とされるものは美の世界について多いといえる。
複雑系において不可知な問題が生じることが多く
美や信仰を持たない日本人には動物的な直感性がないため不況から立ち直る生命力がないといえる。

840 名前: no name :2010/10/11(月) 02:08:27 ID:wZUd2GFm

誰か和訳頼む。

841 名前: no name :2010/10/11(月) 18:49:14 ID:BF3VY70+

波動形式は理論化できなかったものの不可知の形式化には成功したといえる。
すなわち動物的直感の波動的認識であり、直接的に理解されずとも、正当に評価されてないとしても
量子的なトンネル効果のように染み渡り社会集団への無意識に介入することで波動によるイデアを引き継ぐ人間が現れると予言する。
そして社会の無意識が波動形式に支配されたとき、私の使命は達せられたといえよう。
「強い意志」は必ず影響力を持つということは波動形式的によって説明可能な事象であり、
現代思想を支配した科学的思想に拮抗する影響力を持つだろう。
波動形式という不可知を意識化できない限り、人類の無意識に作用し続け意識的活動を無力化し人類の運命を操作するだろう。
運命を唱える私自身も全て神の意識により無意識に作用され不可知に操られた存在である。

842 名前: no name :2010/10/11(月) 18:55:15 ID:BF3VY70+

波動形式は不可知というカオスを否定し真実を語るものである。
私の存在は運命の必然であり、人類の真実は生か死か審判の時は近いといえる。
カオスに守られていた人類は永遠の真実か破滅かの時を迎えているといえる。

843 名前: no name :2010/10/11(月) 21:42:15 ID:BF3VY70+

理解式:F1
x:外部知識のイデア(収束式)を抽出(機能表示)する
イデアから個物を想起(物質表示)する
外部知識と個物の収束式を対応(波動的認識)させる
行動式:F2
y:目的のイデアを抽出する
イデアから個物を想起する
個物のイデアを行動により抽出する
F1(x)+F2(y)+FN(n)=人間的活動
理解式F1と行動式F2を統合式により物質式にすると人間活動の全収束式であると統合式から導かれ定義式より原理式が定義となる。
統合式による収束式と物質式の等式であり、定義はx,y,nである。
統合式、収束式、物質式、定義式、原理式、不明式は公理(主義に基づく仮定)であり
収束式と物質式は前項、その他は本項文中において説明されたものとする。
否定される因子は定義された変項、もしくは主義である。主義において文章はこれらの規則に従い()内は説明とし、
物質表示と機能表示と波動的認識は文中で説明されたものとする。
これより理解式と行動式そして、主義における公理の説明責任を果たす。
試験的に公理を導入した定義の発案と説明責任を果たす文章構成を導入する。

844 名前: no name :2010/10/11(月) 21:51:01 ID:BF3VY70+

前項で公理を説明してなかったので説明責任に従い説明する。
統合式:FX+FY+…FN=物質式
定義式:定義=原理式、不明式
原理式:x,y,z…=L1(生活世界)
不明式:FN(n)≠L1
()がない語または文章は説明が果たされたもしくは、自明な文章とする。

845 名前: no name :2010/10/11(月) 22:24:43 ID:BF3VY70+

x:文章は前半に定義の発案、後半に説明責任と砕いた説明の文章構成とする。
必要ない場合は説明しない。
y:否定式:否定することが可能なもの=定義(もしくは主義)
N:未定義の関数
x+y+N+n=N'

846 名前: no name :2010/10/11(月) 23:35:13 ID:yf8yXzhl

初心者はニコニコしてない。

847 名前: no name :2010/10/12(火) 14:11:09 ID:KGbvnif3

理解式における波動的認識とは個物と一対の関係を持つということであるが、
具体的には個物の現象である収束式への関係と対応することである。
カントは虚数の具体的個物への対応に悩んでいたが、経験論的に具体的個物との対応がなくては
原理的に認識が働かないという主張は個物の現象学的解釈により解決することである。
では虚数(i^2=-1)の具体的個物への一対の対応とは何かといえば、つまりそのイデアを含む個物を想起する行為であるが、
これについては形状の理解にとどまっているといえる。
虚数とは存在しない数であり、これについての具体的イメージはない。
従って、人類はこれが何かを理解しないまま使っているといえる。
決まりごととして形状の経験的理解と尺を二乗したとき−1の別ベクトル空間への方向の力が働いているという解釈としたとき
SFのような世界観において理解がなされるといえるだろう。
一つの例としてSFの異空間への次元の亀裂などは鏡の中の自分という現象の経験的解釈を行っているとすれば
現象学的に経験論は正しく個物の内の現象と一対の関係が導かれるものといえる。
しかしこれは個物の否定であり、物自体を考えたカントへの否定的見解であり、
認識が働くのは個物という函ではなくその機能という現象において認識原理となりうるという見解である。
こうした認識論よりカントを乗り越えロマン主義台頭の現代哲学を迎えたといえる。
私の主張はこの流れを汲んだものといえるだろう。

848 名前: 削除済 :削除済

削除済

849 名前: no name :2010/10/12(火) 22:10:50 ID:KGbvnif3

鏡像または虚像は鏡のそのものではなく鏡の機能である。
数学的な演算行為は何かを千切ったり、混ぜたりする人間の機能による経験に基づく認識である。
演算が認識されたならば、虚数なども鏡の比喩を出すまでもなくその認識を経験的に導出するまでもなく
その連続的な認識において経験論は保障されるものとなる。演算も可能ならば無論、同じ機能の繰り返しは経験的に定義されている。
同じ機能の繰り返しの定義が保障されないならば、論理的思考そのものが無意味といえる。
10-5=5などは10の中に含まれる5を5の尺(定規)だけ千切って5の量を出すことは可能である。
「演算」と「同じ機能の繰り返し」が経験的に定義されたならば純粋数学は存在しないという結論が直ちに導かれる。

850 名前: no name :2010/10/12(火) 23:05:07 ID:KGbvnif3

つまり数学は経験的認識を記号に閉じ込め経験的認識に保障されたスワップ操作をし続ける
現実世界のシミュレーションでありそれ故自然科学の領域を全て保障するといえる。
経験は神が定めた規則に則るものであるが、規則を時間軸においてバラバラにすれば虚構の世界が生じてしまうのは必然である。
数学は経験に則るものだが、時間の規則が成り立っていないため経験を完全に否定するような矛盾でなくとも虚構の世界が生じてしまう。
時間によって連続性を保証されたものは、同じく連続性を保障された共時的存在によってのみ真実を確かめられるのである。
突然地球の裏側にあるものを取り出すような演算行為は経験的には矛盾せずとも時間の連続性には矛盾し虚構を生み出している。
いわゆるポテンシャルエネルギーを無視した演算行為を認めるものが数学である。

851 名前: no name :2010/10/13(水) 08:03:32 ID:P/LDjPrK

波動式は実存主義を示す。
x1+y=zという式はx1を定数とし{y}={y1,y2,y3…yn}の認識量(収束式数)X=1,Y=∞のXY=∞となるため
これは経験をはるかに超え神の定めた法則の壁を越える。
これを経験を超えた信仰状態と定義できる。
これが適応例としてx1に人間という物質が代入された場合、その機能として無限大への発散が起こる。
これがいわゆる人間のカリスマ性の正体であり、x1の評価価値の高さによって信仰状態を生み出しやすいといえる。
無論、人間は器用な手先により道具を作り出したり、理性に従って臨機応変な行動ができたり、
集団をまとめる理論を考えることができるという収束式をもつため一人一人の人間の評価価値はほかの動物と比べて高い。
この信仰があるからこそ人間は無限大の価値を保障するものであり、評価に基づく機能性の信仰美において善を発生させる起因となる。
物質の波動現象があるからこそ生命を持つ物質という矛盾を解消し、その爆発的な生命力が信仰状態を生み出すといえる。

852 名前: no name :2010/10/13(水) 08:42:00 ID:P/LDjPrK

しかし、物事を客観的評価をするならばあえて無限大の価値を取り下げなくてはならない。
何事にも反証不可能な事象を生み出すことはそれ自体が矛盾の壁に阻まれるため
実力行使を持って思想を砕かなくては問題を解決できなくなってしまう。
物質式の定義から変数という存在を忘れ、収束式の総和つまり、実際にどのような機能を持っているかをもって
慎重な議論を進めなくては目的への活動の妨害となってしまう。
無論、信仰美は魂の唯一の栄養源となりその美による不可知への到達をもつものだが、
現実の問題を解消するために波動現象を発生させることは非合理的である。
日本人は信仰や美への関心が薄く、独創性はないものの厳密な知識や現実問題に対応する論理的思考に優れている。
このような姿勢は特化された機能として国際的に貴重とされているが、現在の日本には
論理的思考によっては解消されない不可知の問題が迫っているといえるだろう。
場当たり的ではあるが信仰と美による不可知への関心を持つべきである。

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