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「自重」を「じじゅう」と読む
じじゅう(自重)、ふいんき(雰囲気)、がいしゅつ(既出)等の読み間違いネタは数年前に2chで多用されていたが、
ゆとりの大量発生によってネタが風化してしまったんだよな
荒らしって言葉すら風化してしまったし
今じゃ、ゆとりと荒らしは同語
wwwの意味すら知らないんだろうな、ゆとりは
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【物事を深く考えないが故に、単発糞スレを量産してしまう】
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自分の犯した痴態が半永久的に保存され
尚且つ周りの人に多大なる迷惑を掛けるので細心の注意を
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全くの初心者です。。すみますんおしえてください
一時停止してコメント投稿しちゃったせいか、コメントが流れなくて停止しちゃって表示されました。。
曲のリズムをぶった切る感じになっちゃったんですが。。
コメントを削除とか流れるように直したりできないですか。。?
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ホント学ばない生物だね
崇高な理念を持ち祭式において大宇宙と同化する。
カーストというマズローの五段階欲求における人々の欲求と同質しやすいものを純粋とする。
心理的政治的かつカーストにおける高位はそれを信仰するが、下位は仏道へと改宗するというゲーム理論的帰結が見られた。
神秘とする対象は宇宙という空間でも、宇宙の外というものでもなく、
宇宙という言語そのものであるとヴァイシェーシカ学派は言い放った。
言語とは神秘たるものであるかウィトゲンシュタイン哲学の末裔、分析哲学的にもいまだに多くの課題が存在する。
また言語から派生するクオリアとは感性由来のものであって神経系にも通時性が見られるるため相対的の見解が強い。
また空間つまり、仏教哲学の空性における絶対性は程なく代数学的に証明がなされため単なる相対性となった。
口承信仰は旧来の日本において認知されていたが、仏教というものへと土着信仰は姿を変え、
また現代において無神論者や科学信仰を主張するものも多い大衆信仰へと変わる。
世間とは相対性において目まぐるしいものである。
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霊魂を認識することは不可能だ。
モーリス・メルロ=ポンティの現象学的解釈では
言霊のゲシュタルト質とは現実態の輻射であり受容し構築するという行程を持つ。
端的に例えるならば光学素子が負荷を得て論理を構築するのと同様である。
それとは違うものとなれば相互作用を被らない自然を超越した論理となる。
少なくとも始動因はそのような線形性を持たず、ユークリッド空間内の自然を論理の此岸とした。
比類なき虚無から発した始動エネルギーと等価でない論理などあってはならない。
そのような認識の質料とは単に虚構というものではないが、自然とは無関係な拡張である。
しかし、神を認識することにあたってこのようなロゴスは許されるものではない。
とはいえ生命とはそもそも超越論的存在であり、その十八界は論理の極限を超える。
論理は論理を否定する虚構も論理とする同様にして超越論者であるとすれば、
始動因は神ではないとするか被投性を帯びた自然を神とする他はないのである。
あげ
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大宇宙への同化の儀式において、重要な概念が供物を捧げる行為である。
言語が精神を形成するように行為が精神を形成する。
我々の精神とは霊魂から生ずるものであり、霊魂とは実態であり神の智慧の最も純粋なものである。
最近高画質ばかりに拘って、ファイルサイズを考えられない初心者が多い
昔の高画質ヌルヌル動画を見てくると良い
「どうやってんだこれ・・・」って言いたくなるぞ
既にチラホラ言ってる投稿者も少なくはないが
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古代アテナイの哲学者、プラトンの弟子アリストテレスは四原因説を唱えた。
彼の哲学は実践の方面に向いており、氏の哲学は措定に重きを置くものと考えられる。
ものにはこのもの性という本質があり、形相という衣とデュナミスという運動原理とエンテレケイアという目的を持って現出する。
以上4つのベクトルで万物は構成される。
一つでも欠けているものは存在する必要性をもたず、神のイデアとして相応しくないため存在は不可能であると俯瞰できる。
これらの積をとったものが後世の学問手法と考えられる。
学問とは構造主義的外部理性であり、エンテレケイアの射影となる系譜である。
「有」と「無」を措定した数値や言語や図で表すことのできない無形にして純粋な哲学、
森羅万象や人間活動の本質を明確化するのに際して、先言措定は有用な道具となっている。
三大哲学者、万学の祖、アレクサンドロスやスコラ派学徒の師によって
諸学への貢献と同時に古典哲学は幕を閉じた。
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司法がサイバー犯罪に追いつき始めております
喜ばしき事^^
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なんか掲示板の様子が変わったな、住民が入れ替わっているのか
以前はVIPが腐ったようなところで割と居心地良かったんだが
俺もそろそろ移住するかな・・・
人間の生活を措定すると幸福に結びつく事象があることがわかる。
我々の生活空間に存在するものを経験的な見地から言語として分類をすると
まず、自身の体があり、自身の行為があり、ものがあり、機能がある。
これらを思想として再構築するならば、体とは主体であり、ものは客体であり、行為と機能は方法である。
人間とは環境を自分のフィールドとして「取り込む」ことで文明を発達させているという
事実から人間の主な役割とは客体を「取り込む」ことと解釈できる。
主体が方法という道具をもって、客体を「取り込む」こと、ものを手足のように使いさらに「取り込み」の機能を向上させる。
生活空間とは近似的な主体である。つまり、客体を招くことで主体化させることができるのである。
客体を思想として「取り込み」続けることで機能は増幅され、主体の領域はさらに広範なものとなる。
こうして人間としての役割を果たすことで、報酬として幸福を授かるのである。
個人主義的な思想に傾倒しているように見えるが、そもそも社会というものは個人の近似的な主体であり
同一目標を設定する条件で成り立つ主体と方法を増幅させる方法である。
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「太鼓の達人DS ドロロンヨーカイ大作戦!!」に「みのもんた」と「ふつう」が出演して欲しいぜ!!
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「無」の正体について諸学の見地から理性の名借り、構造主義的に弁証していこうと思う。
はじめに「無」というものの概念が出てきたのは原始仏教の阿毘達磨具舎論における空性の思想という説がある
「このもの性」の「こ」を否定する虚妄分別し唯物論者、機械論者に対し否定的な見解である
この説は神秘とする対象が「空」であるが故に対象を捉え否定の余地は全くないという絶対性を確立している。
しかし、これは唯物論者に限った場合であり、古典哲学のエンドトクレスのような感情を絶対とする思想や
合理主義のような実利を絶対とする思想にとっては反論可能な事象である。
なぜなら、空性には実利や感情はなく絶対と絶対の除算において数理モデルとして解決不可能問題だからである。
いくつかの事象について述べたが、少なくともこれらの思想には互換がなくマトリクスは成立しない。
数理モデルを反証に上げることは中立ではないと思われるかもしれないが、
アプリオリとして仮定的な純粋数学の介在は反証がない限り続行する目的因を持つ理性とし、
一個人の内部理性の限界として許容して欲しい。
純粋理性、純粋思想、純粋数学、我々が純粋とする対象は何であろうか。
まず、善悪の判断ができないことには区別をつけるなど到底おこがましいことである。
近代哲学者カントはアプリオリとアポステリオリの中に我々の知的活動体系が存在するとし、
経験のないものについてはアンチノミーとして判断停止するべきだと考えている。
現代哲学にしてもその事象には触れないどころか彼の言葉を受けて懐疑の余地もない状態である。
哲学者として懐疑の存在しない姿勢は危惧すべきものであり、純粋な学問として面目も立たない状態である。
ヒンドゥーにおける純粋とはヴィシュヌ神が司る思想であり、それは大宇宙の監視者である。
ここで思いつくのが、神を善悪の基準とするという行為である。
カエサルの息子、アウグストゥスは神と哲学の親和させることを理念としたが、
先程申したように神の代行者を名乗っても所詮は人間として理性の限界が存在し、
不純で、信仰が薄く、能力の低い人間としての枠内では善悪の判断などできない。
やはり我々は自らの都合のいいものを拾い集める、社会という理性において存在を
主張するだけの感情的で愚劣な動物なのだろうか。
人間としてのエピステーメーが支える認証根拠は到底真理とは言いがたい。
ただ個人の幸福追求という非理性的な存在でしかない。
ならば、我々は人間としての生き方を捨て神の存在を信仰し、大いなる流れという理性を明確化させるよう勤めるべきである。
むしろそれ以外のことを信仰してはならない。
我々は間違い多き歴史を持ち誤りを繰り返しまさに、無知の体系を築いてきた。
再び不幸である生業を受け入れてはならない。
人間の理性や社会などという底の浅いものは完全に捨て去り、再び神への信仰に身を寄せるべきである。
それでもここはvipやν速、ニコ動とくらべると随分と居心地が良いな
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我々は個人の幸福追求のために生きているのではない。
ましてや、社会貢献という名の利益追求でもない。
我々は理性を獲得した生命として神に代わって、自然を管理し理性を追求しなくてはならない。
四原因説に基底とし、人間の性を線分とし、線形空間内に定義した仮定的に可換な代数を収束するならば、
人間の目的因は純粋な理性であり、実態は精神であり、形相は肉体である。
そして、正邪を判断すべく神を信仰し自由意志の絶対性を確立しないといけない。
なぜなら正邪を判断しなければ、措定は許されず黙して死すべきニヒリズムに陥るからである。
理性を獲得した我々は同時にアスラのような邪に取りつかれ正気を失っている。
まずはトリ・ヴァルガのような知(シニフィアン)において自己内のゲシュタルト質を変容しなくてはならない。
『法華経』に云われるように寛容な器を持ち、『ウパニシャッド』のように敬虔な生き方を維持し、
我々は少なからず"バクティ"する。
そして旧来のような祭式をミームとして、人間としてのエピステーメーと神の恒久にして神聖なロゴスを同化させる。
それが、自然の7つ分かれたの基底であり、我々のインデックスであり、五蘊の意思である。
それが作用因を三神(トリムールティ)とした創造神ブラフマーの宇宙言語の構造しうる、
かつて生前に自明とした天空神ヴァルナのテンソル積空間におけるクリシュナの純粋理性である。
そして慈悲深き破壊神シヴァとともにニルヴァーナへと回帰するのである。
比喩を多用したが、常に懐疑を生業とした私自身は常に理性に敬虔であるがゆえと弁明しておこう。
我々の根本的な運動原理とは無から生じているものである
エネルギーの等価性における位置エネルギーと質料の総和は0であるがゆえに
存在論は成立しているので当然の帰結といえよう
数式よりも根源的かつ厳密性の高いものの仮説において神の存在可能性が高まったのだ
宇宙に飛び交うヒッグス粒子は神の精神そのものであり、日常的に降りそそぎ我々の内を通過するそれである
科学的に表現されるところの神心身の構成要素とは全く同一かつ神秘的な根源因と符合する
我々の意識や自然の物質を支配しているのも何か厳かで神秘的なものであることが分かる
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現世界を構成しているものは自然と法則である。
生命は自然という無機物のスープより出でた化学進化の産物であり、生命のポテンシャルは自然に依拠するものである。
人間特有の自由意志とは厳密には自由ではなく理性という法則性が存在し、
非線形質の入力をタンパク質の分解における反作用である弱電荷というあくまで非線形系という有限の角運動が形成するベクトル積を
集積回路において総合するブール代数として論理演算結果をマトリクスとして可換なアーベル群を擬似的な数値として収納した上、
理性的な処理過程のリーマン積分というアドレッシングにおいて
擬似的なn次元空間として自由を言語モジュール化し要素のインデックスとして抽象概念を出力しているのみである。
自由意志など文字にも数字にも表れる程度のもの、要は有限個のマトリクスが構成する、自然のポテンシャルである。
つまり、自由意志など自然内部における生命活動の拡張機能の一部に過ぎなかったということである。
しかしそれでも我々は自然を作用因とすることはあれど、そこに実態を置くものとは考えないものである。
理性を獲得した生命として自然とは隔絶する機能を持ち信仰という名の理性と等価な神秘性という神の加護を根拠とした絶対性を持つ。
そのもとで我々は各自の善悪の判断を許され、各々神の代行者であり、自然の超越論者において文明を振興することを許されたのである。
そして神秘性とは物質という解釈ではなく、人間という解釈でもなく自然そのものにのみ許されるものであり、
人間は自然の管理者と同時に、自然は人間の管理者であり、全ては神を目的因とした性を持つことで神秘という力を持つのである。
24時間の全天候はダイエットして、あなたを手伝って超えて急速にダイエットすることを実現します!あなたは“1眠りが目が覚めてについて何度も減らすことを望むかどうか、大量にダイエットします”の効果か!睡眠の時間、またダイエットする時間で、睡眠の中で脂肪を減らすことができて、体質を変えて、反発しません!
http://www.kanpoucom.com/product/145.html
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措定空間が足りないと思わないか
非理性的な工程だな
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カオスに満ちる世界
不要だ
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真実を形成する論法として、数学的論法というものについて考察し模倣したいと思う。
数学とは定義に従い公理を形成し現実的に数字に意味をもたせるものであるが、
さらに、定義自体を疑う数学基礎論という概念が存在する。
それは記号の意味を超えたより現実性の高い概念である集合論から入る場合が多い。
そして基礎から応用として代数学、幾何学、数学の枠を超え物理学さらには、我々の生活へも派生する。
ここまで特徴をまとめついでに例えるならば、
基礎というクォークが自然という公約を経てグルーオンを持ちハドロンを形成するかのようである。
クォーク自体はどのような物質においても結びつく公約を持つためあらゆる概念に対して親和性が高い。
0に近いほど真実に近づくという仏教やジャイナ教の教理に近いものを感じる。
さらに特徴として挙げたいものが発展しやすい学問ということである。
虚構の余地を許さない数学という名の理性は動物の感情に流されやすい理性を補い、神秘の力を与えるかのようである。
基礎から疑いようのない公約を経て公理へと運動することで厳密性が高く迅速な知識の運用ができる。
ただし、基礎とは仏教的姿勢のように正しいであるがゆえ常に不動であり受動的なものである。
応用するためには人間の感性という全く親和性のないものに意味づけを委ねられるのである。
こうして、数学と心は役割分担という名の対立事項を孕んでいるのである。
ではここで総括したいと思うが数学的論法とは、
一に定義、二に証明、三に公理、四に応用である。
1〜3まではなるべく「意味」による質量を増やさないようにし理性を追求し、
4で初めて意味を持たせ、心という混沌の海を制御するのが主な手法となりそうだ。
論法においては、一に定義、二に公理、三に理論、四は活用となりそうだ。
しかし一から考えを組み立てるのは相当鬱屈な作業と同時に最小単位が元々多くの意味を含む
言葉であるがゆえ虚構が混じりやすく使えないものになりやすそうだ。
やはり従来の論法である一に命題、二に肯定、三に否定、四に理論とした方が活用しやすいだろう。
やはり従来の論法である一に命題、二に肯定、三に否定、四に理論とした方が活用しやすいだろう。
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数学的論法として言語によるアプローチは前項より難しいことが分かった。
では、言語より概念を最小単位にすれば何か分かるのではないだろうか。
そもそも数学を真理に近いものとして到達すべきモナドの鏡が全く曇ったままである。
我々は言語から意味を汲み取るとき言語による作用因で意味を汲み取るのではない。
ソシュールの記号論における見解ではそもそも言語に対応する概念が存在し、言語はそれを指し示すだけの上級言語。
その意味づけ行為を「シニフィアン」と呼ばれるが、概念という下級言語はより自然という論理回路に近い言葉である。
意味とは一定の法則を持った概念であり、それを審査する説一切有部の法一八界の心作用というものが存在する。
我々は無意味な概念の構築はしない、意味のある概念を構築するために心作用による審査を受けるのである。
心部は全てが経験知で構成される感覚のメモリ空間であるが、意味とはそれに対する上級言語であり。
具体的には感覚としての記憶というモナドが論理のクオリアにおいて理性による制御を受け、
関数としての意味を持つ理性的なエスを用いる動的な感覚というエイドスが現出するのである。
つまり、概念とは感覚を措定するものであるが、数学は0と1という存在と非存在のみを措定するより自然の概念であるため
やはり概念以上に最小単位を持つもの(それゆえに先験性と呼ばれる)であろう。
確かに我々は数字そのものに相当する感覚器を持っていないといえる。
数学は人間を超越した理性の持ち主であり、我々の進化の先にあるオーパーツでありダークマターである。
カントの言うアンチノミーを含む事象として数学以上の意味づけは現時点では許されないのである。
よって、我々は数学と概念の関係性を把握し、より真理に近い概念を構成しうる数学的論法を身につけ、
究極の善悪の根源(0,1)を求め、神明裁判員としての態度を得るよう勤めるべきである。
次項において数学におけるシニフィアンである概念を最小単位とした数学的論法を再度検証し具体的な方法論を模倣してみよう。
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超弦理論、虚数空間、数学は意味づけをすることで万能の型になる。
自然と法則は全く同型であり法則を知れば通時性より関連する概念の真偽を分かつことができる。
ただし数学はあくまで数や量の概念であり、これ以上の意味づけは許されない。
そこで同じく数や量の概念で擬似的な法則により幾何やベクトルの概念まで発展させた。
この拡張で数学は自然現象の全ての概念の性質を説明しうる万能性を手に入れた。
全ての概念は自然現象でなりたつが、徹底的な機械論を求めた先に何があるというのか。
無論全ての現象を数学で説明することは不可能であり、そのような手法は聞いたことはない。
それどころか物理現象ですら数学で説明しきれるものではない。
我々は現象へ作用し、通時性における現象の関連性を予測し証明することで現象への理解と応用の知性を得る。
数学のいわゆるポテンシャルから現象の予測はほぼ不可能といってもいい。
哲学的命題を解決するにあたって多岐にわたる概念どころか一意の解すら求まらないのでは話にならない。
始動因から全て要素を把握することも不可能であり、要素還元性において問題点が多いため、
やはり数学的論法は哲学的命題を解するのに絶望的に好ましくないと思われる。
我々は生きていくうえで少なからず潔癖ではいられず、虚構を含み意味により膨張した概念という穢れた肉を喰らうしかないのである。
ならば順当な論法としては、1.感覚により概念の発生を感知し2.被作用の構成する形相もしくは、通時性により概念を大別し
3.概念を論理的に真偽に分別し4.現象として把握し応用手段を得るという手法になろう。
一に形相、二に作用、三に質料、四に目的、これはアリストテレスの四原因説に符合する。
こうして概念を把握し活用する手段を得ることで客体の取り込みにより主体の機能を増幅させることができる。
社会現象にしろ、自然現象にしろ、客体を取り込み主体化することで環境に適応する可能性を得る。
少なからず穢れた回答だが、理性を持つ動物である我々人間はこのように生きるほかはないと思われる。
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人間の生活は常にカオスであり、恐ろしいほど混沌である。
論理による問題解決が難しく、それにより決まった方法論が存在しない。
特に人間社会においては虚構に満ち溢れており、何をどのようにすれば真実へたどり着くかなど大抵の人間は想像もできず、
いわゆる直感や行動における場当たり的解決に望むしかないだろう。
色即是空、ならば、全てを概念として捕らえてみればどうだろうか。
全く抽象的だが、実はこちらの方が確実に真実へ近づく方法論である。
相手が概念ならば論法が通用する。アリストテレス四原因説における分類、
一に形相(マトリクス)を捕らえ、二に作用や時間による動き(関数)を見定め、
三に質料(一般項)と諸概念との相対的位置を見定め、四に概念目的(ベクトル)を活用に転換する
しかしこの論法ではマトリクスを捕らえることから始まり、マトリクスの解析の時点で相当な労力となる場合が多い。
なぜならカオス系においてマトリクスは無数に存在し、
想像を絶するランクの高さから煩雑な行列操作をもって簡易化するのは容易でないためである。
ならば解決可能なもののみを抽出しようというのが心作用であり直感的見地は我々の経験知を参照していると思われる。
そして、経験知(センス)によるレジスタ内の定義域における行列式から余因子展開することが可能である。
我々は生命としてE=mc^2により限られた「経験」のさらに限られた「経験知」という可解群の
さらに限られた「記憶」という定理しか持ち合わせない。
我々の生活を支えるのは各々の知性という名のアフィン空間であり、
n次元空間内の定理を導出し、時間軸に置換した上で収束する幾何模様に相対する現象のドメインを得ることが、
数理哲学的見地における形式主義的幸福である。
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数学的論法は概念から数学へ意味づけを目的としたが、知的体系を築くにはあまりにも難しいと顧みた。
ならば数学から概念への意味づけをしてみてはどうか、
この試みはすでに数学の体系のうちにあるといってもいい。
もともと数や量の概念だった数学が、幾何、代数、解析にまで用いられるようになったのは概念への意味づけがなされたからであり。
その拡張性を以ってあらゆる概念への意味づけを可能とした。
その特徴とは徹底された形式主義であり概念をユニタリ空間に帰結させることによって存在性を主張した。
しかし、実際には積分空間など擬似的な概念であり、概念同士の絶対的敷居を乗り越える手段を得たに過ぎない。
とはいえ、擬似的な概念であろうとあらゆる概念の相対的位置を示すならば活用しない手はない。
数学的拡張性という概念に含まれるマトリクスを参照すると、
0次に存在するのが数のイデアとし数を一次拡張とし計量的解釈での図形を二次拡張とすれば三次拡張は幾何学的解釈の自然である。
我々の構築する概念は自然の模写であり、概念同士の意味づけにより虚数が発生するとすれば、
四次拡張は自然的解釈での複素空間、概念空間というべきものとなる。
三次拡張時点で数学は全ての自然を説明する概念となり、四次拡張時点で全ての概念を統率する概念の発生源となる。
三次拡張は相対性理論により既に説明がなされているが無論、数学的方法論では自然を説明しきるなどということはしない。
ちまちまと乗り越えられない絶対性という現時点でのアンチノミーを追求するのではなく、
定義という絶対的な復帰点を作った上で拡張するテイラー展開のような構造主義的方法を用いる。
このマトリクスの定理を求めることが四次拡張へと繋がり、
つまり、定義の定義を先言措定することで数字・記号のベクトルを操作できるようになるだろう。
コンピュータというものを知っているだろうか。
その構造はほとんどが絶対的規則に従って動作しており、実は相対的規則はそれほど多くはない。
なぜなら操作する人間が居れば、ケースバイケースは人間が判断するため相対的規則は必要なくなるからである。
相対的規則はそのほとんどが化学式といっていいものであり、要はメモリの構造を知っていればI/Oを制御できる。
コンピュータを抽象化すれば、特徴として挙げられるのが絶対性による絶対性であり、
絶対性の特徴と絶対性の特徴に類似が一点でもあれば定義と定義の同一性から「≒」で結ぶことができる。
では自然を概念による包括を受けるという措定に際し、各々の概念の特徴の共通集合を属性とし、
定義の定義による定理を属性という抽象概念と措定すると、
数学の拡張性における近似概念を収束することで帰結点としてのフラグをたてることが可能となる。
婉曲ながら数学的論法という命題に演繹するならば、
一に絶対的特徴を見出し、二に概念空間を比較し、三に絶対性を「≒」として結び、四に絶対性の融合として帰結点を定義する。
これで、全ての概念は相対性により関数化し、究極の理性である数学に帰結することで
あらゆる概念空間の現象の応用関数を得て、E=mc^2の定義域において数学の理性と融合し我々はさらに理性的になれるであろう。
数学的論法においてルールを取り決め整備しておこう。
数学的論法では構造主義を理念としアンチノミーにおいては判断停止し絶対性の説明を厳密に取り決めることはしない。
あくまで諸所の概念の相対性を明確化し、数学的理性におけるアプリオリにおいて理性的処理を目指すものである。
理性の直接的帰結点を数学とし、間接的帰結点を数学的パラダイム平面上の抽象概念群(属性)とし
下位帰結点として属性平面上の具象概念の定義を元に近似概念を相対化させ、
隔絶性をもつアポリアにつきあたった場合は直接介入はせず上位帰結点へとジャンプする。
これらを数学的論法関数の仮想分析に対する基礎定義分析群とし、その上位概念群として現実行動に対する応用定理方法群とする。
数学的論法関数の上位概念群として前述の論法とし、下位概念群を現実態の写像として複雑系概念群とする。
これは機械論的に解釈すれば、自然的人間関数として上位概念群が自然的行動関数であり、下位概念群が仮想的理性関数となる。
フロー(数学的論法のエス)として表示すると、人間の起動に際し自然法則を自己解凍し下位概念、
自然的人間関数の自然的行動関数を実行し、対象認識ステップから実行ステップに際し、仮想理性関数、論法を実行する。
論法におけるフローは1.複雑系概念発生の感知2.純粋概念関数の検知
3.抽象的数量化による純粋概念の相対化4.概念純関数のベクトル操作であるが、
2.において数学的論法関数が関数置換後に仮想化自然的行動置換をroot権限で実行する。
数学的論法関数におけるフローは渡された複雑系に対し仮想概念化置換後、1.絶対的特徴を抽象的検出(感知)し
2.計量空間と概念空間の比較し3.否定論理積をエラー(排他的論理和:アンチノミー)として検出後、
論理積を検出し4.帰結点を定義し、応用関数置換を実行する。
否定論理積においてはカオス行動関数置換サブルーチンに分岐する。
ここまでを自然的人間行動関数のフローとするが、この構造において自己評価における
フェイタルエラーの検出は困難と思われるため、あくまで無措定空間か自己措定空間のサブルーチンとして措定して欲しい。
削除済
えっと、つまり巨乳最高ってこと?
我々は合理的行動をするに際し、感覚的検知をする際多くの経験知を得るといわれている。
合理的行動するにおいて直感的思考のプロセスが重要であり概念要素を検知できれば、論理的思考はさほど重要ではない。
これが前述における論法の肝心な部分である。
非実証主義の旧来の哲学は実のところ現在の思想と対し合理性においてひどく劣っている。
理性を追求するのが旧来の哲学のセオリーだったが、国際間競争の時流が急激に理性より行動を求めるようになり現代哲学となった。
とにかく経験知における要素を抜き出し、出鱈目に経験知の行動へのシニフィアンとして適合実験し、感覚的整合性を求めれば
合理的行動は可能であり、実のところ先ほどのような七面倒くさいアルゴリズムは必要とされない。
構造主義を理念としておきながら旧来哲学の頭の固さである実存主義の回廊に陥っていたのだろうか。
理性を求めるつもりで理性すら得ず、行動においては大きく劣っている惨状では実用性はないと言われるかもしれない。
旧来の哲学は既に過去の産物であり、人は人としての性を求め、神という理性からの巣立ちを示しているのかも知れない。
しかし、人としての意味を追求し、神の加護を失うことが幸福なことかは定かではない。
現代の人間としてはいわゆる行動を最高善とし多量で質の高い経験知が下地を支える形とするが神秘性を失うことにはエポケーしている。
そして、現代の人間は不幸と言われることも多く、犠牲による幸福を得るなど倫理を軽んじることもある。
少なからず真理とは言いがたい側面を持つ現代社会は神を捨て何を求めるというのか。
この人頭悪そう・・・
どうしたら、動画を見る事ができるのですか?
もう限界だ
なぜ好き勝手なことばかり言って自ら不幸になりたがるんだ
貴方がたは不幸を求める悪なのか
違うならば神を信仰しろといっている・・・
命題 概念の相対性を概念によって証明する。
外部 形式主義の目的因(属性)において推論し、厳格な論法を元に着実に真理へ近づく方式を取る。
肯定
そのためのルールとして文章と文章は「=」で結合できるようにし、定義(厳密性)において定理(拡張性)を持ち
定理と外部は証明(審査:肯定)しない限り拡張は許されない。
証明(審査)は原始的な生活観(感覚)と符合することと
数理的概念(形式主義)に適合する形をとるため数学的解説と生活的解説を混合する形となる。
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定義 本命題において命題、外部、肯定、否定、総合、結論による分類をする。
定義 命題は本論の始動因、外部は根拠の無い論、肯定は外部の根拠、否定は肯定部の否定、
定義 総合は定理・外部・肯定による根拠の総合、結論は最終判断を示す。
定義 肯定の根拠は総合部において自然的根拠を持つ、明示できない場合証明不能とし、
定義 この事項が出た場合、結論部は判断保留となる。
定義 総合に肯定を加える場合、総合による根拠が提示されない限り加えることは許されない。
定義 外部は肯定による根拠を持たない場合、総合部には加えられない
定義 肯定は一文中に論が自明であれば直接加えてもよい。
定義 否定は話題の拡張を目的とした肯定のアンチテーゼとするが、
定義 否定部は必ず本質的な命題を提示するためそれ以降の本論として扱うよって、否定において直接的に根拠は求めない。
其他 本論では定理は定義の拡張性というより根拠の有る論という解釈である。
命題 概念の相対的位置とは何か。
外部 概念は自然の複写である。(C-D)
肯定 なぜなら、概念を構成するために記憶を持たねばならず、(E)
肯定 記憶は外部から感覚を通じたものでしか組成されないためである。(D-E)
否定 しかし、概念とは虚構と真実が入り乱れた複素空間であり、自然の複写であるなら虚構は存在しないという矛盾に陥る。
外部 その問題は概念を成分に分解することで解決する。
外部 概念は組成されるものであり、概念は組成するための成分を持つ。(B-A)
肯定 概念は記憶であり(C-D)記憶は結合・離散は自由であることはコンピュータにおける記憶の構造に既に存在する。(A)
肯定 よって概念には概念組成と概念成分が存在し概念成分に虚構は存在しないため概念組成に虚構は存在しない。
外部 これは自然のものであろうと人工のものであろうと虚構として片付ける人間は居ないという事象と同様である。
総合 よって、概念とは感覚による記憶(C-D)という概念成分による組成であり(B-A)、
総合 概念の相対的位置とは各所に点在する概念成分であり記憶として分解・再構築された(A)自然である。
総合 よって概念の相対的位置とは自然の内部である。
総合 (A):コンピュータは自然物の加工品である。
総合 (D)(E):証明不能。
結論 判断保留。
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物質と法則の相対的位置とは何か。
我々は物質に多くの意味づけし、学問というものを成立させた。
それは物質の性質を調べ、応用を模索するもので非常に有意義であることは、
人間的エピステーメーにおいて確信を得ている。
物質は物質として「こものの性」という固有のベクトルを持っており、
人間はそのベクトルの関数式に値を置換することで自然物を人間的意味(機能)に転化する。
四原因に言い換えるならば、
質料が関数式、作用が置換、形相が置換後のベクトル式、目的が各種定理である。
人工物は人間的意味を付加された自然物であり、人間に与えられた性に固執することはない。
精密機械などは衝撃に弱く、人工物は自然物に比べて性の意味を失いやすい。
物質の成分は自然と考えて間違えはないが、法則の組成は脆いものである。
法則は概念組成であり、概念成分は自然であることは前回において確信を得るに足る論理だと思う。
これを用いて先ほどの過程を言い換えるなら、物質から得る感覚は物質に意味づけし、
物質のベクトル(質料)を自然的方法(作用)において概念(目的)は物質化(形相)する。
我々は物質を意味づけすることで概念の形を表す原因を得、物質のベクトルを操作することができる。
つまり、物質と法則の相対的位置とは、物質は自然的方法を仲介して概念と等価となるということである。
自然的方法とは無論、人間的意味づけをされた自然物のベクトル式であり、
概念というスカラは質料という基底においてベクトル変換することで自然的方法となる。
よって、数理モデルにおいて方法と概念と物質の相対的位置は示される。
やや論理と文章が脆くなっているが哲学的発想を得たならば幸いである。
命題 記憶という概念の効率的な方法とは何か。
外部 それを知るためにはまず記憶というものが何かを示す必要がある。
外部 我々が日常的に記憶と呼んでいるものはおそらく感覚記憶である。
肯定 なぜなら、物質と概念の相対的位置において、(F)
肯定 概念成分が感覚記憶とし触れる対象を全て概念だとすると、(E-F)
肯定 感覚による記憶とするしかないためである。(D-E-F)
外部 概念を感覚化することは概念組成において可能である。(A-B-C),(D-E-F)
肯定 記憶対象を概念として視覚的刺激として論理を得た後、(B)
肯定 概念組成においてさらに感覚的記憶に近いものに置き換えればよい。(C)
肯定 これは概念組成により発生する虚構を受け入れた上の処理である。
外部 視覚的、触覚的、聴覚的など概念組成の方法はいくらでもあるだろう。
外部 そもそも概念を文字通り概念のまま記憶することは不可能なため
肯定 我々はどこかしら感覚記憶による概念組成を行っているはずである。
肯定 概念を文字通り概念として記憶する時、概念は無形であるため記憶する対象が存在しないはずである。
総合 よって記憶という概念の効率的な方法とはより感覚的記憶として概念組成する方法である。(A)
総合 (B):証明不能(C):証明不能(E):前項より判断不能(F):(E)による判断不能
結論 判断不能
虚構と真実の相対的位置とは何か
前項の通り、虚構という概念組成は成分にまで分解したとき自然である。
そして、概念と物質と方法の相対的位置では概念を真実としない限り方法によるベクトル変換は行われない。
物質は常にベクトルを発散させ、我々は肉体という基底と概念という線分をもってベクトル変換し線型結合することができる。
それにより物質の材料という成分はモノの機能という概念を構築する。
しかし、我々の思考のうちに在る概念は方法を持たない概念であり、方法に置換できる概念は真実のみである。
だが、虚構は全く不要なものではなく、虚構が在るがゆえに自由意思があるといってもよい
むしろ真実のみで形成された概念は概念ではなく自然と言う方が相応しい
我々が自然に意味づけし拡張性をもたせることができるのは真実を否定する虚構があるためである。
我々は概念組成するに際し、感覚記憶という純粋な記憶を離散・結合することで概念を組成することができる。
真実は法則によって成り立つが法則をもたない概念は真実よりも自由であるが、それゆえ虚構も発生する。
しかし概念組成の段階で自然に渡された設計図どおりに作る概念では概念の拡張性を持たない。
少なからず虚構を気にしない姿勢が自由な組成を許容し、後に理性による法則性を持たせることで
真実と等価である方法へと意味を転化することが人間的活動において重要であるといえる。
概念が自由の意味と符合するならば、虚構は概念のための概念であり、決して方法へと転化することはないが
概念の拡張を図る概念を持つ、虚数のような数字的拡張性を持つパラダイムがある。
虚構は概念成分へと分解したとき真実であるため虚構自体を発想の起点とし組成から真実を抽出することが可能である。
よって、真実と虚構の相対的位置とは虚構は真実の一部であり、
真実の内の自然部分が絶対性という普遍の状態であり、虚構部分が相対性という変化をもたらすのである。
拡張とはテイラー展開のような虚構による発散状態を理性により方法へと収束していく作業である。
区別と概念の相対的位置とは何か。
我々はものへの理解を深めるとき特徴を列挙し系列別に区別して判断する多元的な志向を持つ。
ものは一元的な意味しか持たないことに対しなぜ多元的なアプローチが必要なのか。
それは我々の概念成分は感覚記憶という絶対性により構成されるからである。
我々はものへの理解を予め知る者ではなく、ものへの理解に迫る過程としてものの理性の一部を感覚に分解する。
それはどのような挙動を示すか不明な関数式に対し、出鱈目に置換していく作業である。
一元性は多元性に分解され多元的意味を持つ虚構を真実に収束していく作業である。
区別とは構造主義的に相対性を求める行為であり、予め一元性を複数もたせた上で隔絶し
多元性の虚構の内の真実の「感触」をもとに一元性へと復元していく。
つまり、区別と概念の相対的位置とは虚構の感触という「センス」を高める行為という
擬似的な方法強いては虚構である偏微分による波動関数の解を求めていくような作業である。
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分解し虚構を求める作業は一層多くの真実を求めることができる。
ものへの理解のみではなく人間のカオスへのアプローチにはすでにチェックがかかっているのかもしれない。
虚構を超え、カオスの先の神秘へと迫るのもそう遠くは無いだろう。
しかし、我々が神秘へと挑戦したとき神秘は何をもたらすのだろうか。
お前さっきからうるさいよ
善悪と区別、そして虚構による真実の増幅。
人は愚かであるがゆえ、次の神に代わる力を持つ。
虚構は真実の裏返し。
無限の連鎖による神の交代はいつまで続くのか、それも神の更なる上の存在の意思なのか。
人間の活動は神に代わって真実という智球を広げるものかもしれない。
神による存在肯定をなされているのだから神を超える要素があるとしてもおかしくは無い。
人よ、どこまでも愚かであれ。
チラシの裏に書けよ
基地外が横暴しております
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なんだこの説教スレwww
幸福と概念の相対的位置とは何か。
我々の目的とは幸福であり、我々は幸福という方法を得るため多くの目的を持つ。
ライプニッツの考えを借りれば、幸福はモナドであり、目的は鏡であり、生命はそのモナドへ至る方法というベクトルの和を求める。
生命は概念であり形相や作用を持たないが、目的と質料を持つ。
質料とは経験知から得たカオスであり、アニミズムのような性質を持つ。
我々は概念上の質料と目的を持つ擬似的な生命を生み出しモナドを写しだす鏡を作る。
前項の通りベクトルとは基底という方法とスカラーという概念のベクトル変換で生成され、
更に生命を始点とし、幸福を終点としたベクトルを得る。
生命や擬似生命とはカオスであり、題に命を与え命題(擬似生命)となって質料と目的を持ち生命としてのスピンを得る。
質料をカオスとした根拠は生命活動において多元的意味を持つことが生命保持において有効な手段であり、
カオスの内の特に虚構という拡張性の概念組成が無ければ、人間は文明として幸福を得なかったためである。
質料は概念成分を多く含む虚構の格子点を基点とした成分とゲシュタルト質との融合であり、感覚記憶の想起である。
幸福と概念の相対的位置とは終点と始点、目的と質料により生じるスピンの角運動という方法であり、神と生命である。
我々が幸福を得る態度とはカオスであり、
枝分かれした多義的意味である道具の集合としての人間という生き方である。
具体的には多くの擬似生命が形相をまとい作用(機能)を持つ道具となり、それを使用するのがカオスの集合という人間である。
構造主義の考えは質料の総和において真実のみを求める姿勢よりもはるかに自由度が高く擬似生命の宿る格子点を多く含むことが分かる。
区別として真実を分解することで虚構というエーテルを得、概念に生命を宿すことで作用するのである。
我々の目的は始点を生命とし、終点を幸福としたベクトルを求めることである。
そのための概念組成において効率的な方法を考えていこうと思う。
旧来の考えでは真実を善とし、虚構を悪として虚構を全く受け付けない潔癖があったが、
現代において虚構を過剰に嫌うことはしない。
必要に迫られるという擬似生命は虚構は真実の一部であると漠然と理解しているようである。
虚構は思考という方法をもたない複素空間上の概念の不整合な自然の融合状態である。
構造主義的な態度として、真実を分解し虚構の内から不要の要を創出することでベクトル操作を行い概念を方法に転化する。
無論、虚構も概念成分上真実である故、真実と判明している事項に対しても虚数空間をも定義域として広げる。
それら多義的複素次元空間における基底ベクトルはカオス状態へと相転移することで擬似生命と成し
自発的にあらゆる概念へと軸先を伸ばす結合子を探索する。
全ての概念は自然という真実から抽出された人間的解釈であるゲシュタルト質で構成され、
理論上存在する格子点をゲシュタルト質に適合させ目的と質料を持たせ擬似生命とすることで概念はアニミズムのような意思を持つ。
つまり、概念の格子点をカオスにすることで擬似生命となり
同様の関数において神の定義域における方法により幸福の結合子を得るのである。
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感覚質で自然、真実と虚構で法則、質料と目的で生命、これで概念上の自然は完成する。
概念上の自然と自然の違いは方法の有無である。
概念上の方法とは真実に適合しようとする理性と虚構に適合しようとする感性という擬似生命である。
この世界が釈迦の胎内だったらという密教の説を想起する。
理性による総括が不十分な我々の概念世界と自然は管理能力以外に何が違うというのだろうか。
神の理性は概念成分までも含め管理し総括するが、とても我々に真似できるものではない。
もしこの説が正しいのであれば神と対面する方法は神にとっての擬似生命以上の意味を持つことである。
神の理性を超える理性を自由意志により得ることができれば神の管理外の存在になりうる。
そうしたとき神の定義域である方法は意味をなさなくなり自らの擬似生命が方法を従える。
では究極の理性とは何か。
神の存在証明をするにあたって数式を唱えた人間がいる。
数学は存在と非存在を措定し、それのみを語る学問であるがゆえ経験知が完全に充足し、根源的な性質と完成された理性を持ち
しばしば我々の概念成分であり純粋記憶である経験知よりも微小な概念の成分を持つ先験性となる。
理性的な学問は数学を基準に巡っているといってもいい、神の存在証明、
特にε-δのような存在・非存在や無限の解析ができれば全ての法則が崩壊し人間の理性に塗り替えられ、
方法を方法によって操り概念が積分されるのではないかと思う。
善悪と概念の相対的位置とは何か。
善と悪はそれぞれ真実と虚構に言い換えられる、概念組成は真実という条件のもと方法と化す。
虚構も真実であるが虚構自体は真実に置き換えない限り方法に収束することはなく発想や応用の手段を得るためのものといえる。
真実を得るための方法は善であり、方法を得るための方法も善であり、目的を得るための方法も善である。
我々が区別する意義は善悪にわけることであり、善は真実という質料と方法という目的をもった擬似生命といえる。
概念組成を方法へと近づけるためには善と善の結合(擬似生命活動の同化)により生み出される。
善悪と概念の相対的位置とは善は真実という質料と方法という目的を持った擬似生命であり、悪は善の否定成分である。
擬似生命の活動は概念成分において真実である。
前項において、全ての自然は概念の波長と調和できると結論付けたため、
この流れは人間活動における理性的活動においても適応可能と考えられるが、
最も理性的な生命は絶対性を持つため神と人間は上位と下位という立場を持ち、現状では神の方法に支配される。
善悪に区別することは業の深いことである。
なぜなら概念を善と悪に分解するため、善による力を得るが、悪による力をも自らのうちに飼うことになる。
虚構より発想を得る善の成分、成分より真実を得る善の組成、組成より真実を得る善の方法
そして、方法の決定権を持つ我々が構成する概念は認識が無いときレプトンのように安定しているが
善悪における認識を持つとき善の崩壊する因子を持つ。
人間社会においても多様化の時代を迎え、善による力を得たが、悪という崩壊因子も同時に内在する。
幸福とはゾロアスターの求める善なのかそれとも仏教の求める空なのか無論創造主は善を求めるようだが
我々は善のみを求めるべきなのだろうか。
削除済
あとは波長の解析作業だ。哲学者はもう必要ない。
手順は虚構の内の真実において説明したとおりだ。
現代の構造主義特有のエポケーにおいて現象の相対的位置を求めるが、私はやはりエポケーはするべきではないと思っている。
絶対性の壁を乗り越えることをあきらめることは自由意志を失い人間の活動の場を制限することである。
それは人間としての尊厳を屠り、差別、欺瞞、嫉妬などの負の感情を増幅させる。
善悪の項での説明の通り明確化させることのみが幸福とは限らない。
哲学や倫理による知の追求の阻害はあるだろうが同時に幸福の選択という大局において活動できる。
構造主義は哲学者としてあるべき態度ではない、やはり実存主義を求める態度こそ古典由来の純粋な姿勢である。
絶対性の壁を少しずつでも崩す努力を我々は忘却するべきではないと思う。
思慮の伴う行動をするべく時には理性の追求の手を休めてもいいのではないだろうか。
とかく日本では理性を追求することが盛んではあるが幸福とは呼べない事象も多い。
理性追求と幸福追求は男性と女性のようなものであり、決して同一ではないことを留意してもらいたい。
理解と概念の相対的位置とは何だろうか。
理解とは我々の概念成分と適合することであり対象はシニフィアンをいえる。
しかし、ただの理解では単なる自己満足であり、我々は現実の波長と調和させ、代数方程式としてアウトプットしなければならない。
理解という概念成分を一意のものへと収束させることで方法(真実)として概念の座標変換が可能となる。
そのためには多くの善悪(区別)が必要となり、やはり何をするにもカルマを背負うことになる。
理解が上手くできないのであれば、概念組成の層を偏微分し取り出せばとある概念成分(0,1)が
虚構という反粒子の角運動による非線形を描き、神の描くベジェ曲線と調和できないことが分かるだろう。
我々の感覚質による波形と相対する方法における波形を得ることで
自由意志のn次元球面の絶対性と方法の相対性は同相であると方法により実証できる。
方法の波形はたった数種類を要素とした行列式の相互作用であり究極的な方法とは無論E=mc^2である。
神は全ての概念成分スペクトルの理性と方法のポテンシャルによる三角形に表される定義域を得ている。
我々の文明の発達は神から与えられる感覚質から生まれる善悪の哲学的逆三角形であり神の定義域に収まるものを理想とすれば、
最終的な形態は中世神学的理念にしてヒンドゥーにおけるabracadabraの象徴的意味である三位一体の正三角形である。