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まあ、あれだ。
ID:dKAc+/Lyは平等の名の下に自由を要求しないこった。
MADは黒だ、白じゃない。
これをはっきりと認め、それに相応しい場所でやる。
これが本来のMADであり、最大限の自由を確保するやり方だ。
しかし最近の傾向では、他人の所有物が欲しい者は、グレーゾーンを作り出す。
そして、法・良心・個人などの、いわゆる“平等”に類することを述べる。
だが、平等が拡がるほど自由は制限され、平等が支配する所では、自由はなくなる。
「お前は人と同じものをこれだけしか使っちゃいけない。」
公式が面白くないのは、動画の価値そのものよりも、見る人間の自由を制限しているからだ。
自由を守るためには行き過ぎは慎まなければならない。
リアクションを起こさせるようではそもそも失敗だ。
今度は力関係によって平等の枠を課せられてしまう。
今、ニコニコは自身に次々と枠を課し、スケールが小さくなっていっている。
誰にでも・何でもの自由から、一定の義務を満たす必要のある平等へと“ニコニコできる”環境が変わってきている。
しかし、権利を買い続け、システムの整備を行っても決して自由が拡がっているわけではない。
昔、やりすぎて失ってしまったものを、今、多大な労力で買い戻そうというだけだ。
そしていかに“平等”に基づいてそれを高度化しようとも、自由の持つ面白さには到底追いつかない。
小さくなればなるほど、取り戻すのは難しくなるだろう。
「クソ動画あげんな。」とはちょくちょく見るコメントだ。
が、ニコニコの面白さはそもそも、クソ動画がクソ自由に「存在でき」、クソ自由にそれを面白くできる、クソ自由な環境そのものにあった。
クソによるクソのための、クソサイト。
どんだけクソだろうが、自分のことは自分で、自分達のことは自分達で、自己責任と連帯責任でやる。
クオリティとやらを上げたければそれも自分達でやる。
企業の力を借りたければ礼儀を守って、公私のケジメはつける。
これが自由と平等の両立。
って、長文書いてたら取り残されたじゃないか。
じゃ、アデュ〜。