>>474 事件の発端は「閔妃が訓練隊を解散しようとした事」だろうが!
間違い!
事件の発端は強大になった日本が遼東半島を手にいれ、朝鮮と陸続きに
なり南北から挟まれて、地政学的に朝鮮独立が風前の灯になったため。
そのために遼東半島を中国に返させ、日清戦争の直前に王宮が占拠されて
親日政権になってたのを親露政権に切り替えて、独立のためのバランスを取ったの。
閔妃の方向としては、朝鮮の独立の為に正しかったと思うが閔妃の情報力不足。
一番大切な日本軍の動向を知る、信頼できる情報網が朝鮮になかったんだろう。
だから3日天下の親日政権を作られたり、日清、日露戦争、閔妃暗殺と4回も
王宮が日本軍に占領されたわけだ。
訓練隊に対する日本軍教官も3日天下のクーデタの前に、罷免すべきだったかもな。
王宮を守るべき訓練隊が、王宮攻撃部隊になっては守るのは不可能。
ーーーー引用開始ーーーー
1895年の10月7日の夜から翌日早朝にかけて、大院君は訓練隊に護衛され、
これに日本の守備隊と抜刀した日本人の一隊が随行して景福宮におしいって閔
妃を惨殺し、その死体を陵辱したのち石油をかけて焼いてしまった。
これまでこの兇行は日本の大陸浪人がやったようにいわれていたが、彼らは直接
閔妃に手を下しただけである。主体は守備隊で、たとえば景福宮の城壁をのり
越えるための梯子は、兇行の前日に守備隊でつくっており、また広い宮殿のなか
で閔氏の行方をさがすために、わざわざ宮殿内の地理にあかるい日本領事館の
萩原警部まで連れて行った。
(「外交文書で語る 日韓併合」金膺龍 より)