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ここはBitTorrent の初心者スレです。
使いはじめたい方、使いはじめたが使い方が分からない方、
その他疑問、質問、BitTorrent 関連ならなんでもOK。
中級者スレではじかれた人、ここならどんな事でもOKでつよ。
<<初心者の皆様へ>>
BitTorrentのDown/Up速度はPC環境から接続状態までさまざまな要因で
大きく変化します。ですから、漠然と「速度が遅い」と質問しても答えは
誰にも教えてもらえない事をあらかじめ理解しましょう。
もしどうしても速くしたいのであれば原理等を勉強して自分の環境にあった
解決方法を探ると良いでしょう。(その為の質問なら回答がもらえますよ^^)
具体的なレスが欲しいなら、回線の実測、何人と繋がってるか、繋がってる相手の速度
ファイルサイズ、いつから何を落としているか、などなど多数の情報が必要。
[DL速度を上げる方法]
光回線にする
ルーターを変える
ポートを開ける
タスクごとの最大接続数を増やす
旬のファイルをこまめに落とす
現代の子供はまるで読書をしないマスコミ的子供である。
もはや常識に存在を塗りつぶされ全く進歩性の無い人間となっているだろう。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/download/1292730660/
おまもりひまり [DVDISO 5巻]
支援どうかよろしくお願いします
哲学は文学であり論理に縛られない自由なものだ。
どのような態度でいるべきかの指針を真善美における調和で与えてくれるだろう
哲学の本質は決して論理という小さな定規では測れない動因不明の運命という名の大舞台いや、人生哲学である。
仮に精神が物質から与えられるものだとしても
それは真実の優越において善や美が服従するという意味ではない
真実のみが本質ならば、物質的運動以外に生命の意味を見出すことはできないだろう
生命を生み出す法則を創った、神は何を意図して生命を創り、哲学をさせているのか
存在論には多くの意味がある。
故に時には真実すら欺く慎重な議論を要するだろう。
真実は証明という強い武具があるが、真実は善や美というものを計量することはできない。
おそらく本質的な善や美は原則的に証明不可能である。ここに真善美を調和をはかる神のトリックと
神自身を超えて欲しいという願いがこめられているのではないだろうか。
近代の見方としての認識する過程も重要なものだ。
科学的実証は真実を描くが本質的な真実は詰め切れず
どこか盤面を引っくり返されるような一手が残されているような気がするということを如実に描き出した人物の登場
近代において真善美は同時に発達してきたという点も見過ごせない史実だろう。
そして、人間は真実という清き流れの生物ではないという点も真善美の調和という目に見えない流れが
真実だと思い込んでいるものに伏流しているかのようだ。
現代では科学というものに権威を奪われた哲学のように見られるが
いずれは神の意思を受け継いだカント以上の人物が科学に立ち向かう「調和」をもたらすだろう。
文章は「真実を美しく描き聖性を放つもの」でなくてはならない
科学者、芸術家、宗教家など誰しもが納得する調和的文章は
啓蒙する態度や学ぶ態度のどちらにも欠けてはならないだろう。
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人はなぜ趣味を持つのだろうか
それは他者に共有されない反大衆的美学の開発
すなわちアイデンティティである
美術とは生活世界の記録といってもいい
しかし、これは単純なものではなく三次元空間における一つの作品に形相世界を圧縮しなくてはならない
古代人の当時の生活は原始的なものであったにせよ、それを読み解くことで感情を共有し
そして、どのような表現を用いているかという希少性において価値が生じるものである
思想とは柔らかいものであり、それを理想主義的に忠実に象るならばまさに人の形のような造型となる。
これは西洋によくみられる人間を中心とした形象美術に表される社会的要因により構造される。
俯瞰すると精神文明とは人間中心の流体力学のような複雑性をもっているといえるだろう。
現代神経科学において主流とされる右脳・左脳論とは反発的意見となるが、
感性とは理性を複雑化しただけの紙一重の関係といえるかもしれない。
流体というテンソル場はその煩雑なマトリックスにおいて感性的表現が可能となる。
美術史には「幾何学」という言葉が多用されるが、微分・位相幾何学や流体・気体力学、相対論的量子力学など
記号という限られた表現方法において思想的・美術的意味を見出すに至るだろう。
高尚な論理とは暗闇に閉ざされた個室の中に光を見るのである。
倒錯した人類の歴史はどこへ行こうとしているのか
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現代は歴史的な後押しもあって大衆文化が社会的影響力を持つ「現代アート」の時代となった。
しかし、大衆文化というのは個人個人が自己満足するために活動をする時代ではない。
大衆文化の時代となったとはいえ個人は集団に属し「社会的な発言力」を持たなくては本当に自己満足で終わってしまうだろう。
コミュニティに自ら属し専門性を身につけ、「発想を力に変える技術」を身につけ
局所集団と情報交換を交わし議論を発展させ集団としての影響力を持ち
時にこうしたアゴラ(広場)で情報交換という異文化思想集団との接点を持ちながら
自己とその属する集団を高めなくてはならない。
「個人の発想」の素晴らしさは現代的風潮に反映され実証済みであるが、それゆえ「力に変える専門性」に乏しいものとなっている
結局のところ、人間、特に日本社会では「金」や「立場」や「力」など現実的なもの以外は受け入れられないといえる。
集団・コミュニティなどに属し主義を持って、
社会への進出しなくては「自己の精神的健全性」すら保たれず「中途半端」と成り果てるだろう。
即ち、大衆文化・多様化の時代とは個人主義とか極端なものではなく社会の影響力が分散し「小社会」に分化した時代であり
「小社会への進出」もしくは「小社会への糾弾」が簡易化された時代であり、
「趣味は集団に属するためのきっかけ」という認識を持つべきである。これが現代アート時代の本質である。
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www運営クソスレくらい消せよw
金もらってんだろ?仕事しろw
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このスレの必要性がまったく理解できんwww
悪口とか言いたいんだったら2chにでも行けば?w
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BitTorrentはLinuxのISO配るためのものだろ?
いい加減にしろよ
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ログインメールアドレスってなんですか?
どんなメールアドレスをうてばいいんですか?
普通の登録されてるメールアドレスじゃだめなんですか?
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>>350
そんなことも分からないんじゃ止めとけ
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bc://bt/QUEvMTA3ODMtZ2FjaGlwMDQyX1dNVi8xMDY4MTA1NTAzL2I0NDMwYTk1MmI3ODBkNjMzYTAyMWM4OTMzZGY4MjQ0NGM5NDIxNDYvWlo=
ガチンコ娘 りこ
めっちゃタイプです!
よろしくです!
我々が「認識」できるのは意味である。指示語である「これ」とは
実のところ「名前」という観念的なものをさすのではなく実物としての「意味」である。
これは論理集合としての意味を持つ。「名前」をA、「意味」をa,b,cとしその関係をA(a,b,c)と規定する。
たとえば「これ」の内容が「机」であった場合、どの「机」なのかという情報が欠損している。
これは「机」という集合に我々の経験則から想起される一般的名称としての「机」が現実に指示されていないというエラーである。
机(立体的、木質、平坦、脚、引き出し)などに加えて状況に応じて性質を付加しなければならない。
つまり性質こそ意味なのだ。しかし、名前という観念が無くては別の名前の要素と混同されやすくなる。
我々は視覚的に物を認識し、厳格な定義ができるからこそ普段意識しないが、名前と意味は本来切り離されるものである。
そして「想起」するための条件として意味が欠損した場合でも性質から名前を推測する事ができる。
当然、「机」という名前に実体がない以上、性質から推測するをほかは無いが、性質は検索ワードのように
不完全な断片(a,b)から完全な情報A(a,b,c)を復元できるのだ。しかしB(a,b,d)という情報が保持してあった場合、
Aと同時にBが復元される。これはA∩B={a,b}であった場合、AからBへの「連想」が成り立つことを示す。
連想はあらゆることに用いられるがイメージ記憶は同種の方法だと思われる。
名前から性質を連想することが記憶であることが分かるだろうか。
名前は観念であるため、「認識」するためには性質を持たせなくてはならない。性質とは五感(アプリオリ)との関係性であり、
無関係の場合は超越論的実在となる。例えば「インドの太陽神とはスーリヤのことである」を記憶として保持するとき、
スーリヤと聞いて太陽神を「想起」させるには、スーリヤ(太陽神)となる。
スーリヤに同じ性質を観念的に付加することがイメージ記憶であり、その正体は関連付けによる連想法であることが分かる。
「記憶」とは「認識」「想起」の定理である「連想」であることがわかった。
この論理学的定義を基点に様々な形而上の概念を定義できそうだ。
とりあえず喜怒哀楽などを定義する方針である。
記憶の手続きにおいて、媒介する表象(P)がなくてはならないのが分かるだろうか。
インドの太陽神(S)を例に出したが、はじめにスーリヤという言葉を「認識」するためには意味づけをしなくてはならない
つまり「スーリヤ」と「太陽神」が分離された状態から「連想」する必要性が生じる。
「スーリヤ」の始めの認識は書体(W)であり、次に音と意味による「連想」する概念が生じる。つまり、W∩S≠φとするためには
「認識」W(a,b)、S(c,d)、P(a,b,c,d)として
「連想」W∩P={a,b}、S∩P={c,d}を満たさなくてはならない。そして、X(a,b)のときX∩P={a,b}よりP(W(a,b),S(c,d))の「想起」となる
定義(表象と要素)が正しい関係ならば、これを我々は「記憶」するなどと呼んでいることになる。
表象と要素の関係を仮定し、ここで改めて四原因説というものを見直す。
簡単に言えば四原因説とは関数で書き換えられる。
質料とは端的にI/O装置fであり、Inputは作用(x)であり、Outputは目的(y)である。
表象とはf(x)であり、A(a,b,c)という記法は正確には正しくない。なぜなら(a,b,c)はそこに実態があるのではなく
何らかの作用によって交換され「万物に流転しうる何か」だからだ。では「何か」とは何か。
長年哲学とは一つのロゴスが存在すると言う厳格なキリスト教原理主義的な思想が鎮座していた。
つまり古典哲学的に「何か」とは少なくとも「ロゴス」であり、万物への流転を許すものは「ロゴス」以外に当たらないとなる。
さて、これを踏まえてA(a,b,c)はどのように書き換えれば良いか。ロゴスを「万物に流転しうる数値」である変数(x)とし
A(x),A=f⇔f(x)という変換が認められる。これは「ロゴスの万物流転」と「表象と要素の関係性」を認めたとき
「四原因説とは関数である」という解釈を補強するものである。
これはまさに確かな理論と想われるかもしれないが、所詮形而上学である。
証明らしきものにも見えるが当然、都合の良い仮説の上に成り立っているに過ぎない。
ポストモダン(現代)としての置き場所はある個人の思想と解釈される。
常々断っておくが、ポストモダンの最終地点としては
「ロゴス」などと安易な概念に頼らず議論中心主義によるものでなくてはならない。
なにより私自身ポストモダンこそが文化に光をもたらし、万人が納得しうる回等を得られると信じているのだ。