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ここはBitTorrent の初心者スレです。
使いはじめたい方、使いはじめたが使い方が分からない方、
その他疑問、質問、BitTorrent 関連ならなんでもOK。
中級者スレではじかれた人、ここならどんな事でもOKでつよ。
<<初心者の皆様へ>>
BitTorrentのDown/Up速度はPC環境から接続状態までさまざまな要因で
大きく変化します。ですから、漠然と「速度が遅い」と質問しても答えは
誰にも教えてもらえない事をあらかじめ理解しましょう。
もしどうしても速くしたいのであれば原理等を勉強して自分の環境にあった
解決方法を探ると良いでしょう。(その為の質問なら回答がもらえますよ^^)
具体的なレスが欲しいなら、回線の実測、何人と繋がってるか、繋がってる相手の速度
ファイルサイズ、いつから何を落としているか、などなど多数の情報が必要。
[DL速度を上げる方法]
光回線にする
ルーターを変える
ポートを開ける
タスクごとの最大接続数を増やす
旬のファイルをこまめに落とす
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経験論は視野の広い弱い論理であるが感情に左右されやすく非理性的になりやすい
自己を振返ってもしくは他人の証言から客観的視点で自己を見直すことは必要である。
証明のような厳密な手続きではなくとも経験は理性化する活動であり論理の定義に適うとしてもいいだろう。
これらは原則どおりの複雑性の単純化活動である。
そして物質の運動が必ずしも理性的ではないとも考えられる。
これらは固定観念であり、信仰である。しかし、信仰があるからこそ生命は存在し、役割を見出せるといえる。
活動に従事するものとしては信仰は幸福をもたらすが、徹底的な懐疑論者としては何一つ信仰してはならない。
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経験論は論理ではあるがそれを積み上げていくことはできない
人間の倫理観がまったく進歩しないのは状況や捉え方によって定義という存在名が移ろいでしまうためである。
こういった進歩性のなさは学問としては致命的であり、人文科学の課題でもあるだろう。
統計調査や信頼されている論から社会現象の原因を確実に見極め確実な定石を増やしていかなくてはならない。
無論物理学のように目に見える現象ではないため簡単なものではなく
個人の善悪に依存したり、議論が腐敗しやすいという状況を乗り越えていかなければならないため
歴史上の便宜性から生じた流れを変える力となるのはかなり先の話になるかもしれない。
おそらく論理実証主義のような表面的な言語の手続きを改良したところでそれほど効率化はなされないだろう。
着実で我慢強い進歩が望まれるところである。
理性化の手続きは関連付けであり対象Aと対象B
そして、AとBを繋ぐ関係Cが存在し、これから代数的な広がりが生じる。
関係付けの手続きは、論理と信頼と解釈に大別されるといってもいい
論理は論理学の確定的な関係記述、Cが論理学的(恒等や推移律など)ならばこれは確定である。
信頼は多人数認識と恒等となる関係記述であり、解釈は非論理学的な個人経験による関係記述である。
関係記述の信頼性は真理≧論理>信頼>解釈の順である。
学問の目的は理性の記述であり、理性とは万物の法則である。
複雑性の単純化の原則により理性化されるため、即ち学問そのものの定義を行いこれが初期状態という名の複雑性である。
これを単純化することで完全な理性となり、目的に応じて自由に概念を引き出す機能を持つ学問となる。
そして形相論において単純化への確実なアプローチ法が存在する。
定義とは存在名であり適合するもの全てへの写像を行う。
学問の定義はそれそのものが対象の概念Aとなりそれは単純でない限り内部構造の対象Bが存在し関係Cによる対象Aへの対象Bを写像する。
先述の通り論理、信頼、解釈という関係Cがありこれにより対象Aの内部の対象Bの定義を行う。
そして、単純化した学問は我々の思考の定義を行い、明証化されている部分が目的を持つ機械となる。
人間とは理性化するために最善の努力をし、常に目的を持ち達成し続ける理性的存在である。
形相論では目的、質料、作用が存在する世界を形相世界と呼び、物質世界、精神世界に対応しいずれも知覚不可能である。
物質世界に限定して形相を考えると物質Aと物質Bが存在し、Aを質料これに関係するBを作用としこの関係から形相Cが生じる。
これらを数値化できる情報があるとしてA・B=Cの関係とする。
これを一般化すると不明なA,B,Cをx,y,zとしてx・y=zでありこの三次元空間内に目的Dが存在する。
物質xには機能が存在し、作用yとの交互作用により機能zが引き出される。目的は四原因説の通り必ず物質の機能である。
即ち、全ての物質の機能を予測することができればその内に必ず目的が含まれる。
これが単純化をアルゴリズム化する第一手といえる。
そして、目的はそれ自体が可能態でありそれは現実態へと至るこの過程では想起による作用で変化する。
これは質料や目的を二次元平面が白黒の配列から構成されると考えたとき
これは初めに言った条件としての目的の値を設定し、合致したとき質料と認識される形式ではなく
目的が認識された状態から質料の部分集合であると定義した時、目的から合致する質料をソートする方法である。
これにより形相論におけるデータ化とソートを定義し、単純化の基本的操作とする。
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形相世界とは物質世界と精神世界の両世界であり、精神世界は物質世界に呼応してアプリオリの形式から構成される認識である。
カントによれば物自体は認識されないため、我々が見ている世界は物質世界ではない。
つまり我々が見ているのはスペクトルや質感などのアプリオリの形式による三次元空間の再現と、
悟性による丸っこいや角ばったなどの経験により認識・構築されたアポステリオリにおけるイメージが修飾された存在である。
印象とはアポステリオリであり、物質は「他の物質の機能の特徴が共通したときの存在の定義」が加えられるため、
形相世界は四次元空間で表現されるため目的が間接的に視覚化されるため
生活における目的に応じた直感的・臨機応変な行動が可能となるといえるだろう。
宗教美術などこれは物質より物質が持つ特徴や意味を中心に造形され、
ゴシック建築は石造りと角ばった厳格さ・壮大さ・足の長さなどにより人間のような神の特徴を反映したものである。
美術においては目に見える物質よりも物質らしさを強調し、且つ鑑賞者の善に近い形相世界の写実がよいと思われる。
鑑賞者の善とは目的であり、それを含む形相世界が理想であるが創作家の生命力である善に近いほうを優先すべきである。
この原理を応用すれば、精神分析的に自己内の美意識の解釈を変えて興味の方向を意図的に操作し集中力を得るなどの
意識による無意識のメンタルコントロールを得ることすらできるだろう。
無論それが「理性的な有り方」かは保障されないため幸福の操作は不可能である。
視覚的に表される三次元空間の単位系は長さであり、重さなどの単位は除外する。
一般的に三次元と認知されるのは「視覚化される長さ(面積・体積)の情報は疑い得ない真実である」という前提において
重さなどの外延量(データ)を付加する利便性の元に成り立つ。
しかし、人間の認識は不完全なものであり、測定という行為がなされない限り認識に頼るほかはない。
ちなみに四次元時空は時間がアプリオリと認められない事象も存在するので論じない。
我々が認識する空間は形相空間であり真実の三次元空間に加えて、抽象概念の三次元空間が付加されている。
認識の四次元目の軸は虚数軸であり、虚数iを付加された長さの単位により構成される、まさにimagenally(精神)空間である。
測定した時これは三次元空間に収束する。これは測定したという認識に基づいた悟性概念による認識の修正である。
もちろん測定したという事象が事実であるという証明する手段もない。白昼夢であったならばそれまでである。
やはり、主客の矛盾や無と矛盾などのアポリアをアンチノミーを区別し解決していかなければならない。
カントの提唱した「純粋物理学」という体系で定義しなおさなくてはならないだろう。
だが本当に問題となるのはその問題を解決した後であり、真実が善や美を優越してしまうことである。
人々は信仰をなくし生命という虚構によりどころを感じなくなった時、人間は理性的存在といえるだろうか。
もしかすれば高度な技術の発展により形而上学的幸福を物質により条件化(スイッチング)できるようになるかもしれないが、
生命は虚構であるため形而上学を捨て、物質に回帰する可能性もあるだろう。
印象における物質は「他の物質の機能の特徴が共通したときの存在の定義」と言ったが形相の四次元複素空間は
結局カントの論では否定されてしまう形而上学の数学的解釈は虚数軸を増やせばいいというほど安直なものではない。
だが、哲学はカントからまったく成長していないのは事実であり、その困難性に挑みたくないというのは多くの理解者の本音だろう。
よって敢えてカントの論の核心部分は無視した議論を続ける。あくまで四次元複素空間による「一般物理学」的形相論解釈である。
方針としてはアポリアの困難性に対立するよりも形相論がどこまで適応可能かを検証することである。
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祭儀などでの意図的な物質の配置は形相論で説明しうる事象だろう。
宗教美術、色彩学、解釈学などはゲーテ、ハイデガー、ショーペンハウエルなどの
哲学的考察において追求されてきたこともあり、主な射程は哲学としての美学寄りの議論かもしれない。
目的としては、「人間が経験則に寄らず文化的・知的活動を保証しうる理論」となることである。
私がアリストテレスに可能性を感じるところは実は彼の論理でも名言でもない。
ただ彼の文章が美しかったと言う一点である。
美意識とは恐らく可能性への感性であり真実の言葉などではない、それのみが学問の徒への生命力となる。
「美意識に干渉する徒な知的好奇心」こそ人間の知的活動に最も重要なものだと私は思っている。
何を学ぶかは我々の自由である
図書室を活用しよう
哲学者に個室は不要である
なぜならば学徒は自由だからだ
デカルトの「世間という大きな書物学ぶ」姿勢というものを見習いたい
哲学者の本質は自由な一個体の人間としての存在であり、それは学者ですらない
ただ知識と接する美意識と徳だけ持って放浪するものである
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あらゆる知識に触れられる図書室を利用しよう
川のイデアの例を出したが、川の色と形の情報核が描く絵画は
幼少の子供が描いたような粗雑な絵画となる
川の色も太陽の光の光量によって微妙な違いがあり、形もフラクタル次元でいう諸所の要因から形成された複雑系といえる
プラトンのイデア論は現代の分析哲学者がこうした複雑性を見抜き難点を指摘しているものであった。
論理的な難点を指摘されたからといって人間の思想は消滅しない
人間の思想は必ずしも論理によって制圧されるものではない
それ故、プラトンの作中『ティマイオス』に登場するアトランティスなどプラトンの思想は
現代のマス・メディアなどに取り上げられ一般的であり価値あるものである。
人間の行動原理である思想は真実のみで構成されているわけではない
古代人の思想や古代文明に触れることは有意義なことである。
文章の第一の性質として硬質・軟質がある。
解釈学的にこういった性質を明確化し正しく文章を通じて思想を受け取っていく手法を確立しなくてはならない。
思想という大宇宙を正しく導くため精神のポリフォニック(多様な旋律)たる文章こそが唯一の表現手法である。
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しばられずに毛糸のカービィをへた
れプレイ という動画はどこですか?
184解除とタグのやり方がわかりませn
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人は人間の顔を覚えるとき何か他のものに見立てるという
それは物質の形状に内在するイデアから再描写(想起)をしていると考えられる
あらゆるものの印象はこのような原理によって得られているのではないだろうか
それは美学的議論のみではなく、問題解決における発想=イデアに基づく想起という構造も同じような印象を持つ
形相世界が分かれば社会現象や経済原理まで分かるかもしれない。古代人の感性から現代の本質を探る試みである
「○川」という名前の人間には川のような印象を持たないだろうか
川のイデアといってもそこには人の顔のイデアもあり、イデアとは我々が思っている以上に本質的な意味なのかもしれない
川のイデアにおける複雑性とは宇宙全体を描写しうるイデアが全て存在するという逆視点の見方もあるといえる
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現代社会とは何かと悦に浸ってないだろうか
現代科学だの現代経済学だの、科学や学問の限界悟ったような風貌で「eco」だの
中世の貴族だの戦争だの植民地だの、しがらみから蓄えられた力が解放された人文革命の際に生じた
厳密な意味の科学とは高々数百年の歴史しか持っていない近代の一足飛びに進歩しただけで
人類史は実質的に200〜300年分の進歩しかしていない
マスコミが彼らの都合のいいように印象操作があったにせよ悟るには早過ぎるだろう
古代史など遠い昔の話ではない。
むしろ古代や近代からみると中世並みに現代が進歩しなさすぎのように思える
「常識にとらわれない」などというマスコミ用語や宣伝のような文句あるがその言葉は気に食わない
まるで現代が人類の限界となっているかのような印象を与える。
学問の美しさをまるで知らない凡人の彼らが悟ったような口で語る。
ソフィストのようないい加減さが大衆に影響を与えていると思うと怒りを覚えるこの頃である
現代とはマスコミによる「思想の植民地化」が「進歩の妨害」をする時代ではないだろうか・・・
「哲学が非常識集団」の如く批判的にいわれる現代とは大衆に学問をさせない「印象操作」の結果なのではないか
学問を知らないものが進歩的になれるはずが無いというのに
学問も知らず「常識にとらわれない」であろうとする人間は印象を操られた凡人である
「哲学」とは「全ての学問の基礎」であり、それは「どの学問にせよ」「本物」であるならば「非常識」が「自然」に見えるものだ
むしろ哲学的でない学問は不要であって、哲学を避けようとする義務教育の「非学問」は「ソフィストの教育」そのものである。
本質も知ろうともしない人間に読書を勧めて無関心となるだろう。
それはマスコミの印象操作における「常識」という「有害思想」が浸透した「洗脳された凡人」である。
物質的植民地化の中世西洋と精神的植民地化の現代、そして全ての宗教思想を馬鹿にする風潮も「洗脳された大衆」である。
洗脳されないよう「学問」や「読書」をしなければ「マスコミ的向上心を持った凡人」と成り果てるだろう
私の語彙が少ないのもかつて「マスコミ的向上心を持った若者」であったせいかもしれない
「語彙が少ない人間は学問の美しさを知らない凡人である」
哲学を知ったのも実はつい昨年の話である。
マスコミの言う「常識」は隣国の話ですら非常識とする「きわめて閉鎖的かつ非進歩的な思想」であり、
我々は常識の基準を宗教思想までずらさなくてはならない。宗教思想は開放的思想であって非常識ではない。
大乗仏教すら非常識とする現代日本人はきわめて閉鎖的である。
現代日本人の常識とする科学のほうがよほど哲学的であり非常識である。
非学問人にこの価値観が分かるだろうか
進歩的であったはずの「古代人や近代人としての常識」をマスコミから取り戻すべきである
この文章の意味が分からないほど思想的硬直が進んでいるならば読者は「重度に」洗脳されているだろう。
「マスコミ的向上心」の恐ろしさは「経験主義」への「回帰」である
何が回帰かといえば人間が「動物的思想」への回帰である。
いわゆる「直感」という突発的なものが天才と凡才を隔てる壁のようなものを固定観念化する思想である。
これはマスコミに植えつけられた「非常識的思想」である。
天才と名高いアインシュタインやニュートンなどもいわゆる「天才的直感」があったわけではない
それぞれの役割がありそれを全うした結果に生じた産物である
「天才」という言葉は「非生産的な人間」ほど好む傾向があるといえるだろう
安易に天才という言葉を使うべきではない
これは「マスコミ用語」である
現代の子供はまるで読書をしないマスコミ的子供である。
もはや常識に存在を塗りつぶされ全く進歩性の無い人間となっているだろう。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/download/1292730660/
おまもりひまり [DVDISO 5巻]
支援どうかよろしくお願いします
哲学は文学であり論理に縛られない自由なものだ。
どのような態度でいるべきかの指針を真善美における調和で与えてくれるだろう
哲学の本質は決して論理という小さな定規では測れない動因不明の運命という名の大舞台いや、人生哲学である。
仮に精神が物質から与えられるものだとしても
それは真実の優越において善や美が服従するという意味ではない
真実のみが本質ならば、物質的運動以外に生命の意味を見出すことはできないだろう
生命を生み出す法則を創った、神は何を意図して生命を創り、哲学をさせているのか
存在論には多くの意味がある。
故に時には真実すら欺く慎重な議論を要するだろう。
真実は証明という強い武具があるが、真実は善や美というものを計量することはできない。
おそらく本質的な善や美は原則的に証明不可能である。ここに真善美を調和をはかる神のトリックと
神自身を超えて欲しいという願いがこめられているのではないだろうか。
近代の見方としての認識する過程も重要なものだ。
科学的実証は真実を描くが本質的な真実は詰め切れず
どこか盤面を引っくり返されるような一手が残されているような気がするということを如実に描き出した人物の登場
近代において真善美は同時に発達してきたという点も見過ごせない史実だろう。
そして、人間は真実という清き流れの生物ではないという点も真善美の調和という目に見えない流れが
真実だと思い込んでいるものに伏流しているかのようだ。
現代では科学というものに権威を奪われた哲学のように見られるが
いずれは神の意思を受け継いだカント以上の人物が科学に立ち向かう「調和」をもたらすだろう。
文章は「真実を美しく描き聖性を放つもの」でなくてはならない
科学者、芸術家、宗教家など誰しもが納得する調和的文章は
啓蒙する態度や学ぶ態度のどちらにも欠けてはならないだろう。
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人はなぜ趣味を持つのだろうか
それは他者に共有されない反大衆的美学の開発
すなわちアイデンティティである
美術とは生活世界の記録といってもいい
しかし、これは単純なものではなく三次元空間における一つの作品に形相世界を圧縮しなくてはならない
古代人の当時の生活は原始的なものであったにせよ、それを読み解くことで感情を共有し
そして、どのような表現を用いているかという希少性において価値が生じるものである
思想とは柔らかいものであり、それを理想主義的に忠実に象るならばまさに人の形のような造型となる。
これは西洋によくみられる人間を中心とした形象美術に表される社会的要因により構造される。
俯瞰すると精神文明とは人間中心の流体力学のような複雑性をもっているといえるだろう。
現代神経科学において主流とされる右脳・左脳論とは反発的意見となるが、
感性とは理性を複雑化しただけの紙一重の関係といえるかもしれない。
流体というテンソル場はその煩雑なマトリックスにおいて感性的表現が可能となる。
美術史には「幾何学」という言葉が多用されるが、微分・位相幾何学や流体・気体力学、相対論的量子力学など
記号という限られた表現方法において思想的・美術的意味を見出すに至るだろう。
高尚な論理とは暗闇に閉ざされた個室の中に光を見るのである。
倒錯した人類の歴史はどこへ行こうとしているのか
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現代は歴史的な後押しもあって大衆文化が社会的影響力を持つ「現代アート」の時代となった。
しかし、大衆文化というのは個人個人が自己満足するために活動をする時代ではない。
大衆文化の時代となったとはいえ個人は集団に属し「社会的な発言力」を持たなくては本当に自己満足で終わってしまうだろう。
コミュニティに自ら属し専門性を身につけ、「発想を力に変える技術」を身につけ
局所集団と情報交換を交わし議論を発展させ集団としての影響力を持ち
時にこうしたアゴラ(広場)で情報交換という異文化思想集団との接点を持ちながら
自己とその属する集団を高めなくてはならない。
「個人の発想」の素晴らしさは現代的風潮に反映され実証済みであるが、それゆえ「力に変える専門性」に乏しいものとなっている
結局のところ、人間、特に日本社会では「金」や「立場」や「力」など現実的なもの以外は受け入れられないといえる。
集団・コミュニティなどに属し主義を持って、
社会への進出しなくては「自己の精神的健全性」すら保たれず「中途半端」と成り果てるだろう。
即ち、大衆文化・多様化の時代とは個人主義とか極端なものではなく社会の影響力が分散し「小社会」に分化した時代であり
「小社会への進出」もしくは「小社会への糾弾」が簡易化された時代であり、
「趣味は集団に属するためのきっかけ」という認識を持つべきである。これが現代アート時代の本質である。
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www運営クソスレくらい消せよw
金もらってんだろ?仕事しろw
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このスレの必要性がまったく理解できんwww
悪口とか言いたいんだったら2chにでも行けば?w
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