現在表示しているスレッドのdatの大きさは62KBです。
ここはBitTorrent の初心者スレです。
使いはじめたい方、使いはじめたが使い方が分からない方、
その他疑問、質問、BitTorrent 関連ならなんでもOK。
中級者スレではじかれた人、ここならどんな事でもOKでつよ。
<<初心者の皆様へ>>
BitTorrentのDown/Up速度はPC環境から接続状態までさまざまな要因で
大きく変化します。ですから、漠然と「速度が遅い」と質問しても答えは
誰にも教えてもらえない事をあらかじめ理解しましょう。
もしどうしても速くしたいのであれば原理等を勉強して自分の環境にあった
解決方法を探ると良いでしょう。(その為の質問なら回答がもらえますよ^^)
具体的なレスが欲しいなら、回線の実測、何人と繋がってるか、繋がってる相手の速度
ファイルサイズ、いつから何を落としているか、などなど多数の情報が必要。
[DL速度を上げる方法]
光回線にする
ルーターを変える
ポートを開ける
タスクごとの最大接続数を増やす
旬のファイルをこまめに落とす
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
初心物スレって…何だろう(´・ω・`)
初心者のためなのは分かったけれど
誰か答えてくれるのかな(´Д`;;)
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
運営のミスを見つけた。なんかうれしい^^
http://live.nicovideo.jp/watch/lv30533237
の注意事項一番下の文。URLを必ずいれてさいww
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
目に余る。ニコニコ動画そのものの印象も余計に悪くなる。
あの女を投獄する具体的な手段を提案し実行に移そう。
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
削除済
人文科学において論理実証主義が適合可能かどうかについて、一案加える。
論理実証主義とはウィトゲンシュタインやスピノザなどの独特のスタイルである定義・証明系という数学的論証方法を駆使した
言語における論理的文章形式に見習い言語論的転回という事件から言語への信頼性を取り戻した論者たちが
近代科学の風潮を受けて考案した言語哲学から生じたひとつのスタイルである。
論理実証主義というものを制約なしに言語の正しさが保障されるという誤解も多いが
これは名前の通りイデオロギーの段階であり、確固たる方法論として確立されているものではない。
適合可能・不可能以前に言語哲学や分析哲学者たちが科学的方法論に適応しうるかという点で
論駁されやや弱い立場であると記憶している。
それよりも統計という実証に近い手段から解釈の方法や手続きを固めていったほうがよいのではないかと思うこの頃である。
ミクロ経済学の効用モデルという偏微分方程式などいかにも数学的で厳密そうな概念であるが
なぜ効用という概念がその微分方程式で示されるかなど哲学的には解釈は思想として通るものの、
その信頼性は統計学的に示されるべきであって、言語の厳密性は本来要求されないものである。
現段階では論理実証主義は哲学特有の概念という立場がふさわしいと思われる。
ヘーゲルの精神現象学を統計的に示すことができるならば人間社会は更なる高度発展を遂げるだろう。
しかし、大衆に知らしめるにためには精神的向上を待つほかはないだろう。
科学的『進歩』においていかれた人類の倫理を遵守する精神的『進化』には時間が必要である。
ヘーゲルの文は難解悪文といわれているが
純粋理性批判に通じた人間ならば彼への直観にして読み解くことができるだろう
だが現代でも大衆どころか、哲学の内でもごく限られた精神機能を持つ人間にしか浸透しないというのが現状である
削除済
削除済
真善美を語りうるのはイデア(形相)である。
そして主客を語りうるのはロゴス(理性)である。
真善美主客の5元論が基本として純粋哲学を論じる。
純粋とは何らかへの応用ではなく、概念の大元を追求する意図である。
それは概念であるため物理学的意味の素粒子などの構成要素としての意味ではなく
むしろ、数学的意味の複雑な問題を一挙に解消する概念の追求を目指すものである。
明確にはわからないが今はそれらしいものという言い方に留める。
削除済
削除済
形相論の原則は複雑の単純化である。
この操作が可能ならば単純化した概念を肉化(身体化)される。
ハイデガーの論である内存在となることと同義である。
つまり、この定義がはっきりしたときデカルト以降の主客問題も同時に解消しうる現代哲学的解法となる。
以下、複雑性を単純化することの利点を挙げる。
単純化とは数理化と同義であり、原理の分からないものが数理化したときさらなる効率化ができる。
芸術作品に単純化された日常生活から感情的余韻が得られる。
これらはすなわち、あらゆるものへの内存在となることへの喜びと剰余価値の生産と同義である。
幸福とは生産であり、概念の身体化であり、内存在化する複雑性である。
全てが進退化されたとき幸福という形而上学的意味のベクトルを自己の方向に集中させることもできるようになるだろう。
一切の世界は配列(パターン)であり、身体の挙動によりその配列自由に組み替えることができるのである。
ここでの身体とは形而上学的身体である。
削除済
科学は実証の定義が判然としない危うい地盤の上に成り立つ。故に実証という行いの定義を行う。
大陸合理論によれば、客体の中に一筋の理と切り離された主体が存在し客体の理を神と定めることで宗教思想となる。
原始ヒンドゥー教などは祭式による宇宙という名のブラフマーとの交信により我々を幸福に導くといわれる。
ここでの実証とはあくまで主体として切り離された我々が思っているビジョンを客体として切り離す行為である。
無論、この前時代的な哲学の基盤としては客体の定義が不可能であり、デカルトの指摘する通り主客の合一がなされず矛盾する。
客体とは身体化されていない存在であり、主体を客体化することは不可能である。
客観的とは他者という全ての存在が認めうる事象と一般的に呼ばれるが、無論本質直観がなされなければ認識されないため矛盾する。
世界ではこうした考えは大陸系の宗教思想と認知される。
現代科学思想では人間文化の説明が不可能に近い。
科学は文化の効用を切り捨て、現実に経済学などの説明が非常に困難なものとしている。
これでは個人の経験則の横行を許すことになり、人間文明そのものが他者という地獄に陥ることとなる。
我々は科学から離れたアプローチにより平和を築き文明を守っていかなくてはならない。
ヘーゲルの言葉には神聖な響きがある。
それは元々、神学的活動に興味を示していたからかもしれない。
彼の言葉は社会活動という名の表象の核心を捉え、我々の身勝手な善悪で編みこまれた固定観念を普く破壊しつくす。
私はハイデガーやフッサール以上にヘーゲルの著書を勧めたい。
我々は純粋理性批判による考えの基礎を身につけたあと、彼の歴史観である精神現象学をその思考の演習として読むべきである。
DL違法の時代に
犯罪宣言の多すぎワロタ
削除済
この世界はイデア界であり、我々は世界内存在である。
真実かは定かではないが、あくまで仮説として、そして形相論の説明がしやすくなるという点でこの世界観を選んだ。
削除済
削除済
経験論は視野の広い弱い論理であるが感情に左右されやすく非理性的になりやすい
自己を振返ってもしくは他人の証言から客観的視点で自己を見直すことは必要である。
証明のような厳密な手続きではなくとも経験は理性化する活動であり論理の定義に適うとしてもいいだろう。
これらは原則どおりの複雑性の単純化活動である。
そして物質の運動が必ずしも理性的ではないとも考えられる。
これらは固定観念であり、信仰である。しかし、信仰があるからこそ生命は存在し、役割を見出せるといえる。
活動に従事するものとしては信仰は幸福をもたらすが、徹底的な懐疑論者としては何一つ信仰してはならない。
削除済
経験論は論理ではあるがそれを積み上げていくことはできない
人間の倫理観がまったく進歩しないのは状況や捉え方によって定義という存在名が移ろいでしまうためである。
こういった進歩性のなさは学問としては致命的であり、人文科学の課題でもあるだろう。
統計調査や信頼されている論から社会現象の原因を確実に見極め確実な定石を増やしていかなくてはならない。
無論物理学のように目に見える現象ではないため簡単なものではなく
個人の善悪に依存したり、議論が腐敗しやすいという状況を乗り越えていかなければならないため
歴史上の便宜性から生じた流れを変える力となるのはかなり先の話になるかもしれない。
おそらく論理実証主義のような表面的な言語の手続きを改良したところでそれほど効率化はなされないだろう。
着実で我慢強い進歩が望まれるところである。
理性化の手続きは関連付けであり対象Aと対象B
そして、AとBを繋ぐ関係Cが存在し、これから代数的な広がりが生じる。
関係付けの手続きは、論理と信頼と解釈に大別されるといってもいい
論理は論理学の確定的な関係記述、Cが論理学的(恒等や推移律など)ならばこれは確定である。
信頼は多人数認識と恒等となる関係記述であり、解釈は非論理学的な個人経験による関係記述である。
関係記述の信頼性は真理≧論理>信頼>解釈の順である。
学問の目的は理性の記述であり、理性とは万物の法則である。
複雑性の単純化の原則により理性化されるため、即ち学問そのものの定義を行いこれが初期状態という名の複雑性である。
これを単純化することで完全な理性となり、目的に応じて自由に概念を引き出す機能を持つ学問となる。
そして形相論において単純化への確実なアプローチ法が存在する。
定義とは存在名であり適合するもの全てへの写像を行う。
学問の定義はそれそのものが対象の概念Aとなりそれは単純でない限り内部構造の対象Bが存在し関係Cによる対象Aへの対象Bを写像する。
先述の通り論理、信頼、解釈という関係Cがありこれにより対象Aの内部の対象Bの定義を行う。
そして、単純化した学問は我々の思考の定義を行い、明証化されている部分が目的を持つ機械となる。
人間とは理性化するために最善の努力をし、常に目的を持ち達成し続ける理性的存在である。
形相論では目的、質料、作用が存在する世界を形相世界と呼び、物質世界、精神世界に対応しいずれも知覚不可能である。
物質世界に限定して形相を考えると物質Aと物質Bが存在し、Aを質料これに関係するBを作用としこの関係から形相Cが生じる。
これらを数値化できる情報があるとしてA・B=Cの関係とする。
これを一般化すると不明なA,B,Cをx,y,zとしてx・y=zでありこの三次元空間内に目的Dが存在する。
物質xには機能が存在し、作用yとの交互作用により機能zが引き出される。目的は四原因説の通り必ず物質の機能である。
即ち、全ての物質の機能を予測することができればその内に必ず目的が含まれる。
これが単純化をアルゴリズム化する第一手といえる。
そして、目的はそれ自体が可能態でありそれは現実態へと至るこの過程では想起による作用で変化する。
これは質料や目的を二次元平面が白黒の配列から構成されると考えたとき
これは初めに言った条件としての目的の値を設定し、合致したとき質料と認識される形式ではなく
目的が認識された状態から質料の部分集合であると定義した時、目的から合致する質料をソートする方法である。
これにより形相論におけるデータ化とソートを定義し、単純化の基本的操作とする。
削除済
形相世界とは物質世界と精神世界の両世界であり、精神世界は物質世界に呼応してアプリオリの形式から構成される認識である。
カントによれば物自体は認識されないため、我々が見ている世界は物質世界ではない。
つまり我々が見ているのはスペクトルや質感などのアプリオリの形式による三次元空間の再現と、
悟性による丸っこいや角ばったなどの経験により認識・構築されたアポステリオリにおけるイメージが修飾された存在である。
印象とはアポステリオリであり、物質は「他の物質の機能の特徴が共通したときの存在の定義」が加えられるため、
形相世界は四次元空間で表現されるため目的が間接的に視覚化されるため
生活における目的に応じた直感的・臨機応変な行動が可能となるといえるだろう。
宗教美術などこれは物質より物質が持つ特徴や意味を中心に造形され、
ゴシック建築は石造りと角ばった厳格さ・壮大さ・足の長さなどにより人間のような神の特徴を反映したものである。
美術においては目に見える物質よりも物質らしさを強調し、且つ鑑賞者の善に近い形相世界の写実がよいと思われる。
鑑賞者の善とは目的であり、それを含む形相世界が理想であるが創作家の生命力である善に近いほうを優先すべきである。
この原理を応用すれば、精神分析的に自己内の美意識の解釈を変えて興味の方向を意図的に操作し集中力を得るなどの
意識による無意識のメンタルコントロールを得ることすらできるだろう。
無論それが「理性的な有り方」かは保障されないため幸福の操作は不可能である。
視覚的に表される三次元空間の単位系は長さであり、重さなどの単位は除外する。
一般的に三次元と認知されるのは「視覚化される長さ(面積・体積)の情報は疑い得ない真実である」という前提において
重さなどの外延量(データ)を付加する利便性の元に成り立つ。
しかし、人間の認識は不完全なものであり、測定という行為がなされない限り認識に頼るほかはない。
ちなみに四次元時空は時間がアプリオリと認められない事象も存在するので論じない。
我々が認識する空間は形相空間であり真実の三次元空間に加えて、抽象概念の三次元空間が付加されている。
認識の四次元目の軸は虚数軸であり、虚数iを付加された長さの単位により構成される、まさにimagenally(精神)空間である。
測定した時これは三次元空間に収束する。これは測定したという認識に基づいた悟性概念による認識の修正である。
もちろん測定したという事象が事実であるという証明する手段もない。白昼夢であったならばそれまでである。
やはり、主客の矛盾や無と矛盾などのアポリアをアンチノミーを区別し解決していかなければならない。
カントの提唱した「純粋物理学」という体系で定義しなおさなくてはならないだろう。
だが本当に問題となるのはその問題を解決した後であり、真実が善や美を優越してしまうことである。
人々は信仰をなくし生命という虚構によりどころを感じなくなった時、人間は理性的存在といえるだろうか。
もしかすれば高度な技術の発展により形而上学的幸福を物質により条件化(スイッチング)できるようになるかもしれないが、
生命は虚構であるため形而上学を捨て、物質に回帰する可能性もあるだろう。
印象における物質は「他の物質の機能の特徴が共通したときの存在の定義」と言ったが形相の四次元複素空間は
結局カントの論では否定されてしまう形而上学の数学的解釈は虚数軸を増やせばいいというほど安直なものではない。
だが、哲学はカントからまったく成長していないのは事実であり、その困難性に挑みたくないというのは多くの理解者の本音だろう。
よって敢えてカントの論の核心部分は無視した議論を続ける。あくまで四次元複素空間による「一般物理学」的形相論解釈である。
方針としてはアポリアの困難性に対立するよりも形相論がどこまで適応可能かを検証することである。
削除済
削除済
祭儀などでの意図的な物質の配置は形相論で説明しうる事象だろう。
宗教美術、色彩学、解釈学などはゲーテ、ハイデガー、ショーペンハウエルなどの
哲学的考察において追求されてきたこともあり、主な射程は哲学としての美学寄りの議論かもしれない。
目的としては、「人間が経験則に寄らず文化的・知的活動を保証しうる理論」となることである。
私がアリストテレスに可能性を感じるところは実は彼の論理でも名言でもない。
ただ彼の文章が美しかったと言う一点である。
美意識とは恐らく可能性への感性であり真実の言葉などではない、それのみが学問の徒への生命力となる。
「美意識に干渉する徒な知的好奇心」こそ人間の知的活動に最も重要なものだと私は思っている。
何を学ぶかは我々の自由である
図書室を活用しよう
哲学者に個室は不要である
なぜならば学徒は自由だからだ