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いつの間にか一般アカでも動画説明文に改行が使えるようになってた事
ここが二次元世界だったってこと
善は悪よりも利用価値があるということ
悪は責任を取ることを明言しているので差し引きゼロだということ
倫理的問題の本当の解答欄は下の大きな空欄ではなく右上の名前欄だということ
厨二病だなぁ
じゃなくて夏だなぁ
ピラミッドの重心は平均よりもはるかに下方
まぁ今はピラミッドどころじゃないかもしれないがな
責任を認めつつ突っぱねるというジャイアニズムを権力の誇張に利用している人がいるということ
>>3.4.7
ここら辺、一見的を得ている様な文章で
支離滅裂な辺りが夏らしいなぁ
救世主かける様は神であり、かける様を置いて日本社会を救うことはできないこと。
自虐風自慢とはジャイアニズムの思想から来ている
例えば、「わざと悪い意味の言葉を使って実際は自慢している」という文脈依存性で意思を強調する
逆に定義通りの言葉を使えば「弱い犬ほどよく吠える」という状態になりがち
集団の為に戦う限り差別を失くす事は出来ない
そこには人を救う意思がないからだ
性質によって人を定義するという前提条件を受け入れてはならない
その定義は人を救う理由には到底なりえないからだ
世界は広い事を、俺は知らなかった。
世界は広い、世界には色々な文化がある。
世界には、戦争と言うものがある。
世界には、差別がある。
世界には、世界には、世界には…。
今までオナ○ーと言うものを知らなかったのだ
自信とは予防線を張り巡らせるのが上手い人間に身につくということ
実力がある人間は案外誇らない
なるほど。自身ねえな
差別から救えるのは人の意思
だが差別を根本的になくすのは間違っていると思う
差別するのは何かしら理由があるからと言っているわけではない
差別から人を救うことができるから
差別そのものを滅ぼす必要は無いといっているだけだ
差別と言う概念を永遠に消し去るにはまだ判断材料が足りない
差別を否定することは競争を否定するような気がしてどこか恐ろしいのだ
創造とは何も特殊な能力ではない
石のような固定観念に裂け目が入り、泥、れき、砂と分化し
世界という複雑な形の器に染み入るように適応能力を高めていく
ただ純粋な作用/反作用の感覚を頼りに真実と生活を適合していく
この”生活”に注目した思想家もいた
生活とは生の活動という四次元の自由度をもつ暗闇の空間から
衝突する方角を避け衝突しない方角へと進むこと
世界は本来、暗闇であり明かりとなるのは自らのイメージでしかない
即ち、生活とは絶えず創造しつづける事である。
ヒントを与えすぎたかな?
創造性と発想性の意味の取り違えが間違いの始まりだったかもな
・・・差別の根源を絶つ日も近い。いつか救える
哲学にすらなってないぞ、せめて整合性をだな…
学力のある人は尊敬する
肉体的でない(知的な)奉仕者は汎用的な学力(集中力、記憶力、理解力、応用力)があれば
保守的、頑固者になってしまいそうだが学者というフィールドとしては
温故知新を知らしめるように実力を発揮していくだろう
相当数が必要なポストとしても頷ける
学力は必要な力だ
何の理由があってそれを否定したがる人がいるのかはしらないが
肉体的でない(知的な)奉仕者は学力を基礎として、むしろそのほかの能力はその上に積み上げるものだ
基礎の面の上に積み上げられないような力は必要とされていない
学力という基礎は必要条件である
あと学力は学力であり、学力試験を学力以外の能力を測る試験にしている現状は良くない
肉体的でない(知的な)ポストであるための基礎は学力である
・表現の機微が伝わっているか
「知識の意味を解し、蓄え、応用する」
実力あってこその才能、という基礎の重要性を気付けたことに新規性があった
形而上学の四つの柱の一つ精神機能論を知らない者は 自分がどのようにして知を生み出しているかそのプロ セスがわかっていない 相対的に私は高みから傍観している、むしろせざるを 得ない
精神機能論はクオリアの仕組みを解くという実績をあ げている 無明な者共に手土産に一つ真実に近づくヒントを与え よう
クオリアを解く鍵は「発想の転換」
学力試験は単純に学力を測るためにあればいい。
私が教育会に籍をおくものならそう働きかける。日本人は才能にコンプレックスがあるせいか
奇をてらうようなことばかりして必要性と解離した知育になっているように思う。
もしくは日本の権威主義的体質が末端ばかりに責任を押し付け
重要な決定をするものたちの無責任が非現実的施策の遠いんになっているのかもしれない。
あるいは両方か、それ以外か…
学力は知的労働においてその「必要」性において一番重要であることは明らかだ。
学力において知の活用の一連のプロセスは広義にて幅広い意味を持ちうるが
それ以上でもそれ以下でもないという「定義」を反芻したい。
学力試験ではまず「奇問」といった類いを排除する方向にすること。確かに応用力を試すといえば筋は通るような気がするが
応用力は知識の活用能力であって知識を排除して論理的思考もしくは、発想によって解答するのとは方向性が違う。
それでは知識を身につけるまでのプロセスが軽視され比較的集中力がなく、勉強量の少ない人間が優遇される。これは応用力の範疇を越えている事例。
次にあえて問題をパターン化しないこと
全般的に知を持つことが学問的であって勉強に効率性を追及してはならない。勉強する態度や集中力に関わる事例。
以上のような本来の意義から外れた学力試験は学力の定義を誤解させ歪な思想を招き、実力すら伴わない結果となりうる。
今や本来の学力を軽視したせいで知的な日本人像は失われ欧米に実力や精神性で敗北する現状をよく見回してほしい。
哲学の目的は解答を導くことではなく当たり前だと思っていることから疑問を見出すことなんだなぁと
性質上それは学問であって学問でない、誰も確信することは出来ない、故に永遠に廃れることがない
本当に哲学が分かる人は頭がいいと思う、訂正”本当に”と言葉はいささか強すぎる
とかく間違っている答え(レッテル)を貼り付けて”悩み”から解放されたがる短絡的な思考になってしまう。
あげ
人は「必要」だと思えばどんな力でも手に入る
「必要」という感性は他人から押し付けられたり、考えて得られるものではない
生得的なもの、善のイデア、それは形而上学上、高位の概念であるために、下位を支配的に見通す力がある
どこまでも悪手を打っても一度発したカリスマの輝きは暗がりの中にも記憶の像を辿り
群がるしか脳のない小虫玉虫の意識の会場となる
あの頃が赤き輝きなら今は青き輝き、政治的発言力くらいは失われていない。
まあ今のわたしにとっての哲学はいわゆる接待ゴルフのようなもの
あげ
”できること”ではなく”できないこと”を考えるのが
人間らしさというもの
悩み続けてきた人間は『善』へと志向するようになる。
哲学の範囲は広いが、現在では哲学独自で研究する分野は倫理学くらいのものだが、倫理によって学問創造が為されるくらい重要なものだ。
新たな格律を得、一つの個と成る為に、確かな形はないが学問はそれぞれの精神のあり様(倫理)を欲していたのだ。
刺身とご飯が意外と合う事
大橋歩夕さんの名前の読み方
哲学書を読めること自体を目的にしてはならないが
その人間がある程度”悩み”を持って生きてきたという指標にはなる
本来読書と言うものは勉学と違って機械的に知識を一方的に取り入れるのではなく
心通えるものでなくては書から嫌われきまづい雰囲気に耐えられなくなり、読破には至らないものだ
主に事象から本質を見るがデザインから本質を知ることもある
そこに深い意図が隠されているときは思考の浅さに気づかされることもある
こういう知恵比べも悪くない
ただのポエムと詩の見分けかた