>>184 紹興という街は、かつては会稽(かいけい)という名で歴史のあちこちに登場
問題は会稽じゃなく東治。
紹興市が会稽と呼ばれたり、会稽郡の中心都市であったことを否定
してるわけじゃない。
魏志倭人伝でいう「会稽東治」がどこを指すかが問題で、いささか
会稽という場所が広いんだよ。いろんな記事を見ても会稽郡とは
上海のずっと北の方から紹興市のずっと南まで範囲になっていた
可能性があるし、面積も変化してる。
福建省の東冶という話もあるが、これは後漢史などから来た説だ
がこの正史は魏志倭人伝の後であり、しかも後漢が滅びて200年
くらいしてから作られた時代遅れのもの。
しかし魏志倭人伝は著者が、卑弥呼と同時代の方で公文書を見た人。
後漢史では、魏志倭人伝の引き写しでそれも記載ミスの可能性もある。
同じ正史というランクでも、証拠価値に天と地の差があるというべき。
>>181 これだけ殺しておきながら「平和的」はないでしょ・・・
ここで言ってるのは官僚組織が生き残れたという意味なんだよ。
普通の政権交代では、地方の軍が政権奪取するもので戦争になる。
魏→晋では政権実力者が、皇帝から政権を禅譲させたもの。
だから公文書が完全に残ることが出来る。