>>318 それ何十年前の話だよ?
ゴア占領は日米安保より10年ほど新しい。
ーーーー引用開始ーーーー
ポルトガルは、自由通行を求めて、国際司法裁判所に提訴します。通常、国際
司法裁は、当事国双方の同意が無いと裁判できませんが、インドは、一方的提訴
を認める選択条項に署名していたため、こうした訴訟が可能でした。
1957年には判決が出て、両地域に対するポルトガルの主権が認められます。しかし
一方で、軍隊に対する通行権は認められなかったため、結局、ポルトガルは両地
域を奪還することはできませんでした。
さらにインドは、非武装の群集で、残るゴアやディウの占領を試みます(1955年)。
今度は、ポルトガルが実力を行使しました。ポルトガル軍の銃撃により、22名が死亡
し多数の死傷者が出る惨事になります。
国際的な非難の高まりを無視して、サラザール首相はなおも交渉を拒絶します。
1960年にインドが提案した、特権維持を認めた妥協案も相手にしませんでした。
1961年、ついにインドは最終手段をとる決心をします。いわゆるゴア武力解放です。
現地のポルトガル総督府も、こうしたインド側の動きを察知していました。本国政
府に対して、増援部隊を送るよう要請を行い、守りを固めようとします。
総督は、「ショリソを送られたし。」という電文を打っていました。ショリソとは、チョリ
ソ・ソーセージのこと。これは、対空砲弾を意味する暗号でした。
ところが、本国政府が送ってよこしたのは、本物のソーセージだったのです。暗号
を忘れるほど、ポルトガルの政府組織は腐敗していました。
物質戦力比は隔絶、人的面でもこれでは、勝敗は戦う前から明らかだったのです。
(山猫文庫第二壕 より)