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「むしろ,規律・訓練は一種の反=法律だと考える必要があるのである。
その明確な役割は,のり越えがたい不均斉の導入,相互関係の排除である。
その第一の理由は,規律・訓練は個々人のあいだに《私的な》絆をつくりあげ,その絆たるや,
契約の義務とは全く異なる一つの拘束関係だからである。ある規律・訓練を受諾することは,
なるほど契約の手続きで承認されるものかもしれないが,その規律・訓練が強制される仕方,
それが働かせる機構,ある人々に対する他の人々のあべこべにしえない従属関係,
いつも同じ側に固定される《より多くの権力》,共通の規則についても別々の《成員》では違ってくる立場の不平等性,
以上の事態によって,規律・訓練による人々の絆は対立するものとなり,
後者の絆は,規律・訓練的な機構を内容としてもつようになるや系統的に絶たれてしまうのである。
たとえば,労働契約という法的擬制を,どんなに多くの[規律・訓練の]実際の処置がゆがめるかは周知のとおりである。
工場における規律・訓練が最も重要なわけではないのだから。次の理由としては,
法律体系が普遍的規範にもとづいて法的主体を規定するのに対して,規律・訓練は[人々の]特色を示し,分類をおこない,特定化する。
ある尺度にそって配分し,ある規範のまわりに分割し,個々人を相互にくらべて階層秩序化し,
極端になると,その資格をうばいとり,相手を無効にする。ともかくも規律・訓練は,
自らが取締りをおこない自分の権力の不均斉[な諸機能]を作用させるそうした空間や時間のなかでは,
けっして全面的ではないがけっして取消されもしない,法律の一時停止を実施する。
規律・訓練はどんなに規則遵守的で制度中心的であっても,その機構上は一つの《反=法律》である。」
(Foucault[1975=1977:222-223])