ふんどし


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■ふんどし

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1 名前: ふんどし :2007/10/10(水) 09:59:53 ID:dOygnLK7

ふんどし

14 名前: no name :2011/05/31(火) 16:43:27 ID:6sLXsvdS

アリストテレスの中庸とは正しい知識を得て度量を弁えることである。
例えば、勇敢と無謀では受け取る印象に差がある。無謀の場合、勇敢の度が過ぎたために返って悪い結果となるためだ。
だが仏教思想における中道は意味が違うように思える。この場合の用法は禁欲主義でありただ主観的基準において
「良い」と思った場合、そこから離れようとする思想である。これは中庸とどこが違うのだろうか。
実はこれを区別することには大きな意味がある。前節の正しい知識とは客観的基準であり、主観的基準における「良い」を
否定する立場である。ここまでは同じだが、中道の場合は主観的基準の「ほどほど」に帰着し、
中庸の場合は客観的基準の「ほどほど」に帰着する。つまり中道(ほどほど)が意味するのは禁欲であり
中庸(ほどほど)が意味するのは勇敢である。仏教思想側は単に禁欲を「良い」としているのだ。
確かに色即是空を悟る目的にとっては良い方策だが、これが修行僧でもない人間が身につけたとき、単なる自己犠牲となる。
あらゆるものに禁欲的になりこれが習慣化すれば無関心である。何ものにも興味がわかない状況を自ら作り出している。
何をやっても主観的解釈で「ほどほど」となり評価を受けられず、何が起こっても「ほどほど」の結果となることを期待し
何に対しても「ほどほど」の存在であると思い生物の淘汰を知らず、全てを許容する。「ほどほど」としての「現実」の印象と、
「現実」こそが「良い」印象として追求するシュルレアリスムとは真逆な思想である。
自我により自己を制したならば、他人と共有できないプライバシー意識が生まれ演じる能力では一緒くたにされない
本当の意味でのアイデンティティとロゴスによる思考を手に入れるだろう。それこそ支配的であった儒教や仏教思想からの自由である。

15 名前: no name :2011/06/01(水) 08:44:18 ID:HHSP56Ux

 

16 名前: no name :2011/06/01(水) 08:57:42 ID:c9Mn3jw2

これを大衆に読ませるのは難しかったかな

17 名前: no name :2011/06/01(水) 17:34:10 ID:VGyYjBqK

そこっ!!働いてないでニコニコしなさい!!!

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